04

 二度と、目覚める事はない。
 意識が途切れる直前に、そう思った。
 にもかかわらず、再び目覚めは訪れた。
「……俺……生きて……る?」
 呆然と呟いて、身体を起こす。頭がぼんやりとして、身体の方も節々が痛み、
酷く気だるい。ぼやけた視界で室内を見回すが、イリスの姿はどこにもなかっ
た。
「……何故?」
 再び、疑問が口をつく。
 何故、イリスは自分を殺さなかったのか。意識を失い、無防備な自分を殺す
など造作もないはずだ。
「……」
 気を失っている間に日は落ちたらしく、部屋の中は薄暗い。だが、その暗さ
には奇妙な違和感があった。オットーはしばしその違和感の理由に思い悩み、
それから、目の前に広がる色彩に気づいた。
 白いはずのシーツが、ぼんやりとした紅に見える。
 それが窓から差し込む光によるもの、と気づいた瞬間、背筋を冷たいものが
過ぎった。
「……紅い……月……」
 月が本来あり得ぬ紅い光を放つ夜。それは、妖しの宴がどこかで開かれてい
るという報せ。
 だから、紅い月が出ている夜は、決して外に出てはならない、と祖母はきつ
く戒めていた。
「……」
 このまま、何事もなかったかのように眠りに就けば、何も変わらない日々が
戻ってくる。
 それは、何となくだが理解できた。
 パンを焼き、菓子を作って、無愛想振りをディーターに揶揄されつつ、でも、
静かに生きていける。もしかしたら、霊視の力を用いる事もなく、穏やかに。
 変化は、一つ。イリスが失われているという事。それだけ。
「イリス……何故だ?」
 繰り返される疑問が口をつく。何故、自分は生きているのか。何故、イリス
は自分を殺さなかったのか。
 そして何より。自分を殺すつもりだったなら、何故、抱かれる事を望み、求
めてきたのか。
 考えれば考えるほど、わからない。わからない事が多すぎる。
「……」
 このまま全てを忘れたい気持ちと、理由を知りたい気持ち。
 二つがせめぎ合い、そして、後者がわずかに上回った。
 気だるい身体を叱咤しつつ起き上がり、身支度を整える。それから、ふとあ
る事を思い出して整理棚の引き出しを開けた。
「必要に……なるかも、知れんしな」
 呟きつつ、様々な小物が整然と並ぶ中から布に包まれた細長い包みを取り出
し、それを携えて外に出る。
 村は、紅い月の光を恐れているかのごとく、しん……と静まり返っていた。
 その静寂の中を、オットーはゆっくりと歩き出す。行く先の宛てはないもの
の、しかし、一歩を踏み出す事にためらいを感じる方へと進めば。そうすれば、
求めるものの許へたどり着くような、そんな気がしていた。
 前に進む度、身体が震える。その震えは、自分が正しい方向へ進んでいる事
と、そして、その先に待つものに対する自分の恐れ、その双方を表しているよ
うに思えた。
 ともすれば踵を返して逃げだしそうな自分を叱咤しつつ道を進んで行くと、
やがて、異様な臭いが感じられるようになってくる。その臭いと、紅く輝く月。
それらは道の先に待つものを暗示しているようだった。
「ん……この先は……?」
 最初は気づかなかったが、選んだ道は村外れの丘へと続く物だったらしい。
緩やかな傾斜を登って行くと丘の上に立つ巨木が目に入り、次いで、その下に
広がる惨状が目に付いた。
 人と同じ体躯を持ちつつ、しかし、人ならざる特徴をその身に備えたものの、
骸。
 その周囲の地面は鈍い紅に染まっている。
 むせ返るような血の臭いに顔をしかめつつ、口元と鼻を手で覆った時。
「……で、これはどういう事なんだ、『紅』?」
 低い男の声が、耳に届いた。
「……どういう……って?」
 それに、女の声がこう応じる。低く押し殺してはいるが、その声を聞き違え
る事はまずない。
「何故、『樹』を……同胞を手にかけたのか、という事だ」
 男の声が低く問う。それに、女が答えるまで、やや間が空いた。
「それは……『樹』が、あたしの獲物を横取りしようとしたからさ」
「獲物……霊視の力の継承者か」
「……っ!?」
 低い声のやり取りに、身体が大きく震えるのが感じられた。オットーは携え
てきた包みをぎゅっと握り締めつつ、きつく唇を噛む。
「しかし、ならば何故さっさと喰らわなかった?」
「そ、それは……」
「真視ほどではないが、しかし、霊視の力もまた、我々には厄介なもの……そ
の継承者を喰らわず、同胞を手にかける。裏切りと取られても、文句は言えん
な?」
 口ごもる女に、男は畳み掛けるように言葉をぶつけて行く。
「あたしは、別に裏切ってなんか!」
 それに女は叫ぶようにこう返し、この返事に男はほう……と言った後、低い
笑い声をもらした。
「獲物の奪い合いの果て……と、言い張る訳か」
「そうだよ! さっきから、そう言ってるだろ!?」
「そうか……ならば」
 笑いを帯びた言葉は途中で不自然に途切れ、その直後に、オットーは背後に
気配を感じた。そうかと思うと、首が強い力で締め上げられる。
「勝ち得た『獲物』を、いつまでも放置しておく必要はあるまい?」
 それと共に先ほどまでは前方から聞こえてきた声が、耳元でこんな事を言っ
た。どうやら、男の方はオットーに気づいていたらしい。だが、女の方にはこ
の状況は予想外だったらしく、ふと前を見ると、困惑の面持ちで立ち尽くすイ
リスの姿が紅い月光に照らされていた。
「……どうしてっ……」
「どうした、『紅』。さっさと喰らうがいい。紅き満月の下で、力ある者を喰
らえば、大きな力を得られるぞ?」
 呆然としているイリスに、男は笑いを帯びた声でさらりとこう言った。
「……『牙』!」
「もし、喰いたくない、というのであれば、オレが喰らう」
「そんな、勝手な!」
「勝手はどちらだ。突然姿をくらましたかと思えば、同胞を手にかける。挙句、
与えられた役割も果たさん。いくら気まぐれなお前と言っても、度が過ぎるぞ、
『紅』」
 一転、険しくなった男の言葉にイリスは唇を噛んで目を伏せる。霞む視界に
その姿を捉えつつ、オットーは必死で手を動かした。
 家から持って来た包みを必死で解き、中身を掴む。取り落としたら、恐らく
そこで終わりだろう。指先が痺れていくのを感じつつ、オットーは手にした物
──青い柄の短刀を引き抜いて、自分の首を締め上げる腕にそれを突き立てた。
刃は硬い毛に覆われた腕を易々と切り裂き、真紅を散らす。
「ぐおっ!」
「……え?」
 さすがにこれは予想外だったのか、男は唸るような声と共に束縛を緩めた。
オットーはこの期を逃すまい、とふらつく身体に鞭打って男から逃れる。
 オットーの手にした短刀は、祖母から力と共に引き継いだものだった。護り
の力を込めた、清らかな霊刀。何かあったら、これで身を護りなさい、という
言葉と合わせて。
「ぐっ……小賢しい真似をっ……」
 荒く息をして酸素を貪っていると、唸るような声が耳に届いた。
 人の体躯に、獣の頭部。
 紅い月に照らされるその姿は、伝え聞いた人狼のそれ。爛々と輝くその目は、
激しい怒りと憎悪を湛えてオットーを睨んでいた。
(これが……人狼)
 人と共に暮らしつつ、しかし、人を喰らう存在。
 霊視の力を持つ一族は、常に彼らに脅かされていたという。
 そう、人事のように考えた直後に、オットーは当の自分が今、危機に晒され
ているのだと気がついた。
(……どうする?)
 多少は鍛えているとはいえ人間の自分が、人狼二人を相手取って生き延びら
れるかどうか。
 常識的に考えれば──ほぼ不可能だろう。
 が、それとわかっていても、みすみす殺される訳にはいかない。そんな思い
から、霊刀を握る手に力を込めた時。

 紅い月光の下に、それよりも更に深い色彩の紅が、散った。

「……え?」
「ぐあっ!? く……『紅』! 貴様っ……」
 思わず呆けた声を上げるのと前後して、人狼が叫ぶ。逞しいその胸部は真紅
に染まり、凄惨な様を織り成している。
 一体何が起きたのか、把握できずに呆然としていると、
「言ったはずだよ、『牙』っ……これは、あたしの獲物だって!」
 人狼の向こうから、低いイリスの声が聞こえてきた。人狼はよろめくように
身体を返し、それによって開けた視界の先に、右手を紅く染めたイリスが立っ
ているのが見えた。
「『紅』……貴様、やはり……」
 人狼が血を吐きながら何事か言いかける。その注意は、完全にオットーから
逸れていた。
 生き延びるため、一撃を加えるなら、今が好機。
 そう感じた瞬間、身体が勝手に動いていた。
 人狼はこちらに背を向けており、その背には真紅を溢れさせる傷が口を開け
ている。イリスが背後からつけたその傷は、ぎりぎりで心臓を外しているよう
だった。
 そこを、狙うべき場所と見定め、手にした霊刀を突き入れる。
「ぐがっ!?」
 人狼が身体を仰け反らせつつ、血を吐いた。オットーは両手で霊刀の柄を握
り、突き入れた所から斜め下へ刃を滑らせる。霊刀は先ほどと同様、強靭な肉
体を易々と切り裂いた。
「おの……れっ……」
 霊刀を抜いて距離を開けるとの前後して、人狼がこちらを振り返る。爛々と
輝く目には、激しい憎悪が見て取れた。その鋭さに気圧されたオットーは二、
三歩よろめき、丘の上の巨木にぶつかって、それにもたれかかるようにしつつ
ずるずると座り込んだ。
 重苦しい静寂が張り詰める。人狼は、何事か言おうとするかのように口を動
かすがそれ言葉にならず、直後に真紅に染まった身体が丘の上に倒れ伏して動
かなくなった。それと確かめたオットーは一つ息を吐き、それから、月の光が
わずかに陰ったのに気づいて顔を上げた。
 目の前に、イリスが立っている。月を背にしているためか、その表情ははっ
きりとはわからなかった。
(これまで……か)
 ふと、そんな思いが頭をかすめる。体力的にも精神的にも限界が近く、抵抗
する余力はなかった。
 イリスがすっと膝を突き、目の高さを合わせてくる。妙に無表情なその瞳を、
オットーは虚ろに見返した。
「オト……あたし……」
 張り詰めた沈黙を、イリスが破る。オットーは何も言わずに、続く言葉を待
った。
 生殺与奪件は握られている。
 そんな諦めが、極度の疲労とも相まって、言葉を遮っていた。
 イリスがそっと、手を伸ばしてくる。ああ、これまでか、と達観した、その
時。

 何の前触れもなく、真紅の飛沫が、空間に舞った。

「……え?」
 思わぬ事態に再び呆けた声を上げた直後にイリスが前のめりにくずおれ、そ
して、先ほど息絶えたものとばかり思っていた人狼が身体を起こし、その身を
更なる真紅に染めつつ笑っているのが目に入った。
「う……の、は……れ……ん……」
 唸るような声を上げた直後に人狼は倒れ伏す。今度こそ息絶えたのか、その
身体はぴくり、とも動かなかった。
 人狼が、最期の力を振り絞り、同類であるはずのイリスを殺そうとした。
 しばしの混乱を経て、そんな結論に達した時。

「……オト……」

 消え入りそうな声が、名を呼ぶのが耳に届いた。声の主──イリスは今にも
倒れ込みそうになりつつ顔を上げ、じっとこちらを見つめていた。
「……」
 何を言えばいいのかわからない。わからないから、黙り込むしかできなかっ
た。

「オト……あた、し……め……ね……」

 かすれた声でイリスは言葉を綴るが、途切れがちのそれははっきりとは聞き
取れない。
「……」
 聞こえない。わからない。はっきり言ってほしい。
 そんな思いは渦巻いているものの、言葉にはならなかった。声そのものが出
なくなってしまったような、そんな錯覚すら覚えてしまう。
 イリスはそんなオットーほじっと見つめ、それから、更に何か言おうとする
かのように口を動かすが、それは声にはならなかった。そして、それを最期に
身体を支えていた腕から力が抜け、細い身体がその場に倒れ伏す。長く伸ばし
ていた髪は、背中の傷から溢れた血で、紅く染まっていた。
「……」
 丘の上に、静寂が訪れる。
 そこにあるのは、異形の骸が三つと、異能者が一人。あとは、重苦しい沈黙。
「……くっ……」
 空白を経て、ようやく、声が出せた。
「う……くっ……う……わあああああああっ!!」
 そして、声が出せる、と認識した瞬間──混乱しきった感情が絶叫となって
迸った。

 紅い月は、それを静かに見下ろしつつ、ただ、丘を照らしていた──。


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