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   ACT−3:月光の夢幻

 イビルアイ・ウルフの襲撃から一夜開けた、翌日。
「ですが、これは必要な事でしょう?」
「……それは……そうですが……」
 離宮の玄関先でニーナとチェスターがこんな言葉を交わしていた。ランディ
とファリアは何をどう言えは良いのかわからず、困惑した様子で二人のやり取
りを見つめている。より正確に言うと、発言権がないのだが。
 朝食とその片付けが終わるなり、ニーナが王都レムニアに行く、と言い出し
たのが事の起こりだった。理由は、食料の買い出し。ランディたちが滞在して
いる事で、食料の消耗が当初の予定よりも早く進んでいるのだ。
 それ自体はある意味当然の事であり、食料の買い出しが必要なのもわかる。
問題なのは、ニーナが一人で行く、と言っている事なのだ。昨日、数に任せた
襲撃を受けたばかりだと言うのに、単独行動を取るのはいささか無防備に過ぎ
るだろう。
「危険は承知しています。ですが、行かない訳にも行きません」
「それは、わかっていますよ。しかし、何も一人で行かなくとも……」
「ここを、手薄にはできません」
「なら、オレが……」
「チェスター殿は、姫様のお側にいてください!!」
 なら、オレが行きます、という言葉をニーナは厳しく遮った。言葉と共に向
けられる碧い瞳の厳しさに、チェスターは全ての反論を封じられる。
「……」
「……勝てないよねぇ、絶対」
 そんな二人のやり取りにランディは絶句し、ファリアはぽつん、とこう呟く。
「……随分と、騒々しいな」
 ウォルスが邸の中から出てきたのは、その時だった。ウォルスはチェスター
とニーナにちらりと視線を投げかけ、それから、何の騒ぎだ、と言いたげな目
をランディに向ける。それに、ランディは色々、と応じた。
「ところで、どこか行くの?」
「ん? ああ……昨日の騒ぎで、カードを使いすぎたんでな。レムニアまで、
調達に行く」
 何気なく問うとウォルスはさらりとこう答え、この返事にニーナを除く全員
がウォルスに注目した。
「……なんだ?」
 不吉なものでも感じたのだろうか、ウォルスは低い声で自分を注視する三人
に向けて問う。
「レムニアに、行くんだ?」
 にこにこと笑いながらランディが問うと、ウォルスはまぁな、と頷いた。こ
の返事にランディとチェスターは顔を見合わせてにこり、と笑う。どうやら、
同じ結論に達したらしい。
「……おい、お前ら……」
「チェスター殿、何か?」
 ウォルスとニーナが不信を込めて問う。ランディは笑いながらチェスターと
頷き合い、それからウォルスに向き直る。
「レムニアまで、行くんだよね?」
「……そうだと言ってるだろ?」
「一人で行くのは危険と、わかっていますよね?」
 一方のチェスターはにこにこしながらニーナに問う。ニーナは怪訝な面持ち
のまま、一つ頷いた。二人の返事にランディとチェスターはまた、笑いながら
頷き合う。
「目的地が同じなら……」
「状況を鑑み、二人で行動してください」
 一見、朗らかなだけの笑顔でランディとチェスターはこう言い切った。
「……なっ……」
「チェスター殿、何を!?」
 二人の言葉にウォルスは絶句し、ニーナはぎょっとしたような声を上げる。
それぞれの困惑を、ランディとチェスターはにこにこと笑いながら受け止めた。
「いいじゃない、ついでだと思えば」
「何があるかわからないんですから、用心に越した事はありませんよ」
「……お前ら……」
「……そうしなければ、納得できないと言うなら、私は構いません」
 低い声を上げるウォルスを遮るようにニーナがこう言った。ウォルスはちら
りとそちらに視線を投げかけ、ニーナは挑戦的な目でそれを見返した。相変わ
らずと言うか、この二人の間の空気は険悪としか言えない。ウォルスは苛立た
しげに舌を鳴らすと、ニーナから目をそらしてため息をついた。
「……勝手にしろ。ただし、オレはオレの用事を優先する」
 苛立たしげにこう吐き捨てると、ウォルスはさっさと歩き出した。
「……それではチェスター殿、姫様をお願いします」
 一方のニーナはこう言って足早にウォルスの後を追う。二人の姿が見えなく
なると、チェスターがやれやれ、とため息をついた。
「……ね、大丈夫なの、あの二人ぃ?」
 どことなく呆れたようなファリアの問いに、ランディはう〜んと言いつつ首
を傾げた。
「まぁ、危険はないと思うよ。彼の実力はかなりのものだし、ニーナ殿は月神
の神聖騎士だ。多少の危険は、跳ね返すさ」
 思わず考え込むランディに代わりチェスターがこんな事を言うと、ファリア
はそうじゃなくて、とため息をついた。
「あんなトゲトゲしい状態で、大丈夫なのかなってコト。連携とか、取れなさ
そうだよ?」
 鋭い指摘にチェスターも言葉に詰まった。ランディは頬を掻きつつ、二人が
消えた辺りを見る。
「……まぁ……大丈夫だと思う、けどね」
「これで、あの二人が少しでも和んでくれれば、こちらはありがたいんだがね」
「……それって、かなり厳しくない?」
 ランディとチェスター、それぞれの嘆息にファリアは鋭く冷たい突っ込みを
入れる。反論の余地の全くないこの一言に、二人は苦笑めいた面持ちを見合わ
せた。
「まぁ、そうとも言うね。さて、それじゃランディ、ファリアさん、姫を頼む
よ。オレは邸の周りを一巡りしてくるから」
「ちょっと待って、チェスターさん!」
 軽く言って森に入ろうとするチェスターをファリアが呼び止めた。足を止め
て振り返ったチェスターは、栗色の瞳の厳しさにやや気圧されたような素振り
を見せる。
「な……なんだい?」
「お昼まで、ですからね」
「え?」
 唐突な言葉にチェスターは不思議そうに瞬いた。ランディもきょとん、とフ
ァリアを見る。
「だから、あたしとランディが代われるのは、お昼までですっ! その後は、
チェスターさんが姫様のお側にいてくださいね?」
 そんなチェスターにファリアはぴしゃり、とこう言った。チェスターの表情
が、微かに引きつる。
「いや、しかし……」
「でないと、ニーナさんがムリしてお買い物に行ったイミ、なくなっちゃうで
しょ? だから、お昼までには帰って来てくださいねっ!?」
 何事か言いかけるチェスターを遮り、ファリアはこう言い切った。反論を封
じられたチェスターは引きつった表情をランディに向けるが、助け舟の出しよ
うがない。それに、この件に関してはランディもファリアと同意見なのだ。苦
笑めいた表情からそれと悟ったのか、チェスターははぁ……とため息をついて
わかったよ、と頷く。
「それじゃ、昼までは頼むよ……気をつけて」
 表情を引き締めての言葉に、ランディも真面目な表情で頷いた。チェスター
が森の緑の中に姿を消すと、ランディはファリアと顔を見合わせる。
「さて……どうしようか?」
「うん……ああは言ったけど、どうすればいいんだろ?」
 眉を寄せてのファリアの呟きに、ランディもう〜ん、と言いつつ眉を寄せる。
「……ランディ? ファリアさん?」
 二人揃って眉を寄せていると、邸の中からディアーヌの声が聞こえた。振り
返ると、どことなく不安げな面持ちのディアーヌがこちらにやって来る所だっ
た。たたずむ二人の姿に、ディアーヌはほっとしたような笑みを浮かべる。
「良かった……何だか、人の気配がしないから、何かあったのかと思ったわ。
チェスターやニーナはどこに居るか、ご存知?」
「チェスターは見回りに行きました。昼には、戻ると言ってましたよ」
 足早にやって来たディアーヌの問いに、ランディは笑いながらこう答える。
ディアーヌは一瞬寂しげな表情になってそう、と呟き、それから気を取り直し
たように明るく、ニーナは? と問いかけてきた。
「ニーナさんは、お買い物に行ってます」
 その問いにはファリアが答え、この返事にディアーヌは眉を寄せた。
「……一人で?」
「いえ……一応、ウォルスも一緒に」
「そう、それなら安心ね」
 ランディの答えにディアーヌは微笑みながらこう言い切った。思わぬ言葉に
ランディもファリアもきょとん、とする。そんな二人の様子にディアーヌはく
すっと笑った。
「さっき、少しお話ししたの。言葉遣いはちょっと乱暴だけと、良い人ね、彼。
ただ……何となく、無理をしているような感じがして、それが気になるけど」
 ディアーヌの評価は期せずして、ランディの感じ方とほぼ同じだった。それ
が何となくだが嬉しくて、ランディは思わずにこっと微笑む。もっとも、ファ
リアはそうかなぁ、と小声で呟いていたが。対照的な二人の反応が可笑しかっ
たのか、ディアーヌはまたくすくすと笑う。
「でも、それじゃ今、ここに居るのは私たち三人だけなのね……私、お邪魔か
しら?」
 冗談とも本気ともつかない問いかけにランディはえ!? と声を上げる。ファ
リアも、そんな事、と口篭もった。
「ふふっ……冗談よ。でも、いいのよ、私に気を使わなくても。あなた方はお
客様なんですから、好きなように過ごしてくださいな」
「そうは、行きませんよ。チェスターに……友だちに、頼まれていますから」
「そうですよっ! あ、そうだ、ディアーヌ様。お菓子、作りません?」
 微かに寂しげな言葉に二人はそれぞれこう返し、ファリアの提案にディアー
ヌはきょとん、と瞬いた。
「お菓子?」
「はい! 午後のお茶のお菓子。一緒に作りましょっ♪」
 怪訝そうな呟きにファリアはにこにこと笑いながらこう言うが、ランディは
それに不安を感じていた。
「……大丈夫?」
「え? 何が?」
 低い問いにファリアは本当に不思議そうにこう問い返して来た。とぼけた言
葉にランディははぁ、と嘆息する。
「ファリア、料理する時、必ずどこか怪我するじゃないか?」
「そ、それはぁ……そうだけど」
 低く問うとファリアは拗ねたような声を上げた。実際、ファリアは料理をす
ると指先を切ったり火傷をしたり、何かしら怪我をする。それが、ランディに
は心配なのだ。
「だからさ、やるのはいいんだけど、怪我したらすぐに言ってよ。心配なんだ
から」
「だって、ホントに大したコトないし……」
「痛がりなんだから、無理しないの!」
「もぉ〜……心配性なんだからぁ」
 きっぱり言い切られ、ファリアは拗ねたような声を上げる。その何とも微笑
ましい様子を、ディアーヌは楽しげな、でもどこか羨ましげな様子で見つめて
いた。

「……ところで」
 森の中をしばらく進んだ所で、ウォルスは足を止めてニーナに問いかけた。
「何ですか?」
「……このまま、歩いてレムニアまで行くつもりか?」
 低い問いにニーナは訝るように眉を寄せた。
「歩いてって……他に、方法があるんですか?」
 それから真面目な面持ちでこう問い返す。これにウォルスはため息で答えた。
「……歩いて行って、今日の内に帰れるとは、思っていないだろうな?」
「それは……仕方のない事でしょう?」
 この言葉にウォルスはまたため息をつく。
「それでいいのか、直属の護衛が……処置なし、だな」
 呆れ果てたと言わんばかりの物言いにニーナは気色ばむが、ウォルスはそれ
を取り合う事なく、ごく小さな声で何やら呟いた。空間に紫の光が弾け、光り
輝く門のようなものが現れる。
「……それは?」
「レムニアの近くまで、空間を繋げた。歩いて行くのは効率が悪すぎる」
 訝しげな問いに平然と答えると、ニーナは目を見張った。
「空間を? ……魔法、ですか?」
「好きなように判断しろ。それより、さっさと行くぞ」
 不思議そうな問いをさらりと受け流すと、ウォルスはその門を潜る。ニーナ
は怪訝そうな表情のまま、それに続いた。浮遊感が身体を包み、それが消え失
せた時、周囲の風景は一変していた。森の中に違いはないのだが、生えている
木々は細身でまばら、何より空気の感触が違う。潮の香りがするのだ。
「ここは……」
「レムニアの近くの、雑木林だ」
 戸惑うニーナにどこまでも素っ気ない口調でこう言うと、ウォルスはすたす
たと歩き出す。何か言いたげな表情のまま、ニーナはそれに続いた。雑木林を
抜けると海沿いの街道に出た。その先には、カティス王都・魔導都市レムニア
を取り巻く黒い城壁が見える。
「……何度見ても、趣味を疑うな、あの色は」
 黒々とした外壁にウォルスがこんな呟きをもらす。
「黒は、カティスでは重要な色です。主神たる月神の司る、夜の闇を象徴して
いますから」
 その呟きに、ニーナが素っ気なくこんな注釈をつけた。ウォルスは呆れたよ
うな視線をニーナに向け、ニーナは真面目な表情でそれを受け止める。
「……なんですか?」
「……いや、別に……」
「別に、という態度には思えませんが?」
「気にするほどの事じゃない。それより、さっさと用を済ませるぞ」
 やや憮然とした問いにこう答えると、ウォルスはすたすたと歩き出した。ニ
ーナはむっとした表情でそれに続く。城門を潜り、中に入ると明らかに今まで
とは違う空気が包み込んできた。
 カティス王国王都レムニア。人々に『魔導の聖地』とも呼ばれるこの都は、
大陸でも屈指のマナ集積地として知られている。魔導を行う際に最も重要とな
る、万有物質の精製率が非常に高いため、魔導の道を志す者、大がかりな儀式
を試みる者の大半はこの都へ足を運んでいた。
 それと共に、交易商人たちもまた、こぞってこの都の門を潜る事で知られて
いる。レムニアの魔導師たちは、その大半が己の魔力を込めた魔導工芸品や魔
法薬を販売する事で日々の糧を得ており、それらの品は交易商人にとっては恰
好の交易品となるのである。また、遠方の地で発見された希少な魔導媒体を取
り引きする事で大きな利潤を得る者も多い。
 そんなレムニアの大通りは、濃厚な魔力と様々な香の匂いが満ち、他国の王
都とは一種違った雰囲気を醸し出していた。道行く者は大半が魔導師か忙しげ
な商人たちであり、そんな人群れの中では、ウォルスの黒衣は当たり前の物と
してそこに存在していた。むしろ、ニーナの方が浮いていると言えるかも知れ
ない。そして、大通りから一本横道に入ると、より一層それは顕著なものとな
った。
 大気に魔力が満ちているとはいえ、大通りに開く店は到って普通の物が多い。
即ち、旅人相手や日用品を扱う店が当たり前に軒を連ねている。しかし、横道
から裏通りに抜けた途端、その装いは一変した。何とも妖しげな雰囲気が立ち
込め、露店にも一見すると用途不明な品がずらりと並ぶ。
 自分の用事を優先する、という宣言通り、ウォルスはレムニアに入るなり裏
通りへと入って行った。それについて裏通りに入ったニーナは、その何とも混
沌とした雰囲気に目を見張る。どうやら、こう言った場所に来るのは初めてら
しい。呆然と立ち尽くす様からそれと悟ったウォルスは、処置なし、と言わん
ばかりにため息をついた。
「はぐれるなよ、行き倒れても知らんぞ」
 それからぶっきらぼうな口調でこんな事を言う。仮にも王都の中で行き倒れ
というのは大げさにも思えるが、冗談にならないのがレムニアという所なのだ。
とはいえ、裏通りを知らないニーナには今一つぴん、と来ないらしい。ウォル
スはため息をつくと、無言でその手を取った。
「あ、あのっ!?」
「……はぐれて、おかしな所に入り込まれてもかなわん。ちゃんとついて来い」
 突然の事に上擦った声を上げるニーナに素っ気なくこう言うと、ウォルスは
すたすたと歩き出す。ニーナは困惑しつつ、手を引かれて歩き出した。ウォル
スは勝手知ったる様子で入り組んだ路地を進み、奇妙な家の前で足を止めた。
通りに面した壁には窓しかなく、入り口らしきものがどこにもない。ウォルス
はずっと握っていたニーナの手を放すと、家の横合いにある階段を下りて行く。
おっかなびっくり、という様子で、ニーナもそれに続いた。
 階段を降りた先には小さなドアがついていた。どうやらここが、この家の入
り口らしい。ドアを開けて中に入ると、強烈な香の匂いがむっと包み込んでく
る。慣れているのかウォルスは多少顔をしかめた程度だったが、ニーナは軽い
目眩を覚えたようだった。
「……少しは、空気を入れ換えたらどうだ?」
 その様子を横目で見つつ、ウォルスは呆れたように奥へと声をかける。こじ
んまりとした部屋の中には無数の香炉が置かれ、それぞれが妖しげな色彩の煙
を立ち上らせていた。その香炉の中心に座っていた老婆は、ウォルスの言葉に
ひゃっひゃっひゃっ、と楽しげな笑い声で答える。
「香りのない空気なんぞ、わしゃゴメンさね。ところで、探していた『鍵』は
見つかったのかね?」
 老婆の問いにウォルスはまあな、と頷き、この答えに老婆はまた笑い声を立
てた。
「そりゃあ、何より。では、あとは例の男の首を取るだけだねぇ?」
「……物騒な話はしないでくれ。一応、連れがいる」
 この言葉に老婆は初めてニーナに気づいたらしく、ほほう、と感心したよう
な声を上げる。
「あんたが女連れとはねぇ……ひゃっひゃっひゃっ……これはラタナがなんと
言うやら」
「別に、そんなんじゃない……ついでに言うなら、オレと師匠もそんな仲じゃ
ない」
 楽しげな言葉をウォルスは渋い顔で否定するが、老婆はひゃっひゃっひゃっ、
と笑うだけだった。ウォルスはむっとしたように眉を寄せ、その様子に老婆は
低い声で笑いつつ、それで? と問いかけてきた。
「わざわざここに来たんじゃ、なんぞ用があるんじゃろ?」
「……オレがここに来る理由が複数あるのか?」
 憮然としたまま問い返すと、老婆はそりゃそうじゃな、と笑いつつ近くの箱
から白いカードの束を取り出した。ウォルスはポケットから宝石らしき物を取
り出し、それと交換する。
「あまり、ムダに使うんではないよ? わしも、いつお迎えが来るかわからん
のだからねぇ?」
「……死神相手に茶飲みできるクセに、良くも言う」
 呆れ果てた、と言わんばかりの言葉に老婆は声を上げて笑い、突然、ぴたり
とそれを止めて口元を笑みの形に歪めた。突然の変化にウォルスは訝るように
眉を寄せる。
「……なんだ?」
「お連れさん、限界だよ」
 笑みを帯びた言葉に振り返ると、今にも倒れそうなニーナの様子が目に入っ
た。焚き込められた香の香りに悪酔いしたのだろうか。ウォルスは舌打ちをす
ると、ふらりとよろめいた身体を抱き止めた。立ち込める香のそれとは明らか
に異なる、甘い香りが腕の中にふわりと弾ける。
「風のある所で休ませておやり。しっかりやるんだよ、色男?」
「……何をだ」
 笑みを帯びた言葉に渋面でこう返すと、ウォルスはニーナを抱き上げる。立
ち去るその背に向けて老婆は楽しくて仕方がない、と言わんばかりの笑い声を
投げかけ、ウォルスは苛立たしげな面持ちでため息をついた。

 竪琴の旋律が、静かに流れて行く。
 奏でているのは、当然と言うかランディだ。肩の上にはリルティがちょこな
ん、と座り、紡がれる旋律に聴き入っている。本人も一見すると演奏に夢中に
なっているように見えるが、手を伸ばせばすぐに掴める位置で存在を主張する
剣が、そこにある緊張を静かに物語っている。
「……?」
 不意に、旋律が途切れた。ランディはゆっくりと顔を上げ、それから唐突に
にこ、と微笑む。視線の先に立つ者――チェスターは、その笑みに苦笑めいた
表情で答えた。
「やれやれ……気づかれていないつもりだったんだけど」
「気がついたのは、今だよ。お帰り、どうだった?」
 冗談めかした言葉に笑顔で返すと、ランディはやや表情を引き締めて問いか
けた。
「ああ……到って平和なものさ。昨日の騒ぎが、悪い冗談みたいにね」
 その問いにチェスターは肩をすくめてこう答える。それに、ランディがそっ
か、と応じた直後にリルティがきゅっと声を上げた。同時に感じた人の気配に
振り返ると、甘い匂いが鼻をくすぐる。匂いの源は、ファリアとディアーヌの
手にしたバスケットのようだ。二人でやっていた菓子作りが終わったので出て
きたのだろう。ディアーヌは庭に立つチェスターの姿に、ほっとしたように表
情を緩めた。
「お帰りなさい、チェスター。見回りご苦労様」
「チェスターさん、チコク〜! お昼、過ぎちゃいましたよぉ?」
 ディアーヌとファリア、それぞれの言葉にチェスターはまた苦笑する。ファ
リアはもう、と言いつつテラスから庭に降り、ランディの所へやって来る。そ
の肩に、ぴょん、とリルティが飛び移った。
「それじゃ、チェスターさん、あとはお願いしまーす。いこ、ランディ」
 にーっこりと微笑みつつこう言うと、ファリアはランディの手を引いた。
「え? あ、ちょっと待ってよファリア! それじゃ、チェスター、あと任せ
るね!」
 手を引かれたランディは慌てて剣を掴み、チェスターに軽く釘を刺してから
歩き出す。なんとも微笑ましいその様子にチェスターはやれやれと息を吐き、
ディアーヌはくすくすと楽しげに笑った。
「仲が良いわね、あの二人……すごく、可愛らしい」
 ディアーヌの評価にチェスターはええ、と相槌を打つ。ランディとファリア、
二人を表すのにこれほど適した表現はないだろう。チェスターがこんな事を考
えていると、ディアーヌがねえ、と声をかけてきた。
「少し早いけど、お茶にしない? 今、ファリアさんと一緒にパイとクッキー
を焼いていたの」
「え……?」
 思わぬ言葉にチェスターはついとぼけた声を上げる。彼の知る限り、ディア
ーヌが自分で料理をした事はないはずなのだ。
「あら、そんなに意外? ファリアさんに教えてもらって、作ったの。ちょっ
と形は悪いんだけど……あなたに、食べてもらいたくて……」
「……姫……」
 最後の方は消え入りそうな言葉に、チェスターは一瞬、言葉を無くす。消え
入りそうな言葉に込められたものがわからぬほど、チェスターは鈍感ではない。
むしろ、痛いほどによくわかっていた。いつもはその痛み故に目をそらしてい
るものだが、今日は向き合ってもいいような、そんな気がした。
(……あの二人の影響かな……?)
 こんな事を考えるとつい笑みがもれた。そして、チェスターは穏やかな表情
でディアーヌの不安そうな視線に応える。
「では、謹んでいただきます」
 冗談めかした言葉にディアーヌは一瞬で不安を吹き飛ばし、本当に嬉しそう
に微笑んだ。

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