朱翼、天へと帰る刻

 ──ふわり揺らめく、朱の焔。
 ──朱染めし黒は、鎮まりて。
 ──夏の陽射は、天を目指す。

 ──それは転じて、黒の目覚め。
 ──地を駆け迫る、災禍の兆しは……。

「……行かせるかっ!」

 鋭き宣と、大太刀の刃が大気を断つ。
 横薙ぎに振るわれた一閃は、飛び込んできた一つ目の獣を数匹、まとめて斬り払った。断たれた獣は、朱の焔に包まれ焼け落ちていく。火の粉が舞い散る中、カスパルは大太刀を両手で下段に構えつつ、呼吸を整えた。

 南方守護者の統治領で、最も清冽な焔の気の集う場所。
 かつての大過にて翼に呪詛を受けし四神が一、朱雀神が領域たる火山の周囲に妖のものが多く集まっている、と。その報せを受け取った当代守護者の行動は、早かった。

「朱雀神の目覚めはそう、遠くない。
 ……我らの主たる朱翼の目覚め、妨げさせるわけにはいかんだろ」

 如何に対するかの協議を開くまでもなくそう宣したカスパルは、戦支度を整えてすぐ、朱雀神の領域へと飛んだ。
 天上宮や他の四神・四瑞への連絡と、領内各所における妖魔対応の指揮は側近に任せてきた。従兄弟に当たる側近は例によってというか非常に文句を言いたそうな顔をしていたが、朱雀神の眷属にとっては永年の悲願とも言うべき朱翼の目覚めを穢す事も、まして妨げられる事も是とはできぬから、と今は何も言わぬを選んでいた。
 言った所でどうにもならない、止められない、とわかっていたから、というのも少なからずあるのだろうが。
 朱雀のいとし子──そう、称される当代守護者。
 歴代の守護者の中でも特に強い朱雀神の寵を受けている彼にとって、朱雀神復活は単なる主神復活に止まらない。

「……『約束』、だからな。朱雀様との」

 総数不定の妖魔が迫る領域へと赴く、と宣した後、こう言って笑った表情の無邪気さと、瞳の真摯さ。
 付き合いの長い側近には、そこに込められたものがどれほど強いかわかる。わかってしまうからこそ眉を寄せたりもした。
 そして当のカスパルも、側近が眉を寄せた心境と、そこにある思いはわかっていた。感情だけで動くを是とされぬ自身の立場も理解はしている。しているが。

「邪魔をされるわけには、いかないんでな」

 呼吸整えた後、一歩、前へと踏み出す。焔思わす朱の翼の周りで、色鮮やかな火気が舞った。
 火気の舞、それに応ずるように目の前に集う妖魔たちがざわめく。

「朱红的火焰猛烈燃烧。
(朱の火炎、燃え盛れ。)

 低く紡がれる呪の言霊。それに応じて、舞い散る火気は大太刀へと集い、焔と転じた。

「沿着我们的意,烧光作为我们的敌人的者们!
(我が意に沿い、我が敵たる者達を焼き尽くせ!)

 次いで紡がれる言霊、それと同時に、地を蹴る。朱の翼が大気を打ち、紅と黒の戦装束に包まれた身体が空へと舞った。中空へ舞い上がったカスパルは上昇の勢いを空中前転で止め、焔を纏った大太刀を大上段の構えから振り下ろす。

「做朱紅的火炎華,混亂!
(朱の焔華、繚乱せよ!)

 振り下ろされた刃から散るのは、言霊の通りの朱色の焔華。その花弁が散るのを追うように妖魔の群れへと飛び込み、膝を突いた姿勢で大太刀を大きく横に振るった。
 身の丈とほぼ同じ長さの刃は、大きく振るう事で多数の敵を捉える。大振りの消耗は確かにあるが、一対他の状況において、一刀の捉える範囲の広さは強みだ。
 右から左へ振り切った後、刃を返し。右上へと振り抜きつつ、翼を羽ばたかせて舞い上がる。
 前方から飛び掛ってきた妖魔を切り払いつつの、包囲からの離脱。角を持つ妖魔たちが標的を捉え損ねて相打つを見下ろしつつ、カスパルは一つ、息を吐いた。

「ったく……一体、どこからこれだけの数がっ……!」

 強き陽の気を持ち、その均衡を保つ役割を帯びる朱雀神。
 均衡の崩れを望む輩の中にはその復活を良しとせぬものがいるのは知っていた。とりわけ、朱雀神が眠るに至った元凶とも言うべきもの──『四凶』がその復活を阻もうと、自らの影響下にある妖魔を送り込んで来る事は多々あったが。
 今回は、桁が違う──いつもよりも、数が多い、と。そんな気がして、ならなかった。

「……まさかとは思うが……」

 過ぎるのは、一抹の不安。
 朱雀神が力を取り戻すまでにかかった年月は決して少なくはない。
 即ち、かつて朱雀神と相討つ形で力を失ったもの──朱雀神に、そして、その眷属にとっては『宿敵』とも称せる『四凶』の一、檮杌が力を取り戻す事も可能なだけの時が流れている。

「…………」

 しばし、思案をめぐらせた後、カスパルは浮かんだその思考を追いやった。
 可能性としてあり得るとしても、今は考えまい、と。もしそうだとしても、やる事は一つだけなのだから、と。
 そう考える事で一端の割り切りをつけ、今は目の前に集中する。
 迫る妖魔の数は衰える様子もない。これは長期戦か、と思いながら息を吐くと、鼓舞するかのように腰の飾り帯に括りつけた鈴が鳴った。

「……大丈夫ですよ、朱雀様」

 その音色から感じる意思──自身を案じる思いに、小さく呟く。

「何が来ようと起ころうと、俺のなすべきは一つ。
 ……貴方の翼が天に帰る刻……邪魔は、させません」

 次いで紡がれるのは、凛と揺るぎない、宣。猛々しくも己を失う事なき瞳が妖魔の群れを見据え、翼を火気が取り巻く──それと、同時に。

 ゥオオオオオーーーーーーーーーーーーン…………

 どこか、禍々しいものを感じさせる咆哮が、大気を震わせ響き渡った。

6 thoughts on “朱翼、天へと帰る刻

  1. 「……っ!?」

     その場のみならず、天上全域に届こうか、という咆哮。その響きに呼応するように、銀の鈴がしゃらしゃらと忙しなく、鳴る。
     未だ距離あるはずなのに、はっきりと感じる波動。哂うようなその感触に、自然、表情が引き締まった。

    「……今の、声、はっ……!」

     掠れた声で呟く。それと直接見えた事はない。しかし、引き継いだ記憶に、その声と感触は確りと残っている。
     南方守護する朱雀が眷属にとっては、宿敵とも言うべきもの。
     『四凶』が一、檮杌──平穏乱れるを常に望むものの気配。
     永く感じられなかったそれが届く意味は何か。それは、問うまでもなく明らかな事で。
     それが、容認できない事であるのは──自明の理。

    「朱红的火焰猛烈燃烧……」

     再度紡がれる、呪の言霊。応じて高まる、焔の気。
     妖魔の群れがざわめき、その一部が後ろを振り返ったのは、それとほぼ同時。
     飾り帯の銀の鈴が、しゃん、と一際強く鳴る──直後、地を駆けてきたそれが、跳んだ。

    「……っ!」

     とっさ、下段に構えていた大太刀を右斜め上へと振り切る。一閃は突きかかってきた長い牙とぶつかりあい、ガキン、と甲高い音を響かせる。振り上げた大太刀が作る慣性のままに上昇し、くるり、と一回転しつつ下を見たカスパルは、そこに異形の獣の姿を認めてきつく眉を寄せた。
     虎に似た体躯に、人の頭。長い尾と、猪の如き鋭い牙。
     かつての大過において朱雀・蒼龍の二神と相対し、朱雀神の剣に倒れるも冥く深き怨念を持ってその翼に絶望の呪を刻んだもの──『四凶』が一、檮杌の姿がそこにあった。

    「……何としても、朱雀様の復活は阻止しよう、というつもりか……だが!」

     見上げてくる血色の瞳を見返しつつ、カスパルは大太刀を握り直して呼吸を整えた。
     対する檮杌の表情に見え隠れするのは、嘲り。神ならぬ代理の身で、何が出来るのか、と。そう言わんばかりに歪んだ口元に、守護者の中で何かがキレた。

    「……舐めるなっ!」

     微か、苛立ちを込めて吐き捨てつつ、焔の翼で大気を打つ。加速をつけた、上空からの急降下。
     檮杌は口元を笑みで歪めたまま、後ろへと跳びずさる。もっとも、避けられるのは想定の内だった。
     翼動かし急制動をかけ、とん、と軽く、それまで檮杌がいた場所に着地したカスパルは、横へ流していた大太刀を大きく、薙ぎ払うように横から正面へと振るった後、そのまま強く翼を羽ばたかせた。上空にいる時と全く同じ力のかけ方は、前へと進む力を作り、前方へと身体を押し出す。そして、大太刀の切っ先は真っ直ぐ、檮杌へと向いていた。
     引くか進むか──そう、惑うように檮杌の動きが刹那、止まる。その隙は、そのまま攻撃の機となった。

    「っせい!」

     気合の宣と共に繰り出された突きの一閃が檮杌の左の前脚を捉える。黒い色の血と、獣の毛が散った。堕ちた黒の血は、地面に落ちてしゅう、と音を立てる。微かに発生する瘴気めいたもの──勢い止められぬ強引な踏み込みは、それを避ける余裕を持たせず。
     うっかりと触れたそれが微か眩暈を生じさせ、離脱を遅らせた。

    「……しまっ……!」

     清冽な鈴の音が、意識を覚醒させた時には、遅い。踏み込んできた檮杌の長い牙が、左の上腕を深く裂いて、紅を散らしていた。

    「ちっ……!」

     走る痛みが、意識をより鮮明にする。一度は力なくして地に触れた切っ先を持ち上げ、右手一本で横へと振るいつつ、カスパルは再度、翼に力を入れた。焔思わせる翼が羽ばたき、大気を捉えて舞い上がる。その動きを、腕から零れた紅の滴が軌跡となって追った。

    「さすがに、これは……」

     普通の妖魔とは、違う、と。
     裂かれた傷の熱さに、低く呟きつつ。
     覇気も力も損なわれた様子のない眼差しが、見上げてくる血色を見据えた。

  2.  ──ふる、と朱の羽が震える。

     領域の奥。
     目覚めた朱翼は数度羽ばたくものの、その動きは風を起こすのみ。長く伏していた翼は、すぐには風を捉えられぬようだった。

    (……ち。のんびりしている暇など、ないというのにっ……!)

     直に見るは叶わずとも、外で起きている事は感じ取れる。取れるが故に、朱雀の内に募るのは、焦燥。それが己が在り方にそぐわぬ、とわかっていても、伝わる状況は苛立ちを助長する。

    (……無理をするな、いとし子)
    (……ヤツも長き休息を経て、力を取り戻している……いや、力を増している可能性も高い)

     羽ばたきの仕種と共に火気が散り、朱色の煌めきを周囲に散らしていく。

    (……それに……何よりも)
    (……檮杌《ソレ》は、私の獲物だ)
    (……例えお前でも、横取りは許さぬぞ?)

     どこまで本気かわからない言葉を向けながら、幾度目か、朱雀は羽ばたく。
     その仕種が捉える風は、回を重ねるにつれて確りとしたものになっていった。

    「……そう、仰られましても。
     我ら南方、朱雀神が眷属とって、彼の『四凶』は倒すべきもの。
     それに……」

     銀の鈴を介して伝わる朱雀の言葉にぼやくように返しつつ、カスパルは腕の傷を縛り上げて応急処置を施した。

    「それに……向こうは、そんな都合など意に介してはおらぬようです。
     全力を持って、当たらねばなりません」

     口に銜えた包帯の端を離しながら言いきる、その表情は不敵な笑み。
     朱雀の姿を知る者であれば即座に、「この似たもの主従」と突っ込めそうなくらい、浮かぶ笑みは朱雀のそれと似通っていた。唯一相違点を挙げるならば、艶の有無程度か。

    「さて……どうするか」

     応急処置を施している間に、眼下には下級妖魔たちが集まっている。檮杌の存在に惹かれたか、或いは檮杌自身が呼び寄せたか。いずれにしても、その数は最初の時よりも増えていた。

    「逐一斬り払うのも、埒が開かん、か……」

     それならば、と。大太刀を下段に構え、紡ぎ始めるのは、早口の呪。

    「朱红的火焰猛烈燃烧……」

     応じて高まる火気、それを宿す大太刀を、ぐるり、左周りに天へと向ける。

    「從勇猛的火炎,天下去。
    (猛々しい焔、天より下れ。)
     和燒光全部的火焰的暴雨。
    (全てを焼き尽くす、紅蓮の豪雨となり。)
     燒誣蔑地方的者們,弄幹凈!
    (地を汚す者たちを焼き、清めろ!)

     大太刀を翳しながら、続けられる呪。
     切っ先が天上を向くのと同時に呪は完成し、周囲に炎が雨の如く降り注いだ。間断なく落ちる浄炎は容赦なく妖魔たちを焼き尽くし、檮杌さえも一瞬、怯む素振りを見せた。

    「……っ!」

     それを見て取った瞬間、カスパルは迷う事無く檮杌へ向けて降下していた。構えは大太刀の切っ先を天へと向けた大上段のまま、加速の勢いを乗せて刃を振り下ろす。檮杌はとっさに飛びずさるものの、下がる距離は短い。文字通り身の丈ほどの大太刀の刃は、虎思わせる体躯の背から右前脚近くまでを捉え、再度、黒の血を散らした。

     グァウルゥっ!

     苛立ち帯びた咆哮と共に、忌々しい、と言わんばかりの光を宿した血色が向けられ──直後、檮杌は地を蹴った。

    「……んなっ!?」

     突然の動きは予想外。カスパルの反応は、僅か、遅れた。とっさに右へと身体を逸らし、直線状に立つのを避けたのは、恐らくは本能のなせる業。それで完全に避けきるには至らず、長く鋭い牙が脇腹を抉る。

    「……っ!!」

     衝撃が行き過ぎ、直後に熱を帯びた痛みが走る。翼に上手く力が伝わらないが、それでも、気力を振り絞って羽ばたく事でカスパルは檮杌との距離を強引に開けた。

    「……は……この程度で……」

     荒く息を吐きながら吐き捨てる。
     後ろに護る領域、そこに集う火気の高まりは感じている。もう少し、あと少しだけ時間を稼げれば、と思いつつ、カスパルは大太刀を握る手に力を込めなおした。

  3. 承前

     ばさり、と。
     一際大きな羽ばたきの音が、響く。

    「……だから、無茶をするなとっ……!」

     直後、空間に零れたのは、大気震わす声。
     それは、甲高い鳴き声と重なり、響く。

     飛ばねばならぬ。
     己が眷属を、掛け替えなきいとし子を、失うわけにはゆかぬ。
     その一念が、翼の力を増していた。

     ……そんな気の昂ぶりが、どこかで懐かしい、などと思われていた、などとは知る由もなく。

     強く、風を捉える翼に行ける、と。
     そう、確信した直後に──その気配は、伝わって来た。

    「……これは……七星の気?
     玄の……か?」

     伝わるそれは、覚えあるもの。
     そして、領域へと流れ込む木気と共に届いた『力』は。

    「……幾度、無茶しいに無茶しいと言わせれば気が済むのだかな、アレは」

     どこか楽しげに、そんな呟きを漏らした後。
     朱の翼が、大きく羽ばたいた。

     その一方で。

     距離を開け、大太刀を握りなおして。
     いざ、斬り込まん、と構えた時、その変化は起きた。

    「……っ!?
     あれ、は」

     神気と瘴気が絡み渦巻く天に、煌と輝く星。
     その輝きを警戒するように、今にも跳びかからんとしていた檮杌が低い唸り声を上げて動きを止める。
     生じる空白──その僅かな刹那を突くように、柔らかな風が、ふわり、舞い降り。
     その風の中から顕れた輝きと、それを介して届いた声に、カスパルは数度、瞬いた。

    「……気軽に、言ってくださる……ったく」

     口調はぼやくようだが、微かに上がる口の端が象る笑みは不敵なもの。
     己に神器を使いこなす技量があるとは思えぬが、その力を借り受ける事はできるはず。

    「とはいえ、この状況。
     ……ありがたく、使わせていただきますよ、玄武殿……!」

     長い時は必要ない。神域から伝わる火気と、しゃらり、と鳴る鈴の音がそれを教えてくれている。
     己が務めは、あと少し──朱き翼が空へと舞う瞬間まで、この禍を押し止める事だから、と。
     そう、割り切っていたから、躊躇いはなかった。

    「朱红的火焰猛烈燃烧……」

     幾度目か、紡ぐ言霊を持って、火気を高める。
     下された神器と、神域で高まる神気。そして、東の地より届いた木気。
     それらは、傷つく事で失われていた力を一時的にだが大きく高めてくれた。

    「在我,这个一击。
    (我、この一撃に。)
     自己托火炎的全部……。
    (己が焔の全てを託す……。)

     紡がれる言霊に応じるように、檮杌も低く唸って身構える。向けられる血色の瞳に返すのは、不敵な笑み。低く構えた姿勢のまま、カスパルは一つ、息を吐き。

    「……真っ向、勝負っ!」

     宣の直後、手にした大太刀を横にして思いっきり──投げた。太刀は横方向に回転しつつ、檮杌へと飛ぶ。唐突な攻撃にさすがに虚を突かれたか、檮杌の動きが止まった。
     狙っていたのは──そこに生じる、隙。
     投げた反動も利用して軽く後ろに跳んだカスパルは、素早く漆黒の剣を掴んでいた。

    「……っ……!」

     伝わる力、その大きさに僅か、表情が歪むは刹那。
     大太刀を飛び越え迫る檮杌へ向け、繰り出すのは鋭き突きの一閃と。

    「引起神火!
    (神火、招来!)

     神の焔の現臨を望む言霊、一つ。
     高まる力は焔の渦となって檮杌へと襲い掛かり、一部は背後に護る神域へと向かう。

     己が主神の目覚め──それを導く、最後の力とするために。

  4. 承前

     ──それは、神火招来の言霊が響くより、少し前の事。

    「……蒼の……か」

     領域内に届いた風。
     木気と陽気を帯びたそれは、自身には馴染み深いもの。
     戦場にて幾度となく己が舞を支えし、東の護り手の力。
     それと共に届いた言葉に──笑うように、火気が揺らめいた。

    「……わかっているさ。
     アレは、結んだ約を違えるような子ではないからな。

     ……もっとも」

     ばさり。
     朱翼が大きく、羽ばたく。

    「それ故に、不安な所もあるのだがな」

     それが己によく似た部分である、との自覚があるのかないのか。定かならぬ態度で呟いた朱雀は、く、と上を見る。

     神の焔を求める声が、届く。
     七星の力で高められた焔が、煌きとなって降り注ぐ。

     己がいとし子の祈りの込められたその焔、それを一片たりとも無為にせん、と。
     大きく広げられた朱の羽の上に、煌く焔が降り注ぎ──。

     火気が、爆ぜた。

     爆ぜた火気は、朱翼の上に残る最後の陰りを焼き尽くし、そして。
     永き時、風を捉えきれずにいた翼が大きく、大気を打ち。

     ──朱翼が、天穹へと、舞い上がった。

     朱翼の陰りを焼き払いし焔は、南方守護者が残る力の全て注ぎ込んだもの。
     術力も気力も、全て使い果たしたカスパルは、漆黒の剣を片手にその場に膝を突いていた。

    「……あれでも、まだ、動ける……っての、か、よ。
     まったく……『四凶』ってのは、どれ、だけっ……」

     力を秘めているのかと。
     口にする代わりに、距離を取って低く唸る檮杌を睨み付ける。
     突きの一撃と火炎の渦、それらは確かに檮杌を捉えたものの、焼き尽くすには至らなかった。消耗していたとはいえ、神器を介した術──決して、威力は低くはない。それを持ってしても倒せぬ事と、何より、引こうとする素振りすら見せぬ様子に、感じたのは微かな脅威。

    「さすがは、というところ、かっ……」

     己が主神が仇敵と見なすもの。その力、決して侮っていたわけではない──のだが。
     こうして実際に相対すれば、その力は否応なく感じられる。
     だからと言って、こちらも引く事は選べない。己が務めは、この、南方の地を護る事。そして、朱翼が天に帰るまで、護り続ける事。そう、念じつつ、剣握る手に力を込める。それに応ずるように、檮杌が低く身構え──跳んだ。
     跳躍した檮杌は禍々しい響きの咆哮を上げ、その声は妖魔たちを引き寄せる。

    「……ちっ!」

     舌打ち一つ、何とか残る術力を集めようとするが──遅い。なれば、と羽ばたき天へ逃れようとするものの、消耗がそれも思うように行かせず。
     跳躍した檮杌が、その様子に歪んだ笑みを浮かべるのが見えた。

    「……んのっ……!」

     このままでは、鋭き牙に刺し貫かれるのは避けられそうにない。ならば一か八か、届く前にその牙叩き折ってやろう、と剣を振るおうとした動きが、止まった。

    「……朱红的火炎勇猛,并且跳舞。
    (……朱の焔、猛々しく舞え。)

     我们的仇敌,那个身体烧光的地狱之火的舞在这里!
    (我が仇敵、その身焼き尽くす業火の舞をここに!)

     鋭い響き帯びた声が、天へと響く。
     直後、天に満ちる神気が、渦を巻いた。
     火気帯びたそれは一か所に集約し、焔の花弁となって舞い踊る。焔の花弁は呼び寄せられた妖魔に向けて舞い落ち、一部は焔の花嵐となって檮杌へと迫った。

     オオオオオオっ!

     咆哮が響き、檮杌は焔から逃れるように身を捩って離れた所に着地する。低く身構えて唸るその様子からは、先ほどまでの余裕は失せていた。血色の瞳は憎々しげな光を宿して、天を──天に広がる、鮮やかな朱色を睨み付けていた。

    「……随分と、好き勝手にやってくれたようだな……檮杌よ」

     睨む血色を見返すのは、鮮やかなる朱。
     長く伸ばされた髪と、紅の衣の裾が、風に揺れて翻った。

    「私の領域をここまで荒らし、かつ、我がいとし子をここまで傷つけたからには……相応、覚悟はできているのだろうな?
     もっとも……」

     ふわり、風に散るのは陽気を帯びた焔の気。
     夏の太陽をその象徴とするもの──朱雀の神焔。

    「覚悟があろうがなかろうが。
     ……いつぞやの借りは、返させてもらうが、な」

     上がる口の端に浮かぶのは艶めく笑み。
     色鮮やかなる朱翼が大気を打ち──ふわり、とカスパルの前に舞い降りた。

    「……朱雀……様?」
    「まったく、無理をする」

     戸惑いながら名を呼ぶカスパルを振り返った朱雀の表情を、一瞬だけ苦笑が過った。しかし、その笑みはすぐに消え失せ、朱雀はす、とカスパルに手を差し伸べる。

    「……その剣を、こちらに。お前は、下がれ。
     先にも言ったとおり、檮杌《コレ》は、私の獲物だ。
     如何にいとし子たるお前でも、横取りは赦さぬよ?」

     口調こそからかうようなそれだが、朱の瞳に宿る光は鋭い。その鋭さにカスパルは一つ、息を吐き、手にした漆黒の剣を主たる神へと差し出した。

    「……俺としても、横取りなどという真似は不本意ですので。
     お言葉通り、下がらせていただきます」

     こちらも口調は冗談めかしているが、瞳にあるのは強い信の色。その色に、朱雀は満足げな笑みを浮かべつつ剣を受け取り、そして。

    「……借りるぞ、玄の」

     場所を隔てていても感じる水気の主──対極たるものへ一声、投げて。
     朱の瞳を睨み付ける血色へと合わせた朱雀は、薄く、笑んだ。

  5.  南天に煌く星が、その輝きを増す。
     それを齎したもの──遠き地で高まる金気は、主従双方に覚えのあるものだった。

    「……霊亀公……か」

     高まる輝きに天を仰いだカスパルが、僅かに目を細めて呟いた。
     天に煌く星が放つ白銀の輝きは妖の瘴気を飲み込み、朱の神焔に更なる光輝を与える。
     その天煌は領内各所で妖魔討伐に当たる朱雀の眷属たちの士気を、そして、刃の力を高めてゆく。
     白銀帯びし朱の神焔は鮮やかに。それ纏うものを艶やかに飾り立て。
     高まる火気に応じて高まる水気──だが、それは過剰なる干渉に至る前に、穏やかに鎮められ。

    「……応龍……? この気……ああ」

     緩やかに気脈均す者の気は、朱雀自身は初めて触れるもの。だが、それが新たなる応龍となる者のそれであると気づくまでに要した時間は短かった。

    「……いとし子の言っていた次代……か」

     小さく呟く。
     応龍自身の気は遠く──記憶に残る、彼の地にいるのは感じ取れた。けれど、それに対する言葉はない。己が務めを全うせんとしているのだ、と。そう思えば言葉尽くす必要はなく──何より。
     今、己がなすべきは、目の前の宿敵を討つ事と。
     そう、思い定めし焔はそちらへと向かう。

    「余り時間をかけては、玄のに無駄な借りが増えるからな」

     手にした漆黒を通じて感じる神気の高まりに、く、と一つ笑みを零しつつ。
     天へ向けて掲げた剣に、己が焔を纏わせる。

    「世界裝滿的很多的力。
    (天地に満ちる、数多の力。)
     到我們的許有集,變成火炎。
    (我が許へ集いて、焔となれ。)

     歌うように紡がれる言霊は力を導き、焔を織りなす。
     陰陽五行、あまねく力を帯びし神焔は鮮やかに。
     対なす水気の高まりに応ずるように、朱く、艶やかに燃え盛る。
     その艶やかな朱に照らし出されつつ、しかし、檮杌も引く様子は見せない。
     引くを知らぬを本質と成す四凶は低く唸りつつ、血色の瞳を朱へと向け──。

     二つのあかが、交差する。

     刹那、静寂が舞い落ち、そして。

    「從稱為清冽的火炎的潮流,天下來,討伐我們的敵人!
    (清冽なる焔の流れ、天より降り、我が敵を討て!)
     グオオオオオオオオオっ!

     交差する咆哮が、その静寂を打ち破った。
     地に低く伏していた檮杌が跳び、同時、朱雀は掲げた剣を振り下ろす。
     剣に宿りし焔は天へと駆け上がり、そこに満ちる神気を取り込み輝きを増して、檮杌へと流れ落ちる水さながらに降り注いだ。
     同時、朱の翼が大気を打ち、朱雀は空へと舞う。焔流が跳躍した檮杌を捉えるその刹那、躊躇う事無く手にした剣を繰り出し、そして。

    「……掉下来!
    (堕ちろ!)

     遠きいつかも向けた言霊と共に、檮杌を貫いた。
     剣の軌跡、それを覆うように焔流が降り注ぎ、空で交差した二者を包み込む。

     空に、朱が、爆ぜた。

  6.  爆ぜた朱は、白銀の煌き散らして天を飾る。
     ゆるり、渦を巻くのは神気と瘴気。
     二つは互いを喰らい合うが如くに絡み合い──やがて、朱の神気が血色の瘴気を飲み込んだ。

    「…………ん?」

     地上で交差を見守るカスパルの耳に、音色がひとつ、届く。
     澄んだ鈴の音。幼い頃から幾度となく聴いた、朱雀神の、声。
     その音色と、空の変化と。二つの要素から導き出される結論に、カスパルは一つ息を吐いて、笑んだ。
     瘴気を飲み込み、渦を巻いた神気は一か所に集約し、そこにある者の内へと消える。
     漆黒を手に浮かぶのは、朱の翼。牙持つ妖の姿は、そこにはない。

    「……いつぞの借り。確かに返したぞ……檮杌」

     焔流と、七星の一閃に漆黒の閃光と化した宿敵の名を小さく紡いだ朱雀は緩く息を吐いた後、ふわり、とカスパルの傍ら舞い降りた。

    「……朱雀様」
    「話は後だ、残敵を掃討する」

     名を呼ぶカスパルにさらりとこう言うと、朱雀は火気を集めた手で眷属の頬に軽く、触れた。陰陽五行、あまねく力を帯びた神気は力となって守護者の内へと染み透る。
     焔の癒しを与えた朱雀はその手を今度は天へと向けた。その手に煌く神焔が集い、それは、一振りの剣──先ほど、全力で放り投げられていた朱雀の宝剣を象った。

    「焔翼は、お前に預けおく。
     ……私は、直接突き返すまで、コレを預かっておかねばならんからな」

     宝剣をカスパルに渡し、漆黒を示して微笑む朱雀の表情は楽し気だった。その、『直接突き返す』時を楽しみにしていると言わんばかりの笑みにつられるようにカスパルも笑みを零す。

    「……了解いたしました。
     それでは」
    「ああ……」

     短いやり取りの後、南方の護り手たちの視線は周囲を遠巻きにする妖魔たちへと向く。

    「カタをつけたら、そのまま天帝の御前に参る。
     ……遅れるな、いとし子」

     振り返る事なく告げた朱雀は、朱翼羽ばたかせて天へと向かう。

    「……御意のままに、我が主」

     それに短く返しつつ、立ち上がったカスパルは手にした宝剣を一度振り、使い慣れた大太刀へと形を変えた。す、と細められた瞳が、周囲を取り巻く妖魔へと向く。

    「……これ以上、無様な所はお見せできんからな……手は、一切抜かんぜ……?」

     不敵な笑みと共に言い放ち、大太刀を構える。今までとはどこか違う気迫に、妖魔たちは僅かに怯む素振りと共に低く唸った。

    「……在世界,做,聽所有者,我們的眷屬達,但是好。
    (天地に在りし全ての者よ、我が眷属たちよ、聞くがいい。)
     我,回來再次來了天。
    (我、再び天へと帰り来た。)

     朱紅色火炎的保持沒有斷絶的。
    (朱焔の護りは絶える事ない。)
     在陽的保護下,無害怕的而進!
    (陽の加護の下、恐れる事無く進め!)

     その唸りをかき消すように天へと舞った朱雀の宣が、響く。
     己が復活を天に、そして、眷属たちへと知らしめる宣が消えた後。

    「……さて。
     目覚めの運動と行くか!」

     浮かぶのは楽しげな、艶やかな笑み。
     ふわり、周囲を舞うのは馴染み深き陽の風。
     その感触にまた笑みを深めて。
     解き放たれし朱翼は思うがままに、天翔ける。

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