11 想い、重なりて


 全て、終わった。
 自分がこの地で成すべき事は、もうない。
 人ならざる身の自分は、災禍を導く事もある。
 取り戻された安らぎのためにも、立ち去るのは必定だった。
『ほんに、それでいいのかえ?』
 静かに言いつつわずかな荷物をまとめるニコラスに、アトルは低くこう問い
かける。
「俺が一箇所に止まれぬ事、誰よりも理解しているのは、お前だと思っていた
が?」
 それに、ニコラスは静かなままでこう返す。真紅の瞳には、迷いや陰りと言
った物は見受けられない。勿論、意図的に隠している可能性も少なからずある
が。
 アトルはしばし同じ色彩の瞳でニコラスを見つめ、それから、好きにしやれ、
と呟いた。ニコラスはああ、と返して荷物袋の口をきつく閉める。それを肩に
掛け、竪琴の入った袋を抱え上げると、ニコラスは帽子を頭に乗せた。アトル
がふわりと飛んで、その肩に飛び乗る。
「行くぞ」
 短く言うと、ニコラスは足音を忍ばせつつ部屋を出る。対策会議の必要がな
くなった事、そして女将がまだ本調子でない事もあり、宿の一階はしん……と
静まり返っている。その静寂を壊さぬように気をつけつつ宿を後にしたニコラ
スは、ふと思いついて花畑へと足を向けた。目指すのは白薔薇の空き地──で
は、ない。
「……おや。お散歩……では、ないようですね?」
 目指す場所にたどり着くと、一際強い香りと共にこんな声が出迎えた。香り
の源は蒼い薔薇。声の主はヤコブだ。
「何か、御用ですか?」
「いや……旅立つ前に、この花を見ておくのも良いかと思ってな。なにやら、
色彩に変化があるようにも思えるが」
 ヤコブの問いに、ニコラスは周囲を見回しつつこう答える。この言葉に、ヤ
コブは楽しげな様子でくす、と笑んだ。
「少し、肥料の量を間違えてしまったかも知れません。紅味を帯びて、紫に近
くなってしまったようです」
「……なるほどな」
 笑いながらの説明に、ニコラスは苦笑する。
「あなたが行ってしまうと、またしばらくは退屈しそうですね」
 苦笑するニコラスに向け、ヤコブは唐突にこんな事を言った。
「退屈? 何故?」
「あなたは、不思議でしたから。人も、人狼さえも歯牙にかけぬほどの力を持
つ、アヤカシ。にも関わらず、人一人の死に心を乱していた……それが、不思
議でならなかったのですよ」
「それと退屈と、どんな関わりがあると?」
 問いを重ねると、ヤコブは更に楽しげにくすくすと笑った。
「見ていて、面白い、と感じたのですよ」
 一しきり笑ったヤコブは、無邪気とも言える笑顔でこう言いきる。その表情
からは、それ以外の意図は全く感じられなかった。ニコラスはそう言うものか、
と呟き、ヤコブはええ、と頷いて足元の桶を手に取った。
「さて……それでは、ぼくは他の子たちを見て回りましょうか。お邪魔のよう
でもありますし」
「……なに?」
 唐突に出て来た『邪魔』という言葉にニコラスは眉を寄せる。ヤコブはくす
くすと笑いながらその横をすり抜け、花と花の間へ消えて行った。その動きを
目で追ったニコラスは、立ち去るヤコブと入れ替わるように駆け込んで来た者
──カタリナの姿に、わずかに表情を強張らせた。
 奇妙な沈黙が、場に舞い降りる。
 何を言えばいいのかわからない。
 そんな気持ちになったのは、だいぶ久しぶりのような気がした。
「ニコラス……」
 その沈黙を破ったのは、カタリナの方だった。カタリナはしばしためらうよ
うな素振りを見せた後、意を決したようにこちらに近づいてきて、言った。
「一緒に旅について行ったら、迷惑?」
「な……なに?」
 投げかけられた問いに対し、とっさに出てきたのはややとぼけた一言だった。
「ニコラスとずっとお喋りしたいし、竪琴弾くのも聴いてたい。もちろん、ア
トルとも一緒に遊びたい。いつも一緒にいたいの!」
 真っ直ぐこちらを見つめつつ、カタリナはためらう様子もなく想いをぶつけ
てくる。
 どう、答えるべきか。
 いや、何も言わずに旅立つ、と決めた時点で、答えは決めてあるはずだ。
「俺が人でありつつ、人でない事……既に、理解していよう?」
 静かに、静かにこう告げると、カタリナはそれは、と口ごもった。
 人に身に本来あり得ぬ翼と、そして、死者を蘇らせた力。
 それだけで、彼が人という存在を逸脱している事は、十分過ぎるほどに示さ
れているはずだ。
「俺は人でありつつ、人ならざるモノ故、全き人の身であるお前が共に来るの
は……辛いぞ?」
 静かな様子を崩す事なく、更に言葉を接ぐ。
 これ以上踏み込ませてはならない。近づけてはならない。
 人外である自分と共にある事は、苦痛を与える要因の方がはるかに多いのだ
から。
 そんな想いを込めて投げかけた言葉に対する、カタリナの返答は。
「ニコラス、大丈夫だよ!」
 こちらの意図と予測をはるかに越えていた。
「確かに、旅するのって大変だろうけど、私だって伊達に羊飼いやってないも
ん! 自分でできる事は自分でやるし、できない事は二人で、ううん、アトル
とニコラスと私の三人で、助け合っていきたいの。もちろん、ニコラスが良け
ればだけど……ダメ……?」
 勢い良くまくし立てた後、自信なさげな様子で問いかけてくる。大きな瞳に
浮かぶ様々な想いにどう答えればいいかわからず、ニコラスはつと目を逸らし
ていた。
(何を迷う……切り捨てると、決めておきながら。何故、そうする事をためら
っている?)
 答えの出ない──いや、わかりきっているが故に、答えを出せない自問。
 離したくない、という想い。
 あの時に感じた想いに偽りはなく、そして、それは消えてはいない。
「いや……確かにそれもあるが、それだけではなく……」
 視線を風に揺れる紫の薔薇へ彷徨わせつつ、ニコラスはどうにか声を出した。
「俺は、この身に罪深き竜魂を宿し、それを清めるべく、穢れを集めている。
世の穢れを集め、気脈を正す事が贖罪となり、竜魂の清めとなる故。
 だが、竜魂の清めが果たせねば、俺自身が穢れをまとう事になるやも知れぬ
のだぞ? その可能性を、考えては見ぬのか?」
 それは、常に彼を脅かしている可能性だった。
 今は力の均衡が図れているため、取り込もうとした穢れに逆に飲まれる、と
いう事態には陥ってはいないが、何かの弾みでその均衡が崩れないとも限らな
い。
 そうなった時、どうなるか──それは、ニコラス自身にも未知の領域だった。
 だが、そんな可能性もカタリナの決意を覆すには、到底役不足であるらしか
った。
「竜魂の清めが果たせれば、問題ないんだよね? ね、三人で頑張ろうよ」
 目を逸らす事なくこう言うと、カタリナは一歩前へと進んできた。
「しかし……」
「やらなきゃ、わからないよ」
「……」
「ダメだった時のこと考える分、前に進もう?」
 手を伸ばせば、簡単に触れられる距離まで近づいたカタリナは、こう言って
じっとニコラスを見つめた。ニコラスは目を閉じて、小さなため息をつく。
 目の前にある、答え。
 それから目を逸らし、背を向けるだけの正当な理由も言い訳も、思いつかな
い。
 そんな否定的、逃避的な思考を全て飲み込んでしまう感情が、自分の中にあ
る事を容認すべき時が来てしまった、という事らしい。
「もし、叶うなら……」
 小さく、小さく呟きつつ、ニコラスは目を開けてカタリナを見た。
「お前に、俺の拠り所になってほしいと……俺が俺として『帰るべき場所』に
なってほしいと思っていたのは、否定できぬ。赦されるなら、側にいてほしい
と、そう思っていた」
 静かな言葉と共にニコラスは竪琴を下ろし、そっとカタリナを抱き寄せた。
「ほんとに?」
「……このような事、偽りで言えるほど、俺は器用ではない」
「そっか……うん、ニコラス。喜んで」
 どこほっとしたような笑みと共に、カタリナはこく、と頷いた。
「だが、決して楽な道ではないぞ? 俺が人外に転じ、お前を傷つける可能性
もある。その時に、俺を唯一殺せる黒曜石の短剣で貫き、止める役割を担って
もらう事となる。
 それでも……良いか?」
「ニコラスが、真実それを望むなら」
 声と表情を引き締めて投げかけた問いに、カタリナは迷う様子もなく、こう
答えた。
「だけど、私はニコラスを信じてる。そんな事に負けるニコラスじゃないって」
 迷いのない言葉が、最後までしぶとく残っていたためらいを打ち砕いたよう
な気がした。ニコラスはごく自然に微笑みを浮かべつつ、カタリナの髪に手を
滑らせる。
「俺を信じる……か。まったく……物好きなものに出会ったものだ」
 笑いながらの言葉に、カタリナは物好きって、と眉を寄せる。
「だが……」
「だが……なに?」
「……嬉しいよ……カタリナ」
 囁くような言葉にカタリナが何か言うよりも早く、ニコラスはそっとその唇
を塞いでいた。

 二度と、手を放しはすまい。
 例え、これから進む道が険しいものであろうとも。
 今、ここにある温もりは、他の何物にも変え難い、かけがえのないものなの
だから……。



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