幕間

 承前

 それは、まるで、天地が歪むような感覚として伝わった。
 自らの奥深く、本質たる部分を激しく揺さぶられる感覚に、肉体のほうも反応し、足が崩れそうになるのを必死で堪える。

 『将軍?どうか…?』

 すぐ背後に付いていた従者が、足を止めた主を案じる様子で問いかけて来たが、黙って首を振り、再び狭い山道を慎重に歩み進める。
 後続の将達に、一瞬走った緊張も、すぐに解けたようだった。

 (戻らなければ…)

 その実、男の内心は、激しい焦りに波立ち続けている。こうして歩き続けている今も、肌を泡立たせるような悪寒に似た気配が身内から沸き上がるのを押さえきれない。
 「直ちに帰天するべし」と、その感覚は神としての男の魂に訴えていた。
 一方で「捨てては帰れぬ」と、人としての男の心が、それを引き止める。
 この先に待ち受ける筈の妖魔は、男の力無しでは打ち倒すことの出来ぬモノの筈だった。それを置いて帰天すれば、男を信じ、またその支えとなって付いて来た者達を、みすみす見殺しにすることになる。
 けれど、天より伝わる感覚もまた、神としての古き友の危機を伝えるとしか思えず、それが天地全体を揺るがす大事であることも判るが故に、男は心乱さずにはいられない。

 『……後は、頼みます……』

 天よりの風が伝えた「声」が、胸の奥深くで谺する。
 友の気性を思えば、その言葉の意味は、ひとつしか思い浮かばず、伝わる感覚も、当たって欲しくはないその予測を裏付けるものだったから。

 かろうじて、男の足を先へと進める力となっているのは、後方に続く者達への想いと、天に在る同胞が、己の不在を埋めて余り有る存在であるという信だけだった。

 (頼む…)

 顔を上げ、睨むように天を仰ぐ男の目には、閃く焔の翼は映らず、風の音も届かない。
 代わりに視界を覆うのは、山の頂き近くから、鈍色の瘴気を纏う岩の塊のような魔獣が地響きあげて飛び降りてくる姿。
 魔獣の巣は、まだ先の筈だったが、討伐せんと近づく一隊の気配を感じたか…或いは天の異変に、地に或る妖魔も影響されているのかもしれなかった。

 「有り難い」

 その禍々しい姿を目前にして、後方の将達が息を呑む気配を他所に、男は唇に弧を描く。
 
 『…水霊招来』

 低く小さく呟かれた言霊は、男の背後に、突然に水柱を噴出させ、後続の一隊との間を分断した。

 『将軍っ?!』
 『一体、何を…?!』

 男の力を知る幾人かの将は、それが彼自身の術と気付いて慌てた声をあげる。
 だが、それには答えず、男は七星宿す神剣を抜き払い、一気に地を蹴って、独り魔獣の元へと駆けた。

 土性の魔獣は、男の纏う水気には怯まず、咆哮と共に、瘴気孕んだ熱風を吐き散らす。

 「ぐう…!」

 息を止めても、毛穴から入り込むような熱に、男の皮膚は灼かれ、瘴気が内蔵をも浸食していく。
 だが、熱と苦痛を感じても、一瞬たりと男の足が止まることはなく、魔獣が、その首喰いちぎらんと大きく開いた顎の中に飛び込むようにして、七星剣を真っ直ぐに突き立てる。
 剣の切っ先は、魔獣の喉を破って後ろ首を突き抜け、同時に、獣の牙が、剣持つ男の胸を心臓ごと深く穿って辺りを朱に染めた。
 水柱の向こう、人としての己の名を呼ぶ声を遠く聞きながら、流れ出る命の水に向かって、男は灼けた喉から声を絞り出すようにして、最後の呪を唱える。

 『浄爆…』

 断末魔の叫びあげる魔獣の醸す熱によって蒸気となった男の血が瘴気と混じり合って爆裂し、妖魔と男を諸共に、骸一つ残さず現世より消滅させたのは、その一瞬の後の事だった。

2 thoughts on “幕間

  1.  北の海は荒れていた。
     攻め寄せる妖魔は、神将達の手によって押し返されていたが、彼方の地で、水気の暴れる気配が、ここまで届いているのだと、玄武神にも感じ取れる。

    『………お許しを頂きたい』

     暗く深い海の底、未だ形為さぬ漆黒の影が揺れ、天を統べる主へと願いを寄せる。

    『我が時を…早めることの許しを…どうか…』

    ———時を歪めれば、その身、長くは保たぬは承知か?

     問い返されて、影は、諾と応じた。

    『…間に合わねば意味がない。…それは、お判りのはず』

     次の答えは、影の傍に現れた七星の印の輝きによって為される。
     
     天帝より印を通じて送られた神気が、自らの時を早める術を助け、漆黒の影を形在るものへと練り上げていく。
     通常であれば、どう急いでも数日はかかる技が、ものの数刻で成し遂げられ、やがて、深い海の底から、漆黒の影は浮かび上がる。

     天に架かる北斗七星が、その帰天を報せる狼煙の代わりのように、一際輝きを増した。

  2.  一筋の輝く奔流となって、歪んだ陰気の源を目指していた水蛇が、唐突に身をくねらせて、その場にとぐろを巻く。
     
     「……ここより先には行けぬ、か」

     丸くとぐろを巻いた水蛇の中心からせり上がるように姿を顕した漆黒の男は、目前に広がる昏い色の霧にその瞳を眇めた。
     霧は、邪気に近い歪んだ陰気を含み、しかし、それ以上に広がることはなく、内側からの熱に炙られ、地より立ち上る陽気に喰われて消滅していくのだが、その消滅と同じ速度で湧き出てきているようだった。

     その霧の源となっているのは、言う間でもなく目指す先に在る陰気の主だったが、妖魔の醸す瘴気であればいざ知らず、神獣の気の歪みによって生じた霧…しかも、自らと同じ水気と陰気を元とするそれに、直接触れれば、転生したばかりで形の確と定まらぬ玄武神の身にも、その歪みの影響が生じる恐れがある。
     霧を避け地中の水脈を辿ろうにも、その水脈は寸断され、更に地に満ちる土気と陽気が動きを阻んでいた。
     それは、少なくとも朱雀、蒼龍、更に鳳凰が応龍の元に到達している証拠でもあったから、漆黒の瞳に焦りの色は薄れていたが、代わりに浮かぶのは苦笑。

     「張り切り過ぎ、と言ってはいけぬのだろうが…」

     実際、確実に無茶をやらかしているであろう焔の翼の持ち主はともかくとして、大きく歪んだ神気を正すには、神獣とて全力を注がぬわけにいかないのは判る。判るのだが…このままでは、近づくことが出来ない、という現実に、男は困惑していた。

     「…無理にでも地を進むしか無いか」

     霧に触れて、己まで歪みに呑まれるのは論外、となれば、残る手は一つか、と、足下の大地に視線を落とした時…

     ドクン、と、地の底で、大きな力が脈打った。

     「霊亀?」

     感じるのは遍く地に枝を広げる金気の主の力。それは、歪みによって寸断される事も、陽気や土気に克されることもなく、力強く歪みの源まで伸びている。

     「有り難い…霊亀、便乗させてもらうぞ」

     薄く笑みを浮かべて、宣した声は、地脈の主に届いたか?
     
     「金生水…同気霊脈…」

     地を貫く鉱脈の力に添って、水気が奔る。
     次の瞬間、漆黒の男と、とぐろを巻いた水蛇の姿は地に潜り…それと時を前後して、ゆっくりと地上に渦巻いていた霧が薄れ始めた。

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