―― 誘水、為瀑、
―― 我知理陣画牢、固閉!
[鋭い声と共に裂帛の気合が走る。陰気が凝り不気味な靄となって渦巻く地に大量の水が降り注ぎ、即座に凍って氷の柱を作りだした。
だが、シュウシュウという音がその後も絶え間なく響き、濁った染みが柱の足元から広がってゆく。封じても尚活動を止めない妖魔の呪詛が氷を溶かしているのだ]
……読み違えたわ。
[自ら作り出した氷柱を睨み、細く息を吐き出したのは応龍と呼ばれるもの。四瑞の一として気の偏りを均し、時には陰気を取り込んで浄化するのが、一見性別不詳に見える彼の役割だった。
天地開闢よりこちら、天帝にまつろわず跳梁する妖魔達が攻勢を強めてきた。四神とその眷属が各地を支え、四瑞が気を均して安寧を取り戻すために散開する。これまでにも幾度か取られた形であったが。
隠匿された歪みの内側で育っていた呪詛は、手勢のみ引き連れて出向いた応龍に決断を迫った]
これでは一刻の猶予もならない。
私一人では全霊を持ってしても封じるのがやっとだが。
それでも成さねばならぬこと。
[振り返った先に控えていたのは一人の男、応龍にとって一番の側近とも呼べる眷族の黒龍。他の者はここに至る途上で力尽き倒れてしまった。
その顔をじっと見て、応龍は痛みを堪えるような表情を浮かべる]
……同じく、四瑞の一端を欠くわけにもいかない。
それでは別の形で天地の安寧を損なうことになってしまう。
何の備えもなく託すは危うい仕儀なれど……死ぬ気で、耐えなさい。
[黒龍は硬く唇を引き結んで頷くことしか出来なかった。
喉元に主の指が触れるのを、微動だにせず待ち。
全身を押し流そうとする力に抗えず、崩れるようにその場で両膝を突いた]
『幸運を…』
[応龍の希いが直接脳裏に届く。
瞳で見ること能わずとも、何が起こっているのかは、流れ込んでくる力が覚え記憶へと刻んでいった]
『……後は、頼みます……』
[人の似姿を取っていた応龍の影が崩れ、龍体となる。
翔ける様に高く飛び上がり、輩たる四神四瑞への祈願を風に乗せて。
言の葉が流れ去るのと同時に天で大きく身を捻り、螺旋を描くよに舞い降りる。風切音と鱗の立てる音が呪を紡ぎ、応龍の身体そのものを封じの印へと変え。先の氷柱に巻き付くと、ジュクジュクと溶け出していた根元の水まで凍らせた。
黒い鱗も白く凍りつき、空間を捻るほどの力を帯びて]
『―― 以命、為封。 天地為使安寧 ――』
[応龍の最期に紡いだ呪が遺志として天に響く。
直後、弾けるように氷柱は砕け、中心に人が一抱えできるほどの透明な塊だけが残された。
それは、初代応龍が身命を以って作り出した、封印の楔]
[細く開かれた黒龍の金瞳にも楔が映った。
主の力を託された胸の内に、喪失の嘆きが兆す。
ほんの一瞬の虚。だが準備なく在り様を変えられた水気と、応龍の内にて浄化の過渡にあった陰気は、これに反応して大きく暴れ出した]
…オお於諾御痾唖阿亜あア!
[理乱れ、力は荒れ狂う。
引き摺られた黒龍の咆哮が空を震わせる。
陰気と水気はいよいよ膨れ上がり、周囲を無秩序に巻き込んでゆく。
水侮土により地は削れ、出来た窪地へと溢れた水が流れ込む。
封印の楔は底に隠れ沈黙に包まれたまま。
次なる応龍は、その時、新たな歪みの芽ともなりかけていた]
― 継 ―
[楔の沈んだ地は水気が呼び込んだ木気を孕み暴風雨のよに吹き荒れて、さながら嵐の様相を呈していた。
その只中を一直線に、朱の翼は舞い込んで来る。
陰陽の均衡崩れた中で眩く目を射るような存在感が、そこにはあった]
朱雀……!
[辛うじて消えていない意識が、誰であるかを知覚する。動きに遅滞が生まれ、焔の一撃をまともに食らい池へと墜ちた。
自らが生み出した水に沈んだかと思われた直後、波打った水面から再び飛び出してきて、外一重のみ金色が残る闇色の瞳で睨みつける]
来ル、ナ……!
<<―― 裂!>>
[巻き込むわけにはと思う黒龍の意識と、陽気に溢れた四神を忌避する残留思念とが入り混じって、強い拒絶の意志が紡がれる。
思いは周囲に溢れる水気を従え、雨粒を凍りつかせ礫となして、朱の翼を引き裂こうと射ち放った]
[木行に属す風は、朱雀にとっては心地よいもの。
しかし、荒れ狂う暴風雨となれば──話は別。
まして、陰陽の均衡を欠いた場でのものとなれば別格の極み、だ]
……全く。
[長く伸ばした髪が濡れて纏わりつくのを後ろへと払う。
初手の焔弾は違わず黒き龍を捉え、池へと堕としたものの、一撃で鎮めきるには至らない。
相剋の理もあれば、自身のみで押し切るのは容易くはなかろう、という判断に至るのは速かった]
と、なると、だ。
……私がするべきは、ひとつ、か。
[水気を律する叶うは相生の理にある木気と、相剋たる土気。
火気に属す己が相侮と為すには、乱れる気が強い。
なれば自身が集中すべきは、もうひとつの大きな乱れ──陰気の相]
……蒼の。
水を律するのは、任せた。
[一度沈んだ黒が再び姿を見せる。
睨み上げる、僅かに金帯びた闇色を朱で見返しつつ、いつからか近くに感じていた馴染み深い木気の主へ呼びかけた]
私は、この過剰な陰気を鎮めるのに集中する。
……ま、水を完全に律しきるには鳳凰辺りの手もいるだろうが……コレは、私の領分だからな。
[言いながら、剣を構える。
そのために何をするか、の説明はしない。わかっているだろうから。
告げるために、振り返りもしない。が、口元に浮かぶ楽しげで、どこか艶めく笑みも常のことと気取られているだろう]
……来るな、と言われてもだな。
[紡がれる、拒絶。朱の瞳がす、と細められる]
はいそうですか、と頷ける話では、ないっ!
[念が雨を変じさせ、氷の礫を作り出す。
それには構わず、朱の翼で大気を打ち、黒へと向けて翔けた。
眼前に飛び込む礫は剣持って切り払うものの、それ以外の防御手は打たない。それ以外の礫への対応は、信持って後ろを預けるもの──蒼龍へと託していた]
过剩的忧郁请平静下来。(過剰なる陰気、鎮まり給え。)
背光处和太阳在对,均衡下做平稳!(陰と陽は対、均衡の下に平穏を為す!)
[言霊紡ぎつつ、剣に込めるは夏の太陽によって象徴される自身の陽気。
荒れ狂う空間に、熱気煌めく輝きを灯しつつ、降下によって距離を詰め]
……はっ!
[剣届くまであとわずか、の距離に達した所で翼を羽ばたかせ、くるり、空中で前方一回転。
そのまま翼の動きを止めて落ち──黒の視界から、姿を消しつつ、波打つ水面すれすれまで降りる。
狙うのは、虚を突く動作での一瞬の隙。
大きく羽ばたき、水面を蹴るように飛び上がりつつ距離を詰め。
下方から、斜めに走る一閃を繰り出した。]
[一度黒龍を飲み込んだ水は、更に溢れて湖とも呼べる規模となりつつ。その上に浮かび戻った龍体の影に隠れて暗い水面を波立たせている。
長き髪を棚引かせる人の姿を睨みつけていた瞳が、ギョロリ、と僅かに逸らされた。視線の先には確固たる木気。際限なく流れ出そうとする水を鎮めては取り込んで、取り返しのつかなくなる直前で均衡を保っている]
虞…
[しかしそちらに意識を大きく割くまでは、朱の翼も許さず。
拒絶の意志を言下に切り捨て飛び込んでくる朱雀に集中を戻すと、無数の氷礫を叩きつけた。
直接に向かったものはその手にある剣に拠って払われ、自由なる動きを損なわせるだろうものは嵐の動きとは異なる風と花弁によって弾かれ。
それを越えたものは湖畔に広がり始めた草芽の幾らかを裂き、地表を凍り付かせたか]
憂紆……
[叫声ともつかない音を響かせ、身を拗らせる。
くるりと宙舞う朱の翼から視線外れた僅かの隙に、嵐すら押し流すよな突風が別向より吹き、周囲の状況そのものを一時見失う]
魏耶ッ!
[次に迫った火気は真下から。
完全に虚を突かれ、捻った身から耳障りな音を立てて鱗が数枚宙を舞うが、動き損なうほどの深手までは至らず]
駕阿唖ッッ!
[轟く咆哮と同時、湖の水が大きく渦巻き、剣を振り切った朱の翼まで巻き込みながら柱のよに吹き上がった。
明確な攻撃を意図したものでなく、ただ苦しさから暴れるばかりだが。
大きく撓った龍の尾が自由な動きを奪う水の中にある朱雀に向かい、撃ち払わんと迫った。
やがて逆巻く水は戻り、湖縁を越えて周囲を波で濡らす。
未だ苦鳴を上げながら身を捩りっている黒龍。その表に纏わりついている霧のよな黒い影は、最前よりも薄れてきたようにも見えた]
[振るった剣に応えはあれど、完全に動きを止めるには至らない。
なれば、と思うのと、咆哮轟くは何れが先か]
……なっ!?
[下から感じるのは、激しい水の渦。
離れようと羽ばたくも僅かに及ばず、朱の翼は水竜巻に囚われる]
(……こ、のっ……!)
[悪態は音を結べず、心の奥落ちるのみ。
どうにか抜け出さん、と翼に力を込めたその時]
……っ!?
[水音の向こうから、何かが撓る音が届く。
よもや、と思うのと、衝撃が全身を震わせるのはほぼ同時。
予期せぬそれにほんの一瞬、意識が途切れ。
力を失った朱の翼は、水面へと落ちかかる──が。
朱が水面へと触れるより早く、吹き抜けた風がその身を支えた。
柔らかな木気が、途切れた意識を再びつなげる。
朱の瞳を上へと向けたなら、映るのは風を操りて舞う白の姿。
水気に晒され、失われた力を、その水気によって織り成される木気が回復してくれるのを感じつつ、動かせるようになった翼を羽ばたかせて蒼龍と同じ高さまで舞い上がった]
すまんな、世話をかける。
……しかし、正直これでは切りがない、か。
[黒き龍の周囲には未だ霧の如き黒の影が見える。
最初に比べたなら薄れた気もするが、完全に鎮めるための障害には十分になり得るものと見えて]
……あれをもう少し削らねば、話にならんな。
[剣には未だ、先に込めた陽の気が残っている。
これに、残っている自身の気を注ぎ込めば、もう少し祓えるだろう、と。
そこまでできたなら、そろそろ到着するであろう他の者に任せる事もできるだろう。
元より水剋火の理もある。『勝負』としては、分が悪いのだ。
……朱雀自身の気質は、そんな分の悪さを好むのだがそれはそれ]
蒼の。
後一撃分、援護を頼む。
[短い言葉に返る言葉がどうであれ、ひたり、と前を見据える朱の瞳には下がる意思などカケラも見えない。
もっとも、その辺りは当に知られた──どころか、思い知らせている、といえるレベルだろうが]
……それでは、行くか。
焔翼の一閃……推して、参る!
[宣が響き、翼が大気を打つ音が響く。
真っ向から、小細工なしで仕掛ける途を飾るのは、軽やかなる風と花弁の舞。
その風に、焔の色の髪と翼を揺らしつつ、距離を詰めて放つ一閃が切り裂いたのは、黒の霧。
同時、剣に込めた陽の気を解放し、その打ち消しを試みる──が。
その結果を見届けるよりも先に、強い衝撃が走り。
朱の翼は、湖岸まで飛んで、落ちた。]
[苦鳴は周囲の熱を奪い、黒龍の周囲で密となっている水気を雪へと変じ。陽気に満ちた火気そのものを克さんと、意識飛ばした朱雀の上にも降り注がせる。
しかし朱の翼の重み増す前に、一陣の風がそれを阻んだ。
水生木。余剰より変じた水気は蒼龍に呼び込まれ、律されて。
木生火。朱雀の力となる形に成る]
惧……
[交わされる会話は耳に届けど遠く。
凛と響いた宣に応じ、黒龍は漸う顔を上げ昏い瞳を巡らせた。
清浄なる風が吹きつけ、舞う花弁が再び舞い上がった朱の翼を確とは捉えさせない。黒い霧が慄くように蠢き、黒龍の身体を突き動かす。
間近まで迫った剣を爪で迎え撃たんとするが、一閃は紙一重で噛み合うことなく。切り裂かれた黒霧は、直後に解放された陽気に抗うこと敵わず更に千切れ薄まってゆく]
呀餓ッ…
[一方、剣を阻むことのなかった爪は薙ぐように朱雀の胸へと伸びて。
四筋の朱を走らせながら大きく振り抜けた。
飛び込んで来た勢いそのものが返ったかのように、朱の翼は宙を舞い、放物線を描いて湖の外へと飛んでゆく。
それを視界の端に収めながら、黒龍は再び身を捩る]
……ゥザ…ゥ…
…ゥ…ォォ……
[応龍という存在の枷を破ろうとしていた内なる者の陰気が散れば、僅かばかり本来の意識も戻ってくる。
が、一度荒れ狂い始めた力は容易に収まることを知らず、理性の下に取り戻した力のみでは抑え込むことは出来ないまま。
押し殺すような低い唸声は、全てを停滞させ凍り付かせようとするかのように、黒龍を中心とした冷気の渦を生み出し始めた。]
『朱雀!』
[低いうなり声に被さるように名を呼ぶ。
天より湖の中心へと滑空する。力を失った朱い翼と、まとわりつく黒い霧を振り払うよう身を捩る黒龍の間へ。それは蒼龍が朱雀を回収する、その時を稼ぐためでもあり]
『何を暴れとる!』
[間近で黒龍に起こった変化を見定めるためでもある。
速度を落とさぬまま、湖面すれすれに旋回する。水を切れば舞い上がる水滴が、黒龍の生み出す冷気に触れて氷の結晶となって舞った]
『阿呆めが』
[ちらりと朱雀に視線を送る。
ここで何があったかは解らないが、この状況から把握できることは少なくない。
いくら火の玉の如き猛進さに定評がある朱雀でも、他を待たずただ徒に跳びかかるほど見境がない訳ではない。むしろ、無理が利くからこそやるのであって、だいたいやるときは無茶をするから隣同士つきあいの深い蒼龍あたりはとんだとばっちりだが――]
『礼なぞ言わんからな』
[朱雀の判断は、おそらく正しい。
自分がもう少し早く駆けつければと思うのは、相剋の理故。しかし、陽の気については自分は朱雀に遙かに及ばない]
『クレメンス!』
[黒龍の爪の届く範囲で旋回を続ける。
応龍の気が強くあるこの場所で、常に傍にあるはずのその姿が見えない。
否――
その面影は確かにあった。有り様を変えられた水気の底、鎮まり始めた陰気の向こうに]
『賭けにも程があるぞ』
[姿が見えないのは、応龍なのだと。
であれば、このなじみ深い気配と濁流の様に乱れ溢れる水気が意味するものはなんなのかと、思い至るのは難しくなかった]
[.振るった一閃は違う事無く陰気を散らす。
が、同時に振り切られた爪を阻む術はなく、身を裂く感触と共に、冷ややかさと熱さが駆けた]
……くっ……さすがに、これ以上、は……。
[防御を顧みず、一撃の苛烈さと身の軽さを持って戦場を翔ける朱雀にとっては、一撃が致命傷にもなりうる。
気の消耗という意味でもこれ以上舞うのは無理か、と。
そう、思った矢先に名を呼ぶ声が聞こえた]
……遅いぞ、鳳凰。
[旋回する色鮮やかな翼に向けて呟き、口の端を上げる。
が、声音と表情に微かな安堵が浮かんでいるのは、回収に来た蒼龍には覚る事も容易いはず]
やるだけは、やった。
後は……頼む。
[この場で己になせるは、後は陰陽の均衡を均すべく、陽の気を絶やさぬこと。
もし必要とあらば、火生土の理によりて火気を分けるを厭う心算はないが。
今は、陰陽を律する事に意識を向けた。]
[さぁっ、と暴風を律するよに流れ込む穏やかな風。
翼持たぬ身で宙に立ち、長い髪をたなびかせる者の後方へと陣取った]
やれやれ……応龍も、無茶をしてくれる。
[風に載り届いた祈願。
その直後に膨れた陰気と水気、相剋にも関わらず水気に近付く大きな陽気と火気。
それらの異変に、妖魔討伐を眷属に任せ空を翔けた。
辿り着いた先で見たのは、朱雀が陽気と焔を宿した一撃を繰り出すところ。
その対象となった陰気と水気膨らむものが応龍でありながら異なる存在となっていることは、その様子から容易に感じ取れた。
一言声を零し、続くよに嘆息が口から漏れる]
解っているよ、朱雀。
君は、君が為すべきことを為すと良い。
[こちらを見ずに声を向ける朱雀に応えながら、右手で薙刀を握り、構えた。
それに対しても短く息が漏れるはいつものこと。
陰気を鎮めるために相剋の理たる水気に飛び込もうとする様は、傍から見れば無謀のなにものでもない。
だからと言って引く相手でも無いと言うのも理解しているため、仕方が無いな、と苦笑が零れ出るのだった]
応龍───否、応龍の力を得し者よ。
過剰なるその力────貰い受ける。
[眼下に、黒龍の影の下に溢れる水の周囲に、宣と共に植物を現出させる。
これ以上この場の水気を増やさぬために、木気を以て広く、緩やかな陣を広げた。
それは緑映ゆる草芽となり、これ以上湖が広がらぬよにするための堰となる。
相生の理により溢れ返っていた水気を木気へと変え、それを風と花弁へと変換し朱雀の周囲へと纏わせて。
風は火気変換と飛翔の補助に、花弁は迫り来る氷礫を弾く壁とした。
地表へと到達した氷礫が草芽を裂き、蝕むよに氷を広げる。
その分、堰としての効果が削り取られるが、再び水気を取り込むことで均衡を引き戻し、草芽を芽吹かせ直した]
───朱雀ッ!!
[均衡を保つ中、剣による一撃を繰り出した朱雀が、湖面から昇る渦巻く水に飲み込まれる。
思わず声を上げ、水竜巻に対し薙刀を振り被ったその時。
撓る黒龍の尾が、捉えられた朱雀を打ち据えるのを見た]
ッ、神風(シェンフォン)!!
[水竜巻に向けようとしていた薙刀を、墜ちる朱雀に向けて振り抜く。
薙刀の切先から風が巻き起こり、湖面が飛沫を上げる前に朱の存在を宙で支えた。
降り注ぐ雪もまた、繰り出した突風で払い除ける。
その間に風を通じ、朱雀に付き纏う水気を木気へと変え、朱雀の回復の手助けをして。
意識を戻し同じ高さまで舞い上がって来た朱雀の言葉に対し、ふ、と常の笑みを浮かべた]
なに、君の補佐は私の仕事だろう?
…切りが無いのは確かだね。
完全に鎮めるには、こちらの手札も足りない。
[相生だけでは鎮めるにも限度がある。
ここはやはり相剋たる鳳凰の力がどうしても必要だ。
そしてそれを為すためには、黒龍が纏う陰気を削る必要もある]
……解ったよ。
君が、全力で飛べるように───。
[引かぬは当に知れたこと。
諾を返して、水気より得た木気をふんだんに使い、朱雀が翔ける途を作り為す。
吹きつける風と舞う花弁が黒龍の眼を惑わした。
黒龍そのものではなく、取り巻く黒霧を狙った一閃。
迎え撃った黒龍の爪は朱雀の剣を捉えることは無く。
黒霧が断ち切られたと同時、朱雀が───湖岸へと、飛んだ]
速翔(スゥシィアン)!!
[飛ばされた朱雀の方へと進路を向け、それを受け止めるべく速翔。
放物線を描き飛んで来る朱雀を、落下位置に風を孕ませ減速させながら宙へと留まらせた]
鳳凰。
[黒龍の唸りに重なるように朱雀を呼ぶ声がする。
飛ばされた朱雀と黒龍の間に割って入った者の名を呼びながら、蒼龍は朱雀の下へと駆けつけた]
全く、相変わらず無茶をするね。
[鳳凰の到着に安堵の色を宿す朱雀に対し、溜息混じりに声をかける。
ただし、その表情は常の笑みが浮かんでいた。
宙へと留めた朱雀に手を翳し、己の木気と陽気を相手へと与える。
状態の維持に足る気を与えた後、蒼龍は再び溢れる水気を取り込み木気へと変えた]
鳳凰、途は私が作ろう。
後は頼むよ。
[水気の減退と鳳凰の翔ける途の手助けをすると宣し、鎮める役目は彼に任せる。
湖畔の周囲にはいつしか草芽の他に低木が現れ始めていた]
[湖面に向けて墜ちゆく朱翼を、黒と金の鬩ぎ合う瞳が追った。
朱雀を支える風の流れに苛立ちと安堵が交錯する。
気を鎮めるため纏った冷気は、堤となっている低木をも害そうとしながら。
朱雀の下に駆けつけようとする蒼龍まで害そうとして向かう前、視線を遮る影が飛び込んできた]
……痴……
[煩わしげに爪で退けようとする。だが掠りはしても深い傷を与えられない。
幾度払おうとしてもヒラリ舞い続ける五色の翼に、意識が集中したその瞬間に]
……ッ!
[親しき声にて名を呼ばれ、黒龍は鱗を波立たせた。
本来であれば楽の音の様にも響くものが今は軋むよな音を周囲に広げる]
(……芳……)
[意識の内にその名が浮かぶ。
応龍という存在の支える力、その内に封じられていたモノに押し流され追いやられていた個の意識が応龍としてのそれと一部重なり合い、黒い霧は吸い込まれるように黒龍の中へと消える。
一方で水気は更に膨れ上がって。
意識下に留め置けない力は過剰に働き、触れるもの全ての熱を奪う氷嵐となって黒龍の周囲に渦巻いた]
『禿げが出来たらどうしてくれるんじゃ!』
[黒き爪が肌を撫で、緑の羽が宙を舞う。己の身より離れたそれは、渦巻き始めた冷気に触れれば白く凍り、砕けていく。
それはまるでここよりは何者をも拒むと主張するよう。その中を、さらに鋭い爪をかわし迫るのは己の最速でもっても容易ではない。
軋み、音階の崩れた鱗の音は、淡い衝撃波となって体を打つ。
目を塞がず見据えていれば、せめぎ合う瞳の色が、ほんのひととき金が勝った気がして目を細めた]
『朱雀! もう一度無茶できるな?』
[鋭く叫ぶ。
傷を負い、舞うことを止めた朱雀に手を貸せと言いつける自分も大概無茶ではあるが、躊躇っている時間はあまりない。
こちらの意図を察して途は作ろうという蒼龍に『頼む』と頷く]
『我が意に従い疾く、成せ』
[冷気はさらに、氷嵐となって渦を巻く。このまま過ぎれば本来相生たる木気を弱らせ、いずれ相剋たる土気さえも押し流し、この世に消えぬ禍となるだろう。
――それだけはさせるわけにはいかない]
『右手に錫。
左手に鐘。
錫は聞こえぬものを導き鐘に収めよ。
鐘は錫に従い正しきへ還せ』
[旋回から、螺旋へ。黒龍目指して経を小さくする。
氷嵐に切り込む瞬間、ぱっと、視界に散るのは蒼龍により生み変えられた木気の花か幻か。
いずれにしろ、途を作ると言った。その言葉に従い、導きのまま飛ぶ――朱雀から譲り受けた火気も余さず呪に乗せることにのみ集中し]
『こぶくらいは覚悟せいよ!
――シン』
[余剰な水気を黒龍の身から引きはがすように、己を中心にした地震――震動を頭部目掛けてたたき込む]
……私は、やるべきと判じた時に、やるべき事をしているだけに過ぎんぞ?
[無茶をすると、という蒼龍の言葉にく、と笑う。
与えられる木気と陽気、それが与える癒しには、と短く息を吐いた所に聞こえた、声]
……は。
気軽に言ってくれる。
[無茶を、との叫びに浮かべるのは、愉しげな笑み。
朱の翼が数度揺らめいた後、大きく、羽ばたく]
……いるだけ、持っていけ、鳳凰。
しくじる訳には、行かんのだからな……!
[翼の動きが織り成すのは、色鮮やかな紅蓮の気。
それは煌めく焔となり、鳳凰の元へと届く]
……祈り、潰えさせぬがためにも。
頼む……ぞ。
[煌めく焔に託すのは、純粋なる火気と、それから。
面と向かってはまず言わぬ、自分自身のささやかな祈り。]
[溢るる水気は冷気へと変わり、低木と草芽を侵蝕していく]
これ以上は───させないよ。
細根吸(シィケンシィ)!
[場にある水気を取り込み、毛細根を地へと走らせ。
その根から更に水気を取り込み木気と成した。
繰り返し根を張り巡らせれば、過となりかけた均衡も保てようか。
過となるのだけは良しとせず、鳳凰が動くに易い場を作り成そうと、ギリギリの均衡を引き戻そうとする]
起風(チィフォン)───種生花(チュォンショォンホァ)!
[鳳凰が氷嵐へと切り込む刹那。
神風を送り込み、水気を取り込み花を咲かせる種を氷嵐へとぶつける。
種が氷へとぶつかり、水気を得て瞬時に花へと変わるのを鳳凰は目にするだろう。
それにより害為すものを取り除けば、残るは嵐───風はこちらの領分。
送り込んだ神風を繰り嵐の中に追い風のトンネルを作り途と為し。
黒龍の下へと鳳凰の身を届けた]
[斯様な時でも常の心を失わぬ、芳しき風のような明るさを持つ言の葉。
軋む音の合間を抜けて届くその声が、均衡失い己を保ちきれぬ意識の内に染み込んでゆく。
地に張り巡らされた根が、氷礫と突き当たる花種が、危うい均衡を保つ中。煌く焔が宙を走り、五色を取り巻いた。
錫は鐘へ。鐘は錫へ。
花舞う風の隧道を通り、描かれた螺旋の先端が。
黒龍の額に触れ、強き振動を送り込んだ]
……――――……!!!!!
[身の内から激しく揺さ振られ、尾の先まで鱗が再び波立つように蠢く。
衝撃が駆け抜けた後、引き攣ったように動きもピタリ止まった。
氷嵐は勢いを失い、奇妙な空白の間が生まれ]
……封、身。
[静寂の中、微かな掠声が苦鳴以外の呪を紡ぐ。
黒龍の身体がユラリと霞み、消えた後に浮かぶのは鳳凰も良く見知ったる人姿]
……ファ……。
[薄らと開いて緑羽を映した瞳の色は金。だが瞼が上がりきるよりも前に。
浮き続ける力失い、凪いだ湖面へと墜ち始めた]
[ぱ、と咲く花が現れて後方へと飛び抜けていく。
蒼龍の神気を帯びた花の途――風が体を運ぶに任すよう飛ぶ。
追い迫る炎は身を焼かず、煌めきとささやかな思いを乗せて自身を取り巻いた。
呪を唱える最中で、他に口を利けなかったのは幸いだったと思う。纏う火気から炎とは違う暖かみを感じたなどとは、指摘するべきではないだろう。
笑みの浮かんだ口元を引き締めて、黒龍へと突っ込む]
(戻れ)
[一撃に全てを篭める。
朱雀にこれ以上の無茶も、蒼龍にこれ以上の援護もさせられぬ。
まして友を殴るような真似も、一度すれば十分だ。
螺旋の一撃は、過たず黒龍を打ち、自身は殺しきれぬ勢いに任せて氷嵐に飛び込む。
否――氷嵐は無かった。残る冷気の中、静かな風切り音だけが耳を打つ。水面に触れるかどうかの急旋回で巻き上げた水は二度と凍り付くことはなく]
『クレメンス』
[見つめ続ける中、人型を取り戻した唇が微かに動く。細く覗いた金の瞳は、意思を宿してこちらを認め――]
『――』
[落ちかかる友の姿を背で受け止める。
しばし無言で、湖の上を飛んだ]
— 継 —
[水脈を渡る玄武神を、後押しするように金気が強まる]
承知…恩に着るぞ、霊亀。
[同時に伝わった霊亀の声に、静かだが、強い意志を込めた言霊を返して、一気に乱れた陰気の渦巻く源へと身を運ぶ]
[ざん、と、湖が波打ったのが、上空に在る者には見えたろう。その波間から水蛇がゆらりと鎌首をもたげ、次の瞬間には滴と散って、漆黒の男の姿を顕現させる]
…遅くなった。
[湖の汀に足を濡らす事無く立つ男は、最初に朱雀を支える蒼龍と視線を合わせると、僅かに目を細め、詫びともつかぬ言葉を短く口に昇らせる。
実際は、転生から戻るには「早過ぎる」のだが、その事情に触れる事はなく。
次いで、その傍に在る朱雀には、小さく吐息をついて]
少しは限度というものを考えろ。
[言っても無駄、と判りきっている一言を投げる。そして朱雀がどう反応しようと、それには構うことなく、上空へと視線を移した。
その頃には、人の姿となった応龍…クレメンスを背にした鳳凰も、降りてこようとしていたか]
鳳凰…応龍をこちらへ、気の巡りを正す。
[歪み淀んだ陰気と水気、土気によって克され、神力を使い果たしたに等しい状態の応龍を癒せる者は同じ気を持つ己より他に無い、と、腕を延べた]
[自分が起こす物とは全く別の波が湖面に浮き、水蛇が姿を現す]
『……玄武?』
[それはみるみるうちに人の姿となり、同時に微かな混乱を連れてくる。
漆黒を纏う男の帰天は想像の外のこと――]
『お』
[ではあったけれど、その性質を考えれば、ここにこうして現れることはむしろ想定してしかるべきかとも思う]
『遅いぞ、玄武』
[己の「張り切り」が彼の者の進路妨害をしたなどとは気づきもせず、早いと遅い、どちらを挨拶にすべきか悩む一瞬ののち、口にしたのは朱雀から渡されたのと同じ言葉。音にしてから、自然と口元に弧を描かせる]
『頼む』
[こちらへ、と延ばされる手に頷く。
一度首を巡らせて背を見る。まず首根っこを銜えて差し出そうとしたことはナイショだ。
玄武の元まで降下すると、一度羽ばたきその隙に人型へと変じ、腕に抱いた黒竜は玄武の術の施しやすいよう草木の茂りだした湖岸に横たえるなりするだろう]
ああ、すまなかった。
[『遅いぞ』と、口に乗せた鳳凰を見上げ、漆黒の男は、微かな笑みの色を声に乗せる。この状況においても、常と変わらず、事象の全てを在るがままに受け入れ、柔軟に受け止める。大地そのものと言える性質の土気の主は、相克の相性を持ちながら、玄武神の有り様の支えの一つでもある。]
だが、土気を感じたからな…
[鳳凰が先んじているなら、己の遅参は問題とはなるまい、と、そう信じていた事は言わずとも伝わるか。
やがて地に降りると同時に翼を羽ばたかせ、人の姿へと変じた相手の腕に抱きかかえられた姿を一瞥すると、差し伸べた腕で、その身を支えるのを手伝い、柔らかな青草に覆われた岸辺に横たえた]
少し離れていろ。
[鳳凰に対して淡々と告げるのは、ここより先は土気の主が傍に居る事は回復の妨げになると知るからこその判断だが、言ってから、少しだけ眉を下げて、その顔を見つめる]
良く、止めてくれた…鳳凰。
[重なる気を持つ故に、触れただけでも、新たな応龍となった黒龍の状態が、どれほど深刻なものであったかは判る。力だけでは、彼を滅する事無く正気に戻す事は不可能だったろう。それは、クレメンスという名の黒龍の友である鳳凰であったからこそ出来た事]
後は、私に任せてくれ。
[鳳凰が距離を取るのを待って、横たわる黒龍の傍に跪く]
『七星招来…武曲降臨…』
[召喚した七星剣に、天に輝く北斗七星のうち、金気と守護の性を持つ武曲星の光を宿し、地面へと突き立てる。刃が地を貫く刹那、玄武神が僅かに自分自身の手の平を傷つけたのに気付いた者はあったかどうか]
『…水養天樹』
[地中に力強く伸びる鉱脈の清浄なる金気と七星剣の気が繋がり、そこから、こぽり、と清水が湧き出す]
『…風佑光焔』
『…火還大地』
『…土得霊鉱』
[清水が流れ広がるのに合わせ、低く、紡がれるのは、ここに集い、或いは力を送った四神四瑞の神気を詠み込んだ呪言。
歪みを生じ、相克の理によって断たれた気の巡りを相生に転じ、神気の流れを蘇らせるための術だった]
『…金結神流』
[大きく地を巡っていた清水が、湧き出した七星剣の元へと戻ってくると、応龍を囲むように描かれた水の流れは太極の姿を象り、神気の流れと共に乱れた陰陽の理をも均していく]
応龍、動くなよ。
[太極図が完成するのを待って、七星剣の柄を握っていた男の手が、黒龍の化身の胸の上、心臓の辺りに重ねられる。剣によって浅く裂かれた手の平から、じわりと滲んだ血が水気となって、その身に触れたのは、応龍にも感じ取れたろう]
『…神気換浄』
[最後の呪は、囁く如くに小さく唱えられる。その意味を捉える事が出来たとしても、応龍には拒む術は無かっただろう。
とくん、と応龍の胸に置かれた手の平が脈打ち、血流を通して直接浄化された神気がその身に注ぎ込まれる。そして同時に、応龍が身内に宿らせた歪んだ陰気と淀んだ水気が入れ替わるように玄武神の身に吸い上げられていった]
[流れる視界の中、翼がフワと広がり、落ち往く中途で受け止められた。
力の入らぬ身を委ねて、瞼閉ざして浅い呼吸を繰り返す]
……ファン。
[囁くほどに小さな声で、引き戻してくれた友の名を呼んだ。
水気も陰気もどうにか理の下に押さえ込んだものの、乱れた気脈は正しきれず。危うい均衡を保つことに手一杯で、まともな会話さえ続けられない。
せめてもの謝意を篭め、柔らかな羽を握っていたが]
(玄武?)
[湖水に渡り来た者の気配を感じて、ピクリと指先が揺れる。
伝わってきた気配は安定しているとは言えないもの。
しかし受け取った記憶は膨大すぎて、直には理由に思い至れぬまま。
首を巡らす鳳凰の気配に何かの不穏を感じ取り、本能的に身動ごうとした。
だがそれすら思うようにはいかず、実行されなかった行動共々未遂に終わり。
交わされる会話を耳にしながら二人の手に横たえられた]
……すみま、せん。
[傍らに膝突かれたのを感じながら掠声で謝る。
彼が触れて即理解したのと同じく、先の不安定が帰天時期を繰り上げたせいと理解及んで。
それでも、彼の力を借りなければ安定に至るまでも遠いのは誰が見ても一目瞭然の状態であったから、損なうことなく受け入れるために力を抜いていた。
その一言を聞くまでは]
……?
[玄武が念を押す声に薄目を開ける。
瞬時見えた朱の色に疑念を向けるよりも早く、胸の上に手が翳されて]
……!
[周囲を正しく巡る力と合わせようとしていた呼吸が、掌より伝い届いた水気に触れて瞬時止まった。
清水の如く澄んだ気が流れ巡り始めるとほぼ同時、全身への負荷となっていた乱れた気が血脈を通して吸い上げられてゆく。
呪の意味を理解し、全てを押し付けるわけにはいかないと拒絶するも遅く。
黒龍が本来抑えられ得る以上のものは全て引き取られて]
……な……。
[負荷は消えても剋されたことによる消耗を瞬時に補うことは出来ない。
背はまだ草木に預けたまま、大きく見開いた金瞳に若干の批難の色も混ぜ、漆黒の男をじっと見上げた]
[血脈を通して、気脈を丸ごと入れ替えようとしていた術の効果が、黒龍の抵抗によって、中途で引き止められるのを感じると、漆黒の男は、あっさりと手を引いた。こうなる事は予想の内。無理に全ての気を入れ替えようとすれば、却って相手の消耗を招く事も判っている]
…案ずるな。天帝の力をお借りして帰天したのだ。我が神気は常以上に満ちている。恐らく、ここに在る誰よりも、な。
[大きく目を見開いて、絶句している黒龍の化身に告げた、その言葉の通り、男の纏う神気は大きな歪みを引き受けたとは見えぬ静謐さを保っている。
実際、引き受けた負荷は全て再生したばかりの肉体の方にかかっていて、その命数を削っているのだが、元より長くは保たぬと承知で行った帰天だったから、今更それを厭うつもりはなかった。
この為に、陰気の歪みを避け、霊亀の力まで借りて、ここまで来たのだ。覚悟の上の事であれば、身に受ける苦痛に、その意の揺らぐ事も無い]
少しは力が戻ったようだな。応龍。
[抵抗する気力と意志が戻ったならば、とりあえずは回復に向かっていると思っていいだろう、と、目を細め、地に膝をついた体勢から身を伸ばして漆黒の姿は立ち上がった]
しばらくは、ここで休んでいろ。今となっては、他よりは安全なはずだ。
[大きな呪詛を封じられた地。常ならばとても安全とは言えぬ場所だが、天に妖魔の押し寄せる今、四神四瑞の神気が強く満ち、応龍の陰気が流れを正したことによって、ここには天然の結界が形成されている。それに、もう一つ、何より強い護りの意志が残っている筈だった]
………
[漆黒の瞳が湖の中心に、一度だけ向けられる。黒龍の心を再び乱さぬために、その名を口にすることはなかったが…]
(確かに後は引き受けたぞ…リアン)
[心に宣した言葉は、陰気の歪みをねじ伏せる芯となって男の内に根を下ろしていた]
[近づく力、その存在に気づいたのは、それぞれが相剋の理にあるが故か。
は、と一つ息を吐き、微かに口の端を上げる。
対極たる者の声が届いたのは、上がった口の端が笑みを象った、その後のこと]
……今のお前にだけは、言われたくない一言だな。
[限度を、という言葉に返したのは短い言葉。
それ以上は何かいう事もなく、気の乱れが正され行く様を見守って──]
さて。
……ここでの私の務めは、終わったな。
[この場の乱れが鎮まった、と。
それと覚るや、紅の衣の裾と朱の長い髪を翻しつつ立ち上がる。
動きにあわせ、零れ落ちるのは陽と、火の気。
ここに最初に飛び込んだ時に比べれば弱くはあるが、しかし]
それでは、私は戦場へ戻る。
……まだ、やるべき事は残っているからな。
[それでも、飛べぬ事はない、と。
そう判ずる事ができるから、さらり、とこう言った。
傷は木気により癒されているとはいえ、陰気を削り落とすために陽気を注ぎ込み、更に、鳳凰を補佐するために火気も惜しみなく託した状態が、万全と言えぬのは──治療に当たった蒼龍であれば、看破も容易いだろうが。
上げた口の端が象る笑み──男女の別を持たず、性に囚われぬが故の艶やかさを持つそれが浮かぶ時の朱雀が止まる事を是とせぬのは、ここにいる者であれば既知の事]
ここに我らが雁首揃えていてどうなるでなし。
それに、水気均すに火気の干渉は不要。
なれば、私は私の力が求められる場にて舞うまで。
……ここに来た理由も、それに基づくのだしな。
[ここに来たのは、あくまで気の乱れを正すため、と。
もうひとつの理由は、表に出すことなく、さらりと言って。
朱の瞳が向くのは、新たなる応龍の方]
無茶しいに無茶しい呼ばわりされたくなければ、今は、大人しくしておけ。
また、安定を欠かれては、かなわんからな。
[そう容易くは崩れまい、とは思いながらもこんな言葉を投げた後。
広げられた朱の翼は、先に眷属に託してきた場へ戻るべく、煌めき散らして羽ばたいた。]
[鳳凰と玄武との遣り取りに気を緩める余裕もなく。
余裕なきことが問題なればこそか、玄武から処置を受け。
抗したことすら予定の内とばかりに粛粛と告げる漆黒の姿に眉根を寄せた]
されど。
[確かに今この場では玄武の神気が一番強かろう。
揺らぐことなき凛とした佇まいからも、それは解る。だがしかし。
外的にも歪められた水気を取り込むことによる身体への負荷は、今まだ起きられもしない自分の身で深く思い知らされている。
剋されたことによる衰弊も大きいが、そもあのまま止まることなく暴れていたならば命も落としていただろうことは、確信を伴った実感だ。
それを引き受けたとなれば、予定外の転生で戻った身体に襲い掛かるものは如何程のものか。容易どころでなく想像がついてしまう]
……ええ。
[だがその一方で、今の自分も負荷を抱えたままでは回復とて容易成らざることも間違いなく。長引けば長引くほど天地の安寧も損なわれる。
故に一言以上の反論は紡げず、玄武が立ち上がるのに己の力不足を噛み締めながら認めることしか出来なかった]
はい。……今少しばかりは。
[封じられたばかりの呪詛は地への干渉を一切断ち切られていて、特に霊亀が金気も正したこの場は格好の回復場所とも成っていた。
細められた瞳に頷き。僅かな間の後に続いた後半は、向けられた朱の瞳にも向けたものだった。
それこそ先に朱雀が言っていたと同じように…「あなたがそれを言われますか」…原因が自らである以上、言葉になど出来ようはずがなかったが。思ってしまうのばかりは止められずに。そして]
応龍として、天地の安寧を保つために。
[改めて己にも念じるように呟き、瞼を伏せた。
玄武神が心の内で宣したことを知ることは当代応龍には出来ないが。
静謐を取り戻していた湖面が、風には拠らず僅かに漣を立てる]
(……リエヴル……)
[全霊をもって楔となった初代も、今この場には存在そのものがない。
……はず、だが。
その名を呼んでいた柔らかな声と漣の音はどこか似て、響いた]
[背に乗せた友の、微かな声。名を呼ぶきりで後の続かない様子に、無言を貫いた。どんな言葉をかけても、例えば黙っていろと言ったところで、この男は言葉を返そうとするだろう。無理をするなと言えば笑うのだろう。
そう言うところは好ましいと思うが、今はそれもつらいだろうと思うから。己の羽が緩く握られる感触にため息をつきそうになって、それも我慢する]
『おだてても何にもでんぞい』
[土気を感じたからという玄武に肩をすくめたつもりで言う。相手の言葉に乗った色に、一瞬詰まったのはごまかせたかどうか。鳥型は顔色がわかりにくくて良かった、などと思うのも一瞬のこと。
玄武の指示は聞かずとも理由はわかる。
頼む、と答えかけた自分に先んじたのも、また玄武の言葉で]
『まあな』
[深く唇に弧を描かせると、今度こそ頼むと言って、距離をとった。
誰がクレメンスの立場だったとしても、己の土行が必要であれば出来うる限りの事をしただろう。それは四神四瑞の誰もがそうだと思う。
だが。
クレメンスを引き戻す力を己が備えていたことに、そんな巡りに少しだけ、感謝さえ、する。
伸び放題の草の上に腰を下ろして、玄武の仕儀を見守るのみであるのは、ここより先は口出しする資格がないとわかっているからで。
(無茶する輩しかおらんのな)
例えば黒竜と玄武が言い争う事になったとしても、黙って見守ることが出来る程度には、信頼している。ちょっと呆れを含んだ半眼になってしまったかもしれないが]
『かと言って一人にしておくわけにもおくまい?』
[他よりは安全と、確かにそうだろうと頷きつつ、玄武に言葉を向ける。
神気には満ちても時満ちずしての帰参には違いなく、未だ定まらぬところに施した術は思わぬ負荷にはならぬのかと、言葉を変えて、ゆるりと首を傾げた]
『それでは儂も、手伝うとしようかの。
借りっぱなしも、後の取り立てが恐いしな』
[無茶しいに、と言い出す朱雀に顔を俯け噴き出すのを隠すも、声は漏れて。ごまかすように、立ち上がると尻をはたく。
火気が必要なければ土気もまた、今はむしろ離れていた方がよかろうと。止めればこちらが灼けそうな笑みを浮かべる朱雀に、共に行くと申し出て。
一度、クレメンスを振り返ると、微笑んで。鳥型に戻ると飛び立った]
[鳳凰が黒龍を鎮めて後、凪いでいた湖面が持ち上がり、黒が姿を現した]
……お早いお着きで。
[視線を合わせ、遅くなったと言う相手に、嘆息と共に逆の言葉を向ける。
またそんな無茶を、そう続けたくなるのは堪えた。
彼にしか出来ぬことを為しに来たのは理解しているために]
[その後の黒龍回復については玄武に任せるより他無く。
自身は場の水気の均しと封を重ねるための結界作成に回る]
(…無茶をする者ばかりだね、本当に)
[心中の呟きはここに集う大方の者に対してのもの。
天帝の力を借りてまで帰天し黒龍の治療をする玄武然り、万全ではないのに妖魔討伐に戻ろうとする朱雀然り。
全てを以て封を為した応龍然り。
鳳凰と同じことを思ったのもむべなるかな]
私は今しばらく残り、ここに封を重ねていこう。
そちらは頼んだよ。
[妖魔討伐に向かう朱雀と鳳凰にはそう声をかけて。
朱雀に対してはもう一度木気を分け与えておく。
止まるはずの無い朱の翼、それに力を与えるために。
朱雀と鳳凰、二つの翼を見送った後、蒼龍の視線は玄武へと移る]
…玄武、君も少し休んで行け。
君の身体も、いくらか様子を見るべきだろう?
[陰気を引き受けて暴走するとは思っていないが、帰天直後に取り込んでいるのだから、と。
言葉にはしないがそんな意味を含めて玄武へと告げて。
水気満ちる湖の周囲を青草茂る湖畔に、そこから一定距離離れた箇所から森が繁るように木気を編んで森林の結界を作り為した]
………アレに大人しくしておけと言われるのも空しかろうな。
[朱雀が残した言葉に、もの言いたげな応龍の様子に、漆黒の男は薄く笑う。
男自身、本当は、新たな応龍の消耗を補ったならすぐに妖魔の討伐に出向くつもりだった。が、消耗以上に精神の負担が大きそうな黒龍の様子を実際に目にすれば、鳳凰の忠告に従うが吉と言わざるをえない。
鳳凰の言葉がこちらの身を案じる意味も含んでいると判るが故に、その同じ心配を黒龍も抱えるのだろうと予想もつけばなおのこと]
解った。外の事は頼む。
[朱雀に続き、戦いの場へと向かおうとする鳳凰に、そう告げて、休んでいけと声をかける蒼龍には、頷きだけを返した。
やがて、蒼龍が封を重ねることによって、結界の内は静謐な浄化の森と化し、禍々しき災いの源を内に封ずるとは見えぬほど、美しい風景を描き出す]
応龍…
[地に突き立てた七星剣の柄に両手を重ね、立ち尽くしたまま、その光景に目を細めた玄武神は、未だ気を鎮め整えることに懸命であろう黒龍の化身に向かって、静かに声をかけた]
我らは、皆、己の在り様に従い、互いを補い合って天地を支えている。
だからこそ私が、天を離れ、地を巡ることも出来る。
其方も、其方の在り様のまま在ればいい。足らぬを補う者は必ず居るのだから、な。
[言わずもがなの、その言葉を敢えて口にしたのは、予期せぬ継承と封じへとこの後も使われるであろう力の消耗によって、これまでの役目のいくらかを他の四神四瑞へと…恐らく、その大半は性質を同じくする玄武神自身へと…渡さねばならないだろう応龍に、少しでも心の安寧と…別の意味での覚悟を促すため。
で、あると同時に、帰天の前に願った通りに、この危機を納め、己の選んだ役割をも、正しく意を汲み黙認してくれた者達への、揺るがぬ信の証でもあった]