北天の花

 どこまでも続く白き氷雪の荒野…北方守護神の護る北の地は、生命の気配すら無いとも見える冬の世界だ。
 
 「…殺風景だろう?」

 伴侶となった孔雀の姫を伴い、その地に戻った玄武神は、そう口にして仄かに微笑した。

 「都と比べれば、随分と寂しく感じると思うが…この地にも生きる者がある」

 滑るように雪原を渡る氷の蛇の背に座し、己の外套に包むようにして肩を抱いたままでいるローズマリーに、指差して示すのは、冬の短い日にきらきらと輝く霧氷を纏った冬木立に紛れるようにして佇み、赤い瞳でこちらを見つめる真っ白な牡鹿。

 「あれは、白子として生まれた故に、白き大地でしか身を守れぬ…そのような生き物ばかりでもないが」

 牡鹿は氷の蛇を恐れる風も無く、玄武神とその妻が傍を通り抜ける瞬間には、そう、と、頭を下げるような仕草を見せる。

 「どうやら、貴女を気に入ったようだ」

 その様子を見た漆黒の男が柔らかに告げた、その時…頭上に響くいくつもの羽音。
 視線を上げると、冴え冴えと澄んだ冬の蒼穹に、純白の白鳥の群れが羽ばたくのが見える。
 一時氷の蛇の動きを止めた漆黒の男が手を伸べると、白鳥達は、大きく旋回して舞い降りてきた。

 地に足が着くか着かぬかのうちに、白鳥達の姿は白い着物を纏う女官姿の一団へと変わり、その先頭に落ち着いた風情の中年の女官が進み出ると、玄武神とその妻の前に優雅な仕草で一礼する。

 「無事の御帰還と御婚礼の儀、心よりお祝い申し上げます真武君」

 滑らかに口上を述べてから、女官は孔雀の姫に向けて、にこりと優しい笑みを向けた。

 「孔雀の姫君様、お待ち申し上げておりました。ええそれはもう、ずいぶんと…いかに永くこの日を待ったことか…よくぞおいで下さいました。私の生ある間に、真武君の伴侶たる方をお迎え出来るとは、まさに望外の幸運…」

 ぎゅうと両手を握りしめ、感極まったと言わぬばかりに言葉を連ねる様に、漆黒の男は思わず苦笑を漏らす。

 「白亜…大袈裟だぞ」

 「大袈裟ではございません」

 きっぱりと言い切ると、女官は、ローズマリーの前に進み出て、恭しく跪いた。

 「どうぞお見知り置きください、姫君。我が名は白亜、真武君が宮にて、女官の長を勤めております。ここに在ります女官達は、全てが神妃たる貴女様の僕…これより先は、お望みあれば何なりと、我らにお申し付けくださいませ。
 我らばかりではありません、神将方も、北方の防人を勤める天界の民人も、皆、姫様を待ち望んでおりました。この地は厳しく寂しい場所と見えましょうが、我らの身命を賭しても決してご不自由はおかけいたしません。どうか御案じなさいませぬよう…」

 「白亜、もうその辺りでいいだろう。気持ちは判るが、そう勢い込んではローズマリーが戸惑ってしまう」

 すっかり蚊帳の外に置かれた体の玄武神が、何とか隙間を見つけて割って入る。

 「これから『庭』に案内するところだ。恐らく今宵は宮へは戻らぬ故、残りの口上があるなら、また後日に、な」

 そう言い残すと、返事も待たず、再び氷の蛇を駆って霧氷煌めく林の奥へと向かう。

 「ですが、宮では神将方もお待ちかねで…真武君!」

 「女官長様、お止めするのは野暮というものですわ」
 「あんなに愛らしい姫君ですもの、しばらくは独り占めなさりたいのでしょう」
 
 噂する女官達の楽しげに笑いさざめく声は、風に乗り、孔雀の姫の元へも届いたろうか。
 
 やがて、白鳥の群れが、再び蒼穹に飛び立つと、取り残された真白の牡鹿だけが、ゆったりと静かな雪原を歩いていった。

*******

 白亜の歓迎の言葉に応じた、ローズマリーの返礼の言葉は、彼女らしい優しさと健気さに満ちていて、受け取った白亜や 女官達ばかりでなく、夫たる玄武自身をも喜ばせた。
 それ故にこそ、増すばかりの愛しさに急かされるように、妻を女官達から引き離しにかかったのは確かな事で、風の届けた噂話も、真実と知るからには否定するべくもない。
 ただ、赤くなって声を失い、身を寄せる孔雀の姫の愛らしさに笑みを深めるのみだった。

 氷の蛇は、玄武神の心のままに、白い大地を進み、やがて、深い緑の針葉樹の森を抜ける。
それまで深い雪に覆われるばかりだった大地がいくらか黒土の地面を覗かせ針葉樹に代わって白樺の木が明るい緑の葉を風に揺らしているのが見えた。

「…ここは我が領域の東の端、雪解けの地だ。ここより生まれた雪解けの清水は、春司る東の地…蒼龍の領域に流れを繋げている」

 指差す先の東の空は、僅かに明るく、その向こうに春の領域が有る事を確かに示す。
 妹姫の住まう地ともなる東の空を見た、孔雀の姫は、どのような感慨を抱いたか。

「そしてあれが…私の『庭』だ」

 やがて、少し悪戯めいた口調で言った漆黒の男は、白樺の木立の間、日差しにきらきらと反射する氷の壁を指差した。
 近付けばそれは、綺麗に半球型に削られた巨大な氷塊の煌めきであると知れる。
 玄武神は微笑み浮かべたまま、その氷塊の間近で氷の蛇を止め、妻に手を貸して白い大地に降り立った。

『解』

 低く唱えた声に応じて、氷塊の一部が二人を招き入れるように、ぽかりと丸い穴を開く。
 玄武神とその妻が、厚い氷の壁をくぐり抜けると、まず感じられるのは、外とは明らかに違う暖かな空気と柔らかな緑の草を踏む感触。そして、目の前には外の白一色とは対照的な光景。

 背の高い樹木から、小さな雑草のような草花まで、様々な花木が、一見すると無秩序とも思える、けれど不思議にバランスの取れた配置で生い茂り、色とりどりの花を咲かせている。
 中央の自然の鍾乳石で出来た水盤からは澄んだ雪解け水が湧き出し、溢れた水は曲がりくねった細い小川となって花々と木々の間を巡っている。その水盤にも、水草と蓮の花が浮かび、水面に彩りを添えていた。

「樹木の殆どは蒼龍から種や苗を分けてもらったものだ。この地に元から根付いているものもあるが、ほとんどは野草の類だな」

 やがて、全てが自然のままに置かれたような庭の一角、少し小高い丘になった場所に設えられた純白の鍾乳石で造られた東屋に歩み入ろうとして、一度、足を止めた。

「…御覧」

 指差したのは、氷の壁のすぐ外、柔らかそうな草に覆われた場所。
 そこには、淡い栗色の毛並みの牝鹿と、母鹿より更に薄い色の…殆ど淡い金色に見える柔らかな毛と赤い瞳の子鹿が二匹、現れた二人の姿に驚くでもなく、ゆったりと草を食んでいる。

「先刻の白い牡鹿の番と生まれたばかりの仔だ。この庭の周囲は常に草木がよく育っているから、仔を生んだばかりの生き物が、ああして餌を求めてくる事がある」

わざわざ教えたのは、ローズマリーが、白い牡鹿の事を気にかけていたのを知っていたからだ。

「ある程度仔が育つと、皆、ここに留まりはせずに別の場所で暮らすようになる。小さく弱いものにとっての避難所のようなものだな」

 そんな風に言ってから、東屋に置かれた籐の長椅子へと共に腰を降ろすと、漆黒の男は、妻の手を取り、微笑みかけた。

「春に芽生えた草木は、夏に生命を輝かせ、秋の実りを得て、冬に休息の眠りを得る…氷の中で眠った種子が、やがてまた春へと向かう…ここは、その境界でもある」

 巡るいのちの終わりに辿り着く地は、やがてまたいのちが生まれる地でもあるのだと、そう言って

「……これまでに、二度、この『庭』の草木は枯れた。一度は三千年の昔、今一度は千年前…それはいのちの巡りがひとときとはいえ、弱まった故のこと」

 漆黒の瞳は静けさを保ち、その声も平静ではあったけれど、氷の意志の内に眠る想いの一端は、或いは孔雀の姫には感じ取れたかもしれぬ。

「二度と、この草木を枯らさぬこと、それが私の願いであり誓いでもある。ここは、私の気に入りの場所であると同時に、その誓いを忘れぬための場所でもあるから…貴女には、最初に見せておきたかった」

柔らかな声で、そう告げて、漆黒の男は妻の肩を抱き寄せる。

「どうか、この先は、私と共にこの地に安らぐいのちを愛し、共に護ってほしい…ローズマリー」

ただ愛しく傍にあるだけではなく、神妃として、どこまでも共に、その願いを口にして漆黒の武神は、微笑みを浮かべる。

「星辰の尽きるまで、共に…」

それは、男が新たに抱いた願いと誓いでもあるのだと、囁く声と共に落とされた口づけの、冬の神らしからぬ熱が教えたろう。

その夜、北の地に咲く花は、星の煌めき宿す漆黒に抱かれて一際艶やかに咲き誇り…凍てつく玄冬の風すらも、微かに甘く香ったという。