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   28

「……残る厄介は、コレだな」
 誰に言うともなしに、ユーリが低く呟く。
「そうです、ね……」
 その呟きに、ラヴェイトがこちらも低くこう呟いた。声がややかすれている
のは、圧し掛かるような負の思念の影響だろうか。
「無事か、ラヴェイト?」
「……平気です……まだ」
 短い問いに、ラヴェイトは額の汗を拭いつつこう答える。
――ナゼ――
 空間に、低い声が響いた。
――ナゼダ――
――ナゼニワレラ――
――テンヘカエレヌ――
「あなたたち自身が、帰ろうとしないから!」
 その声に、シーラが叫ぶようにこう言った。
――ワレラガ?――
――ワレラガ?――
――イナ――
――ワレラハ タダ ソレヲノゾンデ――
――『ラクエン』ノフッカツヲ――
「ここはもう、『楽園』なんかじゃない!」
――イナ――
――ココハユウキュウノ『ラクエン』――
――ワレラハ――
――ワレラハ コノチデナケレバ――
――イキテハユカレヌ――
――イマレ――
――サゲスマレ――
――オワレル――
「そんな事ない……もう、そんな事、ないの!」
――イヤダ――
――イヤダ――
――ココヲデレバマタ――
――オワレル――
――イヤダ――
 シーラの叫びに、霧はぶるぶると震えながらこう訴え続けた。
 過去に翼の民が受けたと言う迫害。それから逃れるために、この都市は作り
出された。そこを離れる事で、再び虐げられるという恐怖、それが彼らを縛り
つけている。
 思念たちの訴えから導き出された結論に、シーラは唇を噛んだ。
「……ヤツらは半ば、都市そのものと同化している」
 いつの間にか隣りにやって来ていたギルが、ぼそりとこう呟いた。
「都市……そのものと……」
「解放する術は、わかるはずだ。『監視者』」
 静かな言葉にシーラはこくん、と頷いた。元々、自分はそのために来たのだ。
この都市――古代都市エデンという名の呪縛から、囚われた全てを解放するた
めに。
「ならば、それを成せ。それが、皆の願いだ」
「……はい」
 ゆっくりと、ゆっくりと立ち上がる。立ち上がったシーラはぐるりと『中枢』
の内部を見回した。
 六芒星形の部屋の頂点それぞれと、部屋の中央にある水晶柱。一見、単なる
装飾に見えるそれは、その一つ一つが都市機能の制御装置だ。環境を司る物、
飛翔を制御する物、生産を制御する物、防衛を制御する物、住人の管理をする
物、都市の動力を管理する物と、それら全てを管理する、言わば総合制御装置。
 他の六つはともかく、総合制御装置に手を触れられる者は少ない。それを許
されていたのは『調和者』と『制御者』。そして、『監視者』にもその資格が
与えられていた。
 その限られた者だけが触れられる水晶柱の前に、黒い霧が立ち込めている。
さながら、何者にも手を触れさせまいとするかのように。
「……シーラさん」
 どうやって霧の向こうへ行こうかと思案するシーラに、ラヴェイトが静かに
呼びかけた。
「あ、はい」
「彼らは思念体。即ち、心より生じた存在。そうですよね?」
 唐突な質問に戸惑いつつ、しかし、その通りではあるのでシーラははい、と
頷いた。
「わかりました。では、僅かな時間ですが、ぼくが彼らをあそこから引き離し
ます」
 その間に行って下さい、と微笑むラヴェイトに、シーラはえ? と言いつつ
瞬いた。
「できるのかよ、そんなコト?」
 きょとんとするシーラに代わり、ユーリが眉を寄せつつ問いかけてくる。
「フィルスレイムの、禁忌の技を用いる事になりますが、可能です。ただ、難
しいものなので、長くは無理なのですが」
「禁忌の……技?」
 『禁忌』という言葉が妙に不安をあおるが、ラヴェイトはにこりと微笑むだ
けだった。
「……わかりました。お願いします、ラヴェイトさん」
 逡巡を経て、シーラはこう言って微笑みを返した。今は、悠長に手段を選ん
でいる場合ではないからだ。ラヴェイトははい、と頷いて表情を引き締める。
シーラも表情を厳しくしつつ、総合制御装置へと向き直った。その肩を、リッ
クがそっと抱き寄せる。
「合図したら、一気に走るよ」
「……リック……」
「オレは、キミと一緒だ」
 優しい笑みと言葉が嬉しかった。自分がこれから何をしようとしているのか、
全て理解した上で、リックはこう言ってくれている。それがとにかく嬉しくて、
シーラは笑顔でうん、と頷いた。
(……微笑ましいな)
 そんなシーラとリックの様子に、ラヴェイトはふとこんな事を考えていた。
寄り添い、支え合う少女と少年の姿に心の一部が痛まなくもないが、二人の絆
の強さは純粋に美しいと思える。
『……』
 苦笑めいた笑みを浮かべるラヴェイトの傍らに水の精霊が舞い降り、不安げ
な様子で彼を見つめた。
「無理を、するつもりです。申し訳ありませんが、支えてください」
 不安げな精霊に苦笑したままこう言うと、ラヴェイトは水と土、二つのエレ
メント・コアを握り締めた。その表情が、いつになく厳しく引き締まる。
 生命と言う存在そのものに干渉するのが、フィルスレイムの技だ。それは用
い方次第で他者の生死は勿論、不可侵であるべき領域――心すら、容易に操る
事ができる。その技は流派の秘儀とされ、ごく一部の者にしか伝える事は許さ
れず、また、用いる際には大きなリスクを負う事になっていた。
 用いた時間や規模に応じて、自分の心や記憶を失う。
 それが、禁忌の技にかけられた呪いだ。使い続ければやがて心を失い、廃人
と化す事になる。
 八十年ぶりに現れた適合者として伝授されはしたものの、ラヴェイトはそれ
を決して用いまい、と誓っていた。他者の心を操る事への嫌悪感と、自分の心
を失う事への恐怖感故に。だが。
(それが、全ての終わりと始まりに繋がると言うのなら)
 自分の心など惜しくはない。本気で、そう思えた。
 左手をすっと前に差し延べ、力を集中させる。灯った青い光はいつになく、
青白く見えた。ラヴェイトは左手を握り締める事で青い光を握り潰し、飛び散
った光は黒い霧の中へと飛び込んだ。それと同時にエレメント・コアが光を放
ち、その光がラヴェイトを護るようにふわりと包み込む。
(我が意のままに。我に抗うは、何者にも成せぬ事)
 声に出さずに呟きつつ、左手をゆっくりと上へ上げる。霧は僅かに震えるも
のの、ラヴェイトの操る力に逆らいきれずに上へと動いた。
「……シーラ!」
「うん!」
 霧が隠していた水晶柱――総合制御装置が目に入るなり、シーラとリックは
走り出していた。黒い霧は一瞬それに反応するが、ラヴェイトは二人を阻む事
を許さなかった。
 そうして、何かを強制する毎に、心の奥で何かが砕けていく。それが何であ
るか、いつの記憶であるのか、確かめる術はない。
 だが、別に構いはしなかった。幼い頃の記憶には、苦しいものの方が多いの
だから。いっそ、母の泣き顔の記憶は全て砕けてくれればと、そんな風にも考
えてしまう。
 母を悲しませた元凶も、もうすぐ、消滅するはずだから。

「えっと……管理者、認証!」
 柱までたどり着いたシーラは記憶に従い、柱の台座にあるくぼみに『天空の
瞳』を当てていた。碧い光がぱっと飛び散り、水晶柱の上を光が走る。
『管理者認証……コード『ライア・リューナ』……権限値、最大』
 無機質な声が何処からともなく響いてくる。シーラは一つ深呼吸をすると、
冷たい水晶柱の上に指を走らせた。
「全都市機能、停止処理を実行……『終焉の炎』、実行承認」
『全都市機能、停止処理・実行の入力を確認……居住区……生産区……機関区
……全区画内の完全退避を確認……『終焉の炎』を実行します』
 無機質な声が告げるのと前後して、ガシャン!という破壊音が響いた。水晶
柱の一つが突然、粉々に砕け散ったのだ。
『プラント停止……ガーディアンズ停止……フライトシステム停止……』
 声が停止と言うのと前後して、水晶柱は砕け散っていく。それに伴い、『中
枢』が小刻みに震動を始めた事に気づいたユーリは眉を寄せた。
「おいおい……かなり、ヤバイよーだな、こりゃ」
 人事のようなぼやきに、ギルもまた人事のようにそうだな、と返す。
『ライフライン停止。全エネルギーをエネルギープラントに集中』
 やがて、総合制御装置と中央の物を除いた全ての柱が砕け散った。唯一残っ
た柱は、異様な輝きを放ち始める。それと共に周囲の震動が強くなり、精霊た
ちが激しくおびえ始めたのが感じられた。
「ギル・ノーヴァ! ユーリさんとラヴェイトさんを、都市の外へ!」
 突然、シーラが柱から顔を上げてこう叫んだ。
「シーラ!? お前、何言って……」
「了解した、ライア・リューナ」
 ぎょっとするユーリは完全に無視して、ギルはやけに恭しくシーラに礼をす
る。それから、ギルはラヴェイトの肩をつかんで揺さぶり、その集中をやや強
引に解いた。
「亡者どもは、既に抗えぬ。解放してやれ」
「……どうやら……そのようですね」
 ギルの言葉にラヴェイトは一つ息を吐き、力を拡散させた。黒い霧は脅える
ように震えつつ漂うだけで、何もしようとしない。それと確かめると、ラヴェ
イトは改めてシーラを見、何故か嫌な予感を覚えていた。
「……シーラさん?」
「ラヴェイトさん、ありがとう。ごめんなさい……無理をさせてしまって」
 微かに眉を寄せるラヴェイトに本当にすまなそうにこう言うと、シーラはユ
ーリを見る。
「ユーリさん、ありがとうございました。あたしを、ここへ連れて来てくれて」
 嬉しそうに、本当に嬉しそうに、シーラはこう言って微笑んだ。美しいが、
どこか物悲しい笑み。そこには、強い決意も伺えた。
「……シーラさん? 一体、何を……」
「お前、何言ってんだ!?」
「『終焉の炎』を、起動しました。あとは、力の充填を待って、最後の指示を
出せば、都市は消滅します。だから……ユーリさんたちは、行って下さい」
 戸惑うラヴェイトと怒鳴るユーリに、シーラは静かにこう告げる。
「なに、バカな事言って……!」
「行って下さい、ギル・ノーヴァ!」
「御意」
 シーラの叫びにギルは短くこう答え、その手に紅い光を灯した。
「って、ちょっと待て!」
「シーラさん、リック君!」
 ユーリとラヴェイトが叫ぶが、ギルは構わず灯した光を弾かせ、二人共々に
姿を消した。『中枢』の中は急に静かになり、ただ、震動に伴う地響きだけが
音として響いていく。
「……行っちゃったね」
「うん……でも、あたし、大丈夫」
 ぽつん、と呟くリックに、シーラは微笑みながらこう言った。
「オレも、平気だよ……一緒、だから」
 それに、リックも微笑みながらこう返す。それからリックは何事かに気づい
たらしく、あ、と短く声を上げた。
「どうしたの?」
「そう言えば、まだ、言ってなかったなって思って」
 突然の事にきょとんとするシーラに、リックは妙に決まり悪そうに苦笑して
見せた。
「言ってなかった……って?」
「うん。シーラ、オレ……シーラの事、好きだよ」
 真面目な面持ちで言われた言葉に、シーラはえ、と言って目を見張った。
「……リック……」
「だから、側にいる。離れない、から」
「リック……あたし、あたしも、リックが好き。絶対、離れない!」
 告げられた言葉が言いようもなく嬉しくて、シーラは思わずリックに抱き付
いていた。リックはしっかりとシーラを受け止め、そして、二人はごく自然に
唇を重ねる。そうする事で、お互いがそこにいると、改めて感じ取るように。
 『中枢』の震動は激しさを増していくが、しかし、二人の心には恐れなどは
存在していなかった。

 紅い光が弾けた――と思った時には、周囲の様子は一変していた。無機質な
金属の部屋から、黎明の砂漠へ。ふと前を見れば、そこには激しく揺れながら
崩れ落ちていく古代都市があった。
「……おい! 何でっ……」
「『監視者』が最大権限を発動させた。何者も、抗う事はできぬ」
 何故、自分たちだけが脱出した、という問いを言わせる事なく、ギルは淡々
とこう言いきった。
「しかし、だからと言って! 何故、あの二人だけが……」
 そこまで言った所でラヴェイトは激しい目眩を感じてよろめいた。禁忌の技
を使った事で、身体に相当な負担がかかったらしい。
「ちきしょお……あいつら二人、置いて帰れるかよ!」
 苛立たしげに吐き捨てつつ、ユーリは走り出そうとする。冷静に考えれば、
今から走ったところでどうにもならない。しかし、それでも、納得はできなか
った。
 十六年前も、自分一人が生還した。
 様々な思惑と事情の交差故とはいえ、仲間たちを置き去りにしたという事実
は、深い傷となって心に残っている。
 それを再び繰り返すなど、到底我慢できなかった。まだ幼さを残した二人が
犠牲になるというのも、納得できない。
「落ち着け」
 短い言葉と共に、ギルは自らの拳をユーリの前に突き出した。突然の事に虚
を突かれ、ユーリは足を止める。
「なんっ……」
「受け取れ」
「はぁ?」
 唐突な言葉に困惑するユーリの目の前でギルは拳を開き、握っていた物を落
とした。まだ弱い陽の光に、紅と紫の石がキラキラと輝く。ユーリはとっさに
それを受け止め、それから厳しい目をギルへ向けた。
「火と雷のエレメント・コア……」
 炎と雷の精霊の力を秘めた石。それを持っていたのは、ただ一人だけ。
「死者には、無用の物だ」
「死者だと……?」
 短い言葉に、ユーリの表情の険しさが増す。ラヴェイトも困惑しつつ、二人
を見つめた。
「……十六年前、黒き翼の『守護者』の封じられていた場所で、二人の死者が
融合した。一方は身体を、一方は生命を失いかけ、しかし、死ねぬという共通
の一念を持っていた。その念が二人の死者から、本来在らざる存在を生み出し
たのだ」
「それが……お前ってワケかよ?」
 低い問いに、ギルは小さく頷いた。
「身体を失いし者――灰翼の『調律者』ギル・ノーヴァ・アルティレナは死に
かけていた人間に自らの力の全てを与えた。それによって人間は歪んだ生命と
灰翼を得、代償として、アルティレナの使命と願いを引き継いだ。
 新たな『守護者』を正しく導く使命と、かつてアルティレナの愛した者――
『統率者』の魂を救う願いを」
「アルティレナ……では、彼が混乱しながら呼んでいた『アルティ』というの
は……」
 微かに覚えのある名にラヴェイトが低く問うと、ギルはそうだ、と頷く。
「五百年前に灰翼の民を率いた女性だ。『統率者』と愛し合い、しかし、立場
故に引き裂かれた。
 使命を与えられた我は『守護者』を都市より解放し、その覚醒以来、導いて
きた」
「ああ、確かに導いてきたな。だけどよ……そこで、終わっちまうのかよ!」
「灰翼の『調律者』としての使命は、『守護者』の完全な覚醒によって全て果
たされた。アルティレナの願いも果たされはしたが……」
 静かな言葉と共に、ギルはゆっくりと仮面に手をかける。
「……っ!」
 ラヴェイトが息を飲むが、ユーリは冷静なまま、ギルを見つめていた。
「……これで、ギル・ノーヴァと呼ばれた存在は、消滅した事になる」
 仮面を外した男は、静かに言いつつ、手にしたそれを砂の上に投げ出した。
灰色がかった髪と、淡い緑の瞳。過ぎ去った時間相応の齢は重ねているが、そ
の顔を彼らが、特にユーリが見間違えるはずはなかった。
「レッド……殿」
 ラヴェイトが小さく小さく、その名を呟く。ユーリは何も言わない。そして、
かつて爆炎の二つ名で知られた魔法戦士レッドも無言のまま、二人に背を向け
た。
「子供たちの事は心配するな。レイファシスとて、みすみす我が子を死なせは
しない」
「んなこったあ、わかりきってら。で、それだけかよ?」
 淡々と告げるレッドに、ユーリもまた淡々と問う。その間にも都市の崩壊は
続き、砂漠には轟音が響き渡っていた。だが、二人の間には、静寂が張り詰め
ている。
「……レヴィを、頼む」
「結局それか、シスコン野郎っ!」
 呆れたような叫びにレッドは微かな笑みをもらし――そして、紅い光と共に
消え失せた。ユーリは手にした二つのエレメント・コアを握り締める。
「どいつもこいつも……後始末だけ、人に押し付けやがって……」
 低く吐き捨てる、その瞬間だけ琥珀の瞳は陰っていたようだった。そして、
ユーリは顔を上げて崩れていく都市を見る。
「シーラさん……リック君……」
 ラヴェイトもまた、顔を上げて都市を見つめた。

 都市が、崩壊していく。
 伝わる震動と、遠くから響く爆発音から、それは容易に察する事ができた。
「……『終焉の炎』が、起動したか……」
 暗闇の中に膝を突いたまま、レイファシスは低くこう呟いた。
「行かなくては……あの子が、『浄化』を発動させる前に」
 呟きながら、ゆっくりと立ち上がる。ガルベルクに受けた傷は、出血はもう
止まっている。傷みがある訳ではないのだが、力が上手く入らなかった。
 だが、行かなくてはならない。
 何もしてやれず、ただ、過酷な運命だけを与えてしまった子供たち。
 その未来を、死せる者のための犠牲にはできない。
 彼と、彼の愛した女性の最愛の娘と、親友の息子。
 その未来を閉ざす事はできない。
 そんな思いが力を与えたのか、ばさりと音をたてて、純白の翼が、開いた。
「……『中枢』へ」
 短い言葉と共に、その姿が消え失せる。
 五百年間、闇と彼だけが存在していた空間には、一方の主とも言うべき闇だ
けが残された。

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