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 自治都市アーヴェン。水のアルスィード家によって統治されるこの地は、大
陸最大の穀倉地帯であり、沿岸地域で行われる漁業と共に、レティファ大陸の
食糧事情を支えている。
「……そのアーヴェンが戦地になるってのも、ヤな話だよなぁ」
 正面の壁にかけられた大陸図を眺めつつ、レヴィッドが妙にしみじみとこう
呟いた。
「仕方ないですよぉ、この状況ですもん」
 同じく大陸図を眺めつつ、マールが相槌を打つ。
 二人がいるのは、アーヴェンの中央にある通称『流水城』、アルスィード家
の居城の会議室の控えの間だ。リューディ、リンナ、ファミーナの三人は会議
室内で水家当主レイリアと今後についての協議をしているのだが、名目上は従
者扱いの二人はその協議への参加権を持たず、控えの間で暇を持て余していた。
「ま、向こうはアーヴェン平原を潰して食糧難を引き起こすハラなんだろっけ
どね〜。帝国がこの状況をどう見てるかは知らないケド、ゼファーグは帝国か
ら輸入もできるし、宗教ヌキにすりゃ農業国家だし」
「考えてみると、帝国との接点って。ゼファーグにしかないんですよねぇ。あ、
ティシェルも海路交易してましたっけ」
「でもホレ、ティシェルのお館サマ、行方不明じゃない? まぁ、オーリェン
トから南海航路で南のエルデシオ諸島から、果物とかコメは輸入できるけど」
「……限度、ありますもんねぇ」
「そそ。ま、要短期決戦、だよねぇ……まぁ、これまた状況と、上のミナサマ
の思惑次第だけど」
 言いつつ、レヴィッドは会議室の方へちらりと視線を走らせる。マールも同
じように会議室の方を見た。重い木の扉は当然の如く何も語らず、開く気配も
ない。
「……しっかし……」
「それにしてもぉ……」
 ここで、二人は同時にため息をついていた。
「ヒマだ」
「タイクツです……」
 ただ、待たされる身は、気楽ながら辛い。

「……大体の状況は、整理できました」
 ヴェラシアから託された書状と文書に目を通しきると、会議室の上座に座す
女性――水家当主レイリア・ヴェラ・アルスィードは静かにこう言った。
「ゼファーグの真意がどうであれ、今回の件は『安寧の盟約』に反する行為。
わたくしたちは団結して、ゼファーグ王クィラルを糾弾せねばなりません」
 こう言うとレイリアはぐるりと室内を見回し、その目がリューディに向いて
ぴたりと止まった。
「リューディス」
「……はい」
「月家の即時再興は、考えてはいないのですね?」
 静かな問いに、リューディははい、と頷いた。レイリアの瞳が厳しさを帯び
る。
「それが、何を意味するのか、現状にどう作用するか、理解していますか?」
 続く問いには、無言で頷く。個人的な事情で果たすべき責を拒否すると言う
事。それは、結束という重要因子の成立に、大きなマイナスの影響を与えるだ
ろう。
「念のため確認しておきますが、それは保身のためではありませんね?」
「……え?」
 投げかけられた三つ目の問いに、リューディは思わずとぼけた声を上げてい
た。リンナとファミーナも戸惑い、それから、いち早くその意を悟ったらしい
リンナがあ、と短く声を上げる。
「叔母……レイリア卿! それは、いくらなんでも……」
「あなたに聞いてるのではありませんよ。控えなさい」
 思わず立ち上がり、抗議の声を上げるリンナをレイリアは静かに遮る。藍玉
を思わせる瞳は厳しく、静かにリューディを見つめていた。
「保身って言うのは、つまり……」
「この戦いの結果がどうなろうと、自分は月家の者ではない。即ち、陽家に対
する責務はない、という考えに基づいたものであるか否か、という事です」
 戸惑いを込めて投げかけた問いに、レイリアは冷たくこう答える。その冷た
さは、会議室内に凍りつくような沈黙をもたらした。
「……もし……」
 その静寂を、リューディは低く、静かに取り払う。
「もし、自分の身の安全のためだけに月家再興を拒否したのだとしたら、オレ
はそもそもこの場にいません。何より……そう、考えた時点で、精霊神より裁
きが下されるはずです」
 静かな瞳を真っ向から見返しつつ、リューディはこう言いきった。深い蒼と
静かな藍が互いを捉えあう。
「では……月闇の精霊神と、あなたの心を、信じるとしましょう」
 再び生じた静寂を経て、レイリアは静かにこう言った。思いが正しく伝わっ
た事に安堵しつつ、リューディはありがとうございます、と一礼する。
「ですが、これだけは忘れないように」
 顔を上げると、レイリアは厳しいままで言葉を継いだ。
「精霊の環を手にしている以上、月家という形はなくとも、あなたがアルヴァ
シアの当主である事に変わりはありません。いずれ、その責を果たすべき時が
来るでしょう。
 望む、望まざるにかかわらず……精霊神の祈りを託される者として」
 最後の言葉はリューディだけではなく、リンナとファミーナにも向けられて
いたようだった。二人の表情を緊張がかすめる。
 リューディが月家の未来を担っているのと同様に、リンナは火家の未来を、
ラファティアという大きな存在と共に担っている。ファミーナも、今は意を違
えているものの雷家を、そしてファミアスを担うべき立場にある事に変わりは
ない。レイリアの言葉は、二人に改めてそれを認識させたようだった。
「さて……それでは、今後の事ですが」
 三人の精神に緊張を与えると、レイリアは話題を切り替える。ごく自然に三
人は背筋を伸ばし、居住まいを正した。
「知っての通り、ラファティアには現在氷家のフェンレイン傭兵団が駐留して
います。総数は四百。現状、まだ動きは見せていませんが……」
 レイリアがここまで言った時、
「失礼いたします」
 会議室のドアが開いて男が一人入ってきた。白銀の鎧を身に着け、真紅のマ
ントを羽織った騎士――アルスィード魔導騎士団の者ではない。その装備は、
フレイルーン聖騎士団の物だ。
「……カリスト殿?」
 その姿に、リンナが小さく呟いた。騎士はちらりとリンナを一瞥するが、す
ぐにレイリアに向き直る。
「国境監視部隊より、フェンレイン傭兵団がラファティアより出撃した、との
報が入りました。総数は約三百。当主レクサス・ザン・フェンレイン自ら陣頭
に立っていたとの事です」
「そうですか……血気盛んなこと」
 騎士の報告に、レイリアは呆れたようなため息をついた。
「……どうなさるのですか、レイリア様?」
 ファミーナの問いに、レイリアはしばし目を閉じる。
「三百を額面通り三百と計算できぬのが氷家。魔導騎士団から二百、フレイル
ーンの百五十全てに、援護要員としてドルデューンとマレリナからそれぞれ半
数を出し、迎撃。
 リューディスとファミーナ、それとレヴィッドと言いましたか? あなた方
は独立遊撃要員とします。状況に柔軟に対応し、独自の判断で動いてください」
 どうやら、どこの指揮下に置いても問題が生じるので自己責任で動け、とい
う事らしい。そんな事を考えつつ、また、自分の立ち位置の不安定さを改めて
感じつつ、リューディははい、と頷いた。ファミーナも同じような心境らしく、
やや複雑な面持ちで頷いている。
「リンナ」
「……は、はいっ」
 次にレイリアに呼ばれたリンナは、声を上ずらせつつ背筋を伸ばした。
「あなたとマールは、フレイルーン聖騎士団に合流を。火家が健在である、と
ラファティアの民に知らせなくてはなりませんからね。カリスト殿も、異論は
ありませんね?」
 静かな言葉にリンナははい、と頷く。騎士――カリストは冷静なままで、異
論ありません、と頷いた。
「では、本日はこれにて解散とします。リンナ、あなたは以後の軍議に必ず参
加するように」
「わ、わかりました」
「あの……あたしたちは?」
 緊張の面持ちで頷くリンナを横目に見つつ、ファミーナがこんな問いを発し
た。
「あなたたちには、決定事項を通達します」
 その問いに、レイリアは静かに答えてゆっくりと立ち上がる。
「え……でもっ」
「今のあなたたちは、公の場に出られる立場ではありません。雷家は戦事非干
渉、月家は断絶状態。この状況下において、あなたたちは一般の義勇兵と何ら
変わらぬ立場なのです」
 食い下がるファミーナを、レイリアは冷たく突き放していた。最初からその
つもりでいたリューディは落ち着いてその言葉を受け止められたが、ファミー
ナには、それは相当に厳しい一言となったようだった。
「わかりましたね? では、部屋に戻って待機を。フェンレインの動きによっ
ては、即時出陣もあり得ます。万全の状態を整えておくように」
 静かに、そして冷たくこう言い放つと、レイリアは奥の扉から会議室を出て
行った。リューディ、リンナ、ファミーナと、そしてカリストの四人は重い沈
黙の中に取り残される。
「……リンナ様」
 その沈黙を、カリストの声が取り払う。え? と言いつつそちちらを振り返
ったリンナは、自分を見つめる瞳の冷たさに息を飲んだ。
「……カリスト殿?」
「このような状況ですので、あなたの指揮下に入るのは当然の事。アルスィー
ド公の決定に、異を唱えはしませんが……しかし」
 ここで、カリストは一度言葉を切る。緊張が、空間にぴん……と張り詰めた。
「しかし……私は、あなたを指揮官として認めてはおりません。それは、お忘
れなきように」
 静かに告げられた言葉。それが、リンナの心にどんな影響を与えたのか――
推し量るまでもなく、それは理解できた。リンナはその場に立ちつくし、カリ
ストは静かなまま、その横をすり抜けて行く。
「ちょっと、いいの、リンナっ!?」
 誰も何も言う事のできない沈黙は、ファミーナの叫びに打ち破られた。それ
に、リンナは小声で仕方ないよ、と呟く。
「仕方ないって……あんな事言われて! 悔しくないわけっ!?」
「そりゃ……悔しいけど……」
「だったらどうしてっ!?」
「落ち着けよ、ファミーナ!」
 声を荒げるファミーナと俯くリンナ、それぞれを見かねたリューディはファ
ミーナの肩を掴んでおし止める。
「落ち着けって、だって……!」
「お前が騒いだって、どうにもならないだろ! これは、リンナとカリストさ
んの問題なんだから」
 この言葉にファミーナはぎゅっと唇を噛み、それから肩にかかったリューデ
ィの手を乱暴に振り払った。
「わかってるわよ、そんな事! だけどっ……」
「わかってるなら、騒ぐなよ! ……自分の思うように行かないからって、リ
ンナに当たるなよな」
 ヒステリックなファミーナの態度が苛立ちを呼び起こしたのか、それとも他
に理由があるのか、自分自身はっきりとはわからない。いずれにしろ、高まっ
た苛立ちはリューディにこんな言葉を口走らせていた。
「な……何よそれっ!? あたしが、やつ当たりしてるっていうの? そう言う
リューディはどうなのよっ!!」
 その言葉にファミーナは一瞬目を見張り、それから、苛立ちの矛先をリュー
ディへと向ける。
「オレ? オレが、なんだって言うんだよ?」
「あんな扱いされて、納得できるの!? それとも立場から逃げてるから、ちょ
うどいいってわけ!?」
「……っ! どういう意味だよ、それっ!?」
 感情的な問いにリューディは気色ばみ、それにファミーナが言い返そうとす
るのを遮って、
「いい加減にしてくれ、二人とも!」
 リンナが大声で怒鳴った。滅多に声を荒げないリンナの怒声に、リューディ
もファミーナも気勢を削がれる。
「リンナ……」
「こんな事で言い争ったって、なんにもならないじゃないか! もう、止めて
くれよ!!」
 叫ぶようにこう言うと、リンナは足早に会議室を出て行った。ファミーナは
きつく唇を噛み締めると、走って会議室を飛び出して行く。一人、取り残され
たリューディはしばしその場に立ちつくし、
「……おいおい、一体、何があったんよ?」
 戸惑いを帯びた呼びかけにはっと我に返った。顔を上げると、さすがに困惑
した表情のレヴィッドと目が合う。リューディはふっと目をそらしつつ、何で
も、と呟いた。
「何でもって……あ、ま、いーや。んで、オレらこれからどーするんだ?」
 説得力皆無の様子にレヴィッドは僅かに眉を寄せるものの、すぐにいつもの
様子に戻ってこう問いかけてくる。この問いに、リューディは一つ息を吐いた。
「オレとお前とファミーナの三人で、独立遊撃隊だってさ。ラファティアの氷
家が動いたから、待機してろって」
 つい投げやりな口調になってこう言うと、レヴィッドはりょーかい、と頷い
た。
「んじゃま、リューディは休んどけや。城内に動きあったら、すぐ報せっから」
「それはいいけど、あんまりふらつくなよ? ここは、オーウェンと違って規
律に厳しいんだから」
「はいはいっと、ご心配なく〜♪」
 リューディの言葉にレヴィッドはにこにこしつつこう答え、その笑顔にリュ
ーディは逆に不安を覚えていた。
「レヴィッド……」
「んー?」
「いや……やっぱり、いい」
 頼むから大人しくしてくれ――と言いかけて、リューディは結局、その言葉
を飲み込んでいた。

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