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「あのさ、ファリア……」
 一方、反対側の庭に移動したランディは、バスケットの中から出てきた物に
悩んでいた。
「なに?」
「なにって言うか、その……これって……」
「アップルパイとクッキーだよ?」
 ランディの問いにファリアは事も無げに答える。いや、それはわかる。共に
見事な焼き色のついたパイとクッキー。それはいいのだが。
「なんで、クッキーこんなにあるの?」
 ランディが絶句していたのはクッキーの量だった。ファリアの甘い物好きを
差し引いても、二人分と言うには多すぎる。おそるおそるの問いかけに、ファ
リアは一つため息をついた。
「気がついたら、こうなっちゃったの。ディアーヌ様に色んな味付けの仕方、
教えてたら……」
 言われてみれば、種類はかなり豊富だ。
「それに、ディアーヌ様すっごく楽しそうで……あたしもつい、調子に乗っち
ゃって……あ、いいよ、ムリに食べなくても」
「え? あ、違うよ。食べるのが嫌だとかじゃなくて、ただ、量にびっくりし
ただけだから」
 やや寂しげな表情に慌ててこう言うと、ファリアはやや上目遣いになって、
ホントに? と問いかけてくる。ランディはうん、と頷いてそれに答えた。
「ホントに、ホント?」
「ホントだってば……それより、怪我しなかった?」
 ふと不安を感じて問いかけると、ファリアはえっ、と言いつつ目をそらした。
この反応にランディは眉を寄せる。
「ファリア?」
「……ちょっと、火傷したけど……でも、大丈夫! ディアーヌ様、治してく
れたから……」
 低く名を呼ぶとファリアは拗ねたようにこう答えた。ランディはもう、と言
いつつため息をつく。
「もぉ……心配し過ぎ!」
「心配にもなるよ、いつも怪我するんだから」
 言い切ると、ファリアはむぅ、と頬を膨らませて拗ねて見せた。子供っぽい
仕種が妙に似合うのは、なかなか抜けない幼さ故だろうか。
「心配っていうなら、あたしの方が心配してるわよぉ」
 拗ねた表情のまま、ファリアは突然こんな事を言った。
「え……どうして?」
「ランディ、この頃ちゃんと寝てないでしょ?」
 思わぬ言葉にきょとん、としつつ問うと、ファリアは真面目な面持ちでこう
返してくる。その通りと言えばそうなので、ランディはう、と言葉に詰まった。
チェスターと一日交替で深夜の見回りをしているため、多少眠りが浅くなって
いるのは事実だが。
「別に、全然寝てない訳じゃないよ。チェスターだけに無理はさせられないし」
 取りあえずこう返すと、ファリアはきゅっと眉を寄せた。
「……今日も、起きてるつもりでしょ?」
「え? ん、まぁ……今日は、ぼくの番だから」
「……じゃ、少し休んで」
 突然の言葉にランディはえ? と言って瞬いた。
「今日、寝ないんでしょ? なら、今の内に少し休まなきゃダメ!」
 すぱっと言い切られてしまい、ランディは困惑しつつ頬を掻く。確かに身体
に無理をさせているせいか今も眠気は感じているが、いきなり言われても困っ
てしまう。
「……ランディがあたしのコト心配してくれるのと同じで、あたしもランディ
のコト、心配してるんだよ? あたしでよければ、枕してあげるから……ちゃ
んと、休んで」
 どうしたものかと悩んでいると、ファリアはやや小声でこう言った。栗色の
瞳に宿る、こちらを案じる光にランディはこれ以上の反論は無意味と悟る。何
より、自身の眠気を春の日差しの温もりが増幅しており、起きているのが辛く
なりつつあるのだ。
「わかった。じゃあ……」
 休ませてもらうね、と言うより早く、気持ちの緩みが睡魔を呼び込んだ。ラ
ンディはころん、と草の上に倒れ込み、すうっと寝入ってしまう。突然の事に
ファリアは一瞬ぎょっとしたようだが、すやすやという寝息に気づいてもう、
と息を吐いた。
「い〜っつも、ムリするんだからぁ……」
 ぶつぶつと文句を言いつつ、そっとランディの頭を自分の膝に乗せる。普段
は凛々しくなってきたが、寝顔はどこかあどけない。
「……今度は……あの人のコト、呼ばないでね……」
 黒髪に絡みついた草をそっと除きつつ、ファリアは小声でこんな事を呟く。
栗色の瞳には、はっきりそれとわかる切なさが浮かんでいた。
「……あ……」
 そうやって、どれくらい過ぎたのだろうか。不意に、ランディが何か呟いた。
ぼんやりとその寝顔を見つめていたファリアは、それではっと我に返る。
「……ランディ?」
 そっと呼びかけるが返事はない。どうやら寝言のようだ、と納得した直後に、
ランディがまた寝言をもらす。
「……ファリア……」
 今度は、はっきり聞き取れた。それが自分の名前と認識した瞬間、ファリア
は言葉では言い尽くせない喜びを感じる。想う相手に寝言で呼ばれて、喜ぶな、
と言うのが無理な相談だろう。
 だが、それに続けて出てきた言葉は、その喜びと同等の疑問を感じさせるも
のだった。
「……ごめん……」
 消え入りそうに小さな謝罪。それもまた、自分に向けられたものなのはわか
る。しかし、何故ランディが自分に謝るのか、それがわからない。ファリアは
困惑しつつ肩のリルティと顔を見合わせるが、妖精ネズミはきゅう、と鳴いて
首傾げるだけだ。
「……ランディ……」
 喜びと困惑を不安定に抱えたまま、ファリアはもう一度ランディを見る。寝
言はそれきり途切れ、ランディは何も言わない。ファリアは小さくため息をつ
くと、眉を寄せつつランディの髪を軽く引っ張った。
「なんで謝るの? 謝るくらいなら……もっと、他に……言って欲しいコト、
たくさんあるんだよ……ランディ……」
 怒ったような言葉に対する返事は、当然の如く、なかった。

 頭が、重い。
 意識が戻った時、最初に感じたのはそれだった。頭の中が朦朧として、自分
がどこにいるのか、何をしているのか、そんな当たり前の事が把握できない。
ただ、自分を包み込んでいる暖かさだけははっきりと感じられた。その心地よ
さに、ニーナはぼんやりと浸り込んでしまう。
(……ええと……私、は……)
 少しずつ、意識がはっきりしてくる。それにつれて意識が途切れる直前の事
が思い出され、
「……っ!!」
 記憶がはっきりするのと同時に意識もはっきりとした。はっと目を開いたニ
ーナは、自分が置かれている状況を把握できずにきょとん、とする。
(……え?)
 目に入ったのは黒い色。それが、ふわりと自分を包み込んでいる。どこかで
見たような……と思った直後に、肩に回された腕に気がついた。ニーナはおそ
るおそる、今まで自分が寄りかかっていたものの方を見、そのまま目を見張る。
(え……え?)
 そこにあったのは、空を見上げる横顔。冷たい氷を思わせる、蒼い瞳がどこ
となくぼんやりと空色を見つめている。ウォルスだ。
「……あ……」
 自分がウォルスに寄り添い、肩を抱かれている、という事実に気づくまで、
数秒かかった。気づいた瞬間、思いも寄らない状況に意識が混乱する。いつも
なら大声を上げる所だが、頭の芯に残る鈍い痛みがそれを妨げていた。
「あ……あのっ……」
 故に、ニーナはかすれた声を振り絞り、こう呼びかけるしかできなかった。
ウォルスは一つ息を吐くと、ちらり、とこちらに視線を投げかける。
「ああ……気がついたか……大丈夫か?」
「だ、大丈夫……かって……あ、あの……」
「シャドハの焚いていた香に、悪酔いしたんだ。あの婆さん、見境なく香を焚
いてるからな。慣れん人間には厳しいんだ」
 上擦った声を上げるニーナに、ウォルスは淡々とこう説明する。それも気に
なってはいたが、今聞きたいのはその事ではない。どういう経緯で今のこの態
勢になっているのか、の方を聞きたかったのだが、上手く言葉を選べない。香
の影響で、感覚が麻痺しているのだろうか。
「……ま、少なくとも毒になるものはやっていないから、大丈夫だろう……悪
かったな」
 すっと視線をずらしつつ、ウォルスは呟くようにこう言った。突然の謝罪に、
ニーナはえ? と目を見張る。その呆然とした表情のまま横顔を見つめている
と、ウォルスは大仰に息を吐いた。
「なんだ、オレが謝るのが、そんなに意外か?」
 やや、むっとしたように問いかけてくる。その表情には、いつもの素っ気な
さがない。それに戸惑いつつ、ニーナはそんな事は、と呟いて目を伏せた。
「まあ、いいがな……それより、立てるか?」
「え、ええ……なんとか」
「ならいい。さっさと用事を済ませて、戻った方がいいだろう」
「……用事……」
 何かあった気がするが、一瞬思い出せない。その様子にウォルスはまたため
息をついた。
「あいつめ、忘却香にでも手を出したのか……? 買い出しに来たんだろう、
食料の。オレの用事は済んだから、あとはお前の用事だぞ」
 呆れたような言葉に、ニーナはようやく自分の目的を思い出す。そうでした、
と呟きつつ、ニーナは自分の肩に回された腕にちらり、と視線を投げかけた。
それに気づいたウォルスはそっと腕を離し、ニーナを包み込んでいたマントを
ふわりと跳ね上げる。
「辛いようなら手を貸す。さっさと用事を済ませて戻った方がいいだろう」
 静かな言葉に、ニーナははい、と頷いた。
(そう……そうよね。早く、買い物を終わりにして、戻らないと……)
 自分は王女を守る近衛騎士なのだから、と言い聞かせつつ、ニーナはゆっく
りと立ち上がった。
「それじゃ……行きましょう」
 この言葉に、ウォルスはああ、と頷いて、腰掛けていた石のベンチから立ち
上がった。

 市場での買い物は滞りなく終わり、二人は来た時と同様、紫の光の門を使っ
て別邸近くまで戻ってきた。ある種の必然によって大量の荷物を押しつけられ
たウォルスはさすがに渋い顔をしていたものの、華奢な外見に似ず腕力はある
ようで、平然とそれらを運んでいたが。
 帰りついた邸は、なんとも平和的な静けさに包まれていた。庭で膝枕をして
いるランディとファリアの姿が、この場の平穏を端的に物語っている。その様
子から留守中は何事もなかった、と悟ると、ニーナはほっと息をつく。もっと
も、それも台所の様子を見るまでは、だったのだが。
「……え?」
 正直、何があったのかは見ただけではわからなかった。台所の中はきちんと
片付けられており、一見すると異変があったようには思えない。しかし、漂う
甘い香りとテーブルに置かれたバスケットに山と盛られたクッキー、そして空
になった粉の大袋を見ては、何もなかったとは思いがたかった。
「……」
「……見事だな、これは」
 荷物を下ろしつつ、ウォルスが呆れたように呟く。それに答える言葉を、ニ
ーナはどうしても見つける事ができなかった。

 さすがにと言うべきだろうか。その夜の食事は、ごくシンプルなものとなっ
ていた。ディアーヌから留守中に起きた事を聞いたニーナが備蓄調整のため、
そして数人の胃の事情を慮ってシンプルに仕上げたのだ。
 そして食事もすみ、夜も更けた頃。
「……ふう……」
 ニーナは花の咲き乱れる庭の一画に座り込んで、一人、ため息をついていた。
アクアブルーの瞳は、どことなく陰りがちになっている。
「ここに来てから、前よりは落ち着いてはいるけれど……いつまでこんな状況
が続くのかしら……」
 周囲に誰も居ない事を確かめてから、低く呟く。
 静寂を好む王女の気質柄、この別邸暮らし自体は何ら問題はない。むしろ、
他者の横やりの入らぬこの場所で、気兼ねなくチェスターと愛を育んでもらい
たいくらいなのだ。とはいえ、これに関しては肝心のチェスターが、自分は臣
下の身だから、と一線を越えようとしないため如何ともしがたいのだが。
 とにかく、ここで暮らす事には問題はないのだ。とはいえ、襲撃の危険に晒
され続けているという事実は問題なのである。
「……ランディさんたちだって、いつまでもここにいられる訳じゃないんだし
……なんとか今の内に解決したいんだけど……」
 ここで、ニーナははあ……と重苦しいため息をついた。いつも勝気な瞳は、
それが信じられなくなるほどに力がない。ニーナは抱えた膝の上に顔を伏せ、
またため息をついた。
 みゅう……
 それから、どれくらいたったのだろうか。ぼんやりしていたニーナは、不意
に耳に届いたか細い声にはっと顔を上げた。
「……なに、今の……猫?」
 周囲を見回しつつ呟いていると、
 みゅう、みゅうう……
 また声が聞こえた。猫の声のような違うような……なんとも形容しがたい声
だ。ニーナは戸惑いながら立ち上がって周囲を見回し、
「……え? なに、これ?」
 声の主に気がついた。
 庭の一画には今、無数の青い鈴を思わせる花が満開になっているのだが、そ
の花の前に奇妙な生き物が座り込んでいるのだ。
 外見はやや大型のリスと言った風で、顔はどことなくキツネに似ている。全
身を覆うふかふかした毛は真っ白で、それがサファイアさながらの碧い瞳と引
き立て合っていた。そしてなんと言っても印象的なのが額で、そこには大粒の
ルビーを思わせる紅い煌きがあった。どうやら、宝石が埋まっているらしい。
 みゅう、みゅううう……
 その生き物は花をじいっと見上げて懇願するような鳴き声を上げていた。花
をねだっているようなその仕種と声がなんとも可愛らしく、ニーナは憂鬱な気
分も忘れてそちらに歩み寄る。
 みゅう……みゅっ!
 が、近づいた途端、その生き物は甲高い声を上げて近くの茂みに飛び込んで
しまった。そのまま枝の陰に隠れてこちらを伺っているらしい。そんな仕種も
愛らしく見えて、ニーナは知らず、笑みをもらしていた。
「そんなに怖がらないで……大丈夫よ、いじめたりしないから……こっちにお
いで」
 ……みゅうう……
 優しく声をかけると、生き物は警戒するような響きの声を上げた。ニーナは
努めて優しい笑顔でその碧い瞳を見つめる。やがてニーナに害意がない事を悟
ったらしく、生き物はゆっくりと低木の陰から姿を現し、こちらに歩み寄って
来た。そっと手を伸ばして頭を撫でてやると、生き物はさも気持ち良さそうに
みゅうう、と声を上げる。
「ふふっ、可愛い……あなた、どこから来たの?」
 頭を撫でてやりながらこんな事を問いかけると、生き物はみゅうう、と首を
傾げた。くりっとした瞳は、どうしてそんな事をきくの? とでも言いたげに
こちらを見つめている。こちらの言う事を理解しているようだ。
「私の言ってる事が、わかるの? 賢いのね……おいで」
 微笑みながら手を出すと、生き物はぴょんっとその上に飛び乗った。そのま
ま、とことこと腕を伝って肩に上がってくる。ふわふわした毛が頬に触れ、そ
の感触が何とも心地よい。そして、そんな仕種が気分の陰鬱さを忘れさせてく
れた。
「……ティア?」
 それからしばらくして、突然、邸の方からこんな声が聞こえてきた。それに
答えるように白い生き物がみゅう、と声を上げる。そして、ニーナは今のがウ
ォルスの声であると気づいて、困惑した目を白い生き物に向けた。
「なんだ、こんな所にいたのか……」
 そうこうしている内にウォルスが庭に姿を見せ、途端に白い生き物はニーナ
の肩を飛び降り、そちらに向けて走り出した。そのままぴょんっと跳ねてウォ
ルスの肩の上に飛び上がる。
「一体、こんな所で何をしてたんだ、お前は……」
 こう言うと、ウォルスはニーナの方に目を向けた。ニーナは、取りあえず立
ち上がりはしたものの、何となく目を合わせるのを避けてしまう。そのため、
ニーナはその時ウォルスの瞳の微かな困惑に気づく事はなかった。ウォルスは
しばしニーナを見、それから肩の上の生き物を見て、小さくまさかな、と呟く。
その呟きも、ニーナの耳には届かなかった。
 みゅう、みゅうう、みゅう
 その場に立ち込めた沈黙を白い生き物──ティアの声が取り払った。ティア
は先ほどじっと見つめていた青い花の方に手を伸ばし、何事か訴えかけている。
その指し示す方を見やったウォルスは、突然、ん? と訝しげな声を上げた。
「何でここに、ティシェルが咲いてるんだ?」
 それから、ニーナに向けてこんな問いを投げかける。突然の事に、ニーナは
え? ととぼけた声を上げていた。
「え……ティシェルって……この花の事?」
 戸惑いながら逆に問い返すと、ウォルスは花の所までやって来て膝をつく。
ニーナもつられるようにその傍らに膝を突いた。
「何だ、名前も知らなかったのか?」
 そんなニーナに、ウォルスは呆れたようにこんな事を言う。馬鹿にしたよう
な物言いにニーナは一瞬気色ばむものの、直後にいつになく穏やかなウォルス
の表情に気づいて息を飲んだ。
「……しかし、久しぶりに見たな……平原を離れてから……五年ぶりか」
「平原……? あ……あなたもしかして、パルシェ平原の、遊牧民なの?」
 独り言のような呟きに疑問を感じて問いかけると、ウォルスは不思議そうな
目をこちらに向けた。
「……確かにそうだが……何故、わかる?」
「え……ええと、この花の種をくれた吟遊詩人が、自分がそこの生まれだって
……確か、ラーキスの民だって……」
「……なるほどな……同胞が、種をおいて行ったのか。しかし、よく育ってる
なぁ」
「姫様のお気に入りなの。だから、毎年綺麗に咲くように、世話をしてもらっ
ていたから」
「そうか……」
 みゅう、みゅうぅぅ!
 不意に、ウォルスの肩の上のティアが甲高い声を上げた。
「え……どうしたの?」
「ああ……大した事じゃないが……一つ、貰うぞ」
 きょとんとするニーナにこう言うと、ウォルスはティシェルの花を一つ摘み
取って口を開けて待つティアに食べさせた。予想外の事にニーナは目を見張る。
「え……この子、この花を食べるの?」
 それから真面目な顔でこう問いかけると、ウォルスは一瞬きょとんとし、そ
れから低く笑いだした。
「ちょ、ちょっと、真面目に聞いてるんだから、笑わないで答えて!」
「あ、ああ……済まん……しかし、面白い事を言ってくれる……」
「もう! それで、どうなのよ!?」
「……別に、こいつがこれを食べる訳じゃないさ。オレたち平原の民にとって、
これは身近な……菓子みたいな物なんだよ」
「……お菓子? この花が?」
「ああ。まあ、騙されたと思って、一つ食べてみろ」
 こう言うとウォルスは花を一つ摘み取ってニーナの手に乗せた。ニーナはや
や戸惑うものの、思い切って花を口に入れて軽く噛んでみる。途端にほんのり
とした甘味が香気を伴って口の中に広がった。
「……わ、美味しい……」
「だろ?」
 思わず声を上げると、ウォルスは得たりとばかりににやっと笑って、自分も
花を口に放り込む。
「ティシェルは葉と茎を香草としても使えるし、こうやって、蜜を菓子代わり
に食べる事もできる。移動先でこれの群生地に出くわした時は、最高の気分に
なったな……」
 懐かしげに呟くウォルスの横顔を、ニーナはやや戸惑いながら見つめていた。
得体が知れない。それ故に、最も強い警戒を寄せていた相手。しかし、昼間の
レムニアでの一件と今の表情は、その警戒を緩めさせる理由に、充分なりえて
いた。
(もしかしてこの人って……凄く、優しいんじゃ……)
 ティアの頭を撫でる表情の穏やかさに、ふとそんな考えが頭を過る。すっか
り安心した様子で撫でられているティアの様子が、その考えを確信めいたもの
に変えていた。
「……何だ、さっきから、人の顔を眺めて」
 不意にウォルスがこんな事を言って、ニーナの意識を現実に引き戻した。突
然の事にニーナはどう答えたものかと考え込み、ふと、ティアの額の宝石に目
を止め、とっさにこんな事を口走った。
「あ、あの……その、ティアって子は、その……なんなの?」
「なんなのってのは、どう言う意味だ?」
「だから……なんて生き物なのかなって……」
 大真面目に問い返され、ニーナは慌ててこう付け加える。この言葉に、ウォ
ルスは肩の上のティアを横目に見た。
「ああ……カーバンクルだ」
「カーバンクル……って?」
「ああ。この額の石が……」
 言いつつ、ウォルスはティアの額の宝石をちょん、とつつく。
「……幸運を呼び込むって触れ込みの、妖精の一種だ。まあ、カティスの魔道
師連中は、妖精を使い魔にしたがらんからな。知らなくても無理はないだろ」
「使い魔って……その子、使い魔なの、あなたの? でも……あなた、魔道師
じゃないんでしょう?」
 説明が新たな疑問を呼んでこう問いかけると、ウォルスはひょい、と肩をす
くめた。
「使い魔を持つのは、魔道師だけとは限らんさ。オレたち占術師にとっても、
使い魔は重要な相棒になる……さて、」
 問いに答えると、ウォルスは弾みをつけて立ち上がった。
「いつまでもここにいると、こいつが王女の花壇を食いつくしかねんからな。
引き上げるとしよう」
 こう言って館へ戻るウォルスを、ニーナは待って、と呼び止めていた。突然
の事にウォルスは訝しげにニーナを振り返る。
「あの……ご、ごめんなさい、私……あなたの事、少し、誤解していたみたい
……だから、その……ごめんなさい」
 上手い言葉が見つからないため、ややしどろもどろにこう告げると、ウォル
スはきょとん、と瞬き、それからふっと笑って見せた。
「気にする事じゃない……他人に煙たがられるのは、オレにとっては日常茶飯
事だからな」
「日常茶飯事って……それで済ませていい問題なの、それ?」
「そうでも思わんと、やりきれんだけさ……じゃあな」
 ごく軽い口調でこう言うと、ウォルスは邸の中へ消えた。ニーナはしばし、
甘い香りの立ち込める庭に一人、立ち尽くす。
「……まだまだ、ダメね。外見だけで相手を判断してしまうなんて、これじゃ
神聖騎士失格だわ」
 自嘲を込めて呟きつつため息をつくと、ニーナは月を見上げた。彼女を守護
するもの――月の光は静かに地上を照らしている。しばし、その輝きを見つめ
ると、ニーナはゆっくりと邸の中へと戻って行った。

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