01

 言葉にならない『声』が眠りを妨げる。
 微かにちらつく『姿』が目を開く事をためらわせる。

「……できのいい、悪夢だ……」

 夢現の狭間を行き来する不安定な闇から抜け出すなり、こんな言葉が口をつ
いた。
 部屋の中はまだ暗い。まともに眠れなくても、身体はいつもと同じ時間に起
きようとする、という事だろうか。
「準備を、しなければ」
 呟いて、身体を起こす。やらなければならない事は多い。パンを焼いて、菓
子を作って、店を開けられる状態にする。それから、集会所になっている宿に
顔を出して、状況を確かめて……。
「……くっ……」
 ベッドから起き上がり、二、三歩進んだ所で足の力が抜けた。身体を支えき
れなくなってその場に座り込むと、目を醒ましたらしい黒猫が鈴を鳴らしつつ
近づいてきた。
「ああ……大丈夫だ、ゲイル。心配いらん……」
 不安げな声で鳴く愛猫に、苦笑まじりの笑み向けて頭を撫でてやる。言うま
でもなく虚勢だが、そう声に出す事で自分自身に言い聞かせよう、という思い
も少なからずあった。
「やれやれ……人にはちゃんと寝ろ、と言っておいて、自分は不眠とはな……
情けない」
 かすれた声で、自嘲的に呟く。
 眠れなくなったのは一昨日の夜から。あるモノに呼応して、封じていた力が
目を覚ましてからだ。
 その力──死者の魂を見、その本質を見極める霊視の力が目覚めた、という
事実は村が危機的状況に晒されている事を何よりも端的に物語っていた。
 霊視の力が目覚めるのは、人狼と呼ばれる脅威に村が晒されている時。事実、
被害者は既に出ている。
「これから……人が、死ぬのか」
 襲撃が始まった以上、村としても早急な対策が求められる。村人の中に紛れ
込んでいるであろう人狼を、処刑する、とう形で。
 その際に、処刑された者が人であるか否かを見極めるために使われるのが、
霊視の力だ。生者の正体を見極める真視の力に比べればややその価値は劣るも
のの、しかし、村の標となり得る事に変わりはない。
 だから、その力を用いる事、それ自体は構わない。
 ただ、力の行使に伴うものが疎ましいだけ。
 即ち、言葉にならない『声』と、その主の『姿』。
 霊視を行なえば、それらが意識を捕えようとするだろう。自発的に力を用い
ようとしない今ですら、それらは彼を苛み、眠りを妨げている。
「……何故……」
 微かに揺らいで見える『姿』に向けて、かすれた声で問う。
「何故、俺を殺さなかった。お前は、俺を食い殺すために近づいて来たはずだ。
なのに、それをせずに俺を生かした……己の力を呪い、生き地獄を味わえと?」
『……』
 低い問いに『姿』は言葉にならない『声』を投げかけてくる。
「はっきり、言ったらどうだっ……」
 苛立ちを感じつつ投げかけた言葉に、何も返す事無く『姿』は消えた。
「あくまで……苦しめとっ……」
 先ほどまで『姿』が揺らいでいた辺りを睨むように見つつ、低く吐き捨てる。
その様子に、黒猫が不安げな様子でなー、と声を上げた。

 苦悩の原因とも言える霊視の力は、祖母から引き継いだものだった。それは、
祖母の一族に代々受け継がれてきたものらしい。
 一族の者は大なり小なりそれを用いる資質を有しているらしく、特に高い資
質を持つ者に力を引き継がせる、という形で代々伝えてきたのだと聞かされた。
そして、祖母の子供たち──即ち、父やその兄弟たちには使いこなせるだけの
資質はなかったのだと。
 力の継承者である祖母は、自分の代で力が消滅する事を危惧しつつ、孫の世
代に期待をかけていたという。力と、それを伴う苦難を押し付ける事に悩みな
がら。
 そんな苦悩の中、最高の資質を持って生まれたのが彼──オットーだったの
だという。
 最高の継承者を得た喜びと、病弱な末っ子の一粒種に重責を負わせる苦悩。
相反する二つの感情の狭間で祖母が苦しんでいたのは、力を引き継いだ時の言
葉から感じられた。
『ごめんよ、オト……おばあちゃんは、お前の未来を歪めてしまうかも知れな
い……』
『それでも、この力を消してしまう訳には行かないんだよ……』
『この力のせいで、お前はとても辛い思いをするかも知れない……』
『本当にごめんよ……許してくれ、とは言わない。ただ……負けないでおくれ』
 恨む事がなかった、とは言わない。事実、『あの時』は祖母を恨みさえした。
 ただ、それでも。
 力ある者としての務めを果たそうとした祖母の信念、そしてそれを貫く辛さ
は、理解できるから。
 そして、何より──。
「……元を正せば、俺自身の、自業自得なんだからな……」
 それを思えば、祖母に責任を転嫁するなど到底できなかった。

 事の起こりは数年前。元々病弱だった父の容態が不安定になり、静養のため
にと両親が村を離れて間もない頃だった。
 当時、オットーは床に伏せりがちな父に代わって家業であるパン屋を切り盛
りしており、パンと、祖母に作り方を習った菓子の双方でそれなりの評価を得
ていた。
 生来の表現下手に加え、霊視の力を引き継いでからは他者と距離を置きがち
になっていたものの、逆にそこに引かれて足しげく通う女性客も少なからず存
在していた。
 現在、「女は半径一メートル以内に近づくな」と言わしめる女性嫌いの気は、
この頃から培われていた、と言えるかも知れない。
 勿論、それを決定付けた要因は別にある。
 それが即ち、今、彼を苛み続けている『姿』だった。

「あんたって、ほんっとに無愛想よね」
 それが、第一声だった。
 その数日前から、忙しさのピークである昼を少し過ぎた辺りに店にやって来
るようになっていた、若い娘。いつものようにパンを数個買った後、唐突にこ
んな事を言われて驚いたのを覚えている。
 買い物ついでに話しかけてくる女性は多かったものの基本的には全て受け流
していたオットーだったが、さすがにこの一言は流しきれなかった。『商売人
にしては愛想がない』と昔から腐れ縁を持つ勝負師に言われ続けていた反動な
のかも知れないが。
「客に反論というのもなんだが、大きなお世話だ」
 ついむっとしつつこう返すと、娘は楽しげにくす、と笑った。
「あれ、怒った? もしかして気に障ったのぉ?」
 図星である。それを笑いながら指摘された事で、苛立ちが更にかさんだ。
「……だから、大きなお世話だと言っている!」
 つい怒鳴りつけてしまうものの、娘は怯む事なく、むしろ楽しそうに笑って
見せた。
「怒った怒ったー♪ 感情ナシの無表情じゃないんだー♪」
 あまりにも楽しげかつ嬉しそうなその様子に、オットーは毒気を抜かれる。
それによって憤りを上回った困惑が表情に表れた。その変化に、娘はまたくす、
と笑う。
「やっぱり、無表情はよくないよぉ? せっかくの美形が台無しだからねっ」
 楽しげな笑顔のままでこう言うと、娘はじゃね、と手を振りつつ店を出て行
った。
「……何なんだ、一体……」
 他に誰もいなくなった店の中で、オットーは呆然とこう呟くのみだった。

 それからもその娘──イリスは毎日同じ時間に店を訪れていた。最初は無愛
想で通そうとしていたオットーだったが、しかしそれで通そうとすればするほ
どイリスの方でそれを阻む、という状態が続き、結果。
「やっほー♪」
「……出たな、タダ食い常習犯」
 いつの間にか、二人の間ではこんな会話が交わされるようになっていた。
「タダ食いって何よぉ! 売れ残りそうなかわいそうな商品を、救済してあげ
てるんじゃないのよぉ?」
「何が救済だ。そんな理屈をゴネるくらいなら、新作の試食でも手伝え」
 むくれながらの反論にこう返すと、イリスは目を輝かせた。
「え、新作!?」
「ああ。まぁ、致命的失敗などあり得んが、お前なら『万が一』があっても大
丈夫だろうからな」
「……何よ、それぇっ!?」
「言葉の意味、そのままだが。で、どうするんだ?」
 歓喜から一転、むくれるイリスにさらりとこう問いかける。イリスはしばし、
むっとした面持ちでオットーを睨んでいたが、やがてぽつりと小さく、食べた
い、と呟いた。オットーはよし、と頷いて奥へ向かい、試作品のパンと飲み物
を用意して戻ってくる。
「もしかして、あんた人の事、休憩の口実にしてない?」
 甘めのカフェオレの入ったマグカップを手渡すと、イリスは呆れたような口
調でこう問いかけつつそれを受け取った。
「それは気のせいだ」
 その問いを、オットーは緑茶を啜りつつさらりと受け流し、イリスはどうだ
か、と呟きながらバスケットに盛られたパンを手に取る。
 今までであれば、考えもしなかった他者との時間の共有。
 だが、それは決して不愉快なものではなく──むしろ、穏やかで心地良くさ
えもあった。
 これまではただ不愉快だったはずの自分の領域への侵入も、イリスならば構
わない。
 ごく自然に、そう思えていた。
「……オト? 何、ぼんやりしてるの?」
 湯呑みを両手で持ち、ややぼんやりと物思いにふけっていると、イリスが不
思議そうに声をかけてきた。それで我に返り、イリスの方を振り返ったオット
ーはある物に気づいて苦笑する。小首を傾げてこちらを見ているイリスの頬に、
ジャムがついているのに気づいたのだ。オットーは苦笑したまま湯呑みを置き、
ハンカチを出してほら、と差し出す。
「……え?」
「え、じゃない。子供かお前は」
 全く気づいていないらしいイリスに呆れつつ、オットーは手を伸ばして頬を
拭いてやった。それで初めて状況に気づいたらしく、イリスはあ、と声を上げ
て俯いてしまう。頬が、微かに紅く染まっていた。
「……どうした?」
 その変化に戸惑い、ごく何気なくこう問いかける。イリスは何でも、と呟い
て更に視線をそらした。
「何でも、という様子じゃないだろ。急に赤くなって、熱でもあるのか?」
 その様子に更に問いをつぐと、イリスは何でもないってば、と早口に返して
くる。いつもの彼女らしからぬ様子は不安を誘い、オットーはやや厳しい表情
になって本当か? と問いかけた。
「ほ、ほんとだってば! もう、考えすぎ!」
 その問いに、イリスは勢い込んでこう返してくる。それに、ならいいが、と
返しつつも今ひとつ釈然としないオットーは、自分とイリス、それぞれの額に
手を当ててみた。
「なっ……」
「熱は……ないようだな」
 伝わる温度がさして変わらない事にひとまず安堵しつつ、こんな呟きをもら
す。一方のイリスは何か言おうとしては止める、という感じで口をぱくぱくさ
せていたが、オットーが手を離すと弾かれたように立ち上がった。
「イリス?」
「ご、ごめ! あたし、用事、あったの思い出した! じゃ、じゃね!」
 きょとん、とするオットーに早口にこう言い放つと、イリスは店の外へと駆
け出して行った。
「……何なんだ、あいつ?」
 一人、残ったオットーはぽつん、とこんな呟きをもらし、
「……っ!?」
 直後に激しい目眩を感じてよろめいた。
「な……なん、だ?」
 思わずその場に膝を突きつつ周囲を見回したオットーは、ある『変化』に気
づいて眉を寄せる。
「これはっ……」
 今までと特に変わらない、でも、今までとは違う視界。
 時折り、『本来は見えないもの』が空間を過ぎり、消えて行く。
 それは内に秘めたもの──霊視の力が発現している状態である事を、はっき
りと物語っていた。
「……何故?」
 素朴な疑問が口をつく。必要とされる『時』が来なければ目覚める事のない
はずの力が、何故目覚めているのか。
 考えている内に視界はいつもと変わらぬものとなり、目眩も治まる。身体が
落ち着いた事を感じると、オットーはゆっくりと立ち上がった。
「まだ、完全に制御できている訳でもない、からな……」
 ひとまずこう結論付けて、お茶の用意を片付ける。

 この時、このタイミングで霊視の力が動き始めた理由。
 それをもう少し考えれば、あるいは、あんな事にはならなかったのかも知れ
ない。
 そんな風に思い始めたのは、全てが終わった後の事だった。


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