朱翼、天より堕つる刻

「……まったく。
 一体、どちらがどちらを呼んだのだか、なっ!」

 ばさり、と大きく翼を羽ばたかせつつ、吐き捨てる。その問いに答える意図があったのかどうかはわからないが、眼下の奇妙な獣は一声、吼えた。
 虎に似た体躯に、人の頭。長い尾と、猪の如き鋭い牙が特徴のそれ──『四凶』と称されるものの一、檮杌トウコツ。平穏乱れるを常に望むもの。
 平穏が保たれる事で織り成される陽の均衡を何よりも慈しむ朱雀にとっては、何をどうあっても相容れる余地のない存在とすら言える。
 天地開闢以降、彼の者たちと幾度やりあったかは数えていない。それでも、厳重に封を施し、或いは領域を定め抑えたはずの『四凶』が動き出したとあれば、行かぬ理由は朱雀にはなく。
 その行き着いた先がある意味では天敵とも言える檮杌だったのは、互いに互いを寄せ合ったが故の事か。
 もっとも、そんな理屈自体はどうでもいい、と言えるのだが。

「……朱雀」

 いつになく険しい瞳を地上へ向ける背に、名を呼ぶ声が一つ、ぶつかる。

「案ずるな、蒼の。
 ……アレが相手だからこそ、冷静さは失していないつもりだ」

 振り返る事無く応ずる口元に、常の戦場で見せる艶やかな笑みはない。それが何を意味するかは、戦場を共にする機会の多い蒼龍には容易に知れるか。
 何としても、相手を滅する、という、意思。破壊を持って輪転を促す朱雀が、輪転すら赦さぬ覚悟で挑む事の表れ。
 『四凶』もまた均衡の一端であり、その根絶は叶わぬ──と、どこかで理解はすれども、その所業を受け入れる事は朱雀にはできぬもの。
 故に──。

「……時間は、かけられん。
 動いているのが、こいつだけのはずがないからな」

 朱の瞳は常にない鋭さを帯びて、地上の檮杌を見据える。見上げる檮杌の血の色の瞳と、視線が交わった。それが、動き出す合図。

「蒼の、援護を頼む!」

 叫びと翼が大気打つはどちらが先か。答え待たずに降下する周囲を、ふわりと柔らかな風が取り巻く。
 先に進む花弁が檮杌の視界を遮り、生じさせた隙をついて放つ一閃は、一瞬早く伸びてきた長い尾の撓りに弾かれる。その動きに逆らう事無く後ろへ向けて剣を流した後、両の手を上へと回して大上段の構えから一気に振り下ろした。

「……っ!」

 響いたのは、ガキン、という甲高い音。そして、手に伝わる衝撃。
 振り上げられた牙によって剣が止められた、と判ずるや、朱雀は翼を羽ばたかせて後ろへと下がっていた。
 それで仕舞いか、と。言わんばかりに、檮杌が吼える。嘲笑の響きを帯びたそれに対し、朱雀はは、と一つ息を吐いた。

「この程度で終わるはずがないのは。
 ……貴様の方が、知っているのではないか、檮杌?
 幾度、我らが剣の前に屈してきたか、忘れたか」

 ほんの一瞬、掠める、笑み。
 陰の気が高まれば高まっただけ、『四凶』はその力を増す。陽の気が翳れば、それはより顕著なものとなる。
 故に、陽の気を体現するもの──夏の太陽をその印となす朱雀は、諦めを口にする事はない。思考すら放棄する。屈するを決して己に赦さぬ姿勢は苛烈さに飲まれ、それを知るのはごく一部の者に限られているが。

「このまま貴様を放置しておけば。
 ……どこぞの背負い込み屋が、陰気で潰されかねんのでな。
 それは、非常に、困る」

 檮杌の所業は、人の心に不安や恐怖といった陰の気を生じさせる。それが過剰となる事で、何が生じるか。
 真っ先に思いつくのは、己が対極に立つ者──玄武への負荷。今は前線には出ず、天帝の護りについているはずだが、『四凶』が現れたとなればその負担は更に増しているだろう。
 それとわかるだけに、時間はかけられない。他の四神や四瑞の所も、『四凶』が現れたとなれば戦況は一筋縄では行かぬものとなっているはず。
 叶う限り速やかに、己が天敵を排して他の援護に回る。屈する可能性すら思考せぬ朱雀の意識にあるのは、それだけ。故に、次の行動にためらいは──ない。

「……蒼の!
 雷撃、重ねろ!」

 ばさり、と羽ばたき中空へと舞いつつ、蒼龍へと呼びかける。手にした剣には、朱色の火気が集い光の粒子を散らしていた。
 火焔を打ち出す兆しと、重ねろ、という言葉が意図するのは、術合わせ。異なる属性の術を重ねて生じさせる事で、その威力を高めるもの。周囲には、戦いの気配に寄せられた妖魔の群れも集まってきている。これらを薙ぎ払い、かつ、檮杌に打撃を与えるための案を提示すると、例によって返事を待つ事無く、朱雀は己が火気を高める事に意識を向けた。

「……朱红的火炎勇猛,并且跳舞(朱の焔、猛々しく舞え)

 静か紡ぐ呪に合わせ、焔の気が剣を中心に渦を巻く。

「我们的仇敌,那个身体烧光的地狱之火的舞在这里(我が仇敵、その身焼き尽くす業火の舞をここに)!」

 続く呪に合わせ、放たれた火気は舞い踊る焔の花弁となって戦場に降り注ぐ。それと共に蒼龍の術が閃く中、朱の翼が大気を打った。
 朱雀の意図を察したか、直撃を避けるためか──檮杌が咆哮し、跳躍する。

「……优秀(上等)!」

 口の端に微か上る、笑み。剣は横に流し、跳躍する檮杌へ向けて、朱雀も真っ向から突っ込んでゆく。
その手の剣が、周囲に舞う二つの気を集め刃に乗せているのに気づく者はあったか。剣は淡い菫の色の光を帯びて煌めき、朱雀を捉えんと繰り出される牙と真っ向から打ちあい、そして──。

 ガキン、と響く、金属音。
 次いで、バキリ、という音がそれに重なった。
 鋭い牙の一方が、宙に舞う。

「……掉下来(堕ちろ)!」

 打ち合いの衝撃で僅かに空いた距離をすさかず詰め、檮杌の口の中へとためらわずに剣を繰り出す。残った牙が身を捉えるが、突きの一撃をためらうことはなかった。
 引くを知らぬ『四凶』の一、それを止めるには、自身も引く意思などは捨て去らねばなせぬから。
 朱と、血の色が再び交差する。
 鋭さを帯びた朱に対し、血色は──哂っているようにも、見えた。

「……っ!?」

 その笑みに、不吉なものを覚えつつも剣をぎり、と回してねじ込んだ後、蹴りを交えて引き抜きながら突き放す。
 地へと堕ちていく檮杌の身体が黒い光に包まれ──声無き咆哮が、響いた。
 声無き咆哮は、先の術で薙ぎ払われた妖魔たちの怨嗟を拾い集め、呪詛へと変ずる。檮杌の身体が地に堕ちるのと同時、黒く禍々しい光の矢が生み出された。

「……しまっ……!」

 それがどこへ向いているのか、覚るのは早かった。この場にいる四神二人──ではなく、更にその向こう。
 天上宮にて、天地の均衡を司るもの──天帝。

「いかん、あれを行かせては……!」

 天帝の傍には玄武が護りとして控えている。故に、天帝の身に危険が生じる事はないだろうが、しかし。
 この戦乱が始まって以降、妖魔たちから天帝へ向けて放たれた攻撃は数知れぬ。そして、妖魔の攻勢が生じさせた陰気の量も計り知れぬ。
 その重圧の大半を集めている対極がどうなっているかは、感じ取っていたから。
 この一撃を彼が受けたらどうなるかは──想像するまでもなかった。

「……やらせるかっ!」

 当に消えたはずの檮杌の咆哮が蘇る──否、これは他の『四凶』のコエか。そんな思考は一瞬。朱の翼が大きく羽ばたき、空を駆ける矢を追った。
 諌めの声は響けど届かず、矢に先んじた朱雀は自らの翼で黒を受け止める。
 走るのは、衝撃と、痛み。そして、絶望を織り込んだ呪の浸蝕。

「……くっ……!」

 翼に力が入らない。視界が霞む。そらが、とおい──とおい?

「おちて……たまる、か……っ!」

 それでも屈するを是とせぬ意思は揺るがず、羽ばたこうとするが、呪を帯びた翼は思うように動かず。
朱は、二つの同じいろを散らしながら──堕ちた。

「……朱雀っ!」

 視界が霞み、意識も霞む。そんな中、名を呼ぶ声と注がれる木気は感じ取れた。

「……触れるな、蒼、の。
 お前にまで、呪の穢れがうつ、る」
「しかし……」
「大丈夫だ……この呪は、私が、鎮める……それより、他の妖魔どもを。
 ……『四凶』を抑えねば、被害が、広がる。戦も終わらん」

 途切れがちにここまで言って、それから。朱雀が浮かべたのは、笑み。

「……すまんが、陽の均しを、しばらく、頼む。
 私は、後ろに下がらねばならんようだから、な」

 木気を受けても塞がらぬ傷は、容易に癒えるとは思えない。しばし、己が領域まで後退する、とそう告げて、それから。

「……それと、だな。
 アレには……玄のには、余計なことは、言うな、よ?」

 いつになく、真面目な顔で告げた言葉、それへの応えを遠くに聞きつつ。
 朱雀の意識は──落ちて、途切れた。