01 訪れしは、咎人


 その時、求めていたものはただ一つ。
 ひたすらに、力のみを求めていた。

 何一つ護れなかった己の不甲斐無さへの苛立ちと、そして、理不尽に大切な
存在を奪い取った存在への復讐心。
 それらに突き動かされるままに力を求め、禁忌に触れた。
 生まれ育った村の外れにひっそりと建つ、『封印塚』。そこには、呪われし
力が眠ると言われ、決して近づいてはならぬ、と戒められていた。
 眠っているのが何であるか、それを正確に知る者は村にいなかった。村で最
も古い、『珠楽奏』と呼ばれる秘儀を受け継ぐ一族である彼も、断片的な話し
か聞かされてはいなかったのだ。
 ただ、眠れるものと彼の一族──『珠楽師』には、関わりがあるのだ、とだ
け。そして、塚の封印だけは守り続けよ、という戒めだけが伝えられていた。
 だが、そんな戒めは、今の彼にはなんら意味を成さなかった。
 右腕に抱えた愛用の竪琴と、左手に握り締めた黒曜石。一族に伝わる秘儀を
行う最低限の道具のみを残して全てを失った今、禁忌に触れる事によって降り
かかる災禍など、瑣末な事としか思えなかったのだ。
 塚にたどり着いた彼は、握り締めていた黒曜石をひっそりと佇む石の社の前
に並べ、竪琴を奏で始めた。乱れがちの旋律に応じるように宝石が色鮮やかな
光を放ち、放たれた光は石の社に絡みつく。光に絡みつかれた社は大きく震え
た後、音を立てて崩れ落ち、そして。
 ……グォオオオオオオっ!!
 地の底から響くような、という表現、それそのもののような低い唸りと共に、
黒い霧が地面から噴き出してきた。霧は思わぬ事態に立ち尽くす彼を飲み込み、
あっという間に視界が黒一色に染まる。
 噴き出してきた霧が自らの求めた禁忌の力である事、これが人の手で制御し
うる物ではない事、そして自分の存在がこの霧に侵食されている事。
 ほんの一瞬冷静さを取り戻した意識が、そんな分析を下す。
 自分はどうなるのか。そんな、不安を帯びた考えも浮かぶが、それはすぐに
別の思い──諦観へと取って代わる。
 この力は恐らく、世界自体を脅かす。場合によって、消滅させるやも知れな
い。
 世界が消滅すれば、自分から全てを奪った存在たちも消え失せるだろう。
 それならそれで構わない──そんな考えに至った時。
『お主自身は、それで良いのかぇ?』
 低い女性の声が、意識の内に響いた。
(それで……良い? なに……が?)
『このまま、無為に死する事。それが本意かぇ? 生きたい、とは、思わぬの
か?』
(全てを失い……無為に生きていても……)
『ならば、何故、あの場で自決してしまわなんだ?』
(……)
 畳み掛けるような問いの連続が、困惑を呼び込んだ。
『復讐、などというのは、死を恐れる者の用いる詭弁じゃ。お主は生きたい。
そう思うておる』
(そんな事は……)
『では何故、お主は未だに『竜魂』に喰われておらぬ? 何故わらわの声を聞
き、それに答えておる?』
(それは……)
『生きたい、死にたくない、そう思うておるからこそ、無意識が『竜魂』の侵
食を止めておるのじゃろ?』
(俺は……お前、は……?)
『わらわは守人。狂いし『竜魂』の監視者。さて、如何にする? だいぶ、侵
食が進んでおるのお……このまま喰われてもよい、と本心より願うのであれば、
わらわは沈黙し、おぬしが消滅した後『竜魂』を再び封じるまでじゃ』
 はぐらかすような言葉に彼は戸惑い、同時に、自分が迷っていることに気が
ついた。『生きたい』と心のどこかが思っているのだろうか。監視者と名乗る
者が言うように、死にたくない、という願いがあるのだろうか。
 だからこそ、自ら死を選ぶ事を避けたのだろうか。
(……わからない……)
 自分の気持ちを、最も端的に表せる言葉が浮かび上がる。
『そうか、わからぬか。では、わかるまでは生きねばなるまいな』
 その言葉を待ち構えていた、と言わんばかりのタイミングで監視者がこんな
事を言い、そして。
 自分を取り巻いていたはずの霧が、全て、消え失せた。

「……っ!」
 午睡の最中の夢はそこで破れ、唐突に現実が流れ込んでくる。数回瞬きをし
てかすんだ視界をはっきりさせるが、そこは当然のように記憶の中の場所では
なく、目に映るのはぼんやりとした霧の漂う森の風景だった。
「夢か……ん?」
 深いため息をつきつつ呟いた直後に、彼は違和感を感じた。
「……アトル?」
 眠る前には確かに傍らにいたはずの、相棒の姿がどこにもないのだ。改めて
周囲を見回してみるが、森の中には彼の他に動くものの姿はない。またどこか
へ飛んで行ったか、と舌打ちしつつ、彼は二つある荷物袋の一方を肩にかけ、
もう一方を右腕に抱えて歩き出した。
 森の小道をしばらく進むと。大気に微かな変化が現れた。少しずつだが、甘
い香りが感じられるようになったのだ。どうやら花の香りらしい、と思い始め
て間もなく道が森を抜け、視界が開けた。同時に、鮮やかな色彩の乱舞が目に
入った。
 赤や薄紅、白など、色とりどりに咲き乱れる花々。取り分け種類が多いのは、
薔薇の類だろうか。花畑の向こうには簡素な佇まいの家々が並び、人が生活し
ている事を伺わせる。
「……」
 美しくも、どこか異様なものを感じさせる真紅の瞳が、すい、と細められる。
彼はゆっくりと道を進み、途中の分岐点で花畑へと続く小道を選んで乱舞する
色彩の中へと降りて行った。
「おや、旅の方ですか?」
 花畑の中をしばらく進むと、唐突に誰かが声をかけてきた。ふと顔を上げる
と、横合いの小道から出てきたらしい青い法衣姿の男性が目に入る。装いから
して、聖職者だろうか、などと考えつつ、彼はああ、と頷いた。
「宿を探しているのだが。どこか、泊まれる所はあるだろうか?」
 短い問いに、男性はええ、と言いつつ道の先を振り返った。
「この道を真っ直ぐ行くと村の広場に出ます。広場の正面に、『フリーデル』
という宿がありますよ。私も所用で宿に向かう所ですので、宜しければご案内
しましょう」
「いや、場所を教えてもらえれば充分だ。落ち着く前に、連れを探さねばなら
ぬ」
 温和な口調の申し出を短く断ると、男性はおや、と言いつつ首を傾げる。
「お連れの方ですか? はぐれてしまわれたのでしょうか?」
「はぐれた、と言うよりは、勝手に飛んで行った、と言うべきだが……どこか
で、白い猫を見なかったか? 猫と言っても全く普通とは言い難い、言わば似
非猫だが」
「似非猫……ですか? 生憎、猫は見かけておりませんね」
 似非猫、という表現に男性は戸惑ったようだが、すぐにこう答えた。この返
事に彼はそうか、とため息をつく。
「情報、感謝する。では」
 短く言いつつ会釈をすると、彼は男性が出てきた物とは違う分岐に足を踏み
入れた。男性はしばしその背を見送り、それからゆっくりと歩き出す。
「……」
 向けられていた視線が外れるのを感じた彼は足を止め、軽く、男性の方を振
り返る。帽子の下から微かに覗く真紅の瞳には、何故か険しいものが浮かんで
いるようにも見えた。だがそれも一瞬の事であり、真紅の瞳はすぐさま余り感
情の感じ取れない、無機質な色彩を織り成して道の先へと向けられる。
 花と花の間を縫うように続く道をしばらく進むと、前方から複数の声が聞こ
えてきた。若い男女の声に混じって、聞き覚えのあるたどたどしい喋りが聞こ
えてくる。それに気づいた彼は一つため息をつき、声のする方へと足を速めた。
花の列が織り成す角を曲がると開けた空間に抜け、そこに、聞こえてきた声の
主たちの姿があった。
 何故か猫じゃらしを手にした赤毛の男と、杖を抱えた、どことなくあどけな
い雰囲気の娘。彼らの視線の先には小さな白い猫がしゃがみこんでいた。猫、
と言っても普通の猫ではない。白い翼をその背に持った、真紅の瞳の子猫だ。
子猫はふわふわと揺れる猫じゃらしに手を伸ばしていたが、不意に、にゃっ、
と声を上げてふわりと飛び上がった。
『にこ〜! にこ、きたの〜!』
 舌足らずな口調で、本当に嬉しそうにこう言いつつ、子猫は彼の肩へと飛び
乗ってきた。嬉しげに喉を鳴らしつつ擦り寄る子猫に、彼はやれやれ、と嘆息
する。
「……まったく……アトル、勝手に飛んで行くなと言っただろうが」
 小さな頭を撫でてやりつつこう言うと、彼は子猫──アトルを構っていた二
人の方に向き直り、
「……っ……」
 不思議そうに首を傾げてこちらを見ている娘の姿に、息を飲んでいた。

 ほんの一瞬、過去と現実、記憶と視界とがあり得ない交差をする。

 それらを気の迷い、と一瞬で片付けると、彼は二人に向けて軽く会釈をした。
「相方が、騒がせたようだな」
 静かに、告げる。

 この時はまだ、これから起こり得る事、自身に起きる変化。
 それらは何一つ、見えてはいなかった。
 魂魄の色彩を見る事により、その本質を読み取る力を有する、彼ですら。

 ……否、自分の事だからこそ。
 それらは、予測すらできなかったのかも知れないが。



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