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   ACT−3:護り手たちの集う場所 03

 夜蒼色の空高く、月が白い。
 その月の光に照らされる広場の中央で、シュラは静かに刀を構えて立ってい
た。
 蒼と黒に塗り分けられた空間に白刃が冴えざえと浮かび上がり、張り詰めた
静寂を織り成している。
 静、という、ただ一文字で表せるその姿には、月の光が言いようもなく良く
似合っていた。
「……いつまで、そこにいるつもりだ?」
 美しく張り詰めた静寂は、他ならぬシュラ自身によって破られた。低い問い
かけに背後の気配は戸惑いらしきものを示し、それから、滲み出るように夜闇
の合間から現れる。現れたのは、黒衣に身を包んだ黒髪の青年だった。シュラ
はゆっくりと身体の向きを変え、そちらと向き合う。
「声をかけてくれて、ありがとうございます。お邪魔しては悪いと遠慮してい
ましたら、声をかけそびれてしまいました」
 振り返ったシュラに、青年はにっこり笑ってこう言った。紫水晶を思わせる
瞳は、どことなく楽しげな光を宿してシュラを見つめている。
「お目にかかるのは初めてですね。私は、エイルセア・カーウェス。魔導帝国
の、名ばかりの宮廷魔導師です」
 青年の名乗りに、シュラの表情が僅かに厳しさを増した。
「……名は聞いている。下らん生体兵器を創造した張本人が、何の用だ?」
 辛辣な口調の問いに、エイルセアはあはは、と乾いた笑い声を上げた。
「手厳しいですねえ……天狼くんも、こぼしてましたけど」
「何の用だ、と聞いている」
 重ねて短い問いを投げると、エイルセアは笑いを止めて大げさなため息を一
つついた。
「……やれやれ……立場上、仕方ありませんけど嫌われてますねぇ……まあ、
それはいいでしょう。
 実は、あなたにお願いしたい事がありまして」
「帝国の魔導師が、私に頼みだと?」
 思わぬ言葉に、シュラは微かに眉を寄せる。エイルセアはええ、と一つ頷い
た。
「あなたにしか、お願いできない事です」
 エイルセアはここで一度言葉を切り、す、と表情を引き締める。
「今、あなた方と共に旅をしておられるお嬢さんですが……」
「引き渡せ、と言うなら、斬る」
 魔導師に最後まで言わせず、シュラはこう言いきった。蒼氷色の瞳には、こ
の宣言が冗談ではないと伺わせる険しい色彩が浮かんでいる。
「……言いませんよ、そんな無謀な事。そうではなくて……止めていただきた
いんです、彼女がやろうとしている事を」
 静かな言葉にシュラはいつになく厳しい表情を見せ、その厳しさを、エイル
セアは真っ向から受け止めた。ぴん……と、二人の間の空気が張り詰める。
「あなたであれば、わかるはずですよ。彼女がやろうとしている事が、無意味
であると。ですから……」
「それはヤツ……ソード次第だ。私には、決められぬ」
 エイルセアが何を言おうしているのか、シュラには聞かずともわかっている
ようだった。最後まで言わせる事無く淡々と言い切るシュラに、エイルセアは
やれやれ、とため息をつく。
「やはり、そうなりますか。そんな気はしましたが」
「……用は、それだけか?」
 ため息をつくエイルセアに、シュラは静かに問いかける。
「一応、もう一つあります。レイファ・シュナイツ女史の忘れ形見ですが……
って、言う前から睨まないでくださいってば! 引き渡せ、なんて言いません、
皇帝じゃあるまいしっ!」
 先ほどまではなかった殺気を浮かべたシュラの様子に、エイルセアは慌てた
ようにこう言った。予想外の物言いに、シュラは訝るように眉を寄せる。
「では、何だと」
「多くを学ばせ、正しき在り方を見出させてください。それが彼女の意思であ
り、そして、私の願いでもあります」
「……貴様の、願いだと?」
 思わぬ言葉を訝るシュラに、エイルセアは見るからに人の良さそうな笑顔を
向けた。その笑みの下の真意を読み取る事はできそうになく、シュラは一つ、
息を吐く。
「……それに関しては、力を尽くす。リュンの行く末は、レイファから託され
た事だ」
「大変ですね……人の思いや願い、一人でいくつ抱えているんですか?」
 ため息に続いた言葉にエイルセアは呆れた、と言わんばかりにこんな事を言
い、それから、自分もため息をついた。
「ま、私が言う事じゃありませんけどね。人の事を言えた義理でもなし。
 さて、では、私はそろそろ失礼しますね。余り長く留守にすると、色々と心
配な事がありますので」
 にっこり笑ってこう言った、次の瞬間。ばさっ、という音が響き、エイルセ
アの背に何か、黒い物が広がった。現れたそれに、シュラは目を見張る。
「……翼?」
 魔導師の背に唐突に現れたそれは、一対の翼のようだった。戸惑うシュラに、
エイルセアはくすり、と楽しげな笑みをもらす。
「それでは、ご縁がありましたら、また」
 優雅な一礼の直後に、魔導師は翼を羽ばたかせる。美しい濡れ羽色のそれが
大気を打ち、エイルセアの姿はその場から消え失せた。シュラはとっさに頭上
を振り仰ぎ、月の中に消えて行く影を一瞬だけ視界に捉える。
「……エイルセア・カーウェス……聞きしに勝る、不可解な男だな」
 低く呟くと、シュラは抜き身のまま下げていた刀を鞘に収めて踵を返した。
温泉まで戻り、夜営地の方を伺えば、言いようもなく穏やかな気配が感じられ
る。その空気だけでも、茂みの向こうの状況を察するには十分といえた。
「……今、戻るのは無粋だな」
 苦笑めいた面持ちで呟くと、シュラは着ている着物を脱いで湯に浸かる。細
身の外見に似ず逞しい身体に水滴が跳ね、独特とも言える美しさを織り成した。
梢から差し込む月の光が水滴の上に弾けて煌めきを放ち、それを更に引き立て
る。
「……良い月だな……十六夜、か」
 ほんの僅か欠けた月を見上げて、呟く。月を見つめる蒼氷の瞳はどことなく
虚ろに見え、その虚ろな陰りが彼が見ている物、瞳に映る月が『現在』のもの
ではないと、そう物語っているようにも見えた。
「……思えば、あれも十六夜の晩だったか」
 かすれた呟きが、ふと零れ落ちる。
 思わぬ状況で現れた、帝国の魔導師。彼との出会いは、シュラが普段封じて
いる記憶の一端を再び目覚めさせたようだった。
「……」
 脳裏を過ぎるのは、漆黒の剣を携えた騎士。剣の使い手として、一度刃を交
えてみたい、と思っていた魔剣の主。
 だが、その機会は最悪と呼べる形でもたらされ、そして、当人同士の意図を
無視した干渉により、最悪の結果を導いてしまった。
 護らなければならなかった存在は何一つ護れず、彼は。全てを失った。
「……何も護れず、という点では何ら変わっていない……と言うのも、情けな
い事だな」
 自嘲的な呟きと共に、シュラは一つ息を吐く。
 国を護る者、護国剣士という立場にありつつ、しかし、彼は護るべき存在を
護れなかった。故郷である聖王国・譲葉も、尊敬する主君も、幼なじみである
姫も。
「……」
 忘れようにも忘れられない光景が、ふと脳裏を掠める。
 不覚を取った自分を庇い、黒き魔剣の一撃を受けた姫。魔剣を手にした騎士
の碧い瞳には、強い困惑が浮かんでいた。
 今、自分は何を切ったのか。呆然とした表情からは、そんな思いが伺えた。
それは今、剣に捉えた者を傷つけたのは不本意であったと、そう物語っていた
のかも知れなかったが──その瞬間のシュラには、そこまでの考えを巡らせる
余裕はなかった。
 剣の師である父から受けた教えも在り方も、全て激情に押し流された状態で
放った必殺の剣技は、直前に飛び込んできた、本来の標的とは異なる騎士を捕
らえ、その血を散らしていた。
 そして、標的を外した事に苛立ちを覚えつつ構えを直した時、信じ難い事が
起きた。通常であれば即死しているはずのその騎士が振り返り、手にした銀の
剣をこちらに向けてきたのだ。だが、何故かその剣は空を切り──直後に、激
しく昂っていた心が鎮まった。まるで、怒りと言う感情だけが抜き取られたか
のように。
「……感情だけを抜き取る……か」
 ふと、こんな呟きをもらしたその時。
「……ふにゃああああ〜……」
 気の抜ける声がして、緑色の物体がぷかりと浮かび上がってきた。言うまで
もなく、リュンだ。
「……まだ、入っていたのか、お前は……」
 呆れを込めて問うと、リュンはみゅん、と元気よく頷いた。ぱしゃぱしゃと
湯を弾く姿からは、のぼせた様子などまるで見受けられない。
「元気だな、お前は」
「みゅん♪ リュン、元気〜♪」
 思わずもらした呟きに、リュンはにこにこしつつこう返してくる。素直な反
応にシュラはただ苦笑する。その表情をリュンはきょとん、としつつ見つめ、
それから、ぱしゃぱしゃとシュラの横へやって来た。
「……ふに?」
 やって来たリュンはシュラの背を覗き込み、怪訝そうな声を上げる。
「……どうした?」
「シュラとソード、おんなじ。でも、シュラ、でこぼこしてない?」
「……何の話だ、それは?」
 例によって唐突なリュンの言葉に、シュラは眉をひそめる。僅かに浮かんだ
険しさを気にした様子もなく、リュンはあのね、と言ってシュラの左肩に小さ
な手を触れた。
「ソード、せなか、でこぼこなの。ここからね、ななめにでこぼこ。でも、シ
ュラ、つるん」
「……なに?」
 大雑把な説明に、シュラの表情が険しさを増した。その脳裏を先ほど蘇った
記憶の一部が掠めてすぎる。明らかな致命傷をその背に受けつつ、しかし、倒
れる事無く剣を繰り出した騎士の無機質な翠珠色の瞳が思い出された。シュラ
はそうか、という呟きと共に一つ息を吐く。
「これで、ほぼ確定したな。もっとも、今のヤツにとっては意味をなさんだろ
うが……」
「ふににゃ?」
「気にするな、独り言だ」
 呟きを聞きつけて首を傾げるリュンに、シュラは苦笑めいた笑みを向ける。
リュンは金色の大きな瞳をきょとん、とさせて、シュラを見つめた。
「……?」
 その表情に、シュラはふとある事に気づく。今まではさして気にしていなか
ったが、こうして改めて見るとリュンはどことなく、誰かに似ているような気
がした。
「……まさかな」
 低い呟きで自己完結する事で、シュラは今浮かんだ考えと面影を振り払う。
どう考えても、それはありえないのだから、と。
(気の迷い……いや、感傷か? いずれにせよ、あの程度の事で追憶に囚われ
るとは……我ながら、軟弱なものだな)
「……シュラあ?」
 自嘲的な笑みを浮かべつつこんな事を考えていると、リュンが不思議そうに
名を呼んできた。シュラはなんだ、と言いつつそちらを見る。
「えと……あのね」
「ん?」
「あのね。ソードとね、シュラね。かたち、おんなじ?」
「……なに?」
「ミィは、レイファとおんなじで、ふわふわぁ。ソードとシュラ、ぺたぺたで、
おんなじ?」
「……」
 一体、何を言われたのか。すぐには理解できずに戸惑い、数回頭の中で反芻
する事でようやく、シュラはその意に気づいた。どうやら、性別の話をしてい
るらしい、と認識した瞬間、どっと力が抜ける。
(む……そう言えば、リュンは……)
 それと共に、シュラはふとある事に気がついた。リュンは未だ、どちらでも
ない中性体のままなのだ。恐らく、どちらが自分にとっての自然なのかの見極
めがついていないのだろう。それ以前に性別という概念と、それぞれが意味す
るものを理解しているかどうかも怪しいのだが。
「シュラあ?」
 一抹の不安と共に納得していると、リュンが首を傾げつつ呼びかけてきた。
シュラは一つ息を吐いてから、そちらを見る。
「ねー。それで、おんなじ、なの?」
「ああ……そうだな。確かに、同じで間違いはない」
 問いに答えると、リュンはふみゅうう、と言いつつ眉を寄せた。
「ふわふわとぉ、ぺたぺたわぁ、ちがうの?」
「うむ。それぞれが、異なる役割を持っている」
「ふみみゅううう……」
「……何を悩んでいるんだ、お前は?」
 真剣そのもの、と言った様子で悩むリュンに、シュラは呆れながら問いかけ
る。リュンは金の瞳をくりっとさせ、逆にこう問い返してきた。
「じゃあ、ふわふわだからあ?」
「……何がだ?」
 前後を省いた問いに。シュラは眉を寄せる。
「ミィは、ふわふわだからあ?」
「だから、何だと言うんだ?」
「ミィは、ふわふわ。ふわふわだからあ、ソードにぎゅ〜ってだっこしてもら
えるの?」
「……な……」
 例によって何を言われたのかはすぐにはわからず、わかった瞬間、言葉が失
せた。そして、理解するのと同時になんとも言えない可笑しさがこみ上げ、結
果。
「ふ……なるほどな。そういう解釈もある、か……」
 呟いた直後に、シュラは思わず声を上げて笑っていた。突然笑い出したシュ
ラを、リュンはきょとん、と見つめる。
「シュラあ?」
「ああ、すまんな……しかし、面白い事を言うな、お前は」
 どうにか笑いを抑えたシュラは、こう言ってリュンの頭を撫でる。濡れた若
葉さながらの髪は、それその物と同様に柔らかく、手触りが良かった。リュン
はふに? と言いつつ瞬いて、また問いを繰り返す。
「ね〜、それで、ふわふわだからなの?」
「……そうだな。確かに、そうかも知れんな。もっとも、それだけではあるま
いが」
「ふわふわだから、だけじゃないの?」
 シュラの言葉にリュンはきょとん、と目を見張り、更に問いを継ぐ。
「えと、じゃ、どして?」
「さて、どうしてなのか……私には、何とも言えんな」
 さらりと嘯くシュラの言葉に、リュンはみゅみゅ〜、と言いつつ眉を寄せる。
「みゅ……ふわふわなら、ぎゅ〜ってしてもらえるのかなあ?」
 それからしばらくリュンは悩んでいたが、やがて、こんな問いを投げかけて
きた。
「どうだかな。まぁ、ソードは無理だろうが」
「じゃあ、シュラわあ?」
「さて……それは、お前次第だろう」
「ふみゅみゅ〜……」
 しれっと答えると、リュンは更に深く眉を寄せて唸り、それから、みゃう!
と声を上げた。
「じゃあ、リュン、ふわふわにするの〜。ふわふわになって、いっぱいぎゅ〜
ってしてもらうの〜♪」
「……そうか。では、それに見合うだけのものになった時には、考えるとしよ
う」
 無邪気な言葉にシュラは口元を綻ばせつつこんな事を言い、リュンは嬉しそ
うな様子でみゅん、と頷く。

 このやり取りが後に騒動を引き起こす事など、この時は誰一人、思い至りは
しなかったようだった。


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