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   1

「……」
 何となく落ち着かないものを感じつつ、カールィは空を見上げていた。
「ん〜……」
 何がどう、という訳ではない。ただ、落ち着かないのだ。何故こんなに落ち
着かないのかは自分でもわからないが、ただ、ここ数日の風に落ち着きがない
のは感じていた。
「どしたんだろ……なんか……怖いの?」
 呟いて、そっと虚空に手を差し伸べる。それにすがるように、風が手の周り
で渦を巻いた。風から感じられるのは、強い怯えの念。その怯えがカールィ自
身にも不安を感じさせる。
「怖いの? でも、なんで?」
 そっと投げかけた問いに風は答えない。それが、不安を助長した。
 幼い頃から、カールィはごく自然に風の声を聞き、対話していた。いつから、
と聞かれると、正直困る。気がついた時には風はカールィに話しかけ、そして、
彼は風に言葉を返していたのだから。
「……何なのかな、これ……」
 寺院の最も高い場所である尖塔の屋根の上で、カールィは低く呟く。怯える
風と、それが伝える澱んだ空気。そして、妙に陰って見える北の空。それらの
要素からは、ただ、不安しか感じられない。カールィはきゅっと眉を寄せつつ
北を見つめ、
「カールィ君?」
 穏やかな呼びかけにはっと我に返った。
 声が聞こえてきたのは、すぐ横。それにぎょっとしつつ振り返ると、すぐ側
に淡いブルーの瞳が見えた。
「ゆ、夢様っ!? ……わわっ!!」
 上ずった声を上げた瞬間、バランスが崩れた。屋根からずり落ちそうになる
カールィを、周囲の風が支えて屋根に押し戻す。その様子を、ヴェラシアはく
すくすと楽しげに笑いながら見つめた。
「え? え? どやって、こんなとこに……?」
 体勢を戻して問いかけた直後に、カールィはヴェラシアが何かに腰掛けてい
る事に気づく。優美な造りの銀色の杖の上に、ゆったりと腰掛けているのだ。
「夢様、飛べるんだぁ」
 杖より箒の方が似合いそう……などと考えつつこんな呟きをもらすと、ヴェ
ラシアはまた楽しげにくすくすと笑った。
「あまり、長い時間は無理ですけどね。ところで……」
「え?」
「こんな所で、何をしていたのかしら?」
「なにって……」
 穏やかな問いの答えに困って、カールィは眉を寄せる。
 この場所に登って来る事に、特に理由はない。強いて言うなら、風を感じる
ためだろうか。その流れを遮る存在のない塔の上は、風の存在を感じ、その声
を聞くのに最適と言えるからだ。
「何かって言うんじゃないケド。ここ、風が気持ちいいからさ」
 取りあえずこう返すと、ヴェラシアはやや首を傾げた。
「風が、気持ちいい?」
「うん。ここって、お寺で一番高いとこだから。風が、全然邪魔されないでい
るから。だから、かな?」
「……風と、話がし易い?」
「うん、そんな感じ」
 確かめるような問いに頷いたところで、カールィはふと疑問を感じていた。
今までは、風と話ができる、という話をしても疑われるか、でなければ気味悪
く思われるかのどちらかだった。例外はリューディ、レヴィッド、ミュリア、
リンナの四人だけだったのだ。
 リューディやレヴィッドは、それが自分にとっての普通なら、それでいいだ
ろ、とあっさりと納得し、今ではそれを当たり前の事として捉えている。ミュ
リアは、最初は驚いたようだが、すぐに『ステキな力』と素直に賞賛してくれ
た。
 そしてリンナは、それは自然の恵みみたいなものだから、気にしちゃいけな
い、と苦笑めいた面持ちで言い、直後に、素手で炎を掴んで見せた。
『そういうのって、できる人にはきるもの、なんだと思う。風と話せるのは、
君の、君らしさの表れみたいなもの……なんじゃないかな』
 手のひらの上に炎を揺らめかせつつ、しかし、それに焼かれる事も無くリン
ナが呟いた言葉は、妙に独り言じみているように思えたものだが。
「どうしたの?」
 あれこれと考えていると、ヴェラシアが静かにこう呼びかけてきた。カール
ィはまた返事に困って、あ、えと、と口ごもる。そんなカールィの様子に、ヴ
ェラシアはまた微笑んだ。
「えっと……夢様?」
 やや間をおいて、カールィはそっとヴェラシアに呼びかけた。
「何かしら?」
「あのさ……こう言うのって……」
 問おうとしている事が頭の中で上手くまとまらず、カールィは口ごもってし
まう。ヴェラシアは穏やかな表情でカールィを見つめている。彼の中で、言葉
がまとまるのを待っているのだろう。
「えっと……こういう、風と話したりするのって、おかしくない、のかな?」
 それから五分ほどして、ようやくまとまった言葉を問いとして投げかけると、
ヴェラシアはわずかに首を傾げた。
「あなたは、おかしいと思っているの?」
 それから静かな口調でこう問い返してくる。カールィはんーと、と言いつつ
微かに眉を寄せた。
「だって、他のみんな、できないみたいだし」
「他の人ができなければ、おかしいのかしら?」
「それは……違うと思うけど」
「なら、どうしてそんな風に思うのかしら?」
「だってさ……家族ん中で、それできるの、オレだけだし……」
 穏やかな問いに細々と答えた瞬間、ヴェラシアの表情がやや険しくなった。
思わぬ変化にカールィは戸惑うものの、その険しさはすぐに穏やかな笑みに飲
まれて消えてしまう。
「あなたは、風に好かれているのね」
 その笑顔のままでヴェラシアはこんな事を言い、この言葉にカールィはきょ
とん、と瞬いた。
「風に、好かれてる?」
「ええ。誰だって、好きなものとは触れ合いたいもの。自然を司る精霊たちだ
って、例外ではないわ。風と、その流れを司る風の精霊たち。彼らはあなたが
好きだから、あなたと一緒にいたいから、話しかけてくるんでしょうね」
「そうなんだ……それって、いい事、だよね?」
 そっと投げかけた問いを、ヴェラシアはええ、と頷いて肯定する。その返事
にカールィはほっと息を吐き、
「……っ!?」
 直後に感じた異様な気配にはっと北の方を振り返った。それとほぼ同時に、
ヴェラシアも表情を引き締める。
「なんだろ……これ」
 来たの空を見つめつつ、カールィは低く呟いた。
 重く、澱んだ感触が、風に乗って伝わってくる。その感触に、風は酷く怯え
ているようだった。
「……夢様……」
「カールィ君、あなたはミュリアさんの所へ」
 不安を感じつつ呼びかけると、ヴェラシアは静かな口調でこう言った。
「ミューお嬢の?」
 きょとん、としつつ投げかけた問いに対するヴェラシアの返事はええ、と言
う短いものだった。淡い青の瞳は、厳しい光を宿して一点を見つめている。そ
の光に只ならぬものを感じたカールィは、わかった、と頷いて尖塔の中に飛び
込んだ。
「夢様、気をつけてね!」
 立ち去り際に短くこう言うと、カールィは階段を駆け下りて行く。その気配
が遠のくとヴェラシアは尖塔の屋根の縁、わずかな足場に舞い降りて杖を手に
取った。
 風がそのそよぎを止め、周囲は静寂に包まれる。ヴェラシアは手にした杖に
ゆっくり、ゆっくりと力を込めて行く。それに応じるように、杖の先端にあし
らわれた大粒のサファイアが美しい光を放った。

「おやおや……気づかれてしまいましたか」
 遠目にもはっきりと見る事ができる青く澄んだ光に、森の中に一人佇んでい
たガルォードは低くこう呟いた。
「しかし、こちらの位置を捉えつつ仕掛けてこないとは……あくまで、専守防
衛である、という事ですか」
 呆れを込めて言い放ちつつ、ガルォードは傍らに置いた杖を手に取る。それ
から、魔導師はちらりと北の空を見やった。
「それにしても、この気配……こちらは、早めに切り上げた方が良さそうです
ね」
 ほんの一瞬、厳しいものを垣間見せつつこう呟くと、ガルォードは自分も杖
に力を集中する。力の集中を示す紅い光がこぼれ、薄暗い森の中を照らした。
「それでは、ご挨拶と参りましょうか!」
 赤い光の一部が弾け、魔導師の姿は森の中から消え失せる。森から消えたガ
ルォードはオーウェン大寺院の上空、ヴェラシアと対峙する位置に姿を現した。
「……ガルォード……」
「これはこれは……お久しぶりですね、姉上?」
 低く名を呼ぶヴェラシアに向けてガルォードは慇懃な態度でこう言い放ち、
この一言にヴェラシアの表情がその険しさを増した。
「……盟約を破りし者に加担する者に、姉と呼ばれる謂われはありません」
 険しい表情のまま、ヴェラシアは淡々とこう言い返す。この返事に、ガルォ
ードはおやおや、と言ってくすくすと笑った。
「盟約破り云々ではなく……マリレナの家の汚点に馴れ馴れしくされたくはな
い、と素直に仰ってはどうですか?」
 トゲを交えた言葉にヴェラシアは更に表情を険しくする。対するガルォード
は口元に冷笑を浮かべた余裕の体だ。二人の魔導師はしばし空中で睨み合い、
やがて、ヴェラシアが場に張り詰めた沈黙を破った。
「……何が目的で、ここまで来たのです? 率いていた隊を、傭兵騎士に委ね
てまで。わたくしを、からかいに来ただけではないのでしょう?」
「からかいに来た、とは、心外ですねぇ……」
 低い問いにガルォードは大げさにため息をついて見せるが、ヴェラシアの鋭
い視線に気づくと表情を引き締めた。
「なに、私も任務で動いていますのでね。それを果たさなくては戻る事もでき
ぬのですよ」
「任務?」
「ここに居る、ミュリア・クォーガ嬢の身柄の確保ですよ」
 淡々と告げられた言葉が、場の緊張をより一層強くしたようだった。
「……何故、あの子に固執するのです?」
「……貴女の予想している通りですよ……恐らくはね」
 ヴェラシアの問いにガルォードは低くこう答える。短いその言葉から、ヴェ
ラシアは何かを察したらしかった。
「そうですか……それでは、仕方ありませんわね」
 静かに、静かに言いつつ、ヴェラシアは杖の先をガルォードへと向ける。
「あなたたちが何を目的としてこの戦いを起こし、何を成そうとしているにせ
よ……彼女を渡す事は、できません」
「そうでしょうね……元より、容易く果たせる任務とは思っておりませんよ」
 薄く笑いつつ、ガルォードはこう返す。口調の軽さとは裏腹に、その瞳に宿
る光は厳しい。
 瞬間、静寂が舞い降り──唐突に空間に閃いた炎が、それを打ち消した。

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