星天小話

 妻子がいる、とは、聞いていた。聞いてはいた、が…

「それがまさか、朱の舞姫殿とは、な…」

 星天の下、地平を見渡す物見の櫓の上、遠く閃く炎の輝きを捉えて、男は目を細め、呟きを落とす。

 天にて玄武神と呼ばれる男の、今の身分は、辺境の国の一将軍。果ての地に封じられた妖魔が封を解き暴れ出す兆しに兵を連れて出陣したのが数ヶ月前のこと。
 心許ない兵力を補強しようと、近隣から募った義勇兵の中に、異彩を放つ術師が一人まぎれていた。
 飄々として柔らかい人柄物腰とは裏腹に、地上人としては最上の部類に入る術の冴えを持つその術師は、頼もしい援軍であり、傭兵の立場であるにも関わらず、いつしか一軍の参謀にも近い位置に在るようになっている。

「いっそ昇仙してはどうだ?」 

 術師の、あまりに浮世離れした有様に、冗談混じりに勧めてみれば、妻子がある故、それは無理だと、真面目に返され驚いた。
 ならば生き別れにでもなっているのか?と案じたが「共に在る」のではなく「共に生きる」を選んだのだと笑って告げられ、返す言葉を失ったのも、つい先日のことだ。

「さすがは…と言うべきか…ん?」

 ひとりごちた男の視界の端を小さな影が横切る。
 いつの間に梯子を上ってきたものか、まるで素早い小動物のように身軽な動きで、物見台の柵までよじ上り屋根へと続く柱に、とりつこうとするのは、舞姫の連れて来た幼子の姿。

「おい…!」

 男の声を聞くと、一瞬びくりと動きを止め、怯えた目を向けてくる。
 地上においても漆黒の、男の姿に恐れを抱いたか、或いは相克の理を幼いながらに感じ取ったか、初対面の時から変わらぬその様子は、地味に男を落ち込ませていたのだが…今はそれに気をとられている場合ではない。
 子の両親は、今、舞姫曰くの「泊まり賃代わり」に、夜陰に紛れ主たる妖魔に力の源となる人の血肉を運ぼうとする小怪を片付けに、夫婦揃って出かけている。
 初めての地上と、父との邂逅に、はしゃぎ疲れた子供は、日暮れには眠りについていたし、陽の気好む火の性を思えば、まさかこの真夜中に起き出て来ようとは想像もしなかった。
 元より、並ならぬ子供、或いは小怪と戦う両親の気配を感じてのことかもしれぬ、と、思い付いた時には遅く、戻るよりは逃げ出すを選んだか、幼子は、そのまま必死の様相で屋根へと昇っていく。

「待て!」

 伸ばした腕は、すんでの所で子には届かず、その姿は櫓の屋根の上に消える。
遠征先の乏しい材をかき集めて建てた櫓は急ごしらえのうえ、屋根の部分は人の身を支えるとは想定外で、作りも脆い。
 男の重い身体で後を追うは更に危険、打つ手を考えあぐねて焦りと共に屋根を見上げたその耳に

…リィ―…ン

 呼ぶような鈴の音が届く、と、同時、バキ、という何かが折れるような音、「きゃう!」という子供の悲鳴が続く。

「カスパルッ!」

 考えるよりも先に身体は動いていた。屋根から滑り落ちた子供の小さな身体を物見台を蹴って抱き止めれば、そのまま諸共に櫓から落下することになる。

「…っ!」

 子供の身体が上になるよう身を捻りながら、男は片手で腰の剣を抜き、地上に向けて真っ直ぐに投じた。

『水霊!』

 呪に応じ、過たず地中の水脈を七星剣は貫き、水は昇竜のごとき勢いもって、落下する男と子供の身を宙に支える柱となる。
 元より、水気司る神たる身、男は危なげなく、噴出する水の柱の上に身を起こし…腕の中に抱いた子供の様子を見て…思わず瞠目した。

 子供は、落下の恐怖に縮こまるでも、いきなりの水柱に驚くでもなく、ただ一心に、精一杯に腕を伸ばし、空を見上げている。焦がれるように、懐かしむように、小さな手は風を掴まんと一杯に指を広げ、瞳はただ天のみを見つめ…

『……昇泉!』

 男の命に応じて水柱は一際高く吹き上がり、物見の櫓よりも更に上へと二人の身体を押し上げる。
 けれど所詮は重力に逆らいきれぬ水の力、天に…翼傷つけし朱雀の恋い慕う高き蒼天には、届きはしない…それでも、少しでも高く、と、男は子供の身体を星空に向かって持ち上げた。
 朱の羽根抱く飾り帯が星空にたなびき、鈴の音が、星の海を渡るさざ波のように鳴り響く。

『总有一天一定,你返回天空…』

 …祈りのように、或いは誓約のように、小さく低く紡がれた言の葉は、子供の耳には届いたか…?

 やがて世の明ける頃、宿営地へと戻った朱の舞姫とその夫は、朱雀の申し子が漆黒に抱かれ、炎の翼の如き暁の光に包まれて眠るを見…さて、どのような会話が交わされたか?
 ともあれ、子供が漆黒の男を恐れぬようになったのは、その夜明けより後の事なのだけは確かだった。