03

 熱に飲まれ、その後、疲れに飲まれて途切れた意識に目覚めを呼び込んだの
は、階下から響くどんどん、という物音だった。誰かが、裏の勝手口を叩いて
いるらしい。
(……やかましいヤツだ……)
 とは言え、裏の勝手口からやかましく戸を叩く者、というのは限られている。
付け加えるならば、オットーの知る限り彼の家でそれをやるのは一人しかいな
いのだ。
「近所迷惑という物を、少しは考えろと言うんだ……」
 ぶつぶつと文句を言いつつ起き上がる。傍らのイリスは、まだ眠っていた。
起こさないように気遣いつつ、脱ぎ散らかした服を集めて身に着ける。下に来
ているのが誰かわかっている事もあり、上はシャツ一枚を引っ掛けるだけ、と
いうなんとも身軽な格好で部屋を出て、階段を降りた。雨は既に上がっており、
窓から差し込む光が、やけに眩しい。
「おい、オットー! いないのか〜?」
 下に降りるのと同時に、勝手口越しに声が聞こえた。オットーはやかましい
ヤツめ、と呟きつつ、勝手口の戸を開ける。
「やかましいぞ、ディーター! 近所迷惑という物も考慮しろ、貴様は!」
 戸を開けるのと同時に、苛立ちを込めてこう言い放つ。勝手口を叩いていた
者──ラフなスタイルの赤毛の男は、その苛立ちを全く気にかける様子もなく、
いるならとっとと出て来やがれ、と切り返してきた。腐れ縁の勝負師ディータ
ーだ。
「店開けねえで、昼過ぎまで何やってたんだ、お前? しかも、見るからに今
起きてきた、ってなりでよ?」
「……大きなお世話だ。ちょっと、時間の感覚を失していただけだ」
「また徹夜で菓子のネタ作りかよ? もう少し、色気のある事に時間使いやが
れ」
「や、やかましい!」
 突っ込み自体はいつも交わしているやり取りの一環と言えるが、大幅に寝過
ごした理由が理由だけに、切り返す声が上擦った。それに気づいたのか、ディ
ーターの表情を怪訝そうなものが過ぎる。
「そ、それで一体、何の用だ!?」
 それと気づいたオットーは、何とか話題を変えようと早口にこう問いかける
が、それは逆に不自然さを強めたようだった。
「何、慌ててんだ、お前?」
「別に、慌ててなどいない! さっさと用件を言え……こっちには、寝過ごし
た分を取り戻す必要があるんだからな」
 不審気に問われ、視線を逸らしつつ言い放つ。この反応にディーターはやれ
やれ、と呆れたように肩をすくめた。
「寝過ごしたのはそっちの勝手じゃねえか……ま、いいや。実はな」
「なんだ」
「隣村が、何かに襲われて全滅しちまったらしい」
「……なに?」
 口調だけはやけにあっけらかん、としたその言葉に、オットーは眉を寄せつ
つディーターを見た。
「今朝方、村に来た旅人が見てきたって話なんだが、住人一人残らず殺されて
たらしいぜ。それも、普通の殺り方じゃなかったらしい……少なくとも、人間
の仕業にゃ見えなかったって話だ」
「人間の仕業じゃ、ない?」
「ああ。なんかな、『獣に喰い殺された』って感じだったらしいぜ。で、まあ、
ウチの村でも気をつけるように、っていう村長のお言葉が貼り出されてたんで
な。ネクラな引きこもりのお前にも知らせてやろうと、わざわざ出向いてきた
って訳だ」
 言葉の最後に、ディーターは感謝しろよ? と言いつつにやりと笑って見せ
た。いつもなら即何かしらの突っ込みを入れる所だが、この時はそんな余裕は
持てなかった。
(隣村が滅んだ? それも、獣に喰い殺された感じで、だと?)
 霊視の力を引き継いだ時、祖母から教えられた脅威の話がふと脳裏を掠める。
人の中に潜み、人と変わらぬ生活をしつつ、夜に自らの本質を解放して人を喰
らう存在──人狼。ディーターから伝えられた話は、容易にその存在を思い起
こさせた。
(待てよ……隣村、だと?)
 隣村。ここ数日、姿を見せなかったイリスは隣村に行っていた、と言った。
そして昨日のらしからぬ様子は、何らかの異変を感じさせてならない。
(何か、知っているのか、イリス……)
 もしそうなら、確かめておくべきだろう。イリスがその脅威から逃れてきた
のだとしたら、村を守る有益な手を打つための情報が得られるかも知らないか
らだ。
 霊視の力は、人の死を見る力。
 場合によっては無為に人の死ばかりを見せられる可能性もあるのだ。
 できるならそれだけは避けたい、というのは、オットーの偽らざる本心だっ
た。
「……おーい、オットー?」
 あれこれと考え込んでいると、ディーターが呼びかけてきた。オットーはは
っと我に返り、何だ!? と上擦った声を上げる。
「いや、何だ、じゃねーって。何、ぼーっとしてんだよ?」
「え? あ、いや……ちょっと、な」
 すい、と視線を逸らしつつ歯切れ悪くこう返すと、ディーターは露骨に疑わ
しげな視線を向けてきた。
「と、とにかく、話はわかった! 俺も後で、その貼り出しとやらは確認して
おく!」
 その視線から、逃げるように目を逸らす。これをやるから、隠し事があると
すぐにバレるとわかってはいるのだが。案の定、ディーターは視線に込める疑
念を強めてこちらを見ていたが、オットーが決まり悪げに黙り込んでいる様子
に追求を諦めたようだった。
「……ま、とにかま早めに服、着ろよ。いくらお前でも……いや、お前は風邪
引く可能性があるのか」
 頭を掻きつつ、ディーターはため息混じりにこんな事を言う。含みのある物
言いに、オットーは眉を寄せつつ何故、と問いかけた。
「そりゃ、勿論……お前が阿呆だからだが?」
 それに、ディーターはさらり、とこう返してくる。
「……貴様にだけは、言われたくはないぞ!」
 さすがにむっとしつつこう返すと、ディーターはひょい、と肩をすくめて処
置なし、と言わんばかりにため息をついた。
「ま、用はそれだけだ。とにかく、店開けるか休むかはっきりしろよ。表通り、
交通規制状態だからな」
 ため息の後、ディーターは軽い口調でこんな事を言って歩き去る。その背に
向けて大きなお世話だ! と怒鳴りつけた直後に、オットーはまた目眩を感じ
てよろめいた。
「……霊視の力が、発現している……隣村の、騒動のせいなのか?」
 そう考えるのが妥当なのだが、何故か、それだけではないような気がしてな
らない。そんな、妙な感覚に囚われつつ、オットーは勝手口を閉めて鍵をかけ
た。
 思考の隅に、何か引っかかっているような、嫌な感覚。
 何か見落としているような、でも、それが何なのかはっきりしない。
 妙にもやもやとした感覚に苛立ちつつ、とにかく着替えなくては、とオット
ーは二階に戻り、
「……イリス?」
 異変に気づいた。
 下でディーターと話している間に目を覚ましたらしいイリスは、身体にシー
ツを巻きつけただけの姿でベッドの上に座り込んでいた。何となくだが、様子
がおかしい。何がどう……という訳ではないのだが、強いて言えば、雰囲気だ
ろうか。俯き、こちらと目をあわせようとしない様子も気にかかる。
「どうか、したのか?」
 言葉で言い表せない不安を感じつつ、声をかける。イリスは軽く、唇を噛み
締めるような素振りを見せ、そして。
「……っ!?」
 次の瞬間、何が起きたのか──すぐには、理解できなかった。
 顔を上げたイリスに手を引かれ、そうかと思うと自分が組み敷かれる体勢に
なっていた。
 一見すると細身で荒事とは一切無縁のように見えるオットーだが、その実、
身体はちゃんと鍛えている。少なくとも、女の細腕で組み敷かれるような軟弱
にタイプではない──のだが。
「イリス? お前、一体……」
 あり得ない状況が混乱に拍車をかける。困惑しつつ投げかけた問いに答えは
なく、代わりに、イリスの細い指が首に絡みついてきた。
「お前……まさ、かっ……!」
 絡みついてきた指が通常あり得ない力で首を絞めてきた時、ずっと考えずに
いた可能性がその存在を主張し始める。こちらを見つめるイリスの瞳──それ
が、血を思わせる真紅に染まっている事が、可能性を確証へと近づけた。
「おま……え……じん、ろ……か」
 振り絞るような声で、問う。それに、イリスは締めつける手に力を込める事
で答えた。
 このままでは、殺される。
 わかりきった事が、緩慢に脳裏を過ぎった。
 人狼が自分を狙う理由は、一つしかない。密かに受け継がれてきた霊視の力
──人狼の活動の妨げとなり得る力の抹消だろう。
(このまま……『力』を、使う事、なく……)
 引き継いだそれと共に死ぬしかないのか。そんな考えがふと過ぎった時、首
にかけられていた力が緩んだ。
「……?」
 突然の事に戸惑いつつ、身体が求めるままに空気を貪る。咳き込みながら荒
く息をするオットーを、イリスは無表情に見下ろしていた。
「……なぜ……?」
 ようやく出せた声で、短く問う。
 何故、殺さないのか。霊視の力を抹消するのが目的なら、またとない好機だ
ろうに。
 だが、問いに対する答えはなく、代わりに、柔らかな感触が唇を塞いだ。
 それは昨夜、幾度となく求め、重ねたもの。
 抗う余地はなく、求められるまま深い口付けを交わしている内に──意識が、
闇へと堕ちた。


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