06 咎人、月に宣す


 罪を犯すという事。
 その意味を思い知ったのは、遥か遠い時の事だ。
 しかし、それからも多くの罪を重ねてきた。
 罪を贖いながら、罪を犯すという矛盾。その繰り返し。
 それが、自身を永遠の咎人とすると知りつつも、矛盾を繰り返す事を止める
事はできなかった。

 その理由は、自分自身よくわかってはいないのだが。

 日中から甘い香りの立ち込める村の空気は、夜になると一層その香気を強く
するように思える。
 その日の会議の決定を確認すると、ニコラスは竪琴を抱えてふらりと夜に彷
徨い出た。水盤には、明日の判定に用いるための柘榴石を沈めてある。村長宅
の執事兼、パン屋のオットーが明日の対象だ。
 処刑の対象となったのは、レジーナだった。そこに至る議論には何か、誘導
めいたものも感じられたものの、『多数の意見』による『総意』として、その
決定は下されていた。
「……パメラが、心労で倒れてしまわねばよいのだがな」
 昨日に引き続き、苦々しい面持ちで決定を伝えたパメラの姿を思い返しつつ、
ニコラスはこう呟いた。アトルが心配そうになぅ、とそれに同意する。ニコラ
スは小さくため息をつくと、いつもとは違う道へと足を踏み入れた。
 花の間を抜けた先は、教会の裏手にある墓地だった。その奥、花に囲まれた
一画に、まだ新しい墓が三つ築かれている。ゲルトとリーザ、そしてカタリナ
の墓だ。
『……にこ?』
 墓を見つめて動かないニコラスの顔を、アトルが心配そうに覗き込む。ニコ
ラスは大丈夫だ、と短く答えてその場に座り、静かに竪琴を奏で始めた。
 夜の静寂を、穏やかな旋律が遠慮がちに押し退ける。
 だが、その音色には昨夜まではなかったもの──切なさ、苦々しさ、といっ
たものが織り込まれてもいるようだった。
「……おや、お墓参りですか、ニコラス君?」
 不意の呼びかけが、旋律を織り上げる手を止めさせる。肩越しに振り返る、
その視線の先には青い法衣の男性──神父ジムゾンが立っていた。ニコラスは
ゆっくりと立ち上がりつつ、ああ、と頷く。
「そのようなところだな。あんたは?」
 静かな問いに、神父は散歩ですよ、と応じる。温和な印象を与える、笑みを
絶やさぬ表情からは彼の真意を窺い知る事はできそうにない。
「散歩、か。散歩で墓地に来るというのも、面白い趣味だな」
「最初から、こちらに来るつもりではなかったのですよ。ただ、音楽が聞こえ
ましたので誰かいるのかと思い、足を向けたまでです」
 皮肉を交えた言葉に、神父はさらりとこう返してくる。ニコラスはなるほど、
と言いつつ再び墓に向き直った。
「いずれにせよ、お互い無用心である事に変わりはない、という事だな」
「ふふ……そうですねぇ。いつ襲撃されるかわからないというのに、ふらふら
と出歩いているのですから。まぁ、君の場合は、襲われない理由がおありなの
かも知れませんが」
「その言葉、そのまま返させていただく。虚しい揚げ足の取り合いだがな」
 込められた皮肉を、今度はこちらがさらりと受け流すと、神父は確かに、と
言いつつ肩をすくめた。
「付け加えるなら、俺は、自身の生死に余り固執せぬのでな。無防備、無用心
は取り立てて騒ぐ事でもない……いや、なかった、と言うべきか」
 墓を見つめつつ静かにこう言うと、神父はなかった? と不思議そうに呟い
た。
「そう、なかった。今は、違う」
「……何故、今は、違うのです?」
「自身の死……器の破壊を、是とする事ができなくなった、という事だ」
 静かな言葉は神父に混乱を招いたようだが、ニコラスは構わずに先を続ける。
「俺にとっての死は、仮初めの物に過ぎぬ。ただ、一時的にこの姿を失するだ
けの事。それ故、俺は生という在り方に固執する事はしなかった。
 ……だが、俺は今、敢えてその在り方に固執する。生き延びる事でのみ、そ
れを行う事の叶う、大罪を犯すために」
「……大罪?」
「そう……『奇跡』という名の、大きな罪のために」
 静かに、静かに言い切る瞬間、真紅の瞳にはこれまで見せた事もない、強い
決意の色が宿っていた。ニコラスはゆっくりと振り返り、今の彼の言葉に困惑
している神父の様子に、どことなく冷たい笑みを浮かべる。
「つまらぬ話をしてしまったな。戯言と、一蹴してくれて結構。これはあくま
で俺個人の決意故、あんたがその意を深く考える必然はない」
 冷たくも、どこか艶やかなものを感じさせる、微笑。
 その笑みと共に静かな口調で言い放つと、ニコラスは緑のマントを翻して墓
地を後にする。
『にこ……』
 墓地を離れると、アトルが小声で名を呼んできた。
「言うな、アトル。既に咎人のこの身、これ以上、罪を重ねる事を厭う気はな
い」
 それに静かな口調でこう返すと、アトルはにぃ、と短く鳴いて顔を摺り寄せ
てきた。その温もりが、張り詰めたものを和らげてくれるのを感じつつ、ニコ
ラスは月を見上げた。
(これまでも多くの罪を重ねてきた身だ……今更、新たな罪を背負う事を、恐
れはしない……)
 その新たな罪によってもたらされるもの、それを自分が得る事はできなくと
も。
 それでも、構いはしない──そんな思いが、心の内に芽生えていた。

「う〜ん、よくわかんないよねぇ……」
 その頃、ニコラスが立ち去った墓地では大げさなため息と共にこんな声がも
れていた。声の方を振り返った神父は、闇の中から現れた青年の姿に薄い笑み
を浮かべる。
「大体、旅人さんは言い回しが難しすぎるんだよねぇ。言いたいコト理解する
の、大変だよ」
「それは、本人に直接言った方が良さそうですよ?」
 大げさな仕種で肩をすくめるヨアヒムに、神父は苦笑しつつこう言ってこち
らも軽く肩をすくめる。その言葉に、ヨアヒムはそうかもね、と言ってくすく
すと笑った。
「まぁ、聞いてもらえるかどうかは、わかりませんが」
「それなんだよねぇ、問題は。ま、いいけどさ」
 こう言うと、ヨアヒムは空を見上げた。もう、あと数日で満月を迎えようと
する月は、静かに村を照らしていた。その光を全身で受け止めようとでもする
かのように、ヨアヒムは両腕を大きく横に広げた。
「い〜いお月様だよねぇ。ワクワクしてくるよっ」
「ええ、本当に。さて、それではそろそろ参りましょうか。あまり長く待たせ
ては、申し訳ありませんし」
 同じく月を見やった神父の言葉に、ヨアヒムは楽しげに笑いながらうん、と
頷いた。

「……今日も、月が綺麗だね」
 同じ時刻、違う場所で、同じように月を見やりつつ、こんな呟きを漏らす者
もいた。
 広大な花畑の最も奥、管理する者以外は滅多に立ち入る事のない一画で、ヤ
コブは小さくこう呟いていた。その呟きに答えるように、周囲の蒼い薔薇が微
かな風に揺れる。
 美しくも、どこか妖しいその花をヤコブは慈しむように見つめつつ、手にし
た桶の中身を薔薇に与えていく。肥料らしきそれはじわりと地面に染み込み、
その部分を黒ずんだ色彩に染めた。
「さて……また、新しい肥料が手に入るといいのだけどね」
 桶の中身を全て与えてしまうと、ヤコブは再び月を見上げてこんな呟きを漏
らす。その横顔には何かを期待しているような、そんな表情も見受けられた。

 空へと向けられる様々な思い──誓いや祈り、そして期待、決意。
 月はそれらを全て受け止めつつ、ただ、静かに天究に座している。



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