02

 それからの数日、イリスは姿を見せなかった。
 今までと何も変わらない、と言えばそう。だから、そんなに気にかける必要
もないはず……なのだが。
「……静かだな」
 本来、彼にとって好ましいものだったはずの静寂は、今は妙に重苦しかった。
何と言うか。忙しさの合間にぽかりと空白が出来てしまったような、そんな感
じなのだ。
「……ふう」
 何となくため息をつきつつ、窓越しに見える外へと目を向ける。天気は、雨。
人通りは少なく、客足はいつも以上に鈍っている。今日は早めに店仕舞いをす
るようか──などと思ったその時。
「……ん?」
 窓の向こうを人影がかすめたような、そんな気がした。それも、覚えのある
人影が。だが、それが店に入ってくる気配はない。
「……何をしてるんだ、まったく」
 呆れたように呟きつつ、あえてドアではなく窓を開ける。先ほどの人影──
イリスはドアに寄りかかるようにして店の前に佇んでいた。
「ただでさえ客足の鈍い日に、そこを占拠して人の出入りを封じている、とい
うのはどういう了見なんだ?」
 低い声で問いを投げかけると、イリスははっとしたよう顔を上げた。
「あ、え……と……」
「とにかく、中に入れ。捨て猫じゃあるまいし、店先でずぶ濡れになっている
な」
 かすれた声で何事か言いかけるのを遮ってこう言うと、オットーは窓を閉め
てドアを開けた。
「オト……」
「話は、後で聞くから!」
 やや強引に言いつつ、ためらうイリスを店の中へ引っ張る。雨はどんどんそ
の勢いを増し、今日はもう客足を見込めそうにはなかった。
「店仕舞い、だな、これじゃ。今日は赤字か……」
 ぼやくように言いつつ『営業中』と書かれたプレートを外し、滅多に使わな
い『臨時休業』のプレートをかけてからドアを閉め、戸締りをする。それが一
通り済むと、オットーは所在ない様子で立ち尽くすイリスを振り返った。イリ
スはこちらと目を合わせまい、とするかのように目を伏せている。
「ほら、上に来い。そのままじゃ、いくらお前でも風邪引くだろ」
 いつもと違うその様子に戸惑いつつ、オットーはその手を引いて歩き出す。
手を取る瞬間イリスは僅かに逆らう素振りを見せたものの、結局はそのままつ
いてきた。
「……とは言うものの……」
 二階に上がって自室に入った所で、オットーはようやくある事に思い至る。
当たり前の話だが、若い男の一人暮らしのこの家に女物の着替えはない。母は
父の療養先へ引っ越す時、不要になった衣類は全て整理していったはずだ。
「……仕方ない、な……」
 呟いて、取りあえずクローゼットの中からタオルと寝巻きを取り出す。
「これで身体拭いて、今の内はこれ着てベッド潜ってあったまってろ。今、何
か温かい飲み物作ってくるから」
「……でも、それじゃ、オトの寝る場所なくなっちゃうよ……?」
「余計な気を回すな。俺は、いざとなったら親の寝室を掃除してそっちで寝る。
それより早く身体拭け、唇の色が変わってるぞ! 濡れた物は、どこかにまと
めて置けばいいから!」
 細々とした訴えを一蹴すると、オットーは部屋を出て一階へと向かう。
「……残った分は、明日手を加えて安く出すか……しかし、凄い雨だな」
 売れ残ったパンを確かめつつ、改めて窓の外を見やって呟く。叩きつけるよ
うな、という表現のしっくりくる豪雨は何か、不吉なものすら感じさせた。
「……」
 はっきりと言葉で表せない不安がかすめる。その不安を振り払うように首を
左右に振ると、オットーは厨房で温かい飲み物を作り、二階へと戻った。
「着替えたか? 入るぞ」
 二階に上がってドア越しに声をかけると、うん……というか細い声が返って
きた。部屋に入ると、イリスは先ほどオットーに言われた通りに着替え、ベッ
ドの上で毛布に包まっていた。
「ほら、これ飲んであったまれ」
「うん……ありがと」
 カップを手渡すと、イリスはほっとしたように微笑んだ。オットーはベッド
サイドに椅子を引っ張って腰掛け、自分も愛用の湯呑みを手にする。
「……ここ数日、姿を見せなかったな。何か、あったのか?」
 湯呑みとカップが空になった頃、オットーは何気なくこんな問いを投げかけ
ていた。そしてこの問いに、イリスは何故かびくり、と肩を震わせる。
「え……あ、うん。ちょ、ちょっとね、用事があって隣村まで」
 問いの答えは妙に歯切れ悪く、視線はどこか遠くへ泳いでいるようにも見え
た。まるで、オットーの方を見るのを避けているかのように。
「隣村に?」
「う、うん……」
「そう、か。何かの間違いで体調を崩していた。とかいう訳じゃなかったんだ
な」
「う、うん……って、それ、どういうイミっ!?」
 さらりと皮肉を交えた言葉にイリスは最初素直に頷き、それから、込められ
たものに遅れて気づいたらしくむっとしたようにオットーを睨んだ。ようやく
返ってきたいつも通りの反応に、オットーは内心で安堵する。
「言った通り以外に、どんな意味があると思うんだ?」
 あくまでさらりとこう返すと、イリスはむくれた表情を見せ、それからまた
目を伏せた。
「浮き沈みが激しいな……どうしたんだ?」
 その変化にやや眉を寄せつつ問うと、イリスは目を伏せたまま何でもない、
と呟く。
「何でもない、って様子じゃないぞ? 何か、あったんじゃないのか?」
「なんでもない……何でもないってば……」
 繰り返す声は酷く震えており、それと共に肩が小刻みに震えているのがはっ
きりと見て取れた。
「しかし……」
「なんで……なんで、今日に限ってそんなに気、回すのよ! いつもみたいに
邪険にしてよっ!」
 更につごうとした問いを、イリスは叫ぶような言葉で遮ってきた。
「……イリス?」
「その方が……そうしてくれた方が、あたしはっ……」
 震える声で言いつつイリスは顔を背け、それきり黙り込む。オットーはどう
したものか、としばし悩み、それから、大げさなため息と共にイリスを抱き寄
せた。
「っ!? ちょ、ちょっと……」
「いくら俺が鈍感朴念仁でも、邪険にしていいかどうかの区別くらいはつけら
れるつもりだぞ?」
「オト……」
「何があったのか、話したくないならそれでもいい。でも、どうせここには俺
しかいないんだから、無理に感情を押さえ込むな」
「何よ、それ……偉そうに……」
「口調が尊大なのは、生まれつきだ」
 静かな口調で諭すとイリスは拗ねたような呟きを漏らし、それに、オットー
はさらりとこう返す。
「口調だけじゃないじゃないっ……態度も、性格も……サイアクに、悪い、わ、
よっ……」
「お前、そこまで言うか……?」
「否定できるなら、してみなさい、よっ! 人が……気づいてほしい事には、
全然気づかなくて、気づいてほしくない事にばっかり気がついて……ほんとに、
どうしようもない……鈍感なんだから、あんたはっ……」
 震える声で言いつつも、イリスはぎゅっとすがり付いてくる。
「鈍感で、悪かったな」
「自覚あるなら……なんとか、しなさいよっ……」
「無茶苦茶言うな、まったく……」
 呆れたように呟いて、一つため息をつく。
 腕の中の温もりと、その柔らかさ。
 意識すまい、と思えば思うほど、それは理性をかすれさせようとする。
 勿論自制はするつもりだった。一時的な感情の暴走で関係を持ちたいとは思
わないし、何より。
 手を触れたら、消えてしまう。
 何故か、そんな危惧が付きまとってならないのだ、イリスには。
 自分の中にある感情を認めて、それを受け入れてしまったら。それをはっき
りとした形で伝えてしまったら、消えてしまう。
 根拠など全くないが、しかし、その考えは何故か頭を離れる事無く、ずっと
こびりついていた。
 だから──イリスが特別である、と自覚しつつ、しかし、それを表す事がで
きなかったのだ。
(壊したくない……今までの、在り方を)
 それは偽りのない気持ち。だが、それと全く逆の感情もまた、自分の本心。
 即ち、自分の感情を認めて、それを伝えたい、という気持ち。
 相反する気持ちがせめぎ合い、想いが定まらない事が動きを鈍らせる。
「……オト」
 今更ながら、なだめるために抱き寄せた事を後悔し始めたその矢先、イリス
がかすれた声で名を呼んできた。
「どうした?」
「……抱いて」
「……なっ……」
 簡潔な願いに、オットーは言葉に詰まる。上目遣いにこちらを見上げるイリ
スの潤んだ瞳が、動揺に拍車をかけた。
「イリス、お前っ……自分が、何を言ってるのかわかって……」
「わかってる! わかってて……だから……」
「イリス……」
「お願い……」
 今にも消え入りそうな声と願いに、気持ちの揺らぎが一方向へ大きく傾くの
が感じられる。
 手を触れたら、消えてしまいそうなイリス。
 だが、今手を触れずに離しても、やはり消えてしまうような──そんな予感
が、ふとかすめた。そんな風に思えるくらい、今のイリスは儚くて頼りない。
 それなら、少しでも時間を共有したい。
 そんな思いが、ずっと抱えていた危惧を押しのけ、そして。
「……まったく……前々から無茶ばかり言うヤツだとは思っていたが、ここま
でとは」
 呆れたような口調で呟き、反論しようと顔を上げたイリスの唇をやや強引に
塞ぐ。今までは意識する事を避けていた柔らかさが身体に熱を帯びさせて行く
のが感じられ──。

 それと共に、何故か。
 視界に霞のようなものがかかった事は、押し寄せる熱に飲まれて意識に残る
事はなかった。


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