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「ちっ、しくじったか……」
 ランディがチェスターに今の自分の名を告げている頃。森の奥深くの泉の辺
で、チャコールグレーのマントを羽織った魔道師風の男が、苛立たしげな口調
でこんな言葉を吐き捨てていた。言葉同様に苛立たしげな視線は、目の前の泉
に注がれている。泉の表面にはゆっくりと歩きだすランディたちの姿が映し出
されており、男の瞳は最後尾を悠然と歩くウォルスに向けられていた。
「あいつ、何者だ? 奇妙な術を使いやがって……奴のおかげで全てぶち壊し
だぜ……」
「それで、次は一体どうするつもり?」
 苛立ちを込めて呟いた直後に、こんな問いが投げかけられた。突然の事には
っと顔を上げた男は、泉を挟んだ向こう側に赤い光が弾けるのを見てふう、と
息をつく。弾けた光が消えた後には、露出度の高い真紅のドレスに身を包んだ
女の姿がある。
「イレーヌか、何の用だ?」
 現れた女に、男はぶっきらぼうな口調でこう問いかけた。
「用……というほどの事はないけれど……どうやら、失敗したようね、カシュ
ナー?」
 問われた女──イレーヌははっきりそれとわかる侮蔑を込めてこう問い返し
て来た。この問いにカシュナーと呼ばれた男はふん、と鼻を鳴らす。
「予想外の邪魔が入って、予定が狂っただけだ! 次はこうは行かん!」
「それならいいけどね……マスターは、この件は貴方に一任するって言ってる
わよ。くれぐれも『門』に危害を加えないようにって、伝言を託かってるわ」
「……言われなくてもわかってる! それより、お前の方こそ大丈夫なんだろ
うな?」
 この問いに、イレーヌは勿論、と言いつつ艶やかな笑みを浮かべた。あまり
にも艶やかな──危険な雰囲気の笑みだ。
「『鍵』の確保の方でしょう? 幸い、『呼び鈴』の方も一緒に行動してるか
らね……上手くすれば一挙両得、取りあえずは貴方が『門』の奪取をしくじら
なければ、万事問題なしってところね」
 この言葉に、カシュナーは探るような目をイレーヌに向けた。
「……なによ?」
「それはいいが……『鍵』には、そのうちアイツも接触してくるはずだろ? 
くれぐれも、出し抜かれるなよ……?」
 妙に含みのあるこの言い方に、イレーヌはややむっとしたように眉を寄せる。
「言ってくれるわね……あたしがいつまでも、あんな男に遅れを取るとでも思
ってるのかしら?」
 低い問いを、カシュナーはさあな、と肩をすくめてはぐらかした。
「なら、いいがな……とにかく、二度はしくじらん! 見ていろよ……」
 言いつつ、カシュナーは再び水面を見る。つられるように水面を覗き込んだ
イレーヌは一瞬、目を見張るような素振りを見せ、それから妖しい微笑みを浮
かべた。
(ふうん……これは好都合だこと……)
 微笑み同様に危険な光を宿すその目は、泉に写るランディとファリアをじっ
と見つめていた。

 チェスターの案内で一行がたどり着いたのは、森の中にひっそりと佇むこじ
んまりとした館だった。さながら、森の中に隠されているような雰囲気のその
建物は、王女ディアーヌが幼い頃に過ごした離宮なのだと言う。
 離宮に着くと、ニーナは疲れの目立つディアーヌを一足先に休ませ、チェス
ターは先にこちらに来て用意を整えていた侍従から離宮の鍵を受け取った。鍵
を渡した侍従は離宮内の事を簡単に説明すると、何故か侍女たちを連れて立ち
去ってしまう。
「チェスター殿、どうかお気を付けて……」
 立ち去り際、侍従は低くこんな事を言い、チェスターも真面目な面持ちでそ
れに頷いていた。妙に張り詰めた雰囲気に疑問を感じはしたものの、取りあえ
ずランディは何も言わずに案内された客室で一息入れる事にする。荷物を下ろ
し、既に習慣と化している剣と鎧の手入れをしていると、ドアが静かにノック
された。
「……誰?」
 鎧を磨く手を止めて問いかけると、
「ウォルスだ。いいか?」
 ドアの向こうからこんな問いが返って来た。ランディは鎧磨きを再開しつつ、
いいよ、と応じる。それに応じて部屋に入ってきたウォルスは、楽しげともと
れる表情で鎧を磨くランディの姿に苦笑してみせた。
「どうかした?」
 仕上げの乾拭きにかかりつつ問いかけると、ウォルスはひょい、と肩をすく
め、それから表情を引き締めた。
「さっきの事だが……どう思う?」
 表情を引き締めたウォルスはストレートな問いを投げかけ、ランディも心持
ち表情を引き締めた。
「どうもね……何とも言いがたいよ。ただ、王位争いとか、そういう類の事じ
ゃないとは思うよ」
 断言すると、ウォルスはさすがに意外そうな表情をして見せる。
「……何故?」
「……ぼくの記憶が正しければ、ディアーヌ王女の王位継承権はそんなに高く
なかったはずだから。そうだよね?」
 言いつつ、ランディは顔を上げてドアの方を見た。つられるようにウォルス
もそちらを振り返る。直後にドアが開き、どことなく決まり悪そうな表情のチ
ェスターが姿を見せた。
「随分、感覚が鋭くなったんだねランディール……じゃなかった、ランディ」
 苦笑しながらの言葉に、ランディはにこっと笑ってうん、と頷いた。
「結構、実戦で鍛えてもらったからね……で、ぼくの記憶、間違ってた?」
「いや、その通りだよ……まあ、取りあえずその話は後で。済まないけど、食
事の準備を手伝ってもらえないかな? 気づいてるとは思うけど、ここは人手
がないからね」
 この言葉にランディとウォルスは顔を見合わせ、それから、二人はほぼ同時
に了解、と答える。この返事にチェスターはにこっと笑ってありがとう、と応
じた。
「じゃあ、悪いけど先に行っててくれるかな。ぼくは、これを仕上げないとな
らないからさ」
「そうだね。じゃあ、あの魔道師のお嬢さんにも声をかけてきてくれるかい?」
「ん、わかった。厨房に行けばいいんだろ?」
「ああ。それじゃ、行きましょうか?」
 ランディの問いに頷くと、チェスターはウォルスを促して部屋を出る。ラン
ディは手早く、それでも丁寧に乾拭きを仕上げて道具を片付けると、隣のファ
リアの部屋へと向かい、ドアをノックした。
「ファリア、いい?」
 声をかけてから返事が来るまで、少し間があった。
「あ……ランディ? うん、いいよ」
 その間を訝りながらドアを開けると、ファリアは窓辺に置いた椅子に座って
ぼんやりとしていた。単に疲れているだけには見えないその様子に、ランディ
は眉を寄せる。
「……なに、ランディ?」
 声をかけずに立ち尽くしていると、ファリアがきょとん、としつつ問いかけ
てきた。それで我に返ったランディは、あ、と言って表情を緩め、用件を告げ
る。食事の準備を手伝おう、という言葉にファリアはやや元気を取り戻したよ
うに見えた。
 厨房ではチェスターがニーナの指示を受けつつ食器の用意をし、ウォルスは
黙々とテーブルの準備を整えていた。チェスターはともかく、仏頂面でテーブ
ルクロスを整えるウォルスの姿は、妙に空間から浮いている。
 ランディがウォルスを、ファリアがチェスターを手伝って配膳を終えると、
ニーナは自分とディアーヌの食事を持って部屋へ引っ込んでしまった。
「ふう……やれやれ」
 ニーナが行ってしまうと、ウォルスが露骨に疲れた、と言わんばかりのため
息をつく。
「どしたのさ?」
「……別に。うるさいのが行って、ほっとしただけだ」
 きょとん、とするランディにウォルスは素っ気なくこう返す。ともあれ、四
人はテーブルにつき、やや遅い夕食をとった。ここで、ランディは自分の出奔
の経緯をチェスターに話しておく事にした。
「……なるほどね。君みたいに生真面目なヤツが、王家の怒りを買うなんてお
かしいと思ったんだが……そういう事か」
 一通り話を聞くと、チェスターはこう言って嘆息した。
「うん。でも、ぼくはあの時の選択肢を後悔はしていない……ジュディア様の
幸福のためなら貴族の肩書きなんて惜しくないし、それに、冒険者暮らしも気
に入ってるしね」
 そんなチェスターに、ランディはにこっと微笑って見せる。屈託のない笑顔
に、チェスターも笑みを浮かべた。
 その後は取り留めもない事を話しつつ、四人は食事を終えた。分担して食器
の片付けを終えると、四人はランディの部屋に集まる。先ほどまでの和やかな
雰囲気とは一転、緊張した空気が室内に張り詰めた。
「さて……何から説明すればいいのかな?」
「……話す事ができる範囲で、最初から説明してもらえればありがたいな」
 チェスターの静かな問いにはウォルスが応じ、この返事にチェスターは最初
からか、と呟いて目を閉じた。
「とはいえ、一体どこが最初なのかは、正直オレにもわからない……とにかく、
唐突だったからな」
「じゃあ、どうして、王女がこんな寂しい所に移らなきゃならなかったのか、
から話してもらえるかな?」
 ランディの言葉に、チェスターは目を開いて一つ頷いた。
「ああ、そうだな……姫は元々、アドネイアの月神大神殿で、巫女としての修
行を積んでいたんだ」
「……巫女? 魔導王国の王女が、神殿勤めを?」
 意外そうなウォルスの問いにチェスターはああ、と頷いた。ここカティス王
国は魔導王国の名の通り、古代語魔法の研究が盛んな地であり、王族の者は皆、
魔道師としての優れた才を持っている事で知られているのだ。
「……姫は生まれつき、神聖魔法の才が高くてね。その関係で、王位継承権も
低めに押さえられているんだ。
 それはともかく、姫はずっと、神殿で修行を積んでいたんだが……今年に入
ってから、何者かに狙われるようになってね。最初は、オレと彼女……お付き
のニーナ殿が、神殿の神官戦士団と一緒にお護りしてたんだが……段々、相手
の手段がエスカレートして来て、神官戦士団の被害もバカにならなくなってき
たんだ」
 ここで、チェスターは一つ息をついた。
「そんなもんだから、姫が参ってしまってな……周りに迷惑をかけたくないか
ら、ここの離宮に移るって言いだしちまって。
 みんな反対したんだが、姫は、言いだしたら聞かない所があってな。それで、
直属の護衛を務めるオレとニーナ殿の二人だけを護衛に、ここに移る事になっ
て……」
「で、ここを目指している途中、突然あんな化け物に襲われた、と……大変だ
ったんだね」
 話をまとめたランディの言葉にチェスターは苦笑しつつまあな、と答える。
ウォルスは難しい顔で話を聞いていたが、チェスターの話が一区切りするとこ
んな問いを投げかけた。
「それで、襲ってきた相手は……黒幕は、わかっているのか?」
「それは……わかっていれば苦労はしないさ」
 答える瞬間、チェスターは何故かウォルスから目をそらすような素振りを見
せた。その態度にウォルスは微かに眉を寄せるが、それ以上は何も言わずに話
題を変える。
「……しかし、珍しいと言えばお前さんも珍しいな。半妖精で、王族の直属の
護衛を務めているとは」
 この言葉にチェスターはまた苦笑めいた面持ちに戻ってそうかな、と応じた。
「カティスはルシェードと違って能力重視で人材を採用するからね。それに、
チェスターのお父上は、現国王の弟君なんだよ」
 言葉を濁すチェスターに代わり、ランディがこんな説明をつける。
「え……それじゃ、王族、なの?」
 その説明にファリアがきょとん、とした声を上げ、ウォルスも感心したよう
な目をチェスターに向けた。当のチェスターは困ったような笑みを浮かべてそ
れを受け止める。
「いや、オレは王族じゃないよ。父上は母上を妻に迎える時に王族としての特
権と義務を全て捨てているからね。だから、姫とも血筋の上では従兄妹になる
けど、オレはあくまで近衛騎士でしかないって訳」
「ふうん……そうなんだ」
 おどけた口調で話すチェスターを、ファリアは物言いたげな様子で見つめて
いたが、結局それ以上は何も言わずに肩の上のリルティを撫でた。
「それでチェスター、これからどうするつもりなんだい?」
 話題を変えてランディが問うと、チェスターは表情を引き締めた。
「それなんだけど……ランディたちは、どうするんだ?」
「え? ぼくは……」
 逆に問われたランディは困ったようにウォルスを見る。そもそも、カティス
に来たのはウォルスに付き合っての事であり、彼自身に明確な目的はないのだ。
「そうだな……別に焦って行く宛があるでなし、そちらさえ良ければ、しばら
くここに止まってもいいんじゃないか?」
 それに、ウォルスは事も無げな口調でこう答える。この返事に、チェスター
はほっとしたような、でもどこか申し訳なさそうな表情でいいんですか? と
問いかけた。
「ああ……まあ、オレはオレで調べたい事があるんであちこち歩き回るが、お
前らはここにいられるだろ? あんなものがしょっちゅう来るんじゃ、二人だ
けでは凌ぎきれんだろうしな」
「……ドラゴンクラスがしょっちゅう来たら、何人いても変わらなくない?」
 軽い言葉に対するファリアの突っ込みを、ウォルスは完璧に黙殺した。
「……調べたい事って?」
 きょとん、としながらランディが問うと、ウォルスはちょっとな、と言葉を
濁した。不自然な態度に戸惑うものの、ランディはそう、と言ってそれ以上の
追求を避ける。問い詰めた所で答えが得られないのは、ここに到るまでの旅路
でわかっているのだ。
「そうか……でも、助かります。オレとニーナ殿だけじゃ正直、少し辛いかな
とは思っていましたから」
「それはオレより、そっちの二人に言ってくれ。それと、オレ相手に畏まる必
要はないぞ。オレも特に遠慮はしないからな」
 頭を下げるチェスターにウォルスは素っ気なくこう告げる。顔を上げたチェ
スターは、そうらしいね、と言いつつ苦笑して見せた。張り詰めていた空気が
緩み、ランディはほっと息をつく。
 こんこん こんこん
 それとほぼ同時に、ドアが静かにノックされた。突然の事を訝りつつ、ラン
ディはどうぞ、と答える。それに応じて開いたドアの向こうに立っていたのは、
当然と言うか、ニーナである。
「ニーナ殿、どうしました?」
 チェスターが立ち上がりながら問いかけると、ニーナは何故か小さなため息
をついた。
「……ニーナ殿?」
「チェスター殿、ディアーヌ様が不安がっていらっしゃるんです……少し、勇
気づけてあげて下さいません?」
 訝しげに名を呼ぶとニーナは低い声でこんな事を言い、この言葉にチェスタ
ーは眉をひそめた。
「まあ、あんな事の後じゃ、仕方ないか……わかりました、すぐに行きます」
 ため息まじりこう言うと、チェスターはランディを振り返った。
「それじゃ、オレはこれで。みんな、ゆっくり休んでくれ」
「うん、ありがと。じゃ、王女に宜しく」
 ランディの言葉にああ、と頷くと、チェスターは部屋を出て行った。その姿
が見えなくなるとニーナは一転、厳しい表情で室内を見回す。
「……あの、何か?」
「……今の内に、お断りしておきます」
 きょとん、とするランディに、ニーナは表情と同様に厳しい声音でこう告げ
た。
「チェスター殿はああ仰っていますけど、私は、貴方がたを信用しきってはい
ませんから、それを忘れないでください。
 ……特に、貴方は」
 言いつつ、ニーナは厳しい目をウォルスに向けるが、当のウォルスは涼しい
顔をしている。全く取り合おうとしていないその様子に、ニーナは露骨に不機
嫌な表情を作り、やや乱暴にドアを閉めた。
「やれやれ……とんでもない過剰防衛だな。口やかましい」
 その気配が完全に遠のくなり、ウォルスは呆れ果てたと言わんばかりにこん
な事を呟く。
「……でも、気持ちわかるわよ。あんたって得体知れないもの」
 その呟きにファリアがぼそっと突っ込みを入れるが、ウォルスはひょい、と
肩をすくめるだけでそれを受け流してしまう。ファリアは露骨に不満げな表示
用で、う〜、と唸って見せた。
「ま、いずれにしろ、ここはお前らに任せる。今回の件……色々と気にかかる
事も多いしな」
 こう言うとウォルスは部屋を出ようとするが、
「ウォルス……もしかしてこの騒ぎの黒幕に、心当たり、あるの?」
 その背に向けてランディが投げかけた問いにぴたりと動きを止めた。
「……確証はないが、予測は立っている」
 しばしの沈黙を経て、ウォルスは短くこう答えた。この返事にランディは表
情を引き締め、低い声で更に問いを接ぐ。
「つまり……あの時の奴らと関わりがあるって事……だね?」
「あるいは、な……」
 静かな問いにウォルスはやや曖昧な答えを寄越し、ドアの向こうに姿を消し
た。ドアの閉まるぱたん、という音に乗せて、ランディは一つため息をつく。
「……ランディ?」
 突然のため息を訝るファリアには何でもないよ、と応じるものの、アメジス
トの瞳に宿る光は厳しかった。
(『時空の剣』を狙う者と、ディアーヌ王女を狙う者が同一だとして……でも、
一体、何をしようとしてるんだ?)
 考えた所で予想などつきはしないが、ともあれ、今回の事は自分に──自分
の手にした『時空の剣』に大きな関わりを持つのは明らかである。そしてこの
力の強大さを思えば、それが単純な事態ではない事も容易に察せられた。
「……気持ち、引き締めないとならないかな」
「……え?」
「ん……何でもないよ」
 突然の呟きにきょとん、とするファリアにランディは軽く微笑いかけ、その
笑顔をファリアは怪訝な面持ちでじっと見つめていた。

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