02 束の間、安らぎて


 『安らぎの村』。
 誰が最初に言い出したのか知らないが、それが、この小さな村の通称なのだ
という。
 確かに穏やかで、心安らぐ村かも知れない。
 滞在して数日、彼──ニコラスはふと、こんな事を考えるようになっていた。
 穏やかな空気と、気のいい人々。良すぎるくらいに元気の良い子供たち。
 花屋を営んでいる、という農夫が日々手入れを欠かさない花畑の見事な花も、
村の穏やかさを引き立てている、と言えるだろう。
 そんな穏やかな村だけに、自分がこの地に引き寄せられた理由が今一つわか
らなかった。
 この村に、彼が探すものがあるとは思い難い。
 しかし、違和感を感じるのも事実なのだ。
 その違和感の理由を解き明かすまでは滞在しなくては、と思う反面、ニコラ
スはある事態に戸惑いを感じ、対処に困ってもいた。
 一体、何かと言うと。

「えっと……あ、いたいた!」
 はしゃいだ声が、ぼんやりとしていた意識を覚醒させる。
 花畑の中に点在する、小さな空き地。その中でも、特に白い薔薇が多く植え
られた一画を、ニコラスは日中を過ごす場所と定めていた。朝に宿を出てから
日が暮れるまでの間、相棒である翼を持つ白猫のアトルを伴い、日長一日竪琴
を爪弾いている。
 基本的に、彼は他者との関わりを好まなかった。定住を是としない旅人の身
という事もあり、余り滞在先の人々と深い縁を持たないようにしているのだ。
故に、こうして単独行動を取るのは彼としては当たり前の事だった。
 勿論、最低限の人付き合いまでないがしろにする気はなく、夜になれば宿の
一階で食事をする人々に請われるまま、竪琴の演奏をする事もある。また、同
じ余所者である行商人のアルビンとは、旅先の情報交換のような感じで言葉を
交わす事もしばしばあった。
 村の人々も彼の静寂を好む気質を感じ取ったのか、積極的に話しかけてくる
事は余りしなかった。代わりと言っては何だが、お喋りをする子猫アトルは、
物珍しさもあってか多くの人々に構われていたのだが。
 そんな中にあって、ほぼ唯一、例外と言えたのが先ほどの声の主──羊飼い
のカタリナだった。
 村を訪れた日にアトルを見つけた彼女は、この不思議な生き物がよほど気に
入ったらしく、自分の仕事の合間合間にニコラスの元を訪れてはアトルとじゃ
れていた。アトルの方でも、彼女の事は気に入っているらしい。
 別に、それが煩わしい、という訳ではない。だが、アトルが村の子供たちと
遊んでいてニコラスと共にいない時にも、カタリナはここにやって来る。そう
して他愛ない出来事を楽しげに話したり、こちらの旅の話を聞きたい、とせが
んだりしてくるのだ。
 旅の話なら、自分よりも遥かに饒舌なアルビンに頼んだ方が良かろうに、と
思い、一度はそう言ったものの、
「だって、竪琴も聴きたいんだもの!」
 それに対する返事は簡潔かつ理に適っていた。
 かくて、何故こんな事になったのか、という疑問を残しつつも、ニコラスは
カタリナが自分と一緒にいる事を容認するようになっていた。
 ……否、せざるを得ない、と言うべきだが。
『うにゃ♪ りなちゃ〜♪』
 弾んだ声に早速アトルが反応して声を上げる。ニコラスはつい先ほどまでの
ぼんやりとした物思いを振り払い、真紅の瞳を空き地に駆け込んできたカタリ
ナに向けた。どうやら走ってきたらしく、息が弾んでいる。僅かに頬が紅潮し
ているのもそのためだろう。
「こんにちわ、アトル。えっと、ニコラス、お昼すませちゃった?」
 視線を向けると、カタリナは早口にこう問いかけてきた。ニコラスがいや、
と短く応じると、表情にすぐさま安堵が浮かぶ。
「じゃあ、サンドイッチ食べない? オットーが、たくさん作ってくれたの。
すごく美味しいんだよー!」
 矢継ぎ早の言葉にやや気圧されるものを感じつつ、ニコラスはああ、と短く
応じた。カタリナはほっとしたような表情を一瞬覗かせ、ニコラスの隣にちょ
こん、と座って抱えてきた袋を開いた。袋から出てきた包みの一つをニコラス
に渡すと、カタリナはもう一つの包みを開き、嬉しそうにサンドイッチを食べ
始めた。
 食べている時は、事の外幸せそうに見える。
 そんな勝手な思考を巡らせつつ、ニコラスは受け取った包みを開いて期待の
眼差しを向けてくるアトルにサンドイッチを一つ預けた。アトルはにゃん、と
嬉しそうな声を上げると、預けられたそれを両手で抱えてかじり始める。ニコ
ラス自身とは言えばサンドイッチには手をつけず、ぼんやりとした目を空へ向
けた。
 日差しと、風が心地良い。
 それらの穏やかさが、ここが平穏である事を感じさせ、同時に不安をも煽っ
た。
(一体、この村のどこに、『穢れ』を帯びし者がいると言うのか……)
 疑問が心の中を過ぎり、その瞬間、微かに表情が険しくなる。その微妙な変
化を、カタリナは目敏く見つけたようだった。
「……ニコラス?」
 不思議そうな呼びかけにはっと我に返って振り返ると、どことなく心配そう
な茶色の瞳と目があった。
「……っ……」
 真摯な瞳。それは何故か記憶の残滓を呼び起こし、直視する事に恐れを抱か
せる。その恐れからつい目を逸らすと、カタリナはびっくりしたように視線の
先に回りこんできた。
「ど、どうかしたのっ!?」
 勢い込んで問いかけてくる姿に、どう答えればいいのかという思いが過ぎる。
それと共に、何故こうも自分の僅かな変化にすぐに気がつくのか、という疑問
も感じていた。
「なんでもない……ちょっと、考え事をしていただけだ」
 直視はせず、しかし、露骨に視線を逸らさないように気をつけつつ、早口に
問いに答える。
「考え事って……でも、今、すごく怖い顔してたよ……?」
「そんな事は……」
「もしかして、私……邪魔しちゃってる?」
 不安を帯びた言葉を否定しようとするより早く、カタリナは消え入りそうな
声でこんな問いを投げかけてきた。思いも寄らない一言に、ニコラスは返答に
詰まる。
「何故……邪魔である、などと?」
 やや間を置いて問うと、カタリナはだって、と言いつつ俯いた。
「何故って聞かれると、困るんだけど、そんな気がして……私、いつも押しか
けてきてるから……もしかしたら、一人でいたいのに、邪魔してるのかなって、
そう思って……」
 消え入りそうに言いつつ、カタリナは上目遣いにこちらを見上げた。瞳には
不安が色濃く浮かんでいる。今、自分が口にした言葉を肯定されたらどうしよ
うか。そんな思いが、そこから読み取れた。
「いや、別に俺は……」
 とはいえ、多少困惑こそすれ、邪魔や迷惑などとは思った事はないのも事実
なのだ。先ほど表情を険しくしていたのも、彼女とは全く関わりのない、自分
の問題に関する事なのだから。
(まったく……どんな勘違いをすれば、このような結論に達するというのか)
 ふとこんな事を考え、ため息をつく。恐らくは見たまま、感じたままに受け
止めているのだろうが、態度で誤解を招き易いニコラスにとっては、ある意味
一番厄介な相手とも言えた。
 今までであれば、こんな誤解を招く事も気には留めなかった。深く縁を結ぶ
事もない相手なのだからと、それで済ませてしまっていたはずだ。
 だが、何故か、この時だけは。
 それで済ませたくない、という無意識が働いていた。
「そんな顔をするな……俺は、お前が邪魔だとは、ただの一度も思ってはいな
い」
 穏やかな口調で答える瞬間、無意識の内に微かな笑みが浮かんでいた。ある
意味では微笑ましくもある勘違いにふと気持ちが和んだのかも知れないが、そ
れは思わぬ効果をもたらしていた。
「……わ……」
 短い言葉と共に、カタリナが大きく目を見開く。と、思うと白い頬にさっと
朱が差し、直後にカタリナは俯いてしまった。度々の思わぬ反応に、さすがに
ニコラスは面食らう。
「どうか、したのか?」
「な、なんでもないっ!!」
 問いに、カタリナは早口に答えつつ、くるりと背を向けた。なんでもない、
といわれて鵜呑みにするにはおおよそ無理のあるその様子に、ニコラスはしか
し、と言いかけ、
「……?」
 異様な気配に気づいた。
「……」
 そう言えば、と思い至る。このやり取りの間、いつもなら即入りそうなアト
ルからのボケ突っ込みは一切なかったのだ。ニコラスはちらり、とアトルの方
を見やり、そして。
「……カタリナ」
 ため息混じりに背を向けたままのカタリナに呼びかけた。
「な、なに!?」
「いや……アトルが、な」
「アトルが、どうかし……」
 ニコラスの言葉に、カタリナは背を向けたままでアトルの方を見、
「あーっ!? 私のサンドイッチーっ!」
 直後に絶叫した。
『なう〜♪』
 二人の会話から忘れ去られている間に、アトルは草の上に置き去りにされて
いたカタリナのサンドイッチを綺麗に平らげ、満足げな様子で顔を擦っていた
のだ。
「ひどいよ、アトル〜! 私まだ、一つしか食べてなかったのに〜!」
『にゃう? でも、りなちゃ、なげちゃてたにゃ〜』
「うっ……そ、それはそうだけどー!」
『おとちゃのさんどいっち、おいしかったにゃ〜♪』
「ううっ……だから、楽しみにしてたのに、アトルのばか〜!」
『なぅ?』
「もぉ〜! 食べ物のウラミは、怖いんだからねっ!」
『にゃ〜ん♪』
 カタリナの訴えを、アトルはどこ吹く風、という感じで受け流している。対
照的なその様子が妙におかしくて、ニコラス半ば無意識の内に笑い出していた。
それに気づいたカタリナは、すぐさまむくれた顔をこちらに向ける。
「あー、笑ってるー!」
「っと……いや、すまん……しかし……」
「もうっ、二人とも酷いんだからーっ!」
「だから、すまんと……そう、怒るな」
 何とかなだめようとはするものの、笑いながらでは説得力がないだろう。そ
う思って何とか笑いを納めようとするが、どうも上手く行かなかった。
 こんなに笑ったのは、何時以来だろうか。
 ふと、こんな思いが過ぎる。
 すぐには思い出せないが、だいぶ前だった事だけははっきりとわかる。そし
て久しぶりの声を上げて笑う、という行動は、それ自体が楽しくさえ思えてい
た。
 こんな考えに囚われていたニコラスはその時、怒ったような表情で自分を見
つめるカタリナの瞳に、今までなかった色彩が浮かんでいる事に、全く気づい
てはいなかった。

 そして、自分の中でこの羊飼いの娘の立ち居地が、以前とは変わりつつある
事にも。



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