承前
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その報せが北の地に届けられた時、既に玄武神は戦支度を終えていた。
「委細承知」
緊迫した状況を伝える朱雀の守護者の使者に、只ひとことで応じた漆黒の瞳は、静謐そのものであり、僅かの揺るぎもない。
朱雀のいとし子たる当代守護者が、文字通り烈火の如き勢いで妖魔を打ち祓っていることは使者に伝えられるまでもなく、そして、使者の未だ知らぬ事実…『四凶』の一たる檮杌の放つ並外れた瘴気の気配をも、既に感じ取っていたにもかかわらず…否、それ故にこそ。
「ローズマリー」
漆黒の戦装束に身を包んだ男は、傍らに控える妻の名を静かに呼び。
「では、行ってくる」
振り向き浮かべた笑みは、些かの不安も感じさせぬ強き力と自信に満ちていた。
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三千年の昔…
友であり同胞であった応龍の命の瀬戸際に、男は間に合わなかった。
千年前…
遠き対なる朱雀の受けた傷を、男は防ぐ事が出来なかった。
神なる身は決して悔いのみに心を捕われぬと誓った故に、痛みは胸に沈ませたまま、氷の意志に封じ込めてきた。
だが…
「三度は許さぬ」
水脈を辿り、千年の間、決して近付こうとしなかった南の領域に向かいながら、低く呟く声に込められた決意の強さは、或いは神域の水脈全てを震わせたか。
やがて、水脈を通じても感じられる強い火気に、漆黒の男は地上へと姿を現した。
「カスパルめ…確かに無茶をしているようだな」
『無茶をしている』と、使者が告げたわけではない。だが、そうであろう事は、伝えられ方そのものから容易く予測がついている。
それは、朱雀のいとし子と呼ばれる彼の守護者であれば、当然と言えば当然の仕儀ではあるのだが。
「…己が身も、アレにとっては大切、と覚えていれば良いが」
呟きが苦笑めくのも、朱雀神の性質を良く知る者の一人としては、これまた当然のこと。
その思いを裏付けるかのように、未だ遠く離れているにもかかわらず、南の聖域からは、焦れに焦れ、今にも暴れだしそうな烈火の気が伝わってくる。
その物騒な気配を、懐かしいと感じてしまったことは、とりあえず置いておくことにして。
『七星招来…』
呪言と共に、浄化の火気と妖魔の放つ瘴気が渦巻く南の空に、有り得ぬ北斗の七つ星が輝く。
『破軍降臨…』
北斗七星のうちその星を背に戦すれば、必ず勝利を得るという破軍の星、その星の光が、南へと飛ぶ。
玄武神自身は、これより先には向かえない。相克の気は、カスパルの力にも、朱雀の復活にも邪魔にしかならぬ筈だから。その代わりに、勝利を約する星の力を送り、そしてもうひとつ。
「…蒼龍、頼むぞ」
燃え上がる火気を励ますように、木気を纏う風が南へと向かうのを捉え、その風に向けて、瞬時の躊躇いも無く、男は手にした漆黒を投じた。
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神剣七星剣…天帝より遣わされた玄武神の神器は、玄武神の魂と一体でありながら、その性質は七星全ての神気を帯びて、玄武の水気には偏らぬ。
故に…
送られた風が、檮杌と相対峙するカスパルの元へと届いた時、同時に風の中から黒き稲妻の如き輝きが顕われて、朱雀の守護者のすぐ背後へと、突き刺さる。
煌と天に輝く破軍星の下、漆黒の剣を通して、低く静かな声が届く。
『使え…』
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武具としても、呪具としても、その神力の全てを引き出す神器である七星剣を南の地へと送り、無手となった玄武神の元へは、妖魔の群れが、そうと気付いて押し寄せ始めていた。
「……」
だが、それを迎える男の表情には焦りも不安の色も、やはり欠片も浮かんでいない。
その耳には、優しき歌姫の歌が届き、新しき友たる黒龍の気配も近く感じる。
そして、漆黒の武神は、真に無手ではなかったのだ。
『隠元顕現…』
隙を伺い、飛びかかってきた妖魔を一刀両断にしたのは、これまで玄武神が手にした事の無い、赤銅色の剣。
北斗七星の弼星「隠元星」の名を持つ第二の神器…七星剣が、玄武神の手元を離れた時のみ顕われるその剣は、北斗に属する星のうち、唯一『火気』を宿すもの。
「逃げるなら、今のうちだぞ?」
遠き対の朱の輝きを思わせる剣を突きつけ、常の玄武神の浮かべるは稀な、鮮やかな覇気を纏った笑みが妖魔の群れに向けられる。
聖域より朱翼の飛び立つ、その瞬間まで、一歩たりとも引く気は無かった。
七星剣は、神器であると同時に、玄武神の神気そのもの、或いは魂魄そのものでもある。
それ故に、朱雀の守護者が、まさに全霊を込めた神火招来の言霊を放った瞬間には、男は高まる焔の力を直に感じることとなった。
「…似た者主従にも程がある」
男が感じ取った火気をそのまま受け取る形で緋の輝きを強めた隠元の剣を縦横に揮いながら、漆黒の男が思わず零した呟きはしかし、声音に笑みを含んでいた。
術力も気力もおよそ使い果たしたであろうカスパルの身を案じる気持ちは確かにあるが、そこに焦燥は無い。
いとし子の招来した焔を、更に東よりの風と七星の気を受けて、朱翼が尚、聖域の奥に留まっていられる筈がない、と、対極たる漆黒は知っていたから。
その確信は、時を置かずして、現実となった。
破軍の星懸かる南の空が、燃え盛る太陽そのものの煌めきを迎えて、眩しく深く晴れ渡り、その色を変えるを、玄武神の心は確かに捉える。
人の目には 如何に見えるかを神たる身は知らぬ。
だが、妖魔共にとって、それは確かに破滅の予兆と見えたろう。
グオオーー!
南の聖域から響き渡った檮杌の咆哮に呼応するように、妖魔の群れもまた、どよめき、唸り、吠えたてる。
けれどその声は、怒りの内に恐怖を押し込め、滅びの予感を振り払おうとする本能によるもの。
それに、追い打ちをかけるように、清冽なる白銀の力の加護が、遍く地に広がるのを、男は感じた。
「霊亀か…」
遠く場所を隔てようとも、水脈が鉱脈に沿う如く、その意志と力は玄武神の身に伝わる。
そして、伝わった先が、もうひとつ。
北斗七星を剣と為す時、破軍の星は、その鋭き切っ先となる。
その星の性は「金」
瘴気の渦を焼き尽くす焔に強き刃の力を与えんと、陽光輝く南天に、北の星は白銀の輝きを増し、天に渦巻く瘴気さえその光に呑み込むかのよう。
離れて背にする南の聖域で、全ての力を受け取った火気が一際高まれば、漆黒の男の本質を為す水気もまた高まる。
陽と陰、火と水、夏と冬…相克を成すモノでありながら、対極として在る事は、正に互いを不可欠として在るということだった。
やがて呼応し膨れ上がる神気を、均し正す鎮撫の舞を次代の応龍たる黒龍の化身が舞う姿を、男は目にする。
華麗でありながら、凛とした強さを秘めたその舞は、かつての友を思い出させ、そしてその魂と力が、既に応龍として相応しくある事を見て取れば、遠く封印の地にて、最後の勤めを果たそうとしている白き黒龍に思いは向かった。
一つを得て一つをまた喪うのかもしれぬ、との、寂寥はあれど、永きに渡って命を削り続けた応龍には、この時こそ祈願の成就する瞬間であろうかと思えば、悲しみを抱くは不遜。
『…神流劫火 陰陽和合…』
今や、陽光と変わらぬ輝きを帯びた隠元の刃に、玄武神の身そのものより溢れた水気が渦を巻いて絡み付き、忽ちに白く熱い蒸気の渦と変わる。地上で放てば、全てを巻き込む浄爆ともなる火気を内に宿した水気は、鎮撫の舞の力により、爆散する事無く力を溜めて、
『応…』
朱雀の手に、漆黒の半身が渡ったは、まさにその時か
『浄神焔舞…!』
斬、と、袈裟懸けに妖魔を切り倒すと同時に放たれた言霊は、赤き刃の纏った白い嵐を、その切っ先より解き放つ。
燃える竜巻の如き神気の渦に触れた妖魔の群れの大半が、その剣風に切り裂かれると同時に浄化され、跡形も無く消滅していった。