風の声

『動くな、玄武』

 風に乗ってその「声」は届いた。
 
『この先は、私の役目。朱雀の意志、無にしたくないなら、今は耐えろ』 

 今しも、獣身に戻り、怒りの咆哮をあげんとしていた玄武神は、風の伝えるその言葉に、すんでの所で人身を保ち、七星剣の柄を強く握り締めて、遠き空を睨む。
 そして、轟く雷鳴と共に、蒼白く輝く稲光が天を裂き、地をもその輝きに染めるを見た———

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 天界を襲った妖魔の群れが平らげられ、呪詛帯びた傷に倒れた朱雀神が、南の領域にその身を隠してから季節が一巡りした頃。
 守護神が空座となった南方は、朱雀の加護受けた一族が、その神力を預かって護ると定まり、天上人達の日常も、漸く落ち着きを取り戻したを見定め、玄武神は新たなる転生を経て地上へと赴く許しを、天帝へと願い出た。

「先の妖魔の残党の幾らかは地上へと逃れ、この一年の間にも地上人を犠牲に力を蓄えている様子…今、討伐せねば、後に禍根を残しましょう」

 玄武神の言い分は尤もとは思われたが、天帝の側近の内には、北方守護神が、未だ争乱の記憶新しいこの時期に任を離れる事を案じる者も多かった。
 しかし結局、天帝自らの裁断により、その願いは許されることとなる。

 そして、転生の儀を迎えるその朝、玄武神は、東の地、蒼龍神の司る領域へと姿を現した。
 突然の訪問にも、蒼龍が驚きを見せる事はなく、転生の後の事は案ずるなと、玄武の心を先回りでもするように請け負うのも予想の内。
 常ならば、そのまま後を頼み別れる事になるのだが、この時ばかりは、玄武神の心持ちが違っていた。

「天帝に進言をしてくれたそうだな」

 それは転生の許しを得た後に、天帝自らより聞かされた事。
 先の争乱が収束して間もなく、いずれ遠からぬ内に、玄武が転生の願いを奏上するであろうこと、その時には北方守護の助けは請け負う故、必ず許しを与えて欲しい旨…

「さすがは蒼龍、眼鏡違いはせぬ、と…天帝も感服しておられた。私からも改めて礼を言う」

 真摯に言って頭を下げた玄武には、蒼龍が、その進言をした理由は判っている。
 先の争乱の折、遠き対たる朱雀の神気が空より墜ちたを感じ取った玄武神は、怒りに我を忘れるという、常ならば有り得ぬ事態に身を任せそうになった。
 陰の気は不動の気、不動の護りたるべき神気が乱れれば、そこには取り返しのつかぬ隙が生じかねない。
 それをいち早く感じ取り、浄化の風と鎮静の言の葉もって、最悪を防いだのは他ならぬ蒼龍だった。

「…私の身に集まる呪詛は、最早天界にては浄化叶わぬ。それも判っていたのだろう?」

 玄武の纏う陰気は、妖魔の呪詛を集めやすい。敢えて惹き付けた呪詛を身をもって浄化することも、その役目の一つなのだが、朱雀の陽の気が衰えた今、浄化の力は著しく減じていた。争乱の折、怒りに心呑まれかけたのも、元はと言えば、その呪詛の醸す負の力のせいでもある。
 この時を選んで地上に下るは、敢えて妖魔を調伏することによって、より多くの呪詛を集め、更には自らを一度、その呪詛ごと滅し、再生によっての浄化を果たすため。

 陰極まれば陽生ず…回りくどいやり方ではあるが、玄武神の在り様からすれば、他に選ぶ道は無い。

「出来る限り…早く戻る」

 蒼龍自身にも争乱の傷は残るはずと知っている。
 朱雀と並んで先陣を切り、最後まで誰よりも強く激しく妖魔を打ち祓ったのは彼の龍神なのだから。
 けれど、だからこそ…

「それまでのこと、よろしく頼む」

 これまでもそうしてきたように、信のみを預けて…
 
 独り、地上へと降る漆黒の影を、東より吹く薫風が包み、背を押すように吹き抜けて行った。