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 ヴンっ!
 深緑の鱗に包まれたドラゴンが尻尾を振るうと、周囲の木々がばきばきと音
を立ててなぎ払われた。とっさに飛びのいた事で古森妖精の射手たちに被害は
無かったものの、木々が失われた事で高さの優位が奪われてしまった。
「くっ……」
「シェアラ、どうする!?」
「どうするもこうするも……」
 シェアラ、と呼ばれた古森妖精は、苛立ちを露にして叫ぶ。
「ここで、食い止めねばならぬのだ! 戦うしかあるまい!」
「しかし、我らだけで……」
「気を強く持て!」
 気弱な声を上げる仲間を一喝すると、シェアラは弓に矢をつがえた。目を狙
って矢を放ったものの、それはドラゴンの鉤爪に叩き落とされてしまう。矢の
数には限りがある。一矢とて無駄には撃てなかった。
「くっ……」
 シェアラは憎々しげな面持ちで、目の前の狂ったドラゴンを見つめた。
 全く、何の手立てもないわけではない。部族一と謌われる彼の弓の技と手に
した古森妖精の秘宝・樹霊の弓の力を持ってすれば、ドラゴンの鱗すら射抜く
事ができる。できはするのだ。
 だが樹霊の弓の力を開放するには、数分の精神集中が必要となる。古の魔導
の力に酔ったドラゴンを前に、不動の姿勢で精神を集中していれば、それは殺
してくれと言っているのに等しいだろう。
 今ここにいる部族の射手たちにドラゴンの注意を引かせてもいいが、ただで
さえ種としての衰えが目立ち、出生率も低下している古森妖精の現状を思えば、
彼ら若い射手たちを危険に晒すのは好ましくない。いや、部族を統括する長と
して、それだけは避けたい、とシェアラは思っていた。
(しかし……このままでは、勝ち目はない)
 彼らが負ければ、このドラゴンは慎ましい暮らしを営む古森妖精の村を襲う
だろう。そうなれば古森妖精は根絶やしにされ、古の知識は闇へと消える。そ
れもまた、耐えがたかった。
 何より、村には身重の妻がいる。百年ぶりに宿った新しい生命を育む、掛け
がえのない者がいるのだ。
 シェアラは軽く頭を振ると弓に矢をつがえた。決断をしなければならない。
現状を打破するには、何かを犠牲にしなければならないのだ。シェアラはごく
小さなため息をつくと、矢をぱらぱらと当ててドラゴンを牽制している射手た
ちに呼びかけた。
「シヴ、レイテ、ラーディ、フェディヌ……向こうの注意を、逸らしてくれ」
 大を生かすために、小を危険に晒す。現状ではそれが最良の策だろう。
「……わかった」
 シヴが短く返事を返す。
「すまんな……だが、あくまで攪乱に徹してくれ」
「わかりました」
 短い言葉の裏に隠された願いに、四人の古森妖精の射手は頷いた。ある者は
短弓を構え、ある者は弓を置いて小剣を抜く。シェアラは目を閉じると、周囲
に満ちる精霊たちの力を手にした弓に集中し始める。
 乱入者は、その瞬間に飛び込んできた。
「風斬刃!」
 聞き覚えのある声が、古森妖精たちの耳に飛び込んでくる。射手たちがはっ
とそちらを振り返るのと同時に、狂いドラゴンがギエエエエエっ! と絶叫し
た。再びそちらを見れば、彼らの武器をほとんど受け付けなかったドラゴンの
深緑の鱗が切り裂かれているのが目に入る。
「……その声は……」
 気勢を削がれた形のシェアラが、掠れた声で呟く。
「ルア……ルアか!?」
 その問いに答えるように、薄暗い森に陽光色が跳ねた。続けて、威勢のいい
声が呼びかけてくる。
「よお、シェアラ! 久しぶりだな!」
 ドラゴンが作った空間と森との境界線に、抜き身の大剣を下げた剣士の姿が
あった。古森妖精の部族にとっては唯一の、人間の友。彼はドラゴンとの間合
いを計りつつ、軽い口調で呼びかけてきた。

「なーにてこずってんだよ、らしくねえな!」
 驚いたように自分を見つめる古森妖精たちに向け、ルアはにやっと笑いなが
らこう呼びかけた。
「……一度に多数の生命を任されると、つい臆病になってしまうものだ……」
 それに、シェアラは苦笑しつつこう返してくる。
「ルア!」
 そこに、遅れて走り出したリーンとマルトが追いついてきた。マルトは状況
を見て取ると、首にかけた銀の聖印を取り出して天に掲げる。
「大地の息吹よ!」
 聖印から淡いオレンジの光が立ちのぼり、傷ついた古森妖精たちを包む。大
地の持つ育みの力を取り出し、癒しの力に変換して森妖精たちに与えたのだ。
「すまぬ、女神の使いよ!」
 シェアラが軽く頭を下げると、マルトはにこっと微笑って聖印を握る手に力
を込めた。
「……守りの風よ!」
 聖印から淡い緑の光がこぼれ、その光を取り込んだ風が五人の古森妖精と三
人の人間をふわり、と取り巻く。風の防御壁は、痛みにばたばたと暴れるドラ
ゴンの攻撃を悉く受け流した。
「どう、さばく?」
 シェアラの傍らに歩み寄ったルアは、ドラゴンを見据えながらこう問いかけ
る。
「……今の状況なら……精霊撃を使えるな」
 それに、シェアラは短くこう返す。
「てきとーに、稼いでやるか?」
 言いつつ、ルアはちらりとマルトの方を見た。マルトは一同を包む風の防御
壁の維持に、全神経を集中しているようだった。リーンがその前面に立って、
振り回されるドラゴンの尻尾を自分の障壁で受け流している。マルトの額には
汗の玉が浮いていた。
「なるべく急げよ。長持ちしねえぞ、この壁」
「ああ……」
 短く返すと、シェアラは再び弓に矢をつがえた。樹霊の弓が淡いグリーンの
光を発し始める。それを見た古森妖精の射手たちは、再び武器を構えてルアに
軽く頷きかけた。ルアも軽く頷き返す。
「やーれやれ。ここんとこ、何かってーと竜属とケンカしてんな……」
 聖域で戦ったドゥーム・ワイバーンを思い出しつつ、ルアは小声で呟いた。
それから、シェアラと同じように大剣に力を込める。こちらは精霊力ではなく、
ルア自身の気力──俗に闘気と呼ばれる力だ。剣匠級の使い手ともなると、こ
の闘気を自在に操れるようになる。先ほどの風斬刃という技も、この闘気を刃
の形に変えて飛ばしたものなのだ。
 刃が蒼い闘気を纏う。短い気合と共に、ルアはなぎ倒された下生えを蹴った。
闘気を込めた刃は通常の三倍近い力を秘めている。それを持ってすれば、鋼の
刃を跳ね返す竜鱗さえも切り裂く事ができるのだ。
 射手たちの援護を受けつつ、ルアはドラゴンの周囲をくるくると走り回って
その気を引いた。深緑のドラゴンは自分の周囲を走り回る存在を何としても捕
らえようと、その鉤爪をめちゃくちゃに振り回している。
「……? シェアラ、急げ!」
 ふと仲間たちの方を見たルアは、ふらつくマルトの様子から集中の限界が近
い事を見て取り、シェアラに向けて怒鳴っていた。それからその場に足を止め、
振り下ろされた鉤爪を横にした大剣でがっきと受け止める。
「ルア!?」
 それを見たリーンが驚いて声を上げる。
「ルア、そのまま動くな!」
 集中を終えたシェアラが怒鳴るのに、ルアはわかってる、と応じてドラゴン
を睨み据えた。ドラゴンは大剣ごとルアを押し潰そうというのか、ぎりぎりと
手に力を込めている。対するルアは闘気を高め、その力を押し返した。
「……すごい」
 場合ではないと思いつつも、リーンはついとぼけた声を上げていた。こうい
う場面には古代英雄譚などで良くお目にかかるが、現実に見る事になるとはさ
すがに思っても見なかったのだ。
 どさっ……
 そうやって呆然としていると、背後で何かの倒れる音がした。リーンははっ
と後ろを振り返り、倒れたマルトの姿にぎょっとする。
「マルト!」
 精神力の限界に達したのか、マルトは気を失っていた。リーンが倒れたマル
トを慌てて抱き起こすのと同時に、周囲に翡翠の閃光が弾ける。
「!?」
 近くの木にマルトをもたれさせたリーンは、戦いの場を振り返る。閃光の源
は弓を構えたシェアラだ。彼の手にした樹霊の弓が、眩い光を溢れさせている。
シェアラは閉ざしていた目を開けると、一声、叫んだ。
「樹霊よ……汝が破の力を、この場に集わせ光と変えよ!」
 凛、とした声が響き、シェアラはつがえた矢を放つ。矢は翡翠に煌く光の粒
子を散らしつつ、ルアと押し合うドラゴン目掛けて翔んだ。
 飛来する物の気配に気づいたドラゴンは反射的に首を巡らせ──それが、そ
のまま勝負を決めた。
 グギャオオオオウっ!
 光の矢がドラゴンの眉間を射抜く。一拍間を置いてどす黒い血が傷口から吹
き出し、深緑の竜鱗を濡らした。
「ルア、とどめを頼む!」
 その場に片膝を突いたシェアラにおう! と応え、ルアは軽く身体を屈める。
「はっ!」
 気合と共に、ルアは再び下生えを蹴って跳躍した。大剣は蒼い力の炎を揺ら
めかせつつ、ドラゴンの右肩に深く食い込む。
「うおおおおっ!」
 雄叫びが森にこだまする。蒼く輝く剣はドラゴンの巨体を喰い千切り、強引
に反対側に抜けた。
 ズウウウウン……
 大剣が抜けるとドラゴンは周囲を揺るがして地面に倒れ、ルアはぶんっと大
剣を振って額の汗を拭った。
「……いっちょあっがりーっと……」
 一転して軽い口調で言いつつ、ルアは膝を突くシェアラの方に歩み寄る。シ
ェアラは額に張りつく銀糸の様な髪を寄せつつ、ルアに笑いかけた。
「助かった……礼を言う」
 途切れがちの言葉にははっきりそれとわかる安堵と、そして、喜びがこもっ
ていた。
「礼、言われる類の事じゃねえよ。近く通りかかったらどたばたしてたんで、
ちょっかい出したまでさ」
「……相変わらずだな……」
 素っ気無い物言いに苦笑めいた表情で返しつつ、シェアラはゆっくりと立ち
上がった。同時に、古森妖精の射手たちが二人の所に集まって来る。
「ルア、久しぶりだな!」
「もう、二度と来ないと思っていたぞ!」
「いや、元はそのつもりだったんだけどな」
 射手たちは親しげな口調でルアに声をかけ、ルアも打ち解けた表情でそれに
応えている。その様子を、リーンはどことなく不思議そうな面持ちで見つめた。
「……ルアって、一体……?」
 何となくそんな事を呟いた、ちょうどその時。
「……あれ?」
 倒れ伏したドラゴンの屍が、微かに動いたような気がした。リーンは危機感
を覚えてそちらを見やり、そして。
「ルア!」
 とっさに、走りだしていた。誰もが息絶えた、と思っていたドラゴンが、ゆ
っくり、ゆっくりとその腕を振り上げていたのだ。
「あん?」
 切迫した声に気づいたルアは、リーンとは対照的にのんびりとした様子で振
り返る。
「いかん!」
 それとほぼ同時に、状況に気づいたシェアラが叫んだ。
「危ない、ルア!」
 叫びつつ、リーンはルアの前に飛び出していた。飛び出したリーンの背にド
ラゴンの、最後の力を振り絞ったらしい鉤爪の一撃が振り下ろされる。
「……リーン!?」
 動揺を帯びたルアの絶叫が響いた次の瞬間、空間に真紅の薔薇が花弁を広げ
た。
「リーン!! ……てめ、このやろ!」
 まだ大剣を鞘に収めていなかったのが幸いした。ルアは背を抉られ、ぐった
りしたリーンの身体を片腕に抱えたまま剣を振るう。剣は、鉤爪が第二撃を振
り下ろす直前にそれを切り落とした。
「リーン!」
 ドラゴンが動かなくなったのを見て取ると、ルアは大剣を放り出して腕の中
でぐったりしているリーンに呼びかけた。しかし、リーンは応えない。ドラゴ
ンの鉤爪の前に鋼の鎧など無意味に等しい。青いブレストプレートごと引き裂
かれ、リーンの背中は紅に染まっていた。
「リーン! おい、リーン、しっかりしろよ!」
 呼びかけつつ、ルアは半ば無意識の内にリーンの身体を揺さぶっていた。そ
れが出血を酷くする、という考えは完全に抜け落ちている。
「馬鹿、動かすな!」
 シェアラの一喝で、ルアは辛うじて平静を取り戻し、揺さぶる手を止める事
ができた。
「ラーディ、先に行って村に報せろ! すぐに手当てができるよう、準備をし
ておけ!」
「はい!」
 やや若い古森妖精の射手が、シェアラの声に弾かれて走りだす。
「レイテは女神の使いをお連れしろ。ルア、しっかりしろ! まだ、息はある
ぞ!」
「あ……ああ……」
 それは、微かな息づかいを感じるのでわかる。だが、ルアは突然の事に呆然
としてしまっていた。
「くっ……シヴ、すまんが、ルアの剣を持って来てくれ。行くぞ! ルア!!」
 言いつつ、シェアラはルアの頬に平手打ちを当てる。衝撃と痛みは、僅かな
がらも落ち着きを取り戻してくれた。
「ああ……わかってる」
 かすれた声で呟きつつ、ルアはリーンをしっかりと抱えて立ち上がった。

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