03 重なりしは、温もり


 真紅の瞳。
 最初に見た時は、冷たいと感じた。
 どこか冷めた……人ではないような、無機質な眼。
 でも、今は、そこに温かさが感じられる。

 ……だけど……。

 まとまらない思考と重苦しくなった雰囲気にため息をつきつつ、カタリナは
宿の扉を開けた。宿の中の空気も、変わらず重い。その原因は、昨日持ち込ま
れた話と、そして、今朝の惨劇だ。
 隣村が人を喰らう『人狼』によって滅ぼされてしまった事。
 この村にも、『人狼』が潜んでいる可能性が高い、という事。
 持ち込まれたのは、こんな話だったと思う。
 そのために急遽対策会議が開かれ、その中で、『人狼』を見つけ出す能力が
ある、と名乗り出た者が二人いた。
 一人は、教会の神父ジムゾン。
 もう一人は、不思議な旅人ニコラス。
 どちらが真にその力を持つのか、力を持たぬ方は何者であるのか。
 それを確かめる手がかりを得るために、村の知恵袋として頼られていた老人
モーリッツが二人に対し、それぞれの力で自分が何者であるか見極めるように
要請した。
 それが、昨日の事。
 そして、今朝、惨劇が起きた。
 そのマイペースぶりでは他の追随を許さなかったゲルトが、何者かによって
惨殺されていたのだ。直接亡骸を見た訳ではないが、致命傷となった一撃は人
の手では到底成しえないものだったと聞かされた。
 それが示すのは、『人狼』が確実にこの村にいる、という事。
 同時に、『人狼』を見極める能力を持つ、と称する二人の一方が、『人狼』
である、という可能性をも示唆していた。
(……考え、まとまらない……)
 一度に色々な事が起こりすぎて、考えがまとまらない。カタリナはため息を
つきつつ宿の一階、臨時対策室と定められた食堂兼酒場を見回し、白い光を放
つ一画で視線を止めた。
 そこは、ニコラスが宿にいる時にいつも座るテーブルだった。テーブルの上
には水を張った黒光りする器が置かれ、その横に、白い光をちらちらと放つ緑
色の石が一つ置かれている。それは今朝方、ニコラスがモーリッツ老が何者か、
判定を下すために用いた翡翠だった。
「……」
 その時の事を思い出しつつ、そっと近づいてみる。
 神の啓示です、という、短い言葉でモーリッツ老が人である、と宣言した神
父に対し、ニコラスのそれは儀式めいたものを感じさせた。水を張った器の中
に翡翠を一つ沈め、静かに竪琴を奏で始めたのだ。翡翠はその旋律に応じるよ
うに静かに震え、やがて、白い光を放った。その光を確かめた後、ニコラスは
竪琴を弾く手を止めて静かにこう言ったのだ。
「……白光が示すは、穢れなき魂魄……ご老人は、人間だ」
 結果として、モーリッツ老への信頼が確かなものとなったのだが、結局どち
らが真の能力者なのかを判別する手がかりとはなり得なかった。
 その後も二人に対する村人からの質疑応答は続き、それが一段落した所で神
父は教会へ戻り、ニコラスもどこかに姿を消していた。いつもの場所に行けば
会えるだろう、とは思ったが、何故かそういう気にはなれなかった。
 昔から知っている人と、最近現れた人と。
 そのどちらを信じればいいのか、という気持ちの揺らぎ。
 皆はどちらかと言うと神父寄りなのだが、カタリナ自身はどちらが本物なの
か、さっぱりわからない、という状態だった。どちらも疑いたくない、という
気持ちが先走っているような、そんな感じだった。
 ため息をついて、白く光る翡翠から視線を逸らす。
 被害者が出てしまった以上、何もしないわけにはいかない。
 そんな結論から、疑わしき者は処刑し、少しでも被害を減らさなくてはなら
ない、という方針が打ち出されてしまったのだ。勿論、この方法は無実の犠牲
者生む可能性も孕んでいるが、何もしない訳にはいかないのもまた、事実だっ
た。
「本当なら、こんな方法は取りたくないのだけれど……」
 多忙な村長ヴァルターに代わり、会議の議長役となったパメラは本当に申し
訳なさそうにこう呟いていた。
 議長として、処刑者を決定しなければならないパメラが、一番辛い立場にあ
るのは容易に察する事ができる。だからこそ、その負担を軽減したい、という
気持ちはあるのだが、気持ちに思考がついて行かなかった。
 それでも、考えなくてはいけない。それが、自分にできる唯一の事。
 そう思う事で気持ちを奮い立たせつつ、カタリナは椅子の一つに座って、自
分なりの考えをまとめ始めた。

 夜風が、冷たい。
 宿から出て、最初に感じたのはそれだった。
 対策会議が終了し、今日人か否かを判定する者と、明朝処刑する者が決定し
たのを確かめると、ニコラスは竪琴を抱え、アトルを肩に乗せて外に出た。
「……」
 吹き抜ける夜風が、金色の髪をかき乱すに任せてしばし立ち尽くしてから、
ゆっくりと歩き出す。目指すのはいつもの場所──白薔薇の中の空き地だ。
 いつもの場所に落ち着くと、ニコラスは小さなため息をついてその場に腰を
下ろした。
『にこ……』
 膝の上に飛び降りたアトルが、物言いたげな視線を向ける。ニコラスはその
頭を軽く撫でてから、行け、と小さく呟いた。アトルはこくん、と頷き、翼を
広げて飛び立つ。
 アトルがどこに行こうとしているのかは、わかっている。明朝の処刑者とし
て選ばれたリーザの所だろう。まだ幼い、と言える年頃の彼女を処刑する事に
抵抗を覚える者もいたが、強く異を唱える者もやはりいなかった。
 そこにあったのは、奇妙な安堵と、不安。
 自分が処刑されなかった事への安堵と、明日は自分が処刑される可能性への
不安だ。
 それらの感情を否定する意思は、ニコラスにはない。それは、人が人である
が故に生じる、当然の感情と思うからだ。
 人は、弱い存在。
 だからこそ、揺らぎ、惑い、誤る。
「……俺も、その一人である事は否定できぬからな……」
 自嘲的な笑みと共にこんな呟きをもらすと、ニコラスは静かに竪琴を奏で始
めた。
 静かな旋律が、薔薇園に満ちていく。紡ぎだされているのは、古い時代の子
守唄だ。耳にした村人たちが、少しでも安らげるように。そんな思いが、その
曲を選ばせていた。
 竪琴を奏でながらも、考えを巡らせる。
 『人狼』。それは、彼が探していた存在だ。そう称される者たちが帯びる、
独自の力を集める事。それが彼の目的の一つなのだ。被害者が出た事で『人狼』
がこの村にいると確信でき、また、こちらの機先を制するように自らを能力者
と称した神父がその一人である可能性は高いと見なしているものの、それを立
証する術が全くない事が、苛立ちを感じさせた。
 我を張るばかりの一方的な主張は、受け入れられる事はない。
 それとわかっているだけに、ただ、神父が偽の能力者である、と主張するだ
け、という訳にはいかないのだ。だからと言って、論拠立ててそれを説明する
にしても、根拠となるものが少なすぎるのが現実だった。幸か不幸か、それに
ついては向こうも余り変わらないらしく、頭ごなしにこちらを否定するような
行動は取らなかったのだが。
「やれやれ……口下手な俺には、厄介な相手だな、まったく……」
 動き難い状況に、ふとこんな呟きをもらした時、かさり……という足音が耳
に届いた。
「……誰だ?」
 反射的に手を止め、低く誰何しつつ音のした方を振り返る。一瞬張り詰めた
気持ちは、そこに立つ者の姿を見るのと同時に微かに緩んだ。やって来たのは、
カタリナだったのだ。いつも被っているケープのフードを下ろしているためか、
印象がやや違って見える。
「ご、ごめんっ……邪魔するつもりは、なかったんだけど……」
 しどろもどろの言葉に、ニコラスはやれやれ、とため息をつきつつ立ち上が
った。
「もう夜も遅いと言うのに、何をしているんだ? 今が、危険な状況なのは、
わかっているだろうに?」
「それは……そうだけど」
 近づいて問いかけると、カタリナはこう言って俯いた。
「だけど、何だと?」
「何となく……眠れそうになくて……」
 消え入りそうな声に、ニコラスは微かに眉をひそめる。取りあえず元いた場
所に腰を下ろし、カタリナを隣に座らせると、ニコラスは再び竪琴を爪弾き始
めた。
「……不安か?」
 しばしの静寂を経て、ニコラスはそっとこんな問いを投げかけた。問いに、
カタリナはえっと、と口ごもる。
「無理はしなくていい。自分に対し、どのような判定が下されるのか……不安
になるのも仕方ないだろう」
 静かな言葉に、カタリナはうん、と頷く。
 会議の結果、明朝行われる人か否かの判定の対象となったのはカタリナだっ
た。今一つ、意見がはっきりしないから──理由の大半は、そんなところだっ
た。リーザが処刑の対象となった理由も余り変わらず、どちらがどちらの対象
になってもおかしくない状況だった。
「それは、私は、私が人間だって、わかってるから……だから、それを確かめ
られる事は、構わないんだよ? でも……もし、どっちかが、私が人じゃない
って、言ったら……私、どうすればいいのかなって、そう考えたら……」
「不安になる、か……しかし、それを俺に言うのか? もしかしたら、俺がお
前を人ではない、と断ずるやも知れんというのに?」
 冗談めかした言葉に、カタリナはぎょっとしたように顔を上げ、まじまじ、
とこちらを見つめた。
「……冗談だ。とにかく、そんなに気を張るな」
 素直な反応に苦笑しつつこう言うと、カタリナはややむくれて見せた。それ
から、まだどこか不安そうに大丈夫だよね、と問いかけてくる。
「お前は、自らの魂魄に穢れない、と言い切れるのだろう? それならば、石
が俺に偽りを示す事があり得ぬ以上、俺がお前を人ではない、と断じる事もま
た、あり得ぬ」
 静かな宣言は、それなりに不安を取り除けたらしく、カタリナはうん、と言
って表情を緩めた。
「そうだよね、自分の事、一番ちゃんとわかってるのは自分だもんね……ほん
と、ダメだなぁ、こんなに怖がっちゃって。リーザの方が、ずっとずっと怖い
はずなのに」
 呟くような言葉と共にカタリナは肩を震わせた。それが処刑というものに対
する恐れなのか、夜気の冷たさによるものなのかはわからない。わからないが
──何故か、支えてやりたい、という思いが生じていた。そして、その思いに
促されるまま、ニコラスはカタリナの肩を抱き寄せる。
「……えっ……」
「死するという事は、決して終わりと同義ではない。始まりへと続く、一つの
過程。目覚めを待つ眠りでもある」
「目覚めを待つ……眠り?」
 突然の事にカタリナは驚いたようだが、その驚きよりも、月を見つめつつニ
コラスが語った事への疑問がほんの少しだけそれを上回ったようだった。ニコ
ラスは月を見つめたまま、そう、と頷く。
「通常であれば、新たな生を得て目覚めるが、もし赦しが得られるのであれば、
再び、そのままの姿で目覚める事もあるやも知れんな」
「つまり、リーザとか、ゲルトが、また目覚める……生き返るって事? そん
な事、ほんとにあるのかな……」
「ない、とは言えぬさ。奇跡を信じる意思があれば、それを信じる事もできる
のではないか?」
「そう、か……そうだよね……信じてみたいな……」
 短い呟きと前後して、カタリナの身体から力が抜けたのが感じられた。
 穏やかで温かい静寂が、ふわりとその場に舞い降りる。
 冷たい夜気の存在すら忘れられる温かさ。
 放したくない。
 ふと過ぎったそんな思いが、腕に力を込めさせた。
(……何をしている、俺は?)
 それと共に、こんな考えが脳裏を掠める。
(一箇所に止まる事を自らに認める事すらのできぬ身で、何を求めていると言
うのか……)
 深い縁や絆を求める事はできない。それは相手の、そして自分自身の負担と
なる。それとわかっていると言うのに、何故、手を放そうとしないのか。
 答えが出ない──いや、出せないのだろうか。
 答えを出してしまうと、尚更放せなくなるような、そんな気がしていた。
 放さなければならない、という現実があるのだから、答えは出せない、と理
性が説く。
 放したくないのだから、答えを出して認めてしまえ、と感情がそれに抗う。
 そんな、相反する思考の攻防は、不意の呼びかけによって終結した。
「……ニコラス?」
 思考の攻防が呼び起こし、表情に浮かんだ苛立ちに気づいたのだろうか。カ
タリナが、怪訝そうに名を呼んできたのだ。はっと我に返ってそちらを見やる
と、心配そうな瞳がじっとこちらを見つめていた。
「……どうか、したのか?」
「どうかって……今、怖い顔してたよ? どうしたの?」
「何も、ない……考え事をしていただけだ」
「考え事?」
「……大した事では、ないさ」
 微笑みながら告げる頃には、思考の乱れはあらかた鎮まっていた。感情が理
性を制した状態。それが危険な状態とわかってはいるものの──既に、押さえ
は効かなくなっていた。
「ほんとに……?」
 心配そうな問いにああ、と頷いて。それに続く言葉が発せられる前に、唇の
動き、それそのものを封じてしまう。ほんの一瞬大きな瞳が見開かれ、そして、
静かに瞼が下りた。
 何度目かの静寂が、場を優しく包み込む。

 刻を、止めたい。

 そんな考えを最後に抱いたのは、一体いつの事だったろうか……?



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