04 伸ばした手、虚空を掴み


 何よりも恐れていたのは、失う事。
 だから、何も求めまい、と誓っていた。

 もう二度と、失う痛みに狂いたくはないから。

 そう、思っていたはずなのに、何故?

 時間としてはそう、長くはなかったと思う。だが、突然の口付けは相当な驚
きを引き起こしたらしく、唇が離れるなりカタリナは俯いてしまった。
「カタリナ……」
「い、いけないっ! そろそろ、戻らないと、叱られちゃう!!」
 呼びかける声を遮るようにカタリナは大声を上げ、その声にニコラスが虚を
突かれた隙を突くように腕の中から飛び出した。
「そう……だな。しかし、一人で大丈夫か?」
「平気っ! 慣れた道だもんっ!」
「それは、そうかも知れぬが……」
 その時、何故か嫌な予感が脳裏を掠めた。一人で行かせてはならない。理由
はないが、そんな気がしてならなかった。
「だ、大丈夫っ! じゃ、じゃあね、また、明日っ!」
 が、その予感を口にするより早く、カタリナは花と花の間の通路へ駆け込ん
で行ってしまう。あっという間もなく、その姿は夜闇の奥へと溶けて消えた。
 追いかけてちゃんと送り届けるべきか否か、その逡巡は、
「あれ……こんな時間に、お散歩ですか?」
 不意の呼びかけと強い芳香に遮られた。はっと振り返った先には、薔薇の鉢
植えを抱えた男が一人立っている。この広大な花畑を一人で管理しているヤコ
ブ──対策会議の中で、自らも能力者である、と名乗りを上げた一人だ。
 ニコラスの力が生きている者を判別する力であるのに対し、ヤコブのそれは
死した者を判別するものだという。もっとも、霊視と呼ばれるこの能力に関し
ては村の少年ペーターもまた自らがその能力者である、と主張しており、その
真偽には皆頭を悩ませているのだが。
「……そのような所だが……お前は、何をしているのだ?」
「散歩と、見回りですよ。この花と共に、月を愛でたい、と思いましてね」
 低い問いにヤコブは楽しげに答えつつ、抱えている鉢を見せた。鉢に植えら
れているのは美しくもどこか冷たい、青い薔薇だ。氷のような雰囲気を漂わせ
るその花弁は月光を浴び、独特とも言える美しさを織り成している。
「散歩、か……妖かしが跋扈しているというのに、この村の者は危機感が薄い
のだな」
「あなただって、それは変わらないのではないですか? もしかすると、あな
たは襲われないから、余裕なのかも知れませんが」
 冗談とも本気ともつかない物言いに、ニコラスは真紅の瞳を細めてヤコブを
見る。そこに宿る険しい光に気づいたのか、ヤコブは冗談ですよ、と言って薄
く笑った。
「気分を害してしまったのなら、申し訳ありません。ですが、ぼくは、あなた
を、信用しているんですよ、これでも」
 あなたを、という部分をやけに強調したその物言いは、妙に感覚に引っかか
った。そしてそれが、その言葉を額面通りに受け止める事をためらわせる。
(この男……)
 言葉では言い表せない、違和感を感じる。それが何、とは明確にできないも
のの、その違和感はヤコブに対する警戒心を強くする因子には充分になり得て
いた。
「そうか……では、その信頼に応えられるよう、努めさせてもらうとしよう」
 低くこう言うと、ヤコブは頑張ってくださいね、と言ってゆっくりと歩き去
る。その姿と青い薔薇の芳香が夜に消えると、ニコラスは草の上の竪琴を拾い
上げた。
 嫌な予感が消えない。
 胸騒ぎがして、仕方がなかった。

 そして、その予感は、最も恐れていた形で現実となる。

 翌日、夜明けと共に最初の処刑が行われた。神父の唱える祈りと共に、生命
が一つ、消え失せる。
 その後に行われた霊視の結果はどちらも変わらず、リーザは人である、とい
う結果に終わった。
「……予想通りといえば、予想通りか」
 その結末に、ニコラスは低くこう呟いた。確かに、やや破天荒な所の目立つ
少女だったが、それが妖かしのもたらすものとは正直思い難かったのだ。
(このような犠牲は、少しでも減らさなくてはならぬな……)
 そんな事を考えつつ、ニコラスは黒い水盤に石を一つ沈めた。淡い緑の橄欖
石。カタリナの魂魄の色彩を映すための石だ。だが、当のカタリナの姿はどこ
にもない。それが、昨夜から続いている嫌な予感を助長してならなかった。
(気を鎮めろ……今は、己が務めに集中すべき時だ)
 そう思う事で、気持ちを切り替えようとした時、
 ……ぴしっ……
 微かな音が水盤から響いた。突然の事にはっと水盤を見たニコラスは、一瞬、
自らの目を疑う。
「……なんだとっ……」
 無意識の内に、上擦った声がもれる。
 つい先ほど、水盤に沈めた橄欖石が、二つに割れていたのだ。
 石が割れた、という事。
 それが何を意味しているのか、知識と経験は理解している。
「……まさか?」
 理解しているが故に、それを認めたくない。だが、現実はそんな感傷を嘲笑
うように、ずっと抱えていた『嫌な予感』を形にして突きつけてきた。
「みんな、大変だっ!」
 上擦った声と共に宿の扉が開き、赤毛が目を引く若者ディーターが飛び込ん
でくる。
「どうしたの、ディタさん?」
 只ならぬその様子に、パメラが不安げに問いかけた。
「カタリナがっ! 人狼に、やられたらしいっ!」
「え……リナちゃんがっ!?」
 問いに対する答えは、決して、聞きたくなかった言葉。
「……何故っ……」
 苛立ち、怒り、悔恨。様々な感情が交じり合い、それが身体を突き動かして
いた。ニコラスは右手を握り締め、その拳をテーブルに叩きつける。派手な物
音にアトルがびくり、と身体を震わせ、居合わせた者たちは一斉にニコラスを
振り返った。
「ニ……ニコさん?」
 パメラが恐る恐る呼びかけて来るのには答えず、ニコラスは立ち上がって走
り出していた。
『にこ!』
 一歩遅れてアトルが飛び立ち、その後を追う。
 何故。
 どうして。
 二つの言葉が意識の内をぐるぐると巡る。
 何故、手を放してしまったのか。どうして、カタリナが襲われなければなら
ないのか。
 二つの疑問が交互に浮かび、そして消えた。
 後者の理由は想像もできない。それだけに、前者が重たく圧し掛かる。
 手を、放さなければ。
 そうすれば、死なせずにすんだのかも知れない。
 今となっては繰言に過ぎないと、心の一部分は理解しているが、しかし──
「……っ!!」
 行きつ戻りつしていた思考が、強引に中断される。断ち切ったのは、薔薇の
芳香を打ち消す異臭だ。
「おや……っと、ニ、ニコラスさん?」
 先に来ていたらしいアルビンが気配に気づいて振り返り、直後に、こちらの
只ならぬ様子に気づいてぎょっとしたように呼びかけてくる。ニコラスはそれ
に答えずにニ、三歩前に進み、そして、その場にあるものを見るなりがくん、
と膝を突いた。
 変わらない。何も。変わっていない。
 昨夜言葉を交わした時と。温もりを感じた時と。放したくないと願った時と。
 その姿は、何一つ、変わってはいなかった。
 ただ一点、深く抉られた喉元を除いて、だが。
 そしてその一点が、変わってしまった事を決定付けている。
 もう、言葉は交わせない。温もりも感じられない。
 それだけと言えばそれだけの──でも、とても大きな相違点。
「何故……?」
「え? え? 何故って、一体、何がですっ!?」
 動転しているらしいアルビンの問いは、ただ、音としてのみ意識に響いてい
た。
「何故……俺は……手を、放してしまうっ……」
 手を放したら、失ってしまう。
 それは、わかっていたはずなのに。
『……にこ……』
 遅れてやって来たアトルがその傍らに舞い降りる。ニコラスはそれに答えず、
無言で地面を殴りつけていた。

 それが『人狼』への憤りによるものか、それとも、他に理由があるのか──
それは、自分自身にもわからなった。



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