焔の子、地に在りて

承前

 ──それは、ごくごく自然に浮かんできた疑問だった。だから、ごく自然に、問いとして投げかけた。
「……父様は、どこにいるの?」
 この問いに、母が浮かべたのはなんとも評し難い表情で。けれど、問いは誤魔化される事はなく、間を置いてちゃんと答えは返ってきた。
「父様は、地上にいるわ。
 ……地上で、己が為すべき事を果たしている」
「ちじょう? え、と……」
「……私たちがいる、この天上と対になる場所。
 とても近しくて、けれど、遠い場所」
「つい……ちかしくて、とおい」
「……その内に、わかるわ。
 とにかく、父様は、とても遠い場所にいるの」
「とおいばしょ……それじゃ、あえない、の?」
 それは素朴で、けれど、切なる疑問だった。
 周囲の子らには両親が揃っているのに、自分は欠けているという事実。
 何がどう、というわけでもないけれど……少しだけ、苦しい、と、そう感じていたから。
 けれどこの問いかけに、母はどこか寂しげに笑んだだけで答えはなく。
 それ以上、問いを重ねる事もできなかった。

 ……そんな事があったから、母が「逢いにいこう」と言ってくれた時は、本当に驚いて、嬉しくて。
 初めての地上降臨とも相まって、酷くはしゃいでいた。
 地上に降り、父との邂逅を果たして。
 柔らかに包み込んでくれる木気に、声に。
 何より、そのあたたかさに、安心していた。
 地上の空気にもすぐに馴染めたのは、天地の狭間なる子であるが故か。物怖じなど全くしない様子に、両親は感心したり呆れていたりだったが、当然気にする事もなく、好奇心の赴くままにあちらこちらへ視線を向けて。
「……ぇぅ?」
 視界に、その姿を捉えた瞬間、自分でも予想し得なかった声が出た。
 黒を身に纏うひと。父が親しげに呼びかけ、母が呆気に取られたような表情を向けていたが、そちらに意識を回す余裕は、なかった。
 感じたのは、水の気。
 相反するもの、と。
 そう、覚らせたのは、恐らくは本能のなせる業。
 飾り帯に結わえた鈴が挨拶するようにリィン、と鳴る、その音を遠くに感じつつ。
 気づけば無意識、父にぎゅう、とすがり付いていた。
 ……その態度と、隠しようのない怯えの浮かんだ瞳が何を思わせていたかなどは、当然の如く知るよしもなく。
 両親の言葉と、なだめるように鳴る鈴の音に、どうにかこうにか、自己紹介をするには到れた。
「大丈夫だよ。
 ……ああ見えて、優しい所もある方だから」
 にこにこと笑いながら父に言われて、うん、と頷きはしたものの。
 力というものに対し未だ無垢であり、感じたものをそのまま、在りのままに受け止める幼子に、強き力は何よりも先に畏怖を抱かせていた。

 そんな出来事を経て。
「……あ、れ?」
 どこかで火がざわめいているような気がして、ふと目を覚ましたのは夜も更けた頃。室内に両親の姿はなく、その事と、ざわめくような感覚が不安を呼び起こした。
 そろり、と窓から顔を出して周囲を見回す。が、見える範囲にざわめきの元となるようなものは見えず。
 少し考え、そのまま外へと飛び出した。
 高い所から見回せば、ざわめきの場所がわかるかもしれない、と。そんな単純な考えから、とてとて、と向かったのは物見の櫓。
 朱雀神の寵を受けて以来、木登りや屋根登りなど、高い所へよじ登るのが日常茶飯事と化していた幼子にとって、梯子を登るなど慣れたもの。音も立てずにするすると登って行き──登りきった所で、その存在に気づいた。
「……はぅ……」
 先に、恐れを抱いた強き水の気。けれど、ここまで来て引き返すわけには、と、物見台の柱から屋根を目指そうとして。
「おい…!」
 かけられた声に、動きが止まった。
 逡巡は僅か、選ぶのは、そのまま上を目指すこと。
 戻っても進んでも叱られる未来がちらりと過ぎり、それなら先へ、と。
 そんな心理が、上を目指させた。
 制止する声と手は届かず、よじ登った屋根の上。ぎし、と足元が軋むのにも構わず上を、夜空を見上げて──。
「……あ、」
 頭上に広がる星の煌めき──天上で見るそれとはまた、違う輝きを持つその広がりに目を奪われ、動きが止まった。
「………………」
 呼吸すら忘れていたのはほんの短い刹那。何かを呼ぶよに響く鈴の音にはっと我に返るのと同時、足元から響いたのは、バキ、という音。
「きゃう!」
 何が起きたのかは、わからなかった。ただ、足元が急に不確かになって──ああ、この間天上宮で木の枝から身を乗り出した時と同じだ、と。身を包む感覚に思ったのはそんな事で。
 それが、何を意味するか、に思い至るのと、同時。

「カスパルッ!」

 名を呼ぶ声と、ふわりと浮いた身体を支えられる感覚に、ひとつ、瞬いた。
 目まぐるしく変わる視界。何が起きているかの理解は追いついていない、けれど。
 空に近い方に身を向けられることで、再度視界に広がった星空。そこへ向けて、無意識、手を伸ばしていた。

「……いつか、飛べるようになる?」
『……そうだね。
 天地に優しい気が満ちたなら、きっと』
「やさしい……気?」
『……人の笑みが絶える事無く、天地を満たしたなら。
 それを、感じることができるなら。
 そして、空舞う心を感じ取れたなら、きっと。
 私はまた、自分の翼で飛べる。

 ……そう、なれるように。
 天地を、そこに生きるものを。
 護っておくれ、いとしき焔の子』

 蘇るのは、『約束』の後、朱雀神と交わした言葉。
 護る力は、今の自分にはないから。
 せめて、空舞う心を──と。
 状況はそれどころではないのに、意識はただ、そちらへと向いていた。先に強く畏怖を感じた水の気への畏れも、今はどこかへ飛んでいて。
 それが高まるのにあわせ、空が少し、近づいた。
 鈴が歌う音色、それに重なり微かに届く、祈るよな言霊。
 そして、自分でない誰かに向けて、朱雀神が紡ぐ、小さな感謝。
 その一つひとつを、心に、刻んで、そして。

「……え、と。
 ぼくと、朱雀さまと。
 二人分、ありがと」
 再び地へと降りた後、漆黒の将へと向けたのは、邪気ない笑みとこんな言葉だった。言葉に沿うように、リィン、と鈴が、一つ鳴る。それに、返されたのはどんな反応だったか。確かめる間もなく、意識は眠りに囚われ、そして──。

「……予感は、あったけれど。
 見事に、やらかしたようね」
 戻ってきた朱の舞姫の、状況を見ての第一声はそれだった。
「愚息がお手を煩わせたようで、申し訳なく、七星の君。
 ……ほんとに、誰に似たのかしらねぇ?」
 言いながら、舞姫の真紅の瞳は傍らの夫へと向いていて。その視線に、術師はあはは、と楽しげに笑う。
「笑い事じゃないでしょうに……もう」
「まあ、いいじゃないですか。
 ……子供は、元気が一番。ねぇ?」
 突っ込みに、どこまでもさらりと返しつつ、術師は漆黒の将へ同意を求める。
 そんなやり取りなど知らぬ幼子は、すっかり安堵した様子で夢の内に沈んでいた。
 いずれ対極となるべき存在への、畏敬の念こそ消えてはいないけれど。
 今この時の幼子にとってはそれよりも、空に近づかせてくれた事への感謝の方がずっと強かったから。
 言葉で表せぬ恐れが陰を潜めたのは、ごくごく自然な事だった。