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「……あなたは?」
 いつでも剣を抜けるように身構えつつ、ランディは低く問いを発した。
「あたしは、イレーヌ。真紅の魔女、なんて呼ばれる事もあるわ……ええと、
ランディ・アスティル君、でいいのよね?」
 その問いにイレーヌは楽しげに笑いながら答え、逆にこう問い返してきた。
ランディが一つ頷いて肯定すると、イレーヌはふふっと笑みをもらす。その笑
みと、艶やかさを前面に押し出した装いは平静であればそれだけでランディに
対する精神的なプレッシャーとなり得ただろう。
(……? なんだ……この感触?)
 だが、胸元に感じるちりちりと焼けつくような痛みと背後で震えているファ
リアの存在は、精神にそんな悠長さを与えはしない。ランディは一つ深呼吸を
すると、イレーヌとの間合いを取り始めた。イレーヌはそんなランディの様子
にくすっと微笑む。
「あら、戦うつもりなの? いいのよ、別に無理して戦わなくても?」
 くすくすと笑いつつ、イレーヌは差し延べるように腕を伸ばした。銀鎖のア
クセサリーが、シャラン……と涼しげな音を立てる。
「あなたたち二人が、大人しくあたしと一緒に来てくれるなら……手荒な真似
は、しないつもりよ?」
「……え?」
 思いも寄らない言葉にランディは一瞬戸惑うが、
「……ダメっ!!」
 直後にファリアが悲鳴じみた声を上げてランディの腕をぎゅっと掴んだ。
「……ファリア?」
 突然の事に戸惑いながら振り返ると、怯えた瞳と目が合った。栗色の瞳は強
い不安と恐怖とを湛え、すがるようにこちらを見つめている。腕を掴む手から
伝わる微かな震えが、その瞳と共にファリアの感じている恐怖を伝えてきた。
(ファリアがこんなに怯えるなんて……)
 恐らく、目の当たりにしたのは初めてだ。まだレオードたちと冒険していた
頃、遺跡の中で巨大なドラゴンゾンビと遭遇した時も、ここまで怯えはしなか
ったように思える。比較として正しいかどうかはさておき、その様子と胸元の
痛みとが、ランディの冷静さを引き止め、失わせはしなかった。
「……大丈夫」
 短い言葉と共に、左腕にぎゅっと掴まるファリアの手に右手を重ねる。それ
でひとまず震えは静まるが、瞳の怯えはまだ消えない。ランディはもう一度、
大丈夫だよ、と微笑みかけつつ、重ねた右手に力を込めた。それで多少は気が
静まったのか、ファリアはうん、と頷く。
「あらあら……仲がイイのねぇ、羨ましいこと?」
 そんな二人の様子に、イレーヌが楽しそうにこんな言葉を投げかけた。ラン
ディは表情を引き締めてそちらに向き直る。深い真紅の瞳には、一見すると艶
やかな笑みがあるだけにしか見えない。しかし、ランディはその色彩の奥に何
か、得体の知れないものを感じていた。ただならぬものと言うか、自分とは相
容れないと言うか、とにかくお世辞にも心地よいとは言えない何か、それを目
の前の美女から感じるのだ。『時空の剣』から感じる焼けるような痛みが、そ
れをより顕著なものとする。
(この人……危険だ)
 直感的にこう判断すると、それが表情に出たのだろうか。イレーヌはふう、
と息を吐いてざっと髪をかき上げた。
「どうやら、大人しくついて来てはくれないみたいねぇ?」
「……襲撃してきた時点で、あなたを警戒する理由は充分にありますから」
「それは、仕方ないわよ、こっちも仕事なんだし……まぁ、口で言ってわかっ
てくれるとは、最初から思ってなかったケド」
 大げさなため息と共にこう言うと、イレーヌはぱちん、と指を鳴らす。その
すぐ横の空気が揺らめき、何か、巨大な影が滲み出るように現れた。漆黒の毛
皮に包まれた、三つ首の獣。その尾の先には紅い舌を覗かせる蛇の頭がある。
 グルルルルル……
 狼を思わせる三つの首が一斉に低い唸り声を上げた。牙の並んだ口元からは、
禍々しい雰囲気の蒸気と共に炎がもれている。目の当たりにするのは初めてだ
が、その特徴的な姿は幼い頃、祖父の武勇伝で聞かされていたそれと容易に合
致した。
「……ケルベロス……」
 冥府の番犬として知られる高位の魔獣ケルベロス。それが目の前の大気を揺
らめかせている。真紅に燃える六つの瞳は鋭くこちらを見据えていた。
「……ランディ……」
「……大丈夫」
 ファリアが不安げな声を上げるのに、ランディは短くこう言い切った。勿論、
根拠となるものはない。だが、ここで弱気な態度は見せられなかった。それが
状況を悪化させるだけ、というのもあるが、何より、何があっても護る、と宣
言したばかりなのだ。ここで弱気な態度は見せられない――そんな、意地とも
言える気持ちも少なからずあった。
(……とは言うものの……)
 相手は、強い。ケルベロスは元より、それを易々と従えているイレーヌの実
力は想像に難くない。ケルベロスの能力自体は先ほどのフレスベルグと同等、
あるいはわずかに上回る程度だが、向こうに勝てたのはウォルスやチェスター
を、ニーナらを交えた連携があったからだ。彼らのいない状況で、ファリアを
護りつつどこまで戦えるか――正直、自信はない。
(でも、負けられない……この人に従う事は、できない……)
 ファリアの手をそっと離し、服の上からペンダントの紫水晶をぎゅっと握っ
て決意を固めると、ランディはゆっくりと剣を抜いた。ケルベロスの目が険し
さを増し、イレーヌの口元に笑みが浮かぶ。
「カワイイ子たちに、手荒な真似はしたくないんだけど?」
「……そんな楽しそうに言われても、説得力ありませんよ」
 カワイイ、という物言いに憮然として言いつつ、ランディは剣を構える。張
り詰めた闘気に、ファリアは不安げにしつつも一歩下がった。
(……ランディ……)
 本当は、距離を開けたくはない。ずっとすがっていたい。だが、それではラ
ンディの動きを妨げてしまう。鎧を着けていない今のランディの動きを制限す
るのが危険なのは明らかだ。それでは、ただの足手まといになってしまう。他
の何よりも、それが嫌だった。
(……しっかりしなきゃ……しっかり、しなさい!)
 震える自分を叱咤しつつ、ファリアは杖を構えて魔力を集中する。高位の魔
獣と戦うには、魔法の援護が重要となる。そして、炎に属する魔獣に対し、彼
女が最も得意とする水の魔法は有効なのだ。
(……ごめんね、水の精霊さん……力、使わせてね……)
 魔力で強引に水の精霊界との道を繋げつつ、ファリアは心の奥でこう呟く。
ファリアの使う古代語魔法は束縛の魔法。強引に道を開き、精霊を一時的に支
配するものなのだ。魔法の特性上仕方のない事と思いつつ、同時に、申し訳な
さが先に立ってしまう。とはいえ精霊の方もそんなファリアの気持ちは察して
いるらしく、一時支配に逆らうという事は滅多にないのだが。
 青い光が杖の先に灯り、その光にケルベロスはわずかに怯むような素振りを
見せる。その瞬間を捉え、ランディが動いた。正面から踏み込むと見せかけ、
身体を低くしつつ右方向へ飛ぶ。当然のごとく右側の首がその動きを追うが、
そこにファリアの呪文が飛んだ。
「……アクア・ブレイカーっ!!」
 空間に発生した水流が勢い良くケルベロスに襲いかかる。魔獣はそれに対し
て炎を吹きつけ、強引に相殺した。水と炎がぶつかり合い、発生した水蒸気が
視界を遮る。それに紛れつつ、ランディは側面から剣を振るうが、
 ……シャッ!
 切り込もうとした矢先に目の前に黒いものが現れた。それは低い唸りと共に
こちらに襲いかかり、ランディはとっさに後退して距離を取る。水蒸気が晴れ
たところで良く見ると、襲ってきたのは魔獣の尾だった。尾の先についた蛇の
頭は、それ自体に意思があるかのごとく、低く唸ってこちらを威嚇する。思わ
ぬ伏兵に、ランディは舌打ちする。
「まずは、あれ何とかしないと……」
 どこから来るかわからない遊撃戦力の存在は、とかく計算を狂わせる。とな
れば、早い段階で削るに越した事はないのだが。
 グルルルル……
 低い唸りを上げてこちらを睨む三対の首、その向こうの尾を先に落とすとな
ると容易ではないだろう。どうしたものか、と思案しつつ、ランディは剣を握
りなおした。
(ええと……こういう時は……)
 可能ならば遠距離攻撃と魔法を連携させると良い、というのが祖父ヴォルフ、
そして剣匠レオードの教えだった。とはいえ、遠距離攻撃は、今は……。
「……あ」
 今はない、と思いかけ、ランディはふとあるものを思い出した。教えられて
はいたが、今まで一度も使った事のない技。それを使えば、先に尾を落とせる
かもしれない――そう思った矢先にケルベロスが炎を吐いた。それを横っ飛び
に避けつつ、ランディはファリアの側に戻る。
「ランディ、大丈夫?」
 不安げに問うファリアにうん、と頷いて答えると、ランディは剣を下段に構
えた。
「ファリア、ちょっとでいいから時間、稼いで」
 短い言葉にファリアはえ? と言って瞬いた。
「時間……って?」
「ぼくが、力を集中する時間。頼むね?」
 にこっと笑ってこう言うと、ランディは表情を引き締め目を閉じた。意識を
澄ませ、闘気を剣へと集中させる。教えられてはいたが、実際にやるのは初め
てだ。
「……」
 そんなランディにファリアは不安げに眉を寄せ、それからケルベロスに向き
直った。妙に楽しげにこちらを見ているイレーヌの視線が気にかかる。魔獣に
自信があるのかそれとも何か思惑があるのか、真紅の魔女は豊満な胸の膨らみ
を支えるように腕を組みつつ、戦いを眺めていた。余裕たっぷりのその態度も
さる事ながら、意図的に自分の肢体を見せつける装いが何となく癪に障る。
(……ヤなオバサン……)
 こんな事を考えていると、ケルベロスが軽く身体を屈めるのが見えた。炎を
吐く前の予備動作だ。
「……アイシクル・アロー!」
 素早く力を凝らし、精霊の力を導いて氷の矢を生み出す。空間にふわりと現
れた氷の矢はケルベロスの三つの眉間に次々と突き刺さり、火炎の攻撃を阻む。
 グワォウウっ!!
 ケルベロスが絶叫し、吐き出し損ねた炎がこぼれた。爛々と輝く目が一斉に
ファリアを睨み、それに向けてファリアはアクア・ブレイカーの水流を叩きつ
ける。水流の勢いに押されたケルベロスは唸りながら後退した。
「……あらら」
 その様子にイレーヌは微かに眉を寄せた。属性的な有利不利があるとはいえ、
高位の魔獣であるケルベロスを圧倒すると言うのは並大抵の事ではない。その
事実は端的に、ファリアの魔力の強さを物語っていた。
「ふうん……さすがは、『呼び鈴』となる資質を持つ者ってコト……やるわね」
 低く呟く刹那、真紅の瞳は鋭く、真剣だった。イレーヌはその瞳をランディ
へと向ける。ランディは剣を下段に構えたまま、全く動かない。だが、全くの
無防備でない事はその周辺の張り詰めた緊張が物語っていた。少年を包み込む
純粋な力に、イレーヌは薄く笑みを浮かべる。
 グワォォォウっ!!
 突然、ケルベロスが咆哮した。魔獣は低く身構え、その姿勢から一気に跳躍
してランディたちに襲いかかる。それとほぼ同時に、ランディの剣に澄んだ紫
の光が灯った。
「……せいっ!!」
 銀煌、一閃。
 低い気合と共に振り上げられた剣が魔獣の前足を捉え、剣から飛び立った紫
の光の刃が尾の先を切り飛ばした。空中で態勢を崩したケルベロスは目標を捉
え損ねて地面に落ちるものの、落下直後に無事だった左前足を横なぎに払った。
ランディはとっさのバックステップでそれを避けるがわずかに及ばず、鋭い爪
が足をかすめた。
「……つっ!!」
 痛みが走り、真紅がぱっと散る。恐らくまともに受けていたなら、片足は持
っていかれただろう。
「ランディ!!」
 痛みに顔をしかめていると、ファリアが慌てたように駆け寄ってきた。ラン
ディは治癒の光を集めて簡単に傷を塞ぎ、大丈夫、と答えつつ厳しい瞳を魔獣
に向ける。
「……やっぱり……」
 爛々と輝く三対の目を睨むように見つつ、ランディはこんな呟きをもらした。
突然の事にファリアはえ? と言って瞬く。
「やっぱり……強いよね、ケルベロスって……お祖父様が、昔、話してくれた
とおりだ……」
「なっ……何、言ってるのよ、もう!」
 場違いとも言える物言いに、ファリアはさすがに呆気に取られたようだった。
この言葉にランディはくすり、と微笑み、それからゆっくりと立ち上がって剣
を構えなおす。魔獣を見つめる紫水晶の瞳は真剣で、そこには強い意思の光が
浮かんでいた。
「でも……負けられない。負けるわけには、行かないんだ。ここで立ち止まる
訳にはいかないし……それに、それじゃキミも護れない……」
 半ば独り言のように呟きつつ、ランディは決意を固めなおす。その呟きと、
凛、と引き締まった横顔に、ファリアは場違いと知りつつどきりとしていた。
(とはいえ……どうすればいいか……)
 そんなファリアの様子にはついぞ気づかず、ランディは状況の打開策を巡ら
せていた。今のところ、火炎の攻撃はファリアが呪文で止めているので問題は
ない。正直、森に飛び火するのが一番の懸念なのだ。そうなれば圧倒的にこち
らが不利になるし、離宮の方もただでは済まないだろう。とはいえ、そちらの
方はウォルスが何とかしてしまうような、そんな気もしていたが。
 グゥゥゥゥゥ……
 ケルベロスが低く、唸る。度重なる痛手にさすがにこちらを警戒しているの
か、それとも背後のイレーヌの意思なのか、魔獣は唸るだけでしかけてこよう
とはしない。当のイレーヌはと言えば、相変わらずの余裕の体だ。口元に楽し
げな笑みを浮かべ、じっとランディを見つめている。その視線はお世辞にも心
地よいとは言えないものだった。苛立ちを伴った不快感が根拠もなくわき上が
り、それに反応しているかのごとく、『時空の剣』が焼ける痛みを伝えてくる。
その痛みから感じるのは、イレーヌに対する強い警戒だ。
(……一体、何なんだ? この感触は……)
 激しい苛立ちと痛みにふと顔をしかめたその瞬間、ケルベロスが動いた。低
い構えから跳躍した魔獣は一気に距離を詰めて飛びかかってくる。このままで
は踏み潰される――距離的な近さからこう判断したランディは、とっさにファ
リアを抱きかかえて横に飛んだ。とはいえさして広くない森の小広場での事、
横に飛んだ二人はそのまま低木の茂みに突っ込み、千切れた枝葉がぱっと飛び
散った。
「いった……」
「あ……ごめんっ!」
 衝撃と痛みにファリアが顔をしかめる。ランディは短く謝ると、背後に迫る
気配に向けて反射的に右手の剣を振り上げた。
 グギャンっ!!
 直撃にはならなかったものの、剣は牙を向けてきたケルベロスの頭の一つを
捉えたらしかった。手応えと共に絶叫が響き、迫っていた気配が離れるのがわ
かる。茂みから身体を起こして振り返ると、ケルベロスは左の首の顎の下から
どす黒い血を滴らせつつ、鋭くこちらを睨んでいた。傷ついた首は口を開こう
としてはびくん、と震えてそれを断念する、という事を繰り返している。とっ
さの一撃の当たり所が良かったのか、口が開けなくなっているようだ。
(ブレスの範囲が、狭くなったって考えてもいいかな?)
 その様子にランディはふとこんな事を考える。火炎攻撃の範囲が狭くなれば、
それだけこちらは攻撃をしかけ易くなる。つまりは、勝機が多少なりとも増し
た、と言えるはずだ。
「……あと一箇所、押さえられれば……」
「……え?」
 独り言のように呟くと、遅れて立ち上がったファリアが怪訝そうな声を上げ
た。茂みに突っ込んだショックでリボンが解けたのか、一本の三つ編みにして
ある長い髪が解けて乱れている。
「うん、だから……左の首、ブレス、吐けなくなったみたいだから……右側で
も真ん中でも、とにかくあと一箇所、ブレスを押さえられれば……勝てるかも
知れない……」
 それにこう答えつつ、ランディはゆっくりと剣を構えなおした。ケルベロス
は身体を低く屈め、再び炎を吐き出してくる。その炎はファリアがアクア・ブ
レイカーで打ち消し、周囲には再び水蒸気が立ち込めた。そして、ランディは
今の攻撃で自分の予想が正しかった事を確信する。左の首は、今のブレス攻撃
に加わってはいなかったのだ。
「……問題は、どうやって狙うか……ん?」
 どうやって他の首のブレスを封じるか、あるいは首そのものを無力化するか
――そんな事を考えつつ立ち位置をずらした時、わずかに足元が滑った。ファ
リアの呪文によって生み出された水流が足元をぬかるませ、滑りやすくしてい
るのだ。
(……待てよ……普通に突っ込んでも、爪で止められるんだから……)
 普通に攻撃をしかけても、鋭い爪を備えた前足に迎撃されるのは目に見えて
いる。なら、向こうにとって思わぬ角度から、あるいは思わぬ方法で攻撃をし
かけたなら。いずれにしろ、正攻法が通じない以上、それなりの奇策を用いな
ければ、この場を切り抜けるのは難しいだろう。
(とにかく……やってみるしか、ない)
 こう思い定めると、ランディは青眼に構えていた剣を下段に構えなおした。
ケルベロスは警戒するように低く唸りを上げている。爛々と輝くその目を睨み
返しつつ、ランディはファリア、と短く呼びかけた。
「え? なに?」
「……まだ、魔法、使える?」
「え……あ、うん……大丈夫だよ」
 突然の問いにファリアはやや戸惑ったようだが、すぐにこう言って頷いた。
ランディはそう、と呟きつつ、ケルベロスとの距離をはかる。
「……ランディ?」
「それじゃ、合図したら、ケルベロスの足元でいいから水の呪文を打ち込んで。
あとは……ぼくがなんとかするから」
 不安げに名を呼ぶファリアにこう言うと、ランディは軽く、身体をかがめた。
ケルベロスと、イレーヌが怪訝そうな表情を覗かせる。ランディは一つ深呼吸
をすると、濡れた地面を蹴って跳躍した。突然の事にその場にいた全員が呆気
に取られるが、
「……ファリア、今っ!」
 跳躍したランディの声にファリアはいち早く我に返っていた。素早く魔力を
凝らし、ランディの指示通りアクア・ブレイカーをケルベロスの足元めがけて
放つ。突然の水流にケルベロスは僅かに飛び退き、その目の前にランディが着
地した。
 グワオウっ!!
 至近距離に現れたランディに、ケルベロスは右前足を横なぎに叩きつける。
だが、その鋭い爪はランディを捉える事なく、空を切った。
「……なっ……」
 イレーヌが声を上げる。ファリアも一瞬、何が起きたのかは理解できなかっ
た。二人以上に状況を把握できなかったのはケルベロスだろう。必殺を期した
一撃は避けられ、その上、
「……っせい!!」
 低い気合が響いた直後に魔獣は激痛を感じていた。右の首が、真下から突き
上げた剣に貫かれているのだ。
「……え?」
 突然の事に戸惑いつつ、剣をたどるように視線を下げたファリアは、泥だら
けになりつつ魔獣の下に潜り込み、剣を突き上げているランディに気づく。
「……っと!!」
 全員が呆然とする中、ランディはかけ声と共に立ちすくむ魔獣の足を蹴り、
剣を引き抜きつつ後ろに下がった。勢いで泥水が跳ねるが、気にしてはいられ
ない。ランディは素早く態勢を立て直して身構える。直後に、魔獣の口から絶
叫とも取れる咆哮がほとばしった。
「何とか、上手くいったかな……」
 その様子に、ランディは顔についた泥を拭いながら呟く。事前に水の呪文を
放つ事で魔獣の周囲の地面をぬかるませ、そこでわざと身体を滑らせる事で攻
撃を避けつつ魔獣の下に潜り込んで頭を狙う――同じ事を二度やれ、と言われ
ても、正直、できる自信はなかった。
「取りあえず、これで首、一つは取れたんだ……ここから、何とか……」
 何とか、勝ちに持っていかなきゃ、という呟きは、
「……きゃああっ!!」
 突然の悲鳴に遮られた。
「っ!? ファリアっ!?」
 その声に振り返ったランディは、イレーヌに捕われたファリアの姿に目を見
張る。いつの間に距離を詰めたのか、真紅の魔女は悠然としたまま、ファリア
の首を抱え込んでいた。
「はいはい、そこまでにしてちょうだいね……ふふっ、カワイイ顔して、中々
やってくれるじゃないの。でもね、そろそろ遊びは終わりにしないとね……こ
れ以上、カワイイ下僕をいじめられるとあたしも困るから」
 くすくすと笑いつつ、イレーヌは悠然と言葉を綴る。その腕は、一見すると
軽くファリアの首を抱え込んでいるだけのようだが、その実かなりの力がかか
っているらしい。苦しげなファリアの表情が、端的にそれを物語っている。
「……くっ……」
「さて……動けばどうなるかは……わかるわよね? まさか、そんなお馬鹿さ
んじゃないでしょう? ふふっ……できないわよねぇ、騎士のキミには。カワ
イイ彼女を危険に晒すなんて、ね?」
 楽しそうな言葉に対し、ランディは唇を噛み締めた。多少不本意ではあるが、
イレーヌの言葉には否定のしようがない。とはいえ、このまま大人しく捕われ
るわけにはいかない――そう考えた瞬間、背後に鋭い殺気が迫った。
「……っ!?」
 はっと振り返った瞬間、黒い影が視界を覆い尽くした。イレーヌに気を取ら
れ、その存在を忘れていたケルベロスが飛びかかってきたのだ。突然の事に避
ける間もなく鋭い爪が背中をえぐり、鋭い痛みが走る。
「うあっ……」
 激しい痛みに息が詰まった。衝撃が全身を貫き、ランディはその場に倒れ伏
す。ぬかるんだ地面に真紅が跳ね、森の広場には似つかわしくない、凄惨な色
彩を織り成した。
「ラ……ラン、ディっ……」
 ファリアが振り絞るような声を上げるのが、微かに聞こえた。立ち上がろう
とする意思に反し、身体は激しい痛みに動く事を拒否している。
(ダメだ……このままじゃっ……)
 このままでは取り返しのつかない事になる。そう、意思が身体を叱咤するが
……力が、入らない。それでもなんとか顔を上げると、霞んだ視界にファリア
の泣き顔が写った。
(……ファリア……)
 泣いている。自分のせいで。そう認識した直後に身体に何かが伸しかかって
きた。ケルベロス――ではない。何か、重たい空気のような感触のものが身体
を包み込んでいるのがおぼろげにわかった。
「ほんっと、手間取らせてくれて……」
 直後にイレーヌがこんな呟きをもらしたような気がしたが、確かめる間もな
く、ランディの意識は暗闇に閉ざされていった。

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