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   23

『っ!!』
 唐突な事態に唯一対応できた者――水の精霊が力を集中した壁でラヴェイト
と、その肩のアルを受け止めた。
「あ……ありがとう」
 水の壁に寄りかかりつつ、ラヴェイトは笑みらしきものを精霊に向け、きゅ
っきゅっ、と不安げな鳴き声を上げるアルにも同じように微笑んだ。それから
改めて、今自分を突き飛ばしたものを見る。
「……狼?」
 ようやく姿を現したそれは、他の魔獣たちよりも一回り大きい、巨大な狼の
ように見えた。その背にある物――灰褐色の翼が、他の魔獣たちとの違いを端
的に物語っている。
「こいつが、親玉か?」
 呼吸を整えるラヴェイトに、いつの間にか横にやって来ていたユーリが問う。
その声に顔を上げたラヴェイトは、周囲の状況に気付いて目を丸くした。一体
いつの間にそれだけの事をやってのけていたのか、ユーリは魔獣たちの足に攻
撃を集中し、場にいる全ての動きを止めていたのだ。
「なに、前の時の事を思い出してな。親玉を潰すまでは、倒してもキリ、ねぇ
だろ?」
 ぽかんとするラヴェイトに、ユーリはあっけらかん、とこう告げる。倒され
なければ次が現れる事はないのだから、これは妥当な選択だろう。
「さて、ようやく親玉が出てきた訳だが……ここから、どうする?」
 口調だけは軽いユーリの問いにラヴェイトはようやく我に返り、それから、
こちらを睨む真紅の眼を見た。激しい怒りと憎悪。ぎらつく紅からは、それだ
けが読み取れた。
「……浄化……しなくては」
「あん? 浄化?」
 低い呟きにユーリは怪訝そうな声を上げ、ラヴェイトはええ、と頷いた。
「ユーリ殿、地下遺跡で戦った巨大生物を、覚えておられますか?」
「は? ああ、水の精霊を食ってたアレか?」
 大雑把な問い返しに、ラヴェイトははい、と頷く。
「あの生物を巨大化させていたもの……負の生命波。あの時、あの場から消え
失せたものが他の何かを取り込んだ結果かが、今、目の前にいるものです」
 ラヴェイトの説明にユーリはやや眉を寄せた。
「あん時の……黒い、もやっとしたモンが、か?」
「ええ……」
「それで、手の内が読まれちまってるってワケかよ?」
「そう言う事になります」
「……んで、どうするんだ?」
 表情を引き締めたユーリの問いに、ラヴェイトは一つ息を吐いた。
「ぼくが直接干渉をするのは難しいのですが……あの魔獣の中には、正の生命
波も存在しています。恐らくは、負の生命波の依り代となっているもの、それ
本来の波動です。そちらに干渉を集中させて……二つの存在を、切り離します」
 藍の瞳で魔獣を見据えつつ、ラヴェイトはこう言いきった。ユーリは一つ息
を吐いて同じように狼を見る。
「ややっこしい事は任せる。取りあえず、抑えは俺に任せて、お前はそっちに
集中しろ」
 こう言うと、ユーリは静かに剣を構えた。刀身を下へと向けた下段の構え。
ユーリがこの構えを取るのは、迎撃に専念する時のみだ。静かな闘気に、狼は
気圧されたかのように後ろへ下がる。
(強いな、この人は……生命も精神も、どちらも、強靭なものを持っている)
 その様子にラヴェイトはふとこんな事を考えていた。父とは全く正反対の気
質を持つ彼に強く憧れた幼い日が思い出される。つい感傷に囚われそうになる
ものの、ラヴェイトはすぐに気持ちを切り替え、それを振り払った。今は、の
んびりと思い出を彷徨っている場合ではないからだ。
 一つ深呼吸をして、力を集中する。微かな正の波動、それがどこから放たれ
ているのか、まずはそれを確かめなくてはならない。しかし、こうしてその姿
を目の当たりにすると、それは容易に窺い知れた。漆黒の毛皮に覆われた巨躯
の中、唯一色を違える灰色の翼は明らかに異質だ。ラヴェイトはためらわずに
そこへと力を向ける。魔獣の本体とも言うべき負の生命波とは異なり、微かに
息づく正の生命波は抵抗する事なく力を受け入れた。
――たすけて――
 震える声が力を介して伝わってくる。
――くるしいよ――
――『フォルグ・ゼア・リューナ』――
――ぼくをはなして――
(大丈夫、今、そこから解放しますからね)
 意識の上でこう告げると、驚きと、そして安堵らしい感触が伝わってきた。
ラヴェイトはゆっくりと波動の乱れを正していく。
 二つの異なる生命波が融合している、と言うのは、その在り方からすれば異
常な事だ。なら、その『異常』を正せるように一方の波動を導けば、その状況
から解放されるはず。二つの内、一方にしか干渉できない状況においては、こ
れが最善だろう。
 グゥゥゥゥ……
 魔獣が唸りを上げて低く身構えるが、飛びかかろうとするその動作を遮るよ
うに翼がばさりと音を立てて下を向く。明らかにその意に反した動きに、魔獣
は不快そうな唸り声を上げて身を震わせつつラヴェイトを睨む。当のラヴェイ
トはそれに全く気づく事なく、ただ、波動を導く事に専念していた。
 正しい形、在るべき姿。そうある事が自然であり、当然の様子。生命波を正
すと言う事は、そう言った姿を取り戻させる事だ。対象自身の生命の力で、あ
るべき姿へと還る。それを手助けするのがフィルスレイムの技――それと改め
て感じつつ、ラヴェイトは助けを求める声にそっと呼びかけた。
(飛び立って下さい、あなた自身の力で、そこから)
 静かな呼びかけに、波動が微かに震えた。
――でも……うごけない――
(大丈夫ですよ、飛べますから)
 不安げな訴えにラヴェイトは穏やかにこう答える。事実、二つの波動はもう
ほとんど切り離されていると言ってもいい。あとはこの正の波動そのものが、
負の波動から離れてくれればいいのだ。以前の巨大生物は自ら望んで融合して
いたため強引に断ち切らざるをえなかったのだが、今回は違う。
(あなたを解放できるのは、あなた自身なんです。恐れずに、飛び立って)
 諭すようにこう言うと波動が微かに震え、それと共に灰色の翼にも震えが走
った。震えは、その怯えと不安を端的に物語っている。その不安に付け入るよ
うに、負の波動が干渉を始めた。
(……くっ!)
 こちらへの敵意を剥き出しにした波動が力を介して意識に伝わり、衝撃を与
えてくる。断続的な力の行使で疲弊した身体には、それは相当に厳しいものが
あった。それでも、ラヴェイトは力を引く事も、強引な干渉もしようとはしな
い。あくまで正の波動、それ自体が自発的に動くのを待つつもりだった。
 音のない、静寂の中での攻防が続く。負の生命波は何としても新たな依り代
を取り戻そうとしているらしく、その干渉は激しいものがあった。
――ウバワセヌ――
――ワレラノ『ショウチョウ』――
 激しい苛立ちを伴った思念が伝わってくる。
――マッタキツバサ――
――アマカケルチカラ――
――ニドトテバナサヌ――
――フタタビ テンクウニ カエルタメ――
――ツバサヲ――
――ツバサヲ ワレラニ――
(翼……再び、天空に、帰る?)
 不協和音さながらの思念に、ラヴェイトはふと疑問を感じていた。
 翼はここに、古代都市エデンに縁ある者たちに共通する要素だ。この都市に
いたというシーラ、そして彼女に深い関わりを持つゼオやギル。彼らは、その
色こそ違えど全員が翼を持っている。そして、ドゥラに宿っていた負の生命波
は翼から羽のみを失った奇妙な鳥を形作っていた。
(古代都市の民は、有翼人だったと言う事か? そしてそれが、何らかの理由
で失われた?)
 今まで見てきたものから察するに、それは間違いないだろう。そして、彼ら
は再び翼を取り戻す事を望んでおり、そのための鍵となるのがシーラである、
と言う事なのだろうか。
(しかし、何故そうまでして翼に拘るんだ? 以前に言っていた、楽園や聖地
という言葉と、何か関係があるのか……?)
 最初にこの思念と接した時の事を思い出しつつ、ラヴェイトは呼吸と、そし
て力の波動を整える。正の波動は未だ、飛び立とうとしない。だが、明らかに
狼の意に反していると思われる不規則な翼の羽ばたきは、飛び立つか否かとい
うその迷いを物語っているようにも思えた。
(……恐れなくても、大丈夫ですよ)
 不安を伝える波動に、ラヴェイトはやんわりとこう呼びかける。この呼びか
けに正の波動は微かに震え、そして。
――……とびたい……とんで、いいの?――
 今にも消え入りそうにこう問いかけてきた。
(あなたの翼は、あなただけのもの、でしょう?)
 それにラヴェイトは穏やかにこう答える。この返事に負の波動は憤るように
大きく震え、狼も苛立たしげに咆哮した。漆黒の体毛がざわっと逆立ち、巨躯
がぶるぶると激しく震える。内面的な攻防を把握していないユーリも、そのあ
からさまな異常に身構えた。
――……とぶ……そらに……かえる……――
 消え入りそうに小さな、しかし、強い決意を込めた呟きが感じられた。灰褐
色の翼がばさばさとせわしなく羽ばたく。正の波動を再び飲みこもうとする負
の波動の干渉を、ラヴェイトは自分の力を壁にする事で遮った。力を介して伝
わる強い衝撃に、ラヴェイトは歯を食いしばって耐える。
「……行って……くだ、さいっ……」
 振り絞るような呟きに答えるように、魔獣の背の翼がばさっと音を立てて上
を向いた。一瞬の張り詰めた静寂を経て、翼はすっ……と狼の背から離れる。
その翼を背にした幼い少年の姿が幻のように浮かび上がり、それはラヴェイト
に向けて微笑みかけると、明る過ぎる月へ向けて一気に飛び去った。
「……良かった……」
 安堵を込めた呟きをかき消すように、
 グワオオオオウっ!!
 魔獣が絶叫した。怒りと、そして絶望を感じさせる咆哮が響き、直後にその
身体が崩れて黒い霧のようなものに転じる。以前、地下遺跡で見せたものと同
じ姿だ。
「また、とんずらする気か?」
 眉を寄せつつユーリが呟く。
「くっ……それでは……また、繰り返してしまう事に……」
 微かな苛立ちを交えてラヴェイトが呟いた。とは言うものの、既に干渉でき
るだけの余力はない。それでも何とかしなくては、と思案を巡らせ始めた矢先
に、黒い霧がばっと周囲に飛び散った。だが、消え失せた訳ではない。霧は動
きを封じられていた魔獣たちの所へと飛び、強引にそれらを引き寄せ始めたの
だ。
「な……なんだ?」
「ザコどもを、取り込もうってハラか、ありゃ?」
 予想外の事態にラヴェイトは呆然とし、ユーリが冷静に状況を分析する。そ
の読みはどうやら正しいらしく、霧は引き寄せた魔獣を飲み込み、ぶるん、と
震えて球体を形作った。その球体からにゅっと言う感じで四つ足と尻尾が突き
出し、続けて狼の頭部が形成される。そして最後に、先ほどは翼があった所に、
魔獣の首がにゅっと突き出した。
「待てよ、おい。穴塞ぎのつもりかよ」
 奇怪な姿にユーリが呆れたようにこう吐き捨てる。
「恐らく……は。翼を、失った事を、認めたくないのでしょう……」
 その呟きにラヴェイトはかすれた声でこう返す。目の前の存在の不自然さと、
正負入り混じり、既に生命波と称する事にためらいすら覚える波動が与える不
快感が、疲労した心身を苛んでいるのだ。蒼白を通り越して白くなりつつある
顔色からそれと悟ったのか、ユーリは大げさなため息をついた。
「もういいから、お前は休んでろ」
「え……ですが……」
「いいから、ムリしねーで気絶しとけ。先は、まだ長ぇんだ、ここで精魂尽き
果てちまってどーする?」
 口調は軽いが、琥珀色の瞳は厳しい。ラヴェイトは一つ息を吐き、わかりま
した、と言うより早くその場に倒れ伏す。
「やれやれ……そっちは、頼むぜ?」
 気絶したラヴェイトを不安げに見つめる精霊にこう呼びかけると、ユーリは
剣を構え直して魔獣を睨み据えた。魔獣も真紅の目でユーリを睨み返す。ユー
リは一つ息を吐くと、
「よっとお!」
 掛け声と共に跳躍した。魔獣は前足を振るって薙ぎ払おうとするが、ユーリ
はそれを巧みにすり抜け、魔獣の頭部に一撃を与える。が、その一撃はぐにゃ
り、とした手応えと共に跳ね返され、ユーリは空中で態勢を崩した。
「っとお!」
 ほんの一瞬慌てるものの、ユーリはすぐさま風の精霊を呼び集め、その支え
を受けつつ態勢を整えた。着地したユーリは低く身構えつつ、魔獣を睨むよう
に見る。
「さて、こいつは……どうしたもんかな」
 低く呟いて、策を巡らせる。
 先ほどまでとは違い、実態が曖昧になったためなのか、魔獣は剣による斬打
を受け流してしまうらしい。そうなると、いくら剣で斬り付けたとてこちらが
消耗するだけだ。風の精霊の力で切り裂くという手もあるが、多少の傷ならば
すぐに再生するであろう事は想像に難くない。
 思案を巡らせるユーリに魔獣は嘲るような笑みを向けた。その肩が不自然に
盛り上がり、ぶちん、という音と共にその表面が弾け飛ぶ。ずるっという耳障
りな音が響き、弾けた部分から触手のような物が飛び出してきた。その形状は、
地下遺跡の巨大生物の触手を容易に思い起こさせる。
「……おいおい……」
 思わず呆れたような声がもれるが、悠長に構えている場合ではない。漆黒の
触手がびゅっ!と音を立てて大気を裂きつつ、ユーリへと伸びてくる。ユーリ
は舌打ちしつつ剣でそれを薙ぎ払おうと試みるが、弾力のある触手は剣の一撃
を難なくいなし、刀身に絡みついた。
「なにっ!?」
 眉を寄せた瞬間に剣がぐっと引かれ、ユーリは態勢を崩す。そのタイミング
を持ちうけていたかのように、もう一本の触手が唸りを上げて振り下ろされた。
幅広く広がったそれは、どうやらユーリを叩き潰そうとしているらしい。
「ちっ……冗談じゃねぇぞっ!」
 苛立ちを込めて吐き捨てつつ、ユーリは触手の一撃を避けようとするが到底
間に合いそうにない。
『……!』
 水の精霊が防御壁を広げようと力が凝らすが、
「無用!」
 鋭い声がそれを押し止め、直後に大気がゴウっ!と音を立てつつ真紅に揺れ
た。色彩鮮やかな炎が舞い、それが黒い触手を焼き払う。突然の事に戸惑いつ
つ、ユーリは生じた隙を生かして魔獣との距離を広げた。その傍らに、黒い影
が舞い降りる。ユーリはちらりとそちらを見、よぉ、と短く声をかけた。
「また、会っちまったな」
「会わずに事を済ませられぬ以上、止むを得まい」
 軽い言葉に黒い影――ギルは淡々とこう返してきた。この言葉に、ユーリは
そりゃごもっとも、とおどけた様子で肩をすくめる。
「んで?」
「外側は焼き払えば事足りる。後は、核を砕けば良い」
 ユーリが投げかけた短い問いに、ギルはすんなりと答えを返した。まるでそ
う問われると予めわかっていたかのように。この返事にユーリはそうか、と言
って剣を構え直した。ギルはすっと手を上にかざし、そこに炎を灯す。
 説明らしい説明など、全くない言葉のやり取り。しかし、二人はそれだけで
互いの役割を確認してしまったかのようだった。ユーリが半歩、足を前に進め
る。その動きに、突然現れたギルを警戒していた魔獣が大きく身体を震わせた。
ユーリの口元に笑みが浮かび、次の瞬間、その身体が躍動した。明る過ぎる月
の光を銀の刃が跳ね返し、その輝きが瞬間、魔獣の目を射る。視覚に頼りきっ
ているわけではないのだろうが、それは微かに魔獣を怯ませ、隙を生じさせた。
 ユーリは一撃を与える事なく再び跳躍し、魔獣との距離を開ける。直後にギ
ルの手に灯った炎が竜の姿を形作り、魔獣に食らいついた。
 グォオオオオっ!!
 魔獣の咆哮が響く。漆黒の霧の魔獣と真紅の炎の竜は互いに食らいつき、相
手を取り込もうと攻防を繰り広げる。着地したユーリは片膝を突いた姿勢で低
く身構え、静かに呼吸を整えた。
 魔獣と竜はやがて形を失い、色の渦となって更に攻防を繰り広げる。その中
央に浮かび上がった物――血を思わせる真紅の球体を見て取った瞬間、ユーリ
は再び動いた。ざっと音を立てて地を蹴ったユーリは二つの力の攻防の只中に
真っ向から斬り込み、球体に向けて剣を振り下ろす。パキィィィィン、という
澄んだ音が響き、真紅の破片が飛び散った。炎の竜はその破片も含めた霧の魔
獣の全てを飲み込み、ふっと消え失せる。
 静寂が、場に舞い降りる。ユーリはしばし、剣を振り下ろした姿勢でその場
に膝を突いていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、剣を鞘に収めた。
「さて、と……」
「宴は、始まった」
 振り返ったユーリに、ギルは短くこう告げた。この言葉にユーリは微かに眉
を寄せる。
「宴?」
「亡者どもの宴だ。言わば、十六年前の続きだな」
 ユーリの表情が険しさを帯びる。仮面の下のそれは窺い知れないが、ギルも
似たような表情であろう事は想像に難くない。
「そうかい……それじゃ、混ざらねえ訳にゃあ行かねぇな」
「ええ……そうですね」
 不敵な笑みと共にもらした呟きに、かすれた声が相槌を打つ。いつの間に目
を覚ましていたのか、ラヴェイトが起き上がってユーリと、そしてギルとを見
つめていた。異常な生命波が消滅したためか、顔色は大分良くなっている。
「大丈夫か?」
「ええ。この場所の精霊の力が、疲れを癒してくれたようです」
 低い問いににこり、と微笑んで答えつつ、ラヴェイトはゆっくりと立ち上が
る。しっかりとした挙動から、それが虚勢ではない、と判断したユーリはそう
か、と言ってギルを見た。
「さて……んじゃ、まぁ、顔を出すとするかね、亡者さんとやらの宴会によ」
 冗談めかして言う、その瞳には厳しく、真剣な光が宿っていた。

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