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  古森妖精の村は、突然の怪我人に大騒ぎになっていた。
 足の早い者を先に行かせて事情を報せていた事もあり、リーンはすぐに古森
妖精の癒し手の元に運ばれた。気絶したマルトも、共に癒し手に預けられる。
二人を癒し手に任せると、ルアはシェアラに連れられて彼の家へと向かった。
「心配するな。ここは、癒し手たちに任せておけ……」
 表情の冴えないルアを干し草のクッションに座らせつつ、シェアラは諭すよ
うにこう言ってうなだれた肩をぽん、と叩く。
「お帰りなさい、シェアラ。あら? あなたは……」
 その声と、人の気配に気づいたのだろうか。奥の部屋との仕切りのカーテン
が揺れて、柔らかい響きの声が居間に入って来た。ルアは気だるげに顔を上げ、
そして。
「……フィーナ……?」
 ゆったりとしたドレスを纏った、見覚えのある古森妖精の女性の姿に目を丸
くした。大きく膨らんだ腹部は、彼女が身重である事を物語っている。ルアは
思わずシェアラを振り返り、それからまた、女性に目を向けた。
「フィーナ、湯浴みの支度は出来ているか?」
 ぽかん、としているルアを横目に、シェアラは同じくきょとん、としている
女性に声をかけた。
「え? ええ……」
「そうか。では、わたしの服の中から適当な着替えを用意しておいてくれ。こ
いつを、着替えさせねばならんからな」
「あ……はい……」
 フィーナ、と呼ばれた女性は頷いてカーテンの向こうに消えた。
「……驚いたか?」
 まだぽかん、としたまま揺れている紗のカーテンを見つめているルアに、シ
ェアラが声をかける。
「あ、ああ……今の……フィーナ、だよな?」
「ああ。お前が森を離れた後、わたしが妻に迎えた……見ての通り、新しい生
命を……わたしの子を宿している」
「へえ……良かったな」
 どことなく複雑な表情で、ルアはぽつん、とこう言った。
「まあ、いい。とにかくついて来い。その血を落とさなくてはな……」
「そうだな……」
 呟いて、ルアは自分の腕に残った血の跡を見つめる。生暖かく腕にこびりつ
くそれは、リーンの血だった。
(くそっ……なんで、気がつかなかったんだよオレは……)
 旧友との再会に浮かれて注意を怠った自分が、ルアは許せなかった。それで
も、ここで悔やんでいても仕方ないのはわかっている。ルアは一つため息をつ
いてから立ち上がり、シェアラについて行った。
 古森妖精の住居は他の森妖精たちとは違い、平地に石を積んで作られている。
部屋の入口は厚く縫った紗のカーテンで覆い、必要があれば固い葦を編んだ衝
立を立てたりもする。棚などの調度品も、全て石組みだ。テーブルには表面を
磨いた平たい石を用い、食事の時は干し草を詰めたクッションに座ってそれを
囲む。ベッドはなく、毛皮の上にこれまた干し草を詰めた大きなマットを置い
て、毛織の布を被って休むようになっていた。
 香草の匂いの漂う浴室に案内されると、ルアは汗と血の臭いがすっかり染み
ついた服を脱ぎ捨て、腕や髪にこびりついた血を洗い落とした。それから改め
て埃を落とし、浴槽に頭まで沈む。
 ちなみにこの浴槽も石で作られている。地面を掘って、底や側面に隙間が無
いように磨いた石を敷きつめたり、積み上げてあるのだ。
「……ええい、ちきしょお! なんで、こんな事になっちまうんだよ!」
 息が続かなくなるぎりぎりまで湯の中に沈み、出てくるなりルアは大声を上
げていた。
 どうしようもなく悔しい。ドラゴンの驚異的な生命力を、ドゥーム・ワイバ
ーンと同程度に捉えていた認識の甘さが、リーンに重症を負わせてしまったの
だ。これでもし何かあったら、スティルード子爵に会わす顔がない。
「……リーン……あの、ばかやろが……」
 あそこでリーンが飛び出さなかったら、間違いなく自分がやられていた。そ
れはわかる。わかりはするが、他人に、しかも自分よりも年下の者に庇われて
無事でいるなど、彼自身のプライドが許さなかった。
「死ぬなよ……頼むから、死なないでくれ!」
 切実な願いを呟いて、ルアは目を閉じた。

 それから、ルアと目を覚ましたマルトは落ち着かない日々を過ごす事となっ
た。リーンの様子がわからないため、どうにも落ち着かないのだ。シェアラに
様子を尋ねても、
「大丈夫だ。癒し手を信じろ」
 の、一点張りで埒が開かない。ルアの苛立ちは日毎に募った。それでも身重
のフィーナを憚り、目立って苛立ちを表すのは極力避けてはいたが。
 そんなこんなで、部落に落ち着いてから、五日目の夜。
 夕食の後、ルアはふらりとシェアラの家を出た。そのまま、漆黒のヴェール
をまとった村を特に目的もなく散策する。
「……変わってねえな……」
 村の中央の広場までやって来ると、ルアはぽつん、と呟いた。
 今から三年前、ルアはちょっとした事で自棄を起こして古の森に飛び込んだ。
だが、何の基礎知識も持たない十五歳の少年が生き延びるには、この森はあま
りにも過酷な場所だった。
 怪物に追われて走り回り、方向感覚を無くして倒れていたルアは、偶然通り
かかった古森妖精の少女に救われた。父が古森妖精たちと交流を持っていた事
もあり、集落への滞在を許されたルアは、そのまま一年ほどここで暮らしてい
た。ルアの知識の大半は、ここで吸収したものなのだ。
「でも……時間は、流れているわ……」
 不意に夜闇の中から声が響き、ルアははっとそちらを振り返った。
「……フィーナ……」
 振り返った先には、毛織のショールを肩から掛けたフィーナが立っていた。
「森は、確かに変わっていない。でも……わたしたちは、変わってしまったわ
ね……?」
「……そうだよな……」
 小さく呟いて、ルアは夜空を見上げた。周囲の木々の枝に丸く縁取られた夜
空には、振りまかれた銀砂が遠慮がちに煌めいている。
「変わっちまったよな……お前が、シェアラの嫁さんになってんだから」
 努めて明るく、ややおどけたように言うと、ルアは黙り込んでしまった。
 行き倒れのルアを見つけた少女。それが、フィーナだった。二人は多くの時
間を共有し、いつか、互いに恋心めいたものを抱くようになっていた。
 だが、古森妖精は無限に等しい寿命を持つ種族である。しかしルアは生きて
百年がせいぜいの人間、時の流れが二人を引き裂くのはどうあっても避けられ
ない。
 それがわかっていたから、ルアはフィーナへの思いを断ち切った。古森妖精
の部族を離れ放浪の旅に出る事で、強引に面影を心から追い出したのだ。
「ルア……」
 黙ってしまったルアをフィーナが呼ぶ。
「一つ、お願いがあるの……」
「なんだよ?」
「あなたの名前を、この子にもらってもいいかしら?」
 思わぬ言葉に、ルアは戸惑いながらフィーナを見た。
「……お前と、シェアラの子供にか?」
「ええ……」
「でも……」
「シェアラと、話して決めたの。構わないでしょう? ルア……いいえ、ルイ
シェレイド」
 ルイシェレイド──古代言語で、『英雄』を意味する名。これは父カーレル
と同じ志を抱く同志であった先代の古森妖精の長、つまりシェアラの父から贈
られた物だった。
 交流を断っている二つの種族の間に、それを越えた友情が成立した証。
 そんな意味合いもあった、と滞在中に聞かされたのを覚えている。
「そう……だな。どのみち、オレに英雄になる気はねえし」
 言いつつ、ルアは自嘲的な笑みを浮かべた。
「完全な、名前負けだしな、オレの場合」
「……本当に、そう思うの?」
「フィーナ?」
 思わぬ言葉の連続に、ルアは戸惑いを強めつつフィーナを見る。フィーナは
翠珠の瞳で真っ直ぐにルアを見返して、言葉を綴った。
「少なくとも、わたしは、そうは思わないわ。だって、あなたは……本当の英
雄になろうとしているもの……」
「……よせやい。ガラじゃねえよ、オレの」
 静かな言葉に、ルアはそっぽを向いてかりかりと頭を掻く。そんなルアの様
子に、フィーナは軽く首を傾げた。
「……不思議ね。あなたのお父さまは、英雄になろうとして苦しんでらしたの
に。あなたは、英雄になる事を拒む事で、別の苦しみを得ている……」
「それが、オレの選んだ道さ……後悔は、していない」
 笑いながらこう言い切ると、フィーナは何故か微かに眉を寄せ、それからこ
んな問いを投げかけてきた。
「辛く、ないの?」
「何が?」
 唐突な問いの真意が掴めず、今度はルアが眉を寄せた。
「一人きりで。誰の支えもないのに?」
「それは……」
 辛くない、と言って言えない事もないが、あまりにも虚勢が過ぎる。それと
わかるだけに返事のしようはなく、ルアは口ごもってしまった。
「ねえ、ルア。物事には、いくつかの真理があると思うの……表面に捕らわれ
ていては、一番大切な『本当』は……見えてこないのではないの?」
「えっ……?」
 突然の話題の転換に、ルアは完全に調子を狂わされた。
「……どういう事だ?」
「それは、自分で考えて。それとね、リーンさん、目を覚ましたわ。癒し手の
館に行ってみたらどう?」
「リーンが!? 大丈夫なのか!?」
 二転三転する話題にルアは困惑するものの、しかし、最後の話題はその困惑
をあっさりとどこかへ吹き飛ばしていた。勢い込んで問うと、フィーナは軽く
首を傾げる。
「それは……目を覚ましたとしか聞いていないから……マルトさんは、もう行
っているはずよ」
「そうか……わかった、行ってみる!」
 言うなり、ルアは走り出していた。リーンの容態はずっと気にかかっていた
だけに、早く知りたい、という思いが身体を突き動かしていたのだ。
「……本当に、わかってるのかしら……」
 その背を見送りながら、フィーナがぽつん、と呟く。
 あれがわかっている態度に見えたら、凄いと言うものではあるが。

 癒し手の館は、村の北の小高い丘の上に建てられている。ルアが館に着くと、
ちょうど先に来ていたマルトが出てくる所だった。
「マルト!」
「お静かに、ルアさん」
「あ、そっか……」
 つい大声を出してしまい、マルトに諭される。そんなルアの様子に、癒し手
が微笑んだ。
「相変わらず、元気がいいようですね、ルイシェレイド。結構な事です」
「……厭味か?」
 ちょっとむくれて見せると、癒し手はまさか、と言ってまた笑った。
「あなたに厭味が通じない事くらい、覚えていますとも! さ、こちらにどう
ぞ。ただし、お静かに。他にも、休んでいる者がいるのですから」
 この言葉に一つ頷くと、ルアは癒し手について館の奥へと足を踏み入れた。
葦の衝立の奥の通路は薬草の香りで満ちている。リーンの部屋は、館の最も奥
まった一室にあった。
「……リーン?」
 部屋に入ると、癒し手は衝立の向こうに戻って行ってしまった。残された形
のルアは他の怪我人や病人を憚って、小さな声でもう一つの衝立の向こうに声
をかける。
「ん……あ……ルア?」
 衝立の向こうから、寝ぼけたような響きの声が聞こえてきた。ルアは静かに
衝立の向こうに回る。リーンは干し草のマットの上に巨大なクッションを置い
て、それに上半身を預けるような形でうつ伏せに寝そべっていた。
「こんな恰好で、ごめん。でも、まだ傷が塞がってないらしくて……」
「無理すんなよ、別に気にしてねえから」
 済まなそうなリーンにこう答えて、ルアは手近なクッションの上に腰を下ろ
した。
「それにしても……お前ってやつあ……」
 何と言っていいのか見当が付かず、ルアはそこでため息をついた。
「無茶しやがって。ふつー、死んでるぜ?」
 どうにか出てきたこの素っ気ない一言に、リーンは力なく微笑む。
「身体が、勝手に動いてたんだ……夢中だったんだね、きっと」
「……もう、二度とあんな無茶するなよ?」
「うん……と、言いたいけど……わかんないな……ルア次第だね」
「オレに、転嫁するか、そこで?」
「あはは……」
「……あはは、じゃねえよ、あははじゃ……ったく、もう!」
 怒ったように言いつつ、ルアは内心で強い安堵を感じていた。リーンが死な
ずに済んだ事、何よりそれが嬉しかった。
(いい気、しねぇもんな……オレを庇って、ってのは……)
 そんな事を考えつつ安堵の息を吐いた所で、ルアはリーンが静かになってい
る事に気がついた。
「リーン……? ……寝てやんの……」
 不思議に思ってその顔を覗き込んだルアは、思わず呆れたような呟きを漏ら
す。リーンはいつの間にか、安心した表情で寝入っていたのだ。
「……どーでもいいけど……」
(なんでこいつはこんなに無邪気な顔して眠れるんだ?)
 ふとそんな事を考えつつ、ルアは足音を忍ばせて部屋を出て行った。

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