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   3

「それじゃ、あたしは自分の部屋にいるから。ちゃんと、休みなさいよ?」
 割り当てられた部屋の前まで来ると、マールは眉を寄せたやや厳しい表情で
こう言った。リンナはやや力なく微笑みながら、うん、と頷く。
「リンナは、すぐに思い詰めるんだから。しっかりしてよね〜!」
「……はいはい」
「はいは、一度でよろしい!」
「……はい」
 マールの注意に、リンナは素直にこう言い直した。昔からこうなのだ。マー
ルは、リンナが落ち込んでいると必ず変に年上ぶって注意する。実年齢では、
リンナの方がマールよりも四つ年上なのだが。
 ただ、これがマールなりの気遣いなのはリンナもわかっているので、逆らう
事はしない。今に限って言えば、そんな気力もない、というのもあるのだが。
 リンナの返事にマールはよろしい、と頷き、小走りに駆けて行った。その姿
が廊下に並ぶドアの一つに消えると、リンナは自分も部屋に入ろうとドアに向
き直り、
「……ん?」
 ふと視線を感じた。冷たい、突き刺すような視線に戸惑いつつそちらを振り
返ったリンナは、自分を見つめる藍色の瞳と目を合わせ、その冷たさに息を飲
んでいた。
「……ランシア……」
 大気が凍り付いたような沈黙を破り、リンナはこちらを見つめる漆黒の髪の
少女の名を呼んだ。
 ランシア・アルスィード。水家当主レイリアの一人娘であり、リンナにとっ
ては従妹に当たる少女。彼が幼い頃から密かに想いを寄せる者であり、そして、
恐らくは誰よりも強く彼の兄を想っていた少女は、睨むようにリンナを見つめ
ていた。
「えっと……どうした、の?」
「……どうして?」
 恐る恐る投げかけた問いにランシアは答えず、逆にこんな問いを投げかけて
きた。
「え?」
「どうして、なのよ?」
「どうしてって……」
「どうしてよ……なんでなのっ!?」
 困惑するリンナに、ランシアは早口で問いを投げかけ――いや、投げつけて
くる。藍の瞳は、いつの間にか濡れていた。今にも泣き出しそうなその顔と、
投げつけられる問い。それはランシアの言いたい事を、何よりも端的に物語っ
ているようにリンナには思えた。
 聞くのが怖い。
 何を言われるのか、ある程度予想できるだけに、そんな思いがふと過った。
だが、聞かずにいる事はできず、リンナはそっと、問いを口にする。
「なんでって……何、が?」
「なんで……なんで、生き残ったのがあんたなのっ!?」
 叫ぶような問いが、廊下に響き渡った。
「……」
 問われるのではないかと、予想していた問い。それ故に、最も投げかけられ
るのを恐れていた問い。
 それは冷たい刃となって、リンナの心に突き刺さった。
「なんで、ランス様が死ななきゃならないのよっ!? なんで? 狙われてたの
は、あんただったんでしょ!? なのに、なんでっ……どうして!?
 どうして、ランス様が死んで、あんたが生きてるの!?
 ……あんたなんかがっ!!」
「……」
 言葉が、出ない。
 何を言えばいいのか、わからない。
 心に刺さった冷たい刃は、思考まで凍てつかせてしまったのだろうか。
「答えなさいよ!! 黙ってないで、ちゃんと答えなさいよっ!!」
「無茶苦茶ばっかり言わないで下さいっ!!」
 ランシアの叫びにリンナが何か言うより早く、苛立ちを帯びたマールの声が
場に飛びこんで来た。ランシアの大声を聞きつけて、部屋から出てきたらしい。
明るいオレンジの瞳には、はっきりそれとわかる怒りが浮かんでいた。
「あなたには、関係ないでしょう!?」
「いーえ! フレイルーン傍系、フレアリーズの者として、今のあなたの言葉
は聞き捨てなりません!!
 まったく、恥ずかしいとは思わないんですか、水家の姫ともあろう方が、小
さな子供のような物言いをして! さっきの言葉は、気の迷いでは済まされな
い暴言ですよ!!」
 論理的なこの反論に、ランシアはやや怯んだようだった。
「あ……あなたに、何がわかるのよっ!?」
「主君を愚弄する方の感傷なんて、理解したくもありませんわっ!!」
 ランシアの反論を、マールは毅然とした態度ではねつける。
(……主君……)
 そしてその中に織り込まれた短い言葉は、何故か小さな刺となってリンナの
心にちくりと刺さっていた。
「……許さないからっ……」
 ランシアは唇を噛み締めつつマールを睨んでいたが、やがて、冷たい瞳でリ
ンナを睨みつつ、低くこう呟いた。
「……え?」
「あたしは……あたしは、あんたの事、絶対に許さないからっ!!」
 戸惑うリンナに叫ぶようにこう言い放つと、ランシアは踵を返してその場か
ら走り去った。
「なあによ、あの態度!! いくらリンナと従兄妹同士だって言っても、限度が
あるんじゃないっ!?」
 その背を見送りつつ、マールは呆れと憤りを込めた声でこう言い放つ。
「……仕方ないよ」
 そんなマールに、リンナはそちらとは対称的に力のない様子でこう呟いてい
た。
「仕方ない、じゃないでしょっ!! もう、何で言い返さなかったのよ!?」
「……兄上が、ぼくの代わりに死んだのは、確かだから……」
 呆れたような問いに、リンナは小さくこう呟く。真紅の瞳の深い陰りに、マ
ールは気勢を削がれたようだった。
「……まったく、リンナは甘いんだから……」
 ため息と共にこう呟くと、マールは自室とは反対の方向へと歩き出した。
「マール? どこ、行くんだい?」
 それに気づいたリンナは、きょとん、としつつ従妹を呼び止める。
「今の、アルスィード公に奏上してくるの」
「ど、どうしてっ!?」
 思わぬ言葉に声を上擦らせつつ問うと、マールは当然でしょ、と言いきった。
「火家の面子とか、お父様なら言うだろうけど、それ以上にあの言い方って許
せない。人間として、最低だわ。あたし……今のは、絶対許せない」
「……マール……」
「リンナは気にしなくていいの。これは、あたしの独断だから。アルスィード
公にもその前提で話すから、気にしないで」
 静かな言葉には、はっきりとそれとわかる怒気が込められていた。そして、
引き止める間もなくマールはぱたぱたと走り去り、リンナは呆然としたままオ
レンジ色の後姿を見送る。マールの姿が見えなくなるとリンナは小さくため息
をついて部屋に入り、直後に、ずるずるとその場に座り込んだ。
 カリストとランシア、それぞれに投げつけられた言葉が、痛い。

『……私は、あなたを指揮官として認めてはおりません。それは、お忘れなき
ように』

 それは、以前から感じていた事だった。万事において頼りない自分は、カリ
ストにとっては容易には認められる存在ではないだろうと、ずっとそう思って
いた。

『どうして、ランス様が死んで、あんたが生きてるの!?』

「……そんなの、ぼくが聞きたいよ」
 ランシアに投げつけられた問い。それに対する答えを、リンナは知らない。
むしろ、彼自身がそれを教えて欲しいくらいだった。
 何故、ランスではなく、自分なのか。
 それはずっと抱いていた疑問、投げかけ続けた問い。
 聖騎士侯の血と力を正しく受け継ぐ者が産まれると、それぞれを守護する精
霊神が降臨し、祝福を授けると共にその証である聖痕を身体に残す。
 だが、ランスが産まれた時に火炎の精霊神は姿を見せず、その五年後、リン
ナが産まれた時に何の前触れもなく降臨して祝福を授けた。
 前例のないこの事態に、当時のレティファ大陸は騒然としたらしい。ティシ
ェルやオーリェントで過去の記録が相当調べられたらしいが、同様の事例は見
つからなかったという。
 それが何を意味しているのか、リンナは知らない。知りたいとも思わない。
リンナにとっては、その事実に基づいて自分に投げかけられる『何故?』だけ
が問題だった。
 天才肌で何でも率なくこなし、社交性も高く、人望も厚い兄。
 君主として、人を率いる者として理想的な彼には、君主となるべき絶対的な
資格が欠けていた。
 その『絶対的な資格』を持つのは、何をやっても空回りをする、失敗ばかり
の自分。
 周囲はいつも兄弟を比較し、そして、大抵はこんな呟きをもらしていた。

『何故、ランス様ではなく、リンナ様なのか』

 その呟きに込められた意図は様々だろうが、いずれにしてもその言葉は心に
鋭く突き刺さった。
「……」
 唇を噛み締めつつ、左の上腕部をぎゅっと掴む。そこには、火炎の精霊神の
祝福と共につけられた聖痕、直系の者の証があるのだ。もっとも、その上には
常にきつく包帯が巻かれていた。
 幼い頃、兄との比較とそこから生じた劣等感に苛まれたリンナは無意識の上
にそこに爪を立てて傷つけ、一晩でベッドを真紅に染めるという大騒ぎを引き
起こした事がある。以降も何かあると無意識の自傷を繰り返したため、いつの
間にか常に包帯を巻いてそこを保護するようになっていたのだ。
 そんな自分が嫌で、努力すればするほど、兄との差を思い知らされて落胆し
た。
 おかしな方向に壊れずに済んだのは、兄と比較せずに素の自分を見て接して
くれた者、リューディやマールたちフレアリーズ家の人々のおかげだろう。
「……くっ……」
 右手に力を込めて、きつく左腕を掴む。
「しっかりしろ……しっかりっ……」
 もうすぐ戦いが始まる。個人的な感傷に囚われてはいられない。今の自分は、
火家の当主であり、フレイルーン聖騎士団を束ねる者なのだ。
 例えそう認められていなくとも、その立場から退く事はできない。逃げ出す
事は許されない。

『望む、望まざるにかかわらず……精霊神の祈りを託される者として』

 レイリアに言われた言葉が、ふと蘇る。
 直系としての責任、その自覚を促そうとしたレイリアの言葉は理解できる。
できるが、しかし。
「……どうして、ぼくなんだよっ!!」
 今は、そう叫ばずにはいられなかった。

「……そうですか、ランシアが……」
 マールの話を一通り聞いたレイリアは、こう言ってため息をついた。
「はい。あまりにも聞き捨てならないお言葉でしたので、わたしの独断で奏上
に参りました」
 そんなレイリアに、マールはこう言いそえる。これはあくまで自分の独断。
それだけは伝えておかければならないと、そう思ったからだ。
「いえ、良く報せてくれました。この状況下において、自らの感情のみで行動
するとは……まったく」
 ため息まじりに呟く、その瞳には微かな陰りが伺えた。娘の暴走への憂いな
のだろうが、それ以外にも疲労によると思われる陰りもあるように思える。突
然の開戦は、相当な精神負担としてレイリアに圧し掛かっているようだ。
(ムリ、ないわよねぇ……)
 十二聖騎士侯の分裂、有事において中心となり得るフレイルーン聖騎士団は
初手で大きなダメージを受けた上に内部分裂の兆しをはらみ、敵の動きは全く
読めない。
 こんな状況下で同盟の盟主という立場にあるのだから、その疲労は尋常では
ないだろう。
「それで、リンナはどうしているのです?」
 レイリアの様子にあれこれと思いを巡らせていると、こんな問いが投げかけ
られた。マールは居住まいを正し、問いに答える。
「自室にて待機していますが……精神的には、かなり」
 部屋に入ったのを確かめたわけではないが、リンナの性格からして、今頃は
閉じこもっているだろう。一部類推を交えたこの返事に、レイリアはため息と
共にそうですか、と呟いた。
「あの子には、何ら罪も責もないのに……重荷ばかりを与えて……」
 ため息の直後にレイリアはこんな呟きをもらす。早口のその言葉に、マール
はえ、と言って瞬いた。
「こちらの事です、気にせぬように」
 戸惑っていると、レイリアは短くこう言いきってしまった。釈然としないも
のの、それ以上の追求はできそうにないので、マールははい、と言って頷く。
「リンナには相当辛い状況でしょうが……乗り越えてもらわなねばなりません
ね。火家の、そしてリンナ自身の未来のためにも……今は、死した者に囚われ
ている時ではないのですから」
 いつもの毅然とした態度に戻りつつ、レイリアは静かにこう言った。
「マール、大変でしょうが、リンナを支えてあげてください」
「心得ております、それが、我がフレアリーズ家の役目です」
 背筋をピンっと伸ばしてこう答えると、レイリアは何故か楽しげな笑みを口
元に浮かべた。思わぬ表情にマールは一瞬きょとん、とする。
「さ、あなたも自室待機を。それから……」
「それから……何でしょうか?」
 意味ありげに途切れた言葉の先を、マールは戸惑いながら促した。
「はったりも、ほどほどになさい。騎士というのは、魔導師ほど思考が柔軟で
はないのですから」
 さらりと言われた言葉に、マールはくすっと笑って見せた。
 レイリアが何を言ってるのかは、わかる。マールがレイリアと直接話をする
ために使った手段――護衛の騎士へのはったりの事だ。
 従者扱いのマールの場合、通常であればこうして当主の私室で話をするとい
うのは不可能に近い。レイリアの方から呼び出したというならまだしも、今回
はマールが独断で突っ走ってきたのだから、普通は護衛の騎士を介したやり取
りとなるものだ。
 にも関わらずこうして直接話ができたのは、鬼気迫る様子でマールが言った
一言、「同盟の結束を揺るがす一大事ですっ!」に、護衛の騎士が動転したか
ら――という部分が、少なからずある。レイリアは、その事を言ってるのだ。
「あら、わたしは、事実を述べただけですわ。それをどう解釈するかは、それ
ぞれでしょう?」
 しれっとしつつこう言ってのける、この言葉にレイリアは楽しげな笑みをも
らす。ずっと張り詰めていたものが、今のやり取りで多少、緩んだらしい。
「それでは、失礼いたします。夜分にお騒がせして、申し訳ありませんでした」
 表情を引き締めて一礼すると、マールは部屋を出て行った。その気配が完全
に消えると、レイリアは深くため息をつく。
「過去の不始末の責が、無関係なあの子に、こんな形で還るなんて……禁を犯
した者たちは、もう、いないと言うのに……」
 小さく呟くその瞬間、藍色の瞳は深い憂いに陰っていた。

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