05

 ちりりん……という鈴の音と、不安げな鳴き声。
 それが、過去を彷徨っていた意識を現実へと引き戻した。
「……っと。ああ、大丈夫だ、ゲイル。心配するな」
 擦り寄ってくる温もりに安堵しつつ、オットーは一つ息を吐く。
「……行かなくては、な」
 低く呟いて、ゆっくりと立ち上がる。自分は、自分の成すべき事を果たすの
み、と言い聞かせつつ、オットーは整理棚の引き出しから布の包みを取り出し
た。あの時からずっと、しまい込んでいた護りの霊刀だ。
「霊視を行なえば、恐らく、余計なものが見え易くなる……ムダに騒がれそう
だが、あの手を使うか……」
 低い声で呟いて、霊刀を懐に入れる。
 その横顔にはどことなく冥い陰りを帯びた決意が浮かび、その陰りに気づい
たのか、黒猫がにぃぃ……と不安げな声を上げた。

 『声』と『姿』を意識から閉め出すために選んだ手段は、自傷。
 自らの腕を霊刀で傷つけ、痛みで感覚を紛らわせる事で『視るべきもの』に
のみ集中する。
 睡眠不足と自傷行為で心身を傷つけつつ、それでも、霊視の力を持つ者とし
ての務めは果たす事はできた。
 霊視の力を用いる事がなければ、また目を逸らしていられる。
 そんな、甘い逃避願望は、正反対の気質を持つ者には、相当に不評だったら
しかった。
 それ以前に、自傷という手段を選んだ時点でかなりの不興を買っていたのは
予測していたのだが、その度合いはこちらの予測をはるかに超えていたらしい。

「お節介じゃねーだろうが。自分の状態どんなだか、自分で一番わかってただ
ろ?」
 人狼騒動が落ち着いた数日後。宿で顔をあわせるなり、ディーターはその場
に居合わせたペーターと二人がかりでずっと放置していた傷を強引に消毒した
後、低い声でこう問いかけてきた。目が据わっている所から、本気で怒ってい
る事は読み取れる。
「……そこで逐一それを突っ込むのが、お節介だと……」
 消毒液が染みて疼く傷を押さえつつ反論を試みるものの、分が悪いのは感じ
ていた。
「まったく……貴様の世話焼きは、最早特性だな」
 反論を諦めてため息混じりにこう呟くと、ディーターは何とでも言え、と切
り返してくる。そう言われてしまうと逆に何か言う、というのもやり難く、オ
ットーは小さな声ですまなかった、と呟いた。
「……もう、しねえんだな?」
「……だから、する必要がなかろうが。霊視をしなければ、痛みに頼る必要も
ないんだからな」
 大げさなため息と共に投げかけられた問いに、オットーは静かにこう返す。
「それならいいんだが。本当にネガティブだよな、お前……」
「仕方あるまい、そういう気質だ」
「気質ですますな、気質で。挙句、自分の事には無頓着で」
 苦笑しつつの言葉にディーターはこう返し、その中の無頓着、という言葉に
オットーはややむっとする。
「大雑把の代名詞のようなお前に、無頓着と言われるとはな……」
「大雑把でもお前よりははるかに生活に期を使ってるつもりだが。まー、今よ
り若え時は、色々やったがな」
 苦笑しながら言うディーターの様子に、オットーは噂話やら何やらで聞いた
逸話を思い出してため息をついた。
「そういう無茶の反動が、後から来るんだ。多少サイクルがずれていても、一
定のペースを保つ方が、心身のバランスは取れるものだぞ?」
 ため息に続けてこう言うと、
「後から来たらそれはそれだろ。別に、今生きてるんだからな。今はまともだ、
お前よりは」
 ディーターはきっぱりとこう言いきった。その中の、『今』という部分が妙
に重たく響く。
「今、か。ほんとに……羨ましさのあまり殴り倒したくなるくらい、過去を気
にせんな、お前は」
「殴り倒すな。自分も前向きになりやがれ。ま、何があったかとかは、全然違
うだろうがな」
「……どうすれば前向きになれるのか、聞いてみたいところだがな……聞いて
も、答えなど出ないだろうし」
 何となく沈んだ気分になりつつ、オットーはぽつりとこう呟いていた。この
呟きに、ディーターは何か考えるように首を傾げて見せる。
「前向きになる方法ねえ。そりゃ、人によりけり違えだろ。まあ、俺の場合は、
いつ殺られてもしゃーねーような事したかんな」
 それから、あっけらかん、と。本当にあっけらかん、とした口調でこう言っ
てのける。その態度に呆気に取られた後、オットーは一つ息を吐いた。
「……本気で惚れた女に殺されかけたんだが、俺の場合は」
 それからこれまで誰にも明かした事のなかった過去の一端を告げると、ディ
ーターは驚いたような表情を一瞬垣間見せた。昔から女嫌いで通していたオッ
トーから、『本気で惚れた女』という言葉が出てきたのが意外だったのだろう
か。
「そんな事があったのか。で?」
「……相手は同胞……つまり、人狼と仲間割れして相討ちになり、俺は生きて
いるが」
「狼だったわけか、その彼女」
「ああ。霊視の力を潰しに来たそうだ」
 ここでオットーは一度言葉を切り、ため息をついた。
「……で、幽霊になった今でも、人に不眠を押し付けている、という訳だ」
 だから眠れんかったんだ、とまとめると、ディーターはふーん、と言いつつ
首を傾げた。
「なるほど。で?」
 それから、唐突にこう問いかけてくる。
「で、って……なんだ、いきなり」
「お前は、その彼女が仲間割れした原因って、何だと思ってるんだ?」
 突然の事に戸惑っていると、ディーターはこう言葉を続ける。とはいえ、そ
れはオットー自身がずっとわからずにいる事、それそのものだった。
「……それがわかれば、悩まんと思うぞ」
 なので、それをそのまま答えとして返す。この返事に、ディーターはおいお
い、と言いつつ眉を寄せた。
「……何となくだがな。それって彼女、お前守るためにやったんじゃねえの?
それなのにそうなってるのは、浮かばれねーなあ」
「……え?」
 示唆されたのは、それまで考えもしなかった可能性。
 それだけに困惑が大きく、オットーは思わず呆然とする。
「……俺を、守る……ため? 浮かばれんから、彷徨っている……と?」
「じゃねーの?」
「……わからん……確かめる術も……」
 確かめる術もない、と言いかけたところで、オットーはそれが矛盾している
事に気づいた。霊視の力を用いれば、霊体と対話する事も可能。つまり。
「……いや、あるのか……俺には……」
 直接確かめる術は、自分自身の中にあるという事なのだ。この呟きに、ディ
ーターはやや大げさなため息をつく。
「つーか、それならさっさと確かめろ。んで少しは前向きになりやがれ。はい、
終了」
 それから、ぱっぱと話をまとめてしまう。強引なまとめに呆れる反面、オッ
トーは妙にほっとするものを感じていた。
「……ああ。もう少し、落ち着いたら……な。話しかけてみる……あいつに」
「まあ、それがいいんじゃね?」
「……取りあえず、この傷が治ったら、な」
 疼きの治まった腕を撫でつつこう呟くと、
「傷が治ったら新しい傷を作る、ってのは却下で」
 ディーターは即座にこんな突っ込みを入れてきた。さすがにと言うか、この
一言にオットーはむっとする。
「やらんと言ってるだろうが!」
「そんだけ信頼がないってこった」
 反論にもさらりと返されるものの、原因が自分にあるのは一応わかっている。
故に、オットーは反論を諦めてまったく、とため息をつくに止めた。
「……まあ、前向きに考えるさ。わかってはいるんだ、『力』を引き継ぐ者も、
いずれは作らねばならん。どこかで……向き合わなくては、な」
 一族の血を絶やす事無く、『力』ほ引き継いでいく。それもまた、継承者で
あるオットーの大切な役目なのだ。そのためにも、どこかで過去と向き合い、
割り切りをつけなくてはならない。勿論、事が事だけに容易くはないのだが。
「お前は真面目に考えすぎるから悪ぃんだよ」
 呟くように言うと、ディーターはまた呆れたように嘆息した後、軽く頭を殴
りつけてきた。
「やかましいっ! 行き当たりばったりに言われる筋合いは、ないぞ!」
 それにこうやり返しつつ、オットーは心の中の陰りが少しずつ晴れるのを感
じていた。
 傷が癒えたら、あの場所へ行こう。
 あの日からずっと、背を向けていた場所へ。

 そして──。

 少しずつ、空気が暖かいと思えるようになってきた昼下がり。オットーは一
人、村外れの丘を訪れた。
「……変わってない……んだな」
 ぐるりと周囲を見回しつつ、低く呟く。丘の上に続く道も、静かに枝を広げ
る巨木も、あの時と変わった様子はなかった。
「……」
 一つ、深呼吸をしてから、ゆっくりと道を進んでいく。
 あの時は、震えながら登った道だが、今はとても静かな気持ちで歩みを進め
る事ができた。
 丘の上、巨木の所までたどり着いたオットーは、その根元に腰を下ろして幹
に寄りかかる。それから、傷痕の残る左腕をそっと虚空へ伸ばした。
「……イリス」
 口にする事をずっと拒んでいた名を、小さく呟く。
「声を……聞かせてくれ」
 静かな呼びかけに、大気が震えた。ぼんやりと霞んだ『姿』が、空間に揺ら
めく。困惑したようにこちらを見つめるその『姿』に向け、オットーは穏やか
に微笑んで見せた。
「散々悪態ついて拒絶した挙句、今更こんな事を言うのは、虫が良すぎるかも
知れん……だが、教えてほしい……あの時、お前が望んでいたのは、なんだっ
たのかを」
 静かな問いにイリスは泣き笑いのような表情を見せ、それから、差し伸べた
手に透き通って見える手を重ねた。
 音としての形を結ばない、静かな、静かな『想い』のやり取り。
 それが、ずっと心を陰らせていた黒いものを溶かしていく。
「……そう、か……ごめん……それから……ありがとう」
 言葉にならないいやり取りの後、オットーは静かにこう言った。その表情に、
ずっとあった陰りは、ない。
「……お互いに縛られあうのは、終わりにしよう、イリス……俺は、前を見る。
前を見て、先に進むように努める。だから……」
 だから、止まらずに、先へ。
 言葉にはせずとも、イリスはオットーの意を察したらしく、笑顔で頷いた。
 重なっていた手が、静かに、離れる。
 元から霞んでいた姿が一気に薄れ、そして──消えた。
 完全な、静寂。
 オットーはしばし、その中に沈み、それからゆっくりと立ち上がった。
「……そういや、結局言わずじまいだったな」
 それから、ふとある事に気づいて苦笑する。その表情のまま、オットーは晴
れ渡った空を、見上げた。
「俺も、愛してる……いや……愛していた。それは……間違いない」
 かすれた呟き。それに応えるように、空から何かが舞い落ちて来た。
「……雪?」
 青空から、予想外に舞い落ちて来たのは、白い雪。
 春へと移り変わる頃の淡い色合いの中、白の乱舞は言いようもなく美しく思
えた。オットーはしばし、青から零れる白に見入ったまま立ち尽くし、
「あ、いたー! ディ兄、オト兄、いたよー!」
 元気のいい声にふと我に返った。声の方を見やると、ペーターと、それから
ディーターが丘を登ってくるのが見える。その姿に、オットーはやれやれ、と
ため息をついた。
「まったく……感傷に浸る時間くらい、取らせろと言うんだ」
 苦笑めいた表情でこう呟きつつ、オットーは二人の方へと歩き出す。

 その背を押すように、風が、ふわりと吹き抜けた。


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