目の前に闇が有る。
それは目に見えぬ闇…人の心と命を侵す闇だ。
少年は、12才の祝いに、と、父から送られた細身の剣に視線を落とし、習った通りに、それを構えた。
『へえ、抵抗する気か?』
『さすがは武人の御子と、褒めて差し上げるべきですかねえ、お坊ちゃん』
少年が持つよりは、長さも重さもある長剣を手にした二人の男…一人は、先日まで父の従者だった男だ…が、小馬鹿にしたように嗤う。
男達の言葉に応じるように、彼らを包む闇が、ぞわりと膨れ上がるのが判った。
この闇は、恐らく、この男達の悪意を喰って育っている。そして、やがては宿主達自身をも喰らうつもりなのだろう。
「…私を殺すのか?」
剣を構えたまま問う少年の声は、震えてもいなければ、掠れてもいない。けれど、闇に侵された男達は、それを不思議とも思わぬようで
『さあ、どうするかな?俺は金さえ貰えればいいんだが、こいつは、あんたの親父に恨みがあるようでねえ』
『いやいや、俺だって可愛い坊ちゃんを酷い目に遭わせたいなんて思っちゃいませんよ?けどねえ…きっと父上は、手紙を送っただけじゃ、俺らが本気だとは信じてくれないでしょうから』
まだ年端も行かぬ少年の持つ剣とはいえ、必死で振り回されたなら怪我もするかもしれない、と、一応の警戒はする様子で、男は、自らも剣を構えて、じり、と足を踏み出す。そうして愉し気な笑みを浮かべたまま、ぺろりと唇を舐めた。
『そう、指の一本も送って差し上げれば…いや、武人の御子が剣を握れなくなるのはお困りでしょうから、耳を削ぐことにしましょうか?』
明らかに少年を怯えさせる目的で口にされる言葉は、しかし、少年自身の耳にはほとんど意味を持って届いてはいなかった。
その漆黒の瞳が見つめているのは、刻々と膨れ上がっていく闇と、その奥に蠢き、形を成し始めている妖魔の気配。
鍛錬からの帰り道、供も少ない時を狙って攫って来られた、この山中の洞窟には、水も風も…木々のざわめきも届かない。
きり、と唇を一度噛み締め、少年は再び淡々と言葉を紡いだ。
「……耳が必要というなら、自分でやる」
『はあ?』
『…なんだと?』
さすがに闇の浸食よりも、人としての常識の方が勝ったか、男達が目を丸くして動きを止める。
「自分で斬ると言った。そこで見ていろ」
言いながら、少年は本当に手にした剣の刃を、己の耳に当てる。
『お、おい!』
『ま…!』
自分達がやるのなら平気なくせに、こちらが手間を省いてやろうというのには慌てる様子が、どこかおかしい、などと、他人事のように考えながら刃を引こうとした時、ふいに、後ろから手首を掴まれた。
「どうして、いつもそうなんですか?全く」
呆れたような声と同時に、たん、と踵踏みならす音がして、まだ事態が掴めず固まっていた男達の足下まで、びしりと地面がひび割れた。
『うわああ!』『な…ひいっ!』
次の瞬間、地下の水脈から吹き上がった水が、二人の男を纏めて洞窟の天井まで吹き飛ばし、そのまま凍りついて氷塊の中に閉じ込めた。
「逃げますよ」
「うん…」
神気帯びた水によって、男達から引き剥がされた闇は、実体を持つ妖魔と変じて瘴気を全身から吹き上げる。
土の気勝るこの場所で、相対するのは不利、と、手を引く救い主に、少年は素直に従い、共に洞窟の外へと駆け出した。
*******
妖魔が実体を得たばかりで、動きが鈍かったのも幸いして、二人は無事に脱出を果たしたが、無論、後を追う魔も諦める様子はない。
とりあえずやり過ごす為に、一端、茂みに身を隠す。
「道は判りますね?このまま家に帰りなさい。後は私が…」
「嫌だ」
今度は素直には少年は頷かなかった。
「アレは、私を狙っている。だから…」
「今の貴方では無理ですよ。私に任せなさい」
少年の言葉を遮る形で、きっぱりと言った相手を、改めて見上げた漆黒の瞳が不思議そうに瞬く。
「…貴方は、私を知っているのか?」
国軍を預かる父の元には、仕官を求める者や傭兵として売り込みに現れる武人や術師も多いが、少年は目の前の相手を見た覚えはない。
だが、最初に現れた時から、今まで、彼(だと、少年は判断していた)の態度は、どうも見知った相手に対するものに見えるのだ。
「ええ…ずっと以前にね。そのうち貴方も思い出すでしょう」
答えは仄かな笑みと共に返される。
「ですから、それまでは、身を大切にしてください」
その言葉の意を汲み取ったか、少年は困ったように眉を下げる。
その様子に、ひそりと応龍の化身たる者は苦笑した。
神たる記憶を封じている今も、玄武神の転生である少年の本質は変わらない。
「人」を護るべき神の性故に、他人に犠牲を強いる事が、耐え切れぬのだろう。
先刻、躊躇いもなく己の耳を切り落とそうとしたのも、そうすれば妖魔が少年の流す血に引き寄せられて、他を襲わずにいるだろうと本能的に察知しての事に違いなかった。
この性質のせいで、ことに神としての記憶を取り戻す寸前の時期…天の加護が、彼自身の意志に負け始める頃が危ういのだ。
命を捨てることは無くとも、本当に他人の為に、己の手足を犠牲にするくらいのことはやってのけてしまう。
「…おっと、もう気付いたか」
近づく魔の気配に、闇を見据える瞳が鋭く細められる。
「さあ、行きなさい」
促されても、まだ少年は動かずにいる。恩人を置いて逃げる事は出来ないと、じっと見上げる漆黒が訴えていた。
その頭に、ぽん、と、手を乗せ、応龍の化身は笑う。闇にも匂う花のように艶やかに。
「私を信じて。あの程度の妖魔に遅れは取りません」
一瞬、息を呑んだ少年は、暫しの逡巡の後に、こくりと頷いた。
「分かった…」
ぎゅ、と剣を握りしめ、山を下る道へと向かいかけて、少年は、もう一度だけ振り返る。
「貴方の、名を…」
*******
「ちゃんと、約束は守っただろう?」
時は巡り、少年だった男が手にするは、今や人の手に成る剣ではなく、彼の魂と一体でもある七星宿す神の剣。
「どの口が言いますか。その傷は何です?」
出逢った時と少しも変わらぬ姿の応龍の化身は、呆れた口調で、恐らく妖魔に刻まれたのであろう、男の首から肩にかけての古傷に視線を投げる。
「これは不可抗力というやつだ。別に態と傷を負ったわけでも…」
「どう見ても10年は経った傷ですね。私と別れていくらも経たないうちに、また無茶をしたんでしょう?」
「…領地を襲われて黙っているわけにもいかぬだろう?」
「聞く耳持ちません。次に会った時に、又傷跡が増えていたら、私が手ずから帰天させて差し上げますから、そのつもりで」
言いざま、飛びかかってきた獣の姿の妖魔を斬り伏せる。
「子供の頃のことだ。今はそんな無様はせん!」
背中合わせに言い返しながら、漆黒の男も七星剣を揮って、魔を屠る。
「その言葉が本当であることを祈りますよ」
肩すくめて妖魔の屍骸に浄化の印を施す相手に、剣を収めた男が、笑みを向ける。
「私を信じろ。————リアン」
言葉の代わりに返されたのは、漆黒の男の記憶にある通りの、艶やかな笑みだった。