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   24

「わぁ……」
 光球たちに誘われ、たどり着いた先でシーラは思わず感嘆の声を上げていた。
精霊庭園の奥には木々に囲まれた泉があり、その表面からは湯気のようなもの
が立ち上っていた。いわゆる、温泉になっているらしい。
――みこさま ここでみそぎして――
――おめしかえ よういするから――
 光球たちはちらちらと瞬きながらこう言って、ふわりとどこかへ飛び去った。
取り残される事に多少の不安を感じつつ、ともあれ、シーラは紅く染まった服
を脱ぐ。身体についた血を溢れている湯で洗い落としてから髪を解き、軽く手
櫛を通してから泉の中へと滑り込んだ。
「……あったかい……」
 じんわりと包み込んでくる温もりに、こんな呟きがもれた。温かさが張り詰
めていた気持ちを解し、シーラはふう、と一つ息を吐く。
 気持ちが落ち着いた所で、シーラは髪をすすぎ始めた。精霊の泉で洗ったき
りだった髪には砂や埃が絡みついている。そんな汚れを丹念に洗い落としてい
くと、陽光色の髪がだいぶ長くなっているのがわかった。
「……シェルナグアを出てから、時間、たってるものね……」
 伸びた髪の長さに、育った街を出てからの時間を改めて感じ取る。同時に、
シェルナグアの人々がどうしているのか、それがふと気にかかった。だが、以
前のような心細さはない。
 今は、リックが側にいる。
 それがシーラの心に与える影響は、かなりのものだ。
「リック……」
 だが、微かな不安も存在している。あれだけの深手を負って、本当に大丈夫
なのか――光球たちを疑う訳ではないが、やはり、それは気にかかった。
――みこさま――
――みこさま――
 不意に声が響き、光球たちが舞い降りてきた。
――みこさまおめしかえ――
――よういできたから――
「え?」
 光球たちの言葉にシーラはきょとん、と瞬く。おめしかえ、つまり着替えの
用意はできたと言われても、肝心の着替えらしき物はどこにも見えないのだ。
「えっと……?」
――いずみあがって――
――そしたらわかるから――
 困惑する姿からシーラの疑問に気づいたのか、光球たちは瞬きながらこう訴
える。その言葉に戸惑いつつ、それでもこのまま浸かっている訳にはいかない、
という思いから、シーラはゆっくりと泉から上がった。明る過ぎる月光の下に
以前よりも柔らかさを増した肢体が浮かび上がり、直後にわっと発生した光球
がその姿を覆い隠した。
「……きゃっ……」
 突然の事にシーラは思わず声を上げる。光球たちはちらちらと瞬き、その明
滅に応じるように、身体に残っていた水気が取り除かれた。直後に白いドレス
がふわりと現れ、身体を包み込んでくる。
「……わ……」
 光球たちが再び飛び散った時、シーラの装いは一変していた。巫女か、でな
ければ神官や司祭の正装を思わせる白いドレスと靴。ドレスには相当高級な素
材が用いられているらしく、肌触りや着心地はかなり良かった。
――ぴったり ぴったり――
――きれい きれい――
 再び舞い降りてきた光球たちが、はしゃぐようにざわめく。
「あ……えっと……ありがとう」
 無邪気な賞賛に微笑みで返すと、光球たちはまた楽しそうにざわめく。さっ
きまで着ていた服と一緒にしていたポーチを拾い、腰の飾り帯を使って身に着
けると、シーラはずっと気にかかっていた疑問を口にした。
「それで……リックは?」
――だいじょぶ――
――くろのみこさま ちゃんとおたすけしたから――
――しろのみこさま まってるから――
「ほんとにっ!?」
 疑問に対する光球たちの答えは、シーラの不安を吹き飛ばしていた。
――うん――
――くろのみこさまも おめしかえおわったから――
――しろのみこさま いこう――
「ええ!」
 光球たちに促され、シーラは草の上を走り出す。少し走ると、草の上に座る
人影が見えた。前に伸ばした手の上に光球を乗せて、何やら話し込んでいるら
しいその装いはつい先ほどまでの黒一色から一転、白地に藍色のアクセントを
入れた上着と、こちらは変わらず黒いズボンとブーツ、という姿になっている。
光球たちの言葉通り、その傷は全て癒えているようだった。
 シーラは走りながら、夢中になってその名を呼んでいた。
「リック!」
「ん? ……シーラ?」
 呼びかけに少年が振り返るのとほぼ同時にシーラはその傍らに達し、ぎゅっ
と抱き付いていた。
「わっ、わわっ!? シーラっ!?」
 突然の事にリックは相当驚いたようだったが、シーラは構わず腕に力を込め
る。鼓動と温かさ。それらから感じる、リックが生きている、という実感。今
は、とにかくそれを感じていたかった。
「……良かった……」
「……え?」
 思わずもらした呟きに、リックは不思議そうな声を上げる。
「リックが無事で……また、会えて……」
「シーラ……」
 シーラの言葉にリックは僅かに表情を陰らせ、それから、小さくごめん、と
呟いた。唐突な謝罪にシーラは戸惑いながら顔を上げる。
「どうして、謝るの?」
「どうしてって、心配かけたし、それに……」
「それに?」
「自分を見失っている間に……何度も、傷つけたから」
 苦々しげな言葉に、シーラは一瞬返答に困る。確かに、ゼオの冷たさに辛い
思いはしていた。それが、苦しくなかったとは言えないが、しかし。
「でも……護って、くれたから」
 それでも自分を護ってくれた事、ユーリやラヴェイトを救うために剣を振る
ってくれた事に代わりはなかった。何より、今は以前と変わらぬ優しさ、温か
さを持ってここに、すぐ側にいてくれる。その事実は、何物にも替え難い喜び
を伴って、そこにあった。
「シーラ……ありがとう」
 微笑みながら告げた短い言葉に、リックの表情を安堵が過る。
「でも……これだけは教えて。あの時、一体何があったのかだけは」
 それは、ずっと気にかかっていた事だった。ファシャーム山で別れた後、一
体何があったのか。ゼオへの変貌は何故起きたのか。先ほど言いかけていた、
『流された』という言葉の意味もずっと気にかかっている。
「どう、言えばいいのかな……オレ……暴走、したんだ」
 シーラの投げかけた疑問にリックはまた表情を陰らせ、それから、ゆっくり
と話し始めた。
「暴走?」
「そう。シーラを逃がした後、追手に傷つけられて、死にかけて……死にたく
ない、死ぬのが怖い。そんな気持ちがずっと眠っていた力に働きかけて、爆発
するみたいに目覚めさせたんだ」
 その時の事を思い返しているのか、リックの表情は暗い。
「それで……それから、どうなったの?」
「あんまり、良くは覚えてない。ただ、制御できない力が、追手を……全部、
殺したのは、確かなんだ」
 全部、殺した、と告げる声は微かに震えていた。こちらも殺されかけたのだ
から、と言ってしまえばそれまでだが、やはり、人を殺したという事実はリッ
クには重いのだろう。シーラは何を言えばいいのかわからず、ただ、リックの
身体に回した腕に力を込めるしかできなかった。
「それから……暴走が治まって、意識を取り戻したオレは、目の前の状況に驚
いて、怖くなって……まして、あの時は自分に翼があるなんて知らなかったし。
それでまた、驚いて……何がなんだかわからなくなって、閉じこもった。逃げ
出したんだ」
「それが、さっき言ってた……」
「流されたって事……怖さに負けて、流されたんだ」
「リック……」
「情けない、よね。挙げ句、空っぽの状態になって、あんな酷い事ばっかり言
って」
 シーラから目をそらしつつ、リックは自嘲的にこう呟いた。
「それは……それは、もういいの! あたしは、あたしはね、リックが生きて
てくれて……ちゃんと、約束守ってくれただけで、充分なんだからっ!」
「シーラ……」
「だから……そんな風に、自分、責めないで……」
 じっと見つめつつこう言うと、リックはうん、と頷いてようやく微笑んだ。
「生きてられたのは、ギルのおかげだけどね。怪我したままで意識を失ったオ
レを助けてくれたの、ギルだから」
「ギル? あの人が?」
「うん。自分を閉ざして空っぽになっていたオレに、『守護者』としての在り
方を示してくれたのも、ギルだったんだ」
「……『守護者』……」
 短い言葉を繰り返して、シーラは目を伏せる。『監視者』や『守護者』と言
った言葉、それが何を意味するのか。大切な事のはずなのに、それは未だには
っきりとはわからなかった。
「シーラ?」
 突然目を伏せたシーラに、リックはやや眉を寄せる。
「あたし……ううん、あたしたちって……何なのかな?」
「え?」
 唐突な呟きに、リックは困惑したようだった。
「どう言う事?」
「『監視者』とか、『守護者』とか……それに、どんな意味があるのかなって」
「『守護者』は、文字通りの意味だよ。『監視者』を護るための騎士……対の
存在。少なくとも、オレはそう認識してる。だけど……」
 ここでリックは言葉を切り、不自然な途切れ方にシーラはきょとん、と瞬い
た。
「だけど、なに?」
「あ、えっと……な、何でもないよっ」
 言葉の先を促すと、リックは早口にこう言って僅かに目をそらした。頬が、
微かに紅い。
「何でもって……」
「ホント、何でもないから!」
 そう言われて納得するには、大分無理のある様子なのだが。
「……リック、そういう風に何でもないって言う時、いっつも何かあるじゃな
い?」
 つい、拗ねたような声を上げると、リックはえ、と引きつった声を上げた。
「え? そ、そう……だった?」
「そうよ、いつも、そうだった」
「って……オレ、別に、そんなつもりじゃ……」
 問い詰めるとリックは本気で困ったように口篭もる。その様子にシーラは追
求を諦め、代わりに、ずっと気にかかっていた事を問いかけた。
「そう言えば、リック……」
「え? な、なに?」
「いつの間にか、自分の呼び方、変わってるね……」
「……え? あれ?」
 言われて初めて気がついた。そんな感じで、リックはとぼけた声を上げた。
「気づいてなかったの?」
「うん……何て言うか、オレって言うのに、妙に、慣れてて……おかしい、か
な?」
「ん……おかしいって言うか……」
 急に男らしくなったような感じもして、妙にどきり、とするというのが正直
なところだったが、さすがにそれはちょっと言い難かった。
「でも、いいと思う。リックが、その方が自然だと思うなら」
 素直に答える代わりにこう言うと、リックはほっとしたように微笑んだ。そ
れに微笑み返しつつ、シーラはポーチを開いて中から空色のバンダナを取り出
す。ファシャーム山で別れた時に、リックから渡された物だ。
「シーラ、それ……」
「うん、リックの……ちゃんと、返さなきゃって思って……持ってたの」
「あ……ありがと」
 本当に嬉しそうにこう言いつつ、リックはシーラの手からバンダナを取り、
畳み直して自分の額に巻いた。髪と瞳の黒に、鮮やかな空色が映える。
――みこさま――
――みこさま――
 しばらく姿を消していた光球たちが再び舞い降りたのは、その時だった。
――みこさま――
――ひめさまがね――
――ひめさまが および――
「ひめさま?」
 舞い降りてきた光球たちの言葉に、シーラはきょとん、とする。リックの方
もわからないらしく、不思議そうに光球たちを見つめていた。
――そう ひめさま――
――ずっとずっと みこさまたちまってた――
――あいたいって――
――おはなししなきゃって――
――じかんないからって――
――だから――
――だから きて みこさまたち――
 光球たちの訴えには、何故か切迫するような響きが感じられた。シーラは困
惑しつつリックを見、リックも同じような顔でシーラを見る。
「リック……」
「行ってみよう。このままここに居ても、どうにもならないし」
 リックの言葉にシーラはうん、と頷き、二人はゆっくりと立ち上がる。その
周囲を光球たちがふわりと取り巻き、空間が揺らめくような感覚を経て、足元
の感触が変わる。草の上に変わりはないようだが、妙にひんやりと冷たいよう
な心地がする――と考えた直後に光球たちが飛び散り、目に入った光景にシー
ラは息を飲んだ。
「こ……ここって……」
 今、自分たちがいる僅かな草地を除いたほぼ全域に水の満たされた部屋。水
の中からは背の高い草が生え、その先には白い星のような花が、群がるように
して幾つも咲いている。
「……」
 見た事はない、と思う。だが、こんな部屋の話を以前に聞いた。そう、ユー
リが自分を見つけたという部屋の様子として。
「シーラ?」
 呆然と立ちつくすシーラの様子に気づいたのか、リックが怪訝そうな声を上
げた。シーラは反射的にその腕にすがりつく。何かにすがっていないと、立っ
ていられないような気がしたのだ。リックは戸惑いながらも空いている方の手
をシーラの手に重ねた。
――みこさま――
――みこさますすんで――
 傍らに舞い降りた光球が促し、同時に、水の中から光り輝く橋のような物が
浮かび上がってきた。シーラとリックは顔を見合わせ、それから、リックが短
く行こう、と促す。奇妙な不安を感じつつも、シーラはそれに頷いた。

『床一面に、水が張ってあってな。そこから草が生えて、花まで咲いてた。砂
漠の真ん中の遺跡で、だぜ? いきなりは信じられなくてぽかん、としてたら、
更に信じられない物を見つけちまった』

 ユーリから聞いた話が、ふと脳裏をよぎる。

『部屋のど真ん中には、水晶かなんかで作ったらしい筒があって……その中に
は、一人の赤ん坊がいたんだ……シーラ、それがお前だよ』

 ゆっくりと、光の橋を進んで行く。やがて、前方に透き通る柱のようなもの
が見えた。ここがユーリの言っていた部屋なのだとしたら、あれが自分の入っ
ていたという筒なのだろうか、いや、ユーリは確か筒は割れたと言っていたは
ず――そんな事を考えつつ、前へと歩みを進める。一歩を踏み出す毎に、リッ
クの腕に掴まる手には自然、力が篭もった。
 ずっと知りたいと思っていた事。知らねばならないと思っていた事。その答
えが近づいている。
 不安はある。恐怖も、ないとは言えない。だが、引き返す事はできない。答
えを得るのは、自ら望んだ事なのだから。
 そこにある答えがどんな形でも、逃げずに受け止めたい。
 一人きりだったら、挑む事すらできなかったかも知れない。だが、今は一人
ではない。
(だから……逃げない)
 改めてこう決意を固めた時には、透き通る柱はもう目の前だった。二人は足
を止めて柱を見つめ、そして。
「……えっ……」
「こ……これって……」
 ほぼ同時に、困惑した声を上げていた。
 部屋の中央は短い草の茂る小島になっており、そこには透き通る柱が一本と、
同じ柱の残骸のようなものが一本建っていた。そして、建っている柱の中には。
「人? いや……この姿って、まるで……」
 リックが呆然と呟く。柱の中には、一人の女性がいた。勿論と言うか普通の
人間ではなく、その背には美しい純白の翼がある。そしてその姿は、二人にあ
る慣れ親しんだものを容易に思い起こさせた。
「……女神……精霊神様?」
 シーラが呟く通り、その女性の姿は精霊神として崇められる女神に良く似て
いた。神殿で育てられた二人にとって、それは朝晩に祈りを捧げる、非常に身
近な存在とも言えた。
(なに……? 何だか……凄く、懐かしい……)
 そして、それとは全く異なる懐かしさを、シーラは柱の中の女性から感じて
いた。
「……」
 ゆっくりと歩みを進めて、柱へと近づく。二人が柱の直前に達するのとほぼ
同時に、柱の中の女性が閉ざしていた目をゆっくりと開いた。美しく澄んだ、
空色の瞳が二人を見つめ、口元に微かな笑みが浮かぶ。
『戻ってきたのですね……全き翼持つ、最後の子供たち……』
 それと共に、頭の中に声が響く。柱の中の女性の声なのは間違いないだろう。
「あ……あなたは?」
『わたくしは……レイフェリア。白き翼の『調和者』レデュア・リューナ・レ
イフェリア』
 シーラの投げかけた問いに、女性――レイフェリアは静かにこう答えた。
 
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