地上にて

 次代の応龍と定められた黒龍の化身が、地上で最後の調伏となるであろう妖魔退治の陣に現れたのはつい先日。一目で、玄武神の転生たる身が帰天近いと見定め、助勢を申し出てくれたのは、正直、文字通りの天の助けと思われた。
 最初のうちこそ術の加減や、地上人である兵との連携にとまどう様子も見せていたが、その進歩は目覚ましく、今や兵達も、その強さ、華麗とも呼べる技の冴えに心酔する者が殆どだ。

 この日も、現れた巨大な妖魔を、ラートリーの術が追いつめ、漆黒の男が七星剣をもって、止めを刺したが真夜中過ぎ…宿営地へと戻り、自分の天幕までは、無事に歩いて入ったというのに、寝床に辿りつく寸前、身を支える力が萎えて、うっかり倒れ込んだのが運の尽きだった。

『ですから、もうしばらくお休みになって下さい!』
「もう十分に、休みは取った」
『そんなに我々が信用なりませんか?』
「そうは言わん。言わないが、今、休んでいる暇は…」
『今だからこそ、お休み下さいと申し上げております。これ以上駄々を捏ねられるなら、あの方にいいつけますよ!』
「……ちょっと待て…なんだ、その脅しは?」

 人ならぬ身の聡さで気配を察し、天幕に駆け込んだラートリーと、その後を追って来た副官に消耗を知られた結果が、一夜明けての押し問答。
 結局、降参したのは漆黒の男の方だった。

「ああ、わかった。何かあるまでは大人しくしている。それでいいだろう?」
『はい、くれぐれも一人で偵察に出向かれたり、守護陣の術を補強にでかけたりなさいませんように』
「…術もダメか?」
『ダメです』

 きっぱりと、釘を刺し直してから、男の副官であり、この地においては、最も親しき友の一人でもある若者は、これ以上の問答は無用とばかりに踵を返す。

『ラートリー殿、申し訳ないが、リエヴル様の見張り、よろしくお願いします』

 そうして、退出する間際、やりとりの邪魔にならぬ位置で様子を見ていた黒龍の化身に、若者は深々と頭を下げていった。

「本当に、慕われておいでなのですね」

 若者が天幕を出て行った後、思わず、といった体で呟かれた言葉に、男は振り向き、深き笑みを浮かべる。

「いや…慕っているのは、私の方だ」

 男の言葉と笑みに、息呑むような一瞬の沈黙が降りる。

「だから、ですか?」

 そして、真っ直ぐな視線で黒龍の化身は問いかけた。

「だから、貴方は、命を…」
「ラートリー」

 男は、静かに首を振り、相手の真摯な言葉を敢えて遮る。
人としての命尽きるが早いか、妖魔の首魁を調伏せしめるが早いか、それはもう、ぎりぎりの境。いや実の所、本来なら既に命数が尽きていても、おかしくは無いのだ。

「私は、大丈夫だ。皆の気持ちも、貴方の助勢も無にするつもりは無い」

 黒龍の秀麗な面が僅かに歪む。男はその表情に気付かぬ振りをして、寝床から立ち上がった。

「ダメです、どこへ行くつもりですか?!」

 すたすたと天幕を出ようとする男の様子に、ラートリーは引き止めんと、その腕を掴む。

「……気付かぬか?」

 男は目を細め、外へと促すように顔を向けた。

「どうやら、休んでは居られぬようだ」

 その言葉の意味する通り、近づく妖魔の気配に気付き、ラートリーは掴んだ腕を離す。

「判りました。ですが…その前に傷の手当をなさってください」
「…血止めはしてある」
「血止めだけ、でしょう?ちゃんと薬を使ってください」
「しかし、そんな暇は…」

 正直、身体の傷になど構っている場合ではないと、男は思っていた。残された時間はあまりにも少なく、その身体を保つ間も僅かな時にしか過ぎぬのだから、と、
 けれど…

「皆に、心配をかけたくはないでしょう?」

 じっと、男の顔を見つめて言ったラートリーは、次の瞬間、艶やかに微笑んだ。

「きっと間に合わせますから」

 その言葉と表情に、虚を衝かれたように、漆黒の男は口をつぐみ、やがて大きく息をつく。

「ああ、そうだな」

 自分は一人ではないのだ、と、そう、改めてに知る思いに、人の身と心を持つ神は、静かに笑みを浮かべて、目を閉じた。