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 唱えられる祈りが、唸るような響きとなって戦場に広がっていく。
 ゼファーグ神聖騎士団の唱える聖宣。それは味方を鼓舞し、同時に敵に畏怖
を与える効果を持つ、一種の魔法だ。内心に不安や畏怖を抱く者はそれをかき
立てられ、祈りを唱える者に抗う意思を失うという。
 この祈りは、かつてのヴィズル戦役の際に大きな効果をもたらし、絶望的な
状況からの逆転勝利を可能にした。それだけの覇気を人々に与える事ができた
のだ。
 それを唱える者たちと対する事。剣を交えようとする事。
 聖宣の効果を目の当たりにしたリンナにとって、それは大きな不安を伴うも
のだった。
(だからって、引く事はできないんだ)
 ともすれば祈りの重圧に屈指そうな自分叱咤しつつ、リンナは前へと進む。
しばらく進むと、前方に見覚えのある一団が展開しているのが見えた。太陽と
その輝きを模した紋章を鎧に刻んだ重装騎士たち──ゼファーグ神聖騎士団だ。
 神聖騎士団を視界に捉えたリンナは速度を落として後ろを振り返り、聖騎士
団の面々がついて来ている事に思わず安堵の息をもらしていた。だが、彼らの
表情には微かな不安が見て取れる。聖宣の影響を見ているのだろうか。
(このままじゃ、戦えない)
 陰りに気づいたリンナはこんな事を考えつつ、ぎっと唇を噛んだ。
 ただでさえ、完全にまとまっているとは言い難いと言うのに。これでは神聖
騎士団に、そして彼らを率いる傭兵騎士に立ち向かえるとは思い難い。
「……リンナ」
 傍らにやって来たマールが小声で呼びかけてくる。水晶板の眼鏡の奥のオレ
ンジの瞳にも、微かな不安の陰りが見られた。
(しっかりしろ、リンナ・フレイルーン)
 それらの陰りに飲み込まれそうな自分を叱咤しつつ、リンナは深く息を吸っ
た。
「偽りの聖宣を、恐れないで!」
 吸い込んだ息を吐き出しながらこう叫ぶと、騎士たちの間にざわめきが走っ
た。
「この戦い、ゼファーグに大義がない事は明らか……そして、それはぼくらが
最も良くわかっているはず! 義の存在していない、形だけの祈りに惑わされ
ないで!」
 ざわめく騎士たちに向けてリンナは更にこう続け、腰の剣を抜き放った。
「ぼくらには大義が、そして、火炎の精霊神の加護があります! だから、何
も恐れないで!」
 その瞬間、リンナの背後に紅く輝く炎が渦を巻いた。実際の所は定かではな
いが、少なくとも騎士たちには色鮮やかな炎の渦が見えたのだ。瞬間で消えた
それが示すのは一つ、火炎の精霊神の加護がリンナに、そしてフレイルーン聖
騎士団にある、という事だ。
「神聖騎士団、動いてないわね。もしかして、テレポート酔いでもしてるのか
しら?」
 動きを見せない神聖騎士団の様子に、マールが低く呟いた。
 テレポート酔い、とはその名の通り、魔法による長距離移動の際に起きる現
象だ。この方法は主に魔法的に空間を歪め、瞬間的に距離を無くす事で移動す
る。移動する者は術者の作った魔法の道を潜るのだが、この時に道を構築する
魔力の影響を受け、乗り物酔いに似た症状を引き起こす事がある。
 発症するかどうかには個人差があるものの、一般的には移動する距離が長け
れば長いほど酔い易い、とされていた。
「まぁ、オーウェンとの距離もあるし、なんて言ってもレイリア様の精霊陣に
割り込む形の転移じゃ衝撃も大きいだろうし……自然かしら」
 首を傾げつつ、マールは独り言のようにこう呟いた。精霊陣とはそれぞれの
聖騎士候が自国領土に張り巡らせている結界の一種で、その名の通り、精霊の
加護を領内に行き渡らせる効果がある。
 それと共に悪意ある者の魔法的な侵入に対しての障壁となる効果を持つ事か
ら、神聖騎士団に対しても相当な打撃を与えたのは想像に難くなかった。
「……リンナ様、策は? よもや、このまま闇雲に突入する、などとは仰いま
すまい?」
 マールの説明に納得していると、カリストが後方から進み出つつ問いかけて
きた。リンナはそれに、勿論です、と返す。
「数の上でのこちらの不利は否めません。ですが、こちらには向こうに無いも
のがある。それを生かします」
「こちらにあって、向こうに無いもの?」
 問いの答えに、カリストは怪訝そうな面持ちで更に問いを継ぐ。
「騎馬兵であるが故の機動力と、そして……」
 ここでリンナは一度言葉を切り、マールの方を見た。その視線を追ったカリ
ストは、きょとん、としたオレンジ色の瞳と目を合わせた後、眉を寄せる。
「よもやとは思いますが、それは……」
「精霊魔法による援護です。アーヴェンは水の精霊の影響力が強いので火炎魔
法の効果はやや下がりますが、現状では有効な手段と言えます」
 低い問いに静かに答えると、カリストの表情に露骨な険が浮かんだ。
「聖騎士が、魔法の助けを借りるなど……」
「兄上であれば、否定されたでしょうね」
 吐き捨てるような言葉をリンナは短く遮る。この言葉に、カリストの表情の
険が更に増した。
「ですが、聖騎士が魔法の援助を受けてはならぬ、という法はありません。少
なくとも、フレイルーン聖騎士団の規則には、そんな記述は無かったはずです。
 まして、今は魔法の大家である夢家、水家と連携を深めねばならぬ時です。
一方的な価値観で魔法を忌避するような発言は、慎んでください」
 鋭い視線でこちらを睨むカリストの瞳を真っ向から見返しつつこう言うと、
リンナは二人のやり取りに困惑している騎士たちを見回した。
「マールの魔法を基点に、一斉攻撃を。各員、連携して各個撃破を心がけて下
さい。神聖騎士団が主戦場に達すれば水家が押し込まれ、こちらが不利になり
ます。
 それから……」
 ここでリンナは一度言葉を切り、そんなリンナを騎士たちは怪訝そうな面持
ちで見つめた。
「この一戦を雪辱戦と捉えるかどうかは、一人一人の想いに任せます。ですが、
雪辱戦である事、そして、敵を討つという事に、魂を囚われないで下さい。そ
れだけは、お願いします」
 静かな言葉の最後に、リンナは騎士たちに向けて軽く頭を下げた。
「……リンナ……」
 マールが呟いて、微かに眉を寄せる。
 ここで強硬な態度を取らないのがリンナらしさである、と理解しているのだ
ろうが、それでも甘すぎると感じたのだろう。向けられる視線からそれと察し
たリンナは苦笑めいた表情を一瞬覗かせ、それから表情を引き締めて神聖騎士
団に向き直った。
(……まだ、動きがない?)
 距離的に向こうも既にこちらを捉えているはずなのだが、何故か神聖騎士団
に動きは見られなかった。更に言うなら、士気も大分低いように見える。
(聖宣を唱えて、士気は上がっているはずなのに、これは……)
 疑問は感じるものの、しかし、今はそれに捉われている時ではない。今は、
こちらに有利な要素は一つでも多く生かさなければならないのだから。
 ひとまずこう割り切りをつけると、リンナは手にした剣を天へとかざした。
「吼え猛る炎を統べしもの、我らが護り手、火炎の王よ! 我らの戦に、我ら
の剣に、その祝福を!」
 火炎の精霊神への祈りを唱えると、リンナは神聖騎士団を見据えつつ、勢い
良く剣を振り下ろした。
「フレイルーン聖騎士団、全軍突撃!」

「やれやれ……情けねぇったらねぇな」
 動くに動けず立ち尽くす神聖騎士団を見やりつつ、ラグロウスは深く、ふか
くため息をついた。
『もしかしたら数分、動けないかも知れませんので、気をつけて下さいね?』
 転送の直前に、ガルォードがさわやか過ぎる笑顔で言った言葉が蘇る。ラグ
ロウスは何が数分だよ、という愚痴をため息と共に吐き出した。
 十代半ばから傭兵稼業を始め、各地を渡り歩いていたラグロウスはテレポー
トを利用した強襲作戦も経験しており、テレポート酔いにも大分慣れている。
今回は距離や、それ以外にも様々な要因が絡んだためか強めの目眩を感じたも
のの、戦場の空気に接した事でそれはすぐに吹き飛んだ。
 しかし──
(まさか、ここまでバテてくれるたぁな……)
 慣れていた彼が目眩を覚えたのだから、長距離の転移を初めて経験するであ
ろう神聖騎士たちに取って相当に厳しい状況となったのはある意味で当然だろ
う。神聖騎士の大半はふらつき、聖宣を唱えた事で辛うじて平静を保っている、
という有様だった。
 その様子にため息をつきつつ、ラグロウスは戦場を見回す。
 水家と氷家の戦いは、一進一退、という所だろうか。地家と夢家の援護があ
る分、水家の方が粘れている、という感もあるが。この状況に神聖騎士団が乱
入できたなら、流れは一気に変わっただろう。
 勿論、それをやればやったで、子供っぽさの残る氷家の若き当主は大幅に機
嫌を損ねるだろうが。
「氷狼は、月闇候の忘れ形見に噛み付いた、って言ってたな、確か。んでもっ
て……」
 一人呟きつつ、ラグロウスは戦場の中心から視線をずらす。ずらした視線は、
こちらに向けて進む一団を捉えて止まった。
 軍勢を象徴する軍旗は無い。だが、土埃に見え隠れする真紅のマントは、そ
の一団が何者であるかを何よりも端的に物語っている。真紅のマントを正装と
している軍は、大陸に一つしか存在していないのだ。
「火竜は、こっちに噛み付いてくる、と」
 呟きと共に、口元が笑みの形に歪められる。鋭さを帯びた瞳は、迫る軍勢の
先頭に立つ騎士へと向けられていた。
「……ラグロウス殿」
 騎士の一人が声をかけてくるのに、ラグロウスはああ、と気のない声で応え
た。
「フレイルーンの生き残りども、雪辱戦に来たようだな」
「どういたしますか?」
 投げやりに言い放つと、騎士は不安げに問いかけてくる。何時に無く落ち着
きの無い様子にラグロウスは微かに眉を寄せつつそちらを見た。呼びかけてき
た騎士の顔は青ざめ、不安が色濃く現れている。テレポート酔いの余波という
訳でもなさそうなその様子に、ラグロウスは更に眉を寄せた。
「なんだ、えらく弱気だな。まさかここに来て、へたばっちまったって訳でも
あるまい?」
 軽い口調で問うと、騎士はええ、と答えて目を伏せる。
「なら、気合入れていけ。フレイルーンの連中はプライドでめくらになり易い。
冷静に当たりゃ大した事ねぇのは、初戦でわかってるはずだぜ?」
「それは……そうなのですが……」
「んじゃ、なんだ?」
 煮え切らない返事にさすがに苛立ちを感じて問いかけた時、紅い光が周囲を
照らした。何事かと振り返ったラグロウスは、空中に紅い光の球が発生してる
のに気づく。
「あれは……やべえ、散開しろ!」
 その光が何かは、経験からすぐに察しがついた。光が意味するのは力の集中、
即ち、攻撃魔法が放たれる前兆だ。
「急げ! 丸焼きになるぞ!」
 状況を理解できずに戸惑う騎士たちに向けラグロウスは苛立ちを込めてこう
怒鳴るが、対処が間に合うとは到底思えなかった。

「我が盟友、猛る炎の精霊よ……」
 いつもは甲高く響く声が、低く呪文を紡いでいく。それに伴うように、マー
ルの周囲に紅い光が集まっていった。
「その灼熱の吐息にて、我が敵を焼き尽くせ……」
 そこまでは低い声のまま、だが、次の言葉はいつも通りの甲高い声によって
唱えられる。
「……いっけえ! 火竜激焼!!」
 声に応じて光はマールの周囲から飛び立ち、神聖騎士団の上へと飛ぶ。光は
ようやく動き始めた騎士たちの上に広がり、炎となって弾けた。
 ゴウっ、という音が瞬間で絶叫をかき消す中へリンナは迷わず飛び込み、剣
を振るった。突然の炎は神聖騎士団を相当に動揺させたらしく、その反応は鈍
い。リンナは打ち込んでくる剣を弾いて相手の体制を崩し、鎧を構築する板金
の僅かな隙間を狙って剣を繰り出した。
 血の臭いと、炎が様々なものを焦がす臭いが周囲に立ち込める。
 それらの臭いは、『自分が戦場に居る』という事実を強く思い知らせた。
 元々、争いを好まない質のリンナにとって、血の臭いが示す現実は重い。
 人の生命を奪うという事。
 剣を取って戦うものとして、それを行う事は避けられない。まして、今いる
のは戦場なのだ。殺したくない、などと甘い事を言っていては、自分が生命を
奪われる。
 こう考える事で、理屈の上では理解できている。ただ、感情が容認できてい
ないだけだ。感情がそれを容認したらどうなるのかは、正直考えたくないのだ
が。
「……っ!?」
 一人を倒して戦場を見回した時、鋭い闘気のようなものが感じられた。リン
ナははっとそちらを振り返り、そして、自分を凝視する視線に射すくめられる。
そこに立つのは、神聖騎士団の中にあって唯一装いを違える巨漢の騎士だ。
(傭兵騎士ラグロウス……!)
 それなりに距離を隔てていると言うのに、その鋭く激しい闘気ははっきりと
感じられる。今まで二度対峙し、その二度共に相手の気迫に飲まれ、身動きが
取れなかった事が思い出された。
 雨の中に閃いた大剣。
 あの時、乗っていた馬が恐怖心から暴走し、体勢が崩れる、というアクシデ
ントがなければ自分は斬られていた。
 森の中でリューディたちと共に対した時も、ファビアスの乱入が無ければど
うなっていたかわからない。
 戦う事、生命を奪う事にためらいを持たない傭兵騎士。その剣は、明らかに
自分を『獲物』として捉えている。
「くっ……」
 いつの間にか震えていた自分に気づいたリンナは、きつく唇を噛み締めた。
 怖い。逃げ出したい。そんな思いが不安の膨張に拍車をかける。
 だが、それはできない。許されない。
 もしここで逃げてしまえば、自分は全てを放棄する事になる。自分の役目、
騎士の誇り、そして何より火家の直系、当主である、という『存在意義』すら、
自ら否定する事になるのだ。
(だから……逃げちゃ、ダメなんだ!)
 自分自身に言い聞かせつつ、更にきつく唇を噛む。その微かな変化に気づい
たかのように、傭兵騎士の口元に笑みらしきものが浮かんだ。向けられる闘気
に、殺気が織り交ぜられる。それは戦場の空気と絡み合い、重たく圧し掛かっ
てきた。
「負ける……もんか……」
 低く呟いて、手綱と剣、それぞれを握り直す。
「ぼくは……ぼくは、負けない。敵にも、自分自身にも!」
 低い宣言と共にリンナはレヴァーサを走らせた。ラグロウスが笑いながら剣
を構え、リンナを待ち受ける。
「くっ……わああああああっ!」
 言葉にならない絶叫と共に剣が弧を描き、火花が散った。

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