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   ACT−2:王女の事情

「……んっ……ふううう……あ〜、いい朝だなあ……」
 朝靄の立ち込める離宮の庭の一画で、ランディは呑気な事を呟きつつ大きく
伸びをした。ようやく日が昇るか昇らないか、という時間の庭には他に人影も
なく、朝靄は草木の清々しい匂いや花の甘い香りと共に悠然と庭を包み込んで
いる。深く深呼吸して新鮮な空気を胸一杯に吸い込むと、ランディは軽い準備
体操をしてから日課の素振りに取りかかった。
 剣匠レオードにたたき込まれた修行のペースは、師と異なる道を進む今も変
わる事はない。故に、ランディは朝晩の素振りを一日足りとも欠かした事はな
かった。
 剣を両手で構え、精神を集中し、呼吸を整える。心を澄ませ、雑念を払うの
が、朝の素振りにおいて最も重要な事だとレオードは言っていた。剣士にとっ
て、己の剣は心を写す鏡──故に、心の迷いはそのまま太刀筋の迷いとなって
思わぬ事態を招く事もあると言う。この教えはレオードの師、即ちランディの
祖父であるヴォルフの教えなのだ。
 ヴンっ!
 振りかぶられた剣が勢い良く大気を引き裂く。
 最初の一撃は真っ直ぐに、そこからは仮想の敵を想定しての素振りとなる。
この方向から打ちかかられたらどう返すか──そんな事を考えつつ身体を動か
し、剣を繰り出して行くのだ。それだけに相当激しく、気迫の籠もった物とな
るが、ランディは今を盛りと息づく庭の草木を傷つけぬよう、動く範囲を限定
して身体を動かす事を心掛けていた。それは同時に、限定空間における身体の
動かし方の鍛練にもなる。昨日のストゥアウォームの事もあってか、その表情
は厳しく、気迫も相当な物があった。
 庭のテラスにファリアが姿を見せたのは、それから少したってからの事だっ
た。ファリアはテラスの手すりに寄り掛かるようにして、真剣な面持ちで剣を
振るうランディの様子を見つめる。その肩ではリルティが眠たげな様子でしき
りと顔を擦っていた。
「……随分、早いんだね、二人とも」
 ややぼんやりとランディの稽古を見つめていたファリアは、突然声をかけら
れ、はっとそちらを振り返った。振り返った先には深く澄んだエメラルドの瞳
がある──チェスターだ。それと認識したファリアは、ぴょこん、と頭を下げ
て挨拶する。
「あ、おはようございます」
「お早う……しかし、ランディは随分と早いんだな。大体、日の出前からやっ
てるんじゃないかな?」
「いつも、あのくらいですよ。お師匠様がそうでしたからね」
 言いつつファリアはまたランディを見やり、チェスターもつられるようにそ
ちらを見た。
「……勤勉な所は、相変わらず、か」
 それから、こんな呟きをもらす。この言葉に、ファリアは物言いたげにチェ
スターを振り返った。
「……どうかした?」
「昨日から気になってたんですけど……随分、親しいんですね、ランディと」
「え? まあ、親しいって言っても、そんなに深い付き合いではないよ。確か
……八年位、前になるのかな。ルシェードの祭りに姫が招待されて、護衛とし
て行った時に知り合ってね。オレの父と彼の祖父が結構親しかった事もあって、
顔合わせると良く話してたんだ」
「ふうん……」
 チェスターの答えに気のない返事をした所で、ファリアはふとある事に気づ
いてこんな問いを投げかけた。
「じゃあ、ランディって、昔っからあーゆー性格してたんですか?」
「あーゆーって……まあ、そうだね。昔から、真っ正直で一途な奴だったよ。
自分の夢、自分の思いにどこまでも一途で……羨ましいくらいだった」
 苦笑しながらチェスターは問いに答えるが、その瞳には何とも言い難い、複
雑な陰りが宿っていた。その陰りにファリアはきょとん、とまばたく。しかし
その陰りの意味を問うのは何となくためらわれたので、ファリアはランディの
方を向く事でチェスターから視線をそらしていた。
 ランディは相変わらず激しく動いている。その真剣な表情には半年前には全
く見受けられなかった凛々しさと、ウォルスと行動を共にしてから急速に目立
ち始めた逞しさが浮かび、体躯もヴェインにお嬢ちゃん、と揶揄された頃の線
の繊さが嘘のようにがっちりと引き締まっていた。
(ランディってば、短い間に変わっちゃったみたい……最初は、あんなに情け
なかったのにな……)
 ディレッドの店を初めて訪れた時の何とも言えない頼りなさを思い出しつつ、
ファリアは心の奥でこんな事を呟いていた。
 きゅう、きゅきゅきゅう
 不意に肩の上のリルティが鳴き声を上げてファリアを呼んだ。それで我に返
ったファリアは、ランディが動きを止め、剣を下段に構えて目を閉じているの
に気づく。
「素振りは終了、今は最後の集中……ってとこかな?」
 独り言のようにチェスターが呟く。
 剣を下段に構えたランディは呼吸を整え、心を澄ませていた。そうする事で
張り詰めた緊張を和らげ、いつもののんびりとした気持ちを作る。置かれてい
る状況柄、必要最低限の緊張感は維持しなければならないが、あまり張り詰め
ていてはディアーヌに無用の不安を与えてしまうだろう。そして、チェスター
がそれを望んでいない事は火を見るよりも明らかである。と、なれば、外見だ
けでも緊張は緩めなければならないのだ。
 深く深呼吸をする事で気持ちを静めると、ランディはゆっくりと目を開いて
剣を鞘に収めた。それからこちらを見つめる視線に気づいて、笑顔でそちらを
振り返る。
「や、お早う、早いね」
「君ほどじゃないよ……毎朝、こんなに早いんだって?」
 テラスに歩み寄りながら挨拶すると、チェスターは笑いながらこう返してき
た。それに肩をすくめてまあね、と答えていると、横からタオルが差し出され
た。ファリアだ。
「ああ、ありがとファリア」
 にこっと微笑ってタオルを受け取り、流れる汗を拭いていたランディは、こ
ちらを見つめるニーナの姿に気がついた。
「ん……やあ、お早うございます、ニーナ殿」
 続けてそれに気づいたチェスターが軽い口調で呼びかけると、ニーナはゆっ
くりとやって来た。表情は相変わらず険しいが、ランディもファリアもそれは
気にしない事に決めている。
「お早うございます……皆さん、随分とお早いんですのね?」
 やって来るなり、ニーナはランディに向けてこんな問いを投げかけてきた。
この問いにランディはにっこりと微笑ってええ、と頷く。人の良さ全開のその
笑顔にニーナはやや拍子抜けしたようだが、
「では、朝食の準備を手伝っていただきたいのですけれど、よろしいでしょう
か?」
 すぐに厳しい態度に戻ってこう問いかけてきた。この言葉にも、ランディは
にっこり微笑ってはい、と応じる。
「とはいえ、こんな汗まみれじゃどうしようもないんで、ちょっと水を使わせ
てもらえますか? 着替えたら、すぐに行きますから」
 この言葉にニーナは改めてランディを見、それから、そうですね、と頷いた。
「では、チェスター殿、裏の井戸場に案内して差し上げて下さい。それでええ
と……ファリアさん……でしたかしら?」
「え? あ、はい、ファリア・マルシュです」
「では、あなたは朝食の準備を手伝って下さいね。それと……」
 ここでニーナはぐるりと周囲を見回し、それからランディに向き直った。
「……あの、何か?」
「あの、黒づくめの人はまだ起きていないんですか?」
「黒づくめって……ああ、ウォルスですか? ん……そうみたいですね、姿見
えないし」
 のんびりとした返事にニーナは険しい面持ちで眉を寄せるが、すぐにそうで
すか、と応じた。
「では、ついでに声をかけて来て下さいね。とにかく、人手が足りないんです
から。ではファリアさん、行きましょう」
 こう言うとニーナは踵を返して邸の中へと戻って行く。
「あ、待って! ランディ、リルお願い!」
「あ、うん」
 取り残された形のファリアは、ランディにリルティを預けてその後を追った。
「……う〜ん……」
 二人の姿が見えなくなると、ランディはぽりぽりと頬を掻きつつ唸り声を上
げる。
「……どうかしたのかい?」
 怪訝そうに問うチェスターに、ランディはちょっとね、と答えるが、チェス
ターはその言わんとする所を既に察しているようだった。
「言いたい事はわかるけど、言わないでもらいたいな、個人的に」
 軽い口調の一言に、ランディは苦笑めいた笑みではいはい、と応じた。

 裏の井戸場で上半身裸になって水を被り、汗を落としたランディは部屋に戻
って着替えを済ませた。それから二つ隣のウォルスの部屋のドアをノックする
が、返事はない。もう一度ノックをしても答えはなく、ドアには鍵もかかって
いなかったので、ランディは入るよ、と声をかけてドアを開けた。
 ウォルスはテーブルの上に数枚のカードを並べ、難しい面持ちでそれらを見
つめていたが、気配に気づいたらしくふっと顔を上げてこちらを見た。
「……ああ……どうか、したのか?」
「ん、食事の準備を手伝ってくれって……何か、あったの? 難しい顔してる
けど?」
 この問いにウォルスはちょっとな、と言いつつカードを片づけた。それから、
難しげな面持ちのままランディを見る。
「……近い内に、ロクでもない事が起こるかも知れんぞ」
「え?」
「誰かに言う必要はない……取りあえず、頭の片隅に止めておいてくれ」
 戸惑うランディにこんな事を言うと、ウォルスはさっさと部屋を出ていく。
取り残された形のランディは、胸ポケットから怪訝そうな顔を覗かせるリルテ
ィ共々、首を傾げた。
「……おい、のんびりしていていいのか?」
 そこに、首を傾げさせた当の本人がこんな言葉を投げかけてきた。ランディ
は今行くよ、と応じてそちらに向かう。食堂ではチェスターと、何故かディア
ーヌの二人がテーブルの準備を整えていた。
「あ、あれ? どうしたんですか、ディアーヌ姫?」
 戸惑いながら問いかけると、ディアーヌはにっこり微笑って顔を上げた。
「人手が足りないと聞いたものですから……お客さまに手伝わせておいて、主
の私がのんびりなんてしてられませんわ」
 屈託のない笑顔でこう言うと、ディアーヌは楽しそうに食器を並べて行く。
ランディは傍らのウォルスと顔を見合わせ、それから、物問いたげにチェスタ
ーの方を見た。その視線に気づいたチェスターは、苦笑めいた面持ちで答える。
「……部屋に閉じこもっているよりは、動いていたい、というところだな、あ
れは」
 その表情と王女の様子から、ウォルスがこんな分析を出した。ランディは何
となく納得して、なるほど、と呟く。
「えっと……あ、ランディ、ちょうど良かった! ちょっと手伝って!」
 そこに厨房の方からやって来たファリアが呼びかけてきた。ランディははい
はい、と言いつつそちらに向かい、ウォルスもふう、と息をついてから動きだ
す。食堂は、前夜の張り詰めた空気が嘘のように活気づいていた。

 食事とその片付けが終わると、ランディはディアーヌに呼ばれて庭園の一画
に築かれた東屋へと向かった。
「本当に驚いたわ、こんな形であなたに会うなんてね……あ、楽にして、座っ
てちょうだいな」
 この言葉にランディは一礼して椅子に腰を下ろす。
「でも、どうしてあなたが、騎士資格を剥奪されたりしたの? 何でも、ジュ
ディア様の救出に失敗したそうだけど……何か、事情があったんでしょう?」
 腰を下ろしたランディに、ディアーヌはこんな問いを投げかけてきた。ラン
ディはええ、と頷いて、自分の出奔の経緯を話して聞かせる。一通り話を聞い
たディアーヌは、そう、と呟いてため息をついた。
「……なんて言うか……あなたらしい選択をしたのね。でも、後悔はしていな
いの?」
「はい……それが、ジュディア様にとって一番いい選択だって、そう思っての
事ですから……それに、今の生活も気に入っているんです。あのまま近衛騎士
になっていたら、得られなかったものをたくさん見つけましたから」
 探るような問いに屈託のない笑顔で応じると、ディアーヌも口元を綻ばせた。
「そう……でも、羨ましいわ」
 それから、ディアーヌはこんな呟きをもらし、突然の事にランディはえ? 
と疑問の声を上げた。
「あなたも……そして、ジュディア様も。大切な存在、譲れない存在のために、
全てを捨て去れる……羨ましいわ、その強さ」
「そんな事……ありませんよ。ぼくだってあの時、受け入れてくれる人たちが
いなかったら……ジュディア様を送り出すなんて、とてもできなかったと思い
ます」
「そうかしら……? でも、例えそうだとしても、今のあなたは、全てを捨て
去る強さを発揮して、ここにいるのでしょう? 私には……そんな勇気はとて
もないもの」
「……ディアーヌ姫?」
 呟くような言葉に合わせて陰った瞳を訝しんで声をかけると、ディアーヌは
一転、明るい笑顔をこちらに向けた。
「ごめんなさい、おかしな事を言ってしまって……今のは、忘れてちょうだい
ね?」
「え? あ、はい……」
 突然の変化に戸惑いつつ、それでも、ランディはすぐさまこう答えていた。
ディアーヌが何を悩んでいるのかは、尋ねるまでもなくわかっているからだ。
(すぐ側にいて、お互い思い合ってるのに、立場に遮られてるからな、王女と
チェスターは……)
「……ランディ? どうかなさったの、黙ってしまって?」
 そんな事を考えていると、ディアーヌが不思議そうに声をかけてきた。ラン
ディはすぐさま、何でもありません、と応じて笑って見せる。ディアーヌはま
だどこか怪訝そうだったが、特に追求はせずに話題を変えてきた。
「ところで、竪琴は続けているの? それとも、もう止めてしまったのかしら?
もし、続けているなら、聴かせて欲しいのだけれど……どうかしら?」
「え……竪琴……ですか?」
 突然の申し出に、ランディは思わずとぼけた声を上げていた。幼い頃から、
かつて宮廷楽士を務めていた祖母に習っていた事もあり、ランディは宮廷でも
屈指の竪琴の名手として名を知られていた。そしてディアーヌがルシェードを
訪れた時には、ジュディアの提案で目の前で演奏した事もあったのだ。
「どうでしょうね……出奔してからは演奏の機会もありませんでしたから、ま
ともに弾けるかどうか……それに、楽器もありませんし」
 ブランクを考えるとまともに弾ける自信はないので、取りあえず控え目な返
事をすると、
「なら、なおさら弾いてみた方がいいわ。ちょっと待って、ニーナに頼んで、
竪琴を持ってきてもらうから」
 ディアーヌはにっこり微笑ってこう言い切り、テーブルの上のチャイムを鳴
らした。ランディは困ったようにかりかりと頬を掻く。
(まいるなぁ……修行始めてからだから、随分弾いてないし、まともな演奏、
できそうにないんだけど……)
 そんなランディの困惑には構わず、ディアーヌはやって来たニーナに竪琴を
取ってくるように指示し、ニーナは言われた通りにそれを持ってくる。
「そんなに固くならないで……昔みたいに、のんびりとして弾いてちょうだい。
ね?」
 にっこり笑いながらこう言って、ディアーヌは歌う天使の姿を象った銀製の
竪琴を差し出した。ランディは息を一つついてそれを受け取り、弦の具合を確
かめる。手入れが行き届いているのか弦には弛みもなく、心地よい音色を織り
なした。
(……弾けそう……かな?)
 ともあれ、ここまで来ては後には引けない。王女の言う通りのんびり弾こう、
と心を決めると、ランディは一つ深呼吸をしてゆっくりと旋律を奏で始めた。
 静かな音色がゆっくりと紡ぎだされ、やがてそれは柔らかな調べの旋律とな
って庭へ、そして館を包む森の中へ、緩やかに響きわたって行く──。

 その日は何事もなく一日が過ぎ、その次の日には離宮の中は平穏そのものだ
った。勿論と言うか、一箇所を除いて、だが。とはいえ、これに関してはウォ
ルスの方に改善の意思が全く見受けられないため、誰にも、いかんともしがた
いのだが。
「……いずれにしろ、このまま、何事もなければいいんだがな……」
 とはチェスターの偽らざる感想だったが、彼もランディも、それが理想であ
る事は感じていた。
 そして、その翌日の早朝。
「……ん?」
 日課の素振りを終えた所で、ランディは微かな異変を感じていた。朝靄の立
ち込める庭は変わらぬ自然の香気に満ちているが、何か、どこかいつもと違う
のだ。ランディは怪訝な面持ちで周囲を見回し、こちらにやって来るウォルス
に気づいてそちらに歩み寄った。
「……ウォルス、なにか……」
「ああ。鳥の声がしない……何か、いるぞ」
 呟くように答える、その手には紋様を描いた白いカードが握られている。二
人は背中合わせに立って周囲を見回し、
 グオオオオオっ!!
 直後に響いた咆哮に表情を険しくした。
「……はっ!」
 低い気合と共にウォルスがカードを投げる。カードは近くの茂みから飛び出
してきたもの――三つ目の狼の一団の目の前で砕け散り、突風となってその突
進を阻んだ。先頭の数匹は風に切り裂かれ、ギャっ!という声と共に黒い塵と
なって消えた。それでも続く数匹は風を凌ぎ、唸りを上げつつこちらに突っ込
んでくる。
「……援護は任せろ」
「うん、頼むね」
 短く言葉を交わした直後にランディは動いていた。突っ込んでくる先頭の一
匹を鮮やかなカウンターで両断し、振り上げた刃を返しつつ、もう一匹を捕え
る。さすがに警戒したのか、続く数匹は足を止め、低く唸りながらランディを
睨みつけた。
「……ところで、これって、何なのかな?」
 厳しい表情で狼の群れを睨みつつ、ランディは後ろのウォルスに問う。ウォ
ルスは血を滲ませた指先をカードの上に滑らせつつ、ああ、と応じた。
「イビルアイ・ウルフ……とか言ったな。異界の魔獣だ……見た通りのザコだ
がな」
「……いわゆる、数で勝負系、かぁ……」
「……場所柄、こちらは派手な攻撃はできんからな……選択としては悪くない」
「……襲撃者の事、褒めないでよ……」
 こう言う時、どこまで本気かわからないからウォルスの物言いは怖い。呆れ
たように呟くと、ランディは飛びかかってきたイビルアイ・ウルフの攻撃をい
なし、連携を仕掛けてきた方の胴を横薙ぎに払った。最初に仕掛けてきた方は
ランディを飛び越えて後ろへ向かうが、そこに狙い済ましたカードの一撃が飛
び、額にある目を切り裂いた。
 ウォルスが使う白いカードは金属製――それも、魔導銀、あるいはミスリル
と呼ばれる魔法鉱物で作られているらしい。このため、その鋭利な角を滑らせ
るだけで指先には簡単に血を滲ませる事ができるのだそうだ。そしてこのカー
ドは時に、こうして投擲武器として敵の急所へ飛ばされる事も多々あった。
 グギャンっ!!
 額の目を裂かれたイビルアイ・ウルフは悲鳴を上げて仰け反る。横をすり抜
けるようにして自分の前に戻ってきた敵を、ランディは的確に仕留めた。イビ
ルアイ・ウルフは再び二人との間に距離を開け、低く唸り声を上げる。
「……ザコはザコなりに、身の振り方を考える、か?」
「単に、補充を待ってるだけのような気がする……」
 呆れたようなウォルスの呟きに、ランディはふと危機感を覚えつつこう返し
ていた。イビルアイ・ウルフ。見るのは初めてなので忘れていたが、幼い頃に
聞かされた祖父の武勇伝の中に、その名は幾度となく登場していた。異界の力
を用いる者が、好んで従える魔獣として。個々の力自体は大した事はないのだ
がとにかく数が多いのが特徴で、持久戦に持ち込まれるとかなり厳しい――と、
祖父は言っていた。
「……そうなると、厳しいな。まとめて吹き飛ばすには、場所が悪い」
 ランディの言葉にウォルスはこう言って眉を寄せた。
「そうだよね……派手な事して、離宮に被害出たら困るし……って、そういう
問題で言ってたの!?」
 それに、ランディは何気なくこう返し、それから、ふと気づいてこう問いか
けていた。肩越しに振り返るとさすがに気分を害したのか、ウォルスは渋い顔
でこちらを見ていた。
「……お前、人の事を一体なんだと思っている?」
「あ、別に……他意はなかったんだけど……っと!」
 低い問いに引きつった笑顔で答えた直後にランディは身体を返し、飛びかか
ってきたイビルアイ・ウルフを切り捨てた。二人が漫才をしている間に向こう
は補充を終えたらしい。ランディは目の前で唸る群れを見つめつつ、どうしよ
うかな、と呟いた。向こうの目的は、離宮の中のディアーヌと考えてまず間違
いない。と、なると、ここから引き離す事は不可能と言えるだろう。そうなる
と、ここで迎撃を続ける持久戦になるのは避けられないのだが。
「……後の連中は、何をしているんだ?」
 不意に、ウォルスが呆れたようにこう呟いた。確かに、これだけの騒ぎにな
っているのに、ファリアもチェスターも姿を見せてはいない。とはいえ、それ
については一つの仮説が立てられた。
「……戦ってるのは、ここのぼくらだけじゃないんじゃないかな?」
 その仮説を定義してみると、ウォルスは納得したようになるほどな、と呟い
た。
「裏手辺りで、一戦交えている、と……だが、どうやら本命はこちららしいな」
 それから、呆れたようにこう吐き捨てる。蒼氷色の瞳は、既に目の前の狼た
ちを捉えてすらいない。
「……どういう事?」
「ふん……感情丸出しで、オレを睨んでいるヤツがいる……うっとおしい」
 怪訝な問いにこう答えると、ウォルスは素早くカードに指先を走らせた。
「……ウォルス?」
「目の前にいるのは大体、十匹程度か……一人でさばけるな?」
「え? ああ……なんとかね」
 戸惑いながら頷くと、ウォルスはそうか、と呟く。視線は相変わらずイビル
アイ・ウルフの向こう、森の奥を見据えていた。
「なら、ここは任せる」
「……え!?」
 例によってと言うか、何とも唐突な言葉にランディは思わず裏返った声を上
げていた。しかしウォルスはそれに答えず、身体を低く屈めて地を蹴り、イビ
ルアイ・ウルフの群れをジャンプで飛び越した。
「……ウォルスっ!?」
「召喚元を叩く! 五分もたせろ!」
 素っ気なくこう言い捨てると、ウォルスは森の中へと駆け込んで行った。一
人、取り残された形のランディはあのねぇ〜、とため息をつき、それから目の
前のイビルアイ・ウルフを見回した。
「ほんとに勝手だなぁ、もう……とはいえ……」
 何とかなる、と言ったからには何とかしなければならない。そう思うのがラ
ンディの性格だった。故に、ランディはため息の直後に表情を引き締め、イビ
ルアイ・ウルフの群れを見回した。
「悪いけど、通す事はできないからね……」
 言葉が通じるとは到底思えないものの、ランディはイビルアイ・ウルフの群
れに向けてこう宣言する。高まる闘気を感じてか、イビルアイ・ウルフたちは
毛を逆立てつつ低い唸り声を上げた。
 グゥゥゥゥゥ……グワオォォォォウっ!!
 咆哮と共にイビルアイ・ウルフたちは一斉に飛びかかってくる。
「……はっ!」
 襲いかかる魔獣をランディは低い気合と共に振るった剣で迎え撃った。
(ファリアたち……大丈夫かな……?)
 剣を振るいつつ、心の片隅にはこんな不安も浮かび上がっていたのだが。

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