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「ここは……」
 何もない空間が、周囲に広がっていた。前後左右も上下にも、物体と呼べそ
うなものはどこにもない。ただ、虹を思わせる色鮮やかな光が無限に広がって
いた。
「ここは一体……! ファリア!」
 呆然と呟いた直後に、ランディはある事に気づいて大声を上げていた。光に
飲まれる直前までは傍らにあったファリアの姿がどこにもないのだ。ランディ
は改めて周囲を見まわすが、ローズピンクの良く似合う小柄な魔道師の姿はど
こにも見えない。
「ファリア! ファリア、どこ!?」
 慌てて周囲を見回し、名を呼んだ直後にすぐ側で光が弾けた。ランディはと
っさにそちらへと身構える。光はしばし収縮と明滅を繰り返した後、再びぱん
っと弾けた。弾けた光は集約し、人の姿を形作る。ゆったりしたローブに身を
包み、銀色の髪をくるぶしに到るまで伸ばした若い――男だと思われるが、ク
ールな笑みを浮かべたその顔は中性的な美しさを持ち、男とも女とも言いきれ
ない。
「ようこそ、我が領域へ」
 困惑するランディに、その人物は静かにこう呼びかけてきた。微かに覚えの
あるその声は、先ほどから幾度となく呼びかけてきたあの声に間違いない。
「……あなたは?」
「我は刻神セイレーシュ……忘れられし神の一人」
 警戒しつつ問うと、彼は静かにこう答えた。
「忘れられし……神?」
「そう……我が司るは、刻。あまりにも普遍にして不変であるが故に、我は人
の意識より忘れられた」
 怪訝な問いに刻神は皮肉っぽい口調でこう答え、ランディはきょとん、と瞬
いた。
「その……刻神様が、ぼくに何の御用なんですか?」
 この問いに刻神は薄く笑う。
「君に力を与えようと思い、ここに呼び寄せた……我は、君の訪れを待ち続け
ていたのだよ、ランディール・エル・アルガード」
「……アルガードの名は捨てました。今のぼくは、ランディ・アスティル……
ただの自由騎士です」
 微かに怒気をはらんだ反論に、刻神はくくっと低く笑った。その仕種に合わ
せるように銀色の長い髪がさらさらと揺れる。ひとしきり笑った刻神は、憮然
とした面持ちのランディに向け、こんな言葉を投げかける。
「確かにそうだな……しかし、その名を取り戻せるとしたら、どうする?」
「え……?」
 思いも寄らない言葉にランディは戸惑った。
「……どう言う……事ですか?」
 その戸惑いをそのまま疑問として投げかけると、刻神は瞑想するかのように
目を閉じ、静かに話し始めた。
「我は刻神。過ぎし刻を戻し、出来事を変える事もできる。出来事とは、即ち、
未曾有より解き放たれし一つの事象の具現……刻を戻し、変革を与えれば、異
なる出来事が解き放たれる」
 ここで、刻神はわかるか? とでも言いたげにランディを見た。ランディは
戸惑いつつ、それでも理屈は概ね理解できるので一つ頷く。この返事に刻神は
満足げな笑みを浮かべた。
「即ち……君は未だ、心の片隅に失われた王女の面影を止めている。それを迷
いとして、あるいは悔いとして、心に止めている」
「なっ……」
「叶うならば刻を戻し、王女を取り戻したいと願った事もあろう……違うか?」
「そ……それは……」
 刻神の言葉を否定しきれず、ランディは口篭もる。
「……ランディ……」
 不意に、耳に馴染んだ声が震えながら名を呼ぶのが聞こえた。はっと声の方
を振り返ったランディは、困惑をたたえた栗色の瞳と目を合わせる。
「……ファリア……」
 いつの間にそこに現れたのか、振り返った先には透明な球体に捕われたファ
リアの姿があった。じっとこちらを見つめる瞳に居たたまれなくなったランデ
ィは、俯いてファリアから目をそらす。
「ランディール。君に、選択肢を提示しよう」
 俯くランディに刻神が静かに呼びかけてくるが、ランディは唇を噛み締めた
まま、何も言わない。
「もし君が望むのであれば、我は過ぎし刻を戻し、君の望む出来事を未曾有よ
り解き放つ事ができる……即ち、王女は失われず、君は聖騎士となる事すらで
きよう」
「……聖騎士……」
 刻神の言葉にランディは低く呟いた。騎士の最高の称号の一つとされる聖騎
士――それは、幼い日に強く憧れた存在だった。
「とはいえ……それほどの変革を成すのは容易い事ではない。神たる我でさえ、
これを行うには……贄がいる」
 静かに告げるのと同時に、刻神はそれまでランディに向けていた視線をつい
と動かした。顔を上げ、その視線をたどったランディは再び栗色の瞳と目を合
わせてはっと息を飲んだ。
「まさか……ファリアを犠牲にするって言うんじゃ!」
 振り返りながら問いかけると、刻神は静かに頷いた。
「そんな! そんな事、できる訳ないじゃないですか!」
「何故?」
「な、なぜって……ファリアは、一緒に冒険している仲間だし……そんな事、
できませんよ!」
 ランディのこの反論に、刻神は冷たい笑みを浮かべた。
「仲間……か。しかし、刻が修正されたなら、その娘と出会う事はない。即ち、
その娘を贄にする事は、君にとっては喪失とはなり得ぬのだぞ?」
「……え?」
 思いも寄らない言葉だった。ランディは呆然と刻神を見つめ、そんなランデ
ィをファリアは不安げに見つめる。刻神は紫水晶の瞳の困惑を静かに受け止め、
返事を待っているようだった。
(……なんだ? 何を悩んでいるんだ、ぼくは? そんな事……ファリアを、
犠牲にしてまで……ジュディア様を取り戻すなんて……)
 できる訳ない、と念じようとすると、脳裏に王女の笑顔が鮮明に浮かび上が
った。合わせるように、子供心に抱いた思慕の念が、淡い初恋の思い出が胸に
蘇ってくる。ランディはぎゅっと目をつぶり、唇を噛み締めた。
 王女とは、はとこに当る事から王女宮への出入りは許されていた。ランディ
は十二歳になって正式な騎士訓練を始めるまでは、王女たちの遊び相手として
ほぼ毎日王女宮へと通っていたのだ。
 一緒に庭園の花々の世話をした日々。王女の好きな曲を上手く弾けるように
と、竪琴を徹夜で練習した事もある。ただ喜んでほしくて、微笑っていてほし
くて――自分にできる事を夢中になってやっていた。
(ずっと……ずっと、想っていた。叶わない想いなのは自分でもわかってたけ
ど……少しでも、近くにいたかった。だから、騎士になりたかった。もしかし
たら応えて下さるかもしれないなんて、淡い期待、抱いて……)
 しかし、現実に王女が選んだのは自分ではなく、また伴侶と見込まれていた
隣国の王子でもなかった。王女は流浪の剣士と恋に落ち、全てを捨てて彼を選
んだ。そして、その選択肢を示したのは――他ならぬ彼自身だった。
「くっ……」
 心がざわめく。もし、過ぎた時間を戻せるなら――そう念じた事がないとは
言えない。しかし時間を戻し、全てをやり直したとして、それで本当に良い結
末が得られるとは思えなかった。まして、その犠牲となるのはファリアなのだ。
(ファリア……ファリアは、いつだって、ぼくを元気付けてくれた……この半
年の間、ぼくが落ち込んだ時、近くにいてくれたのは、いつもファリアだった
じゃないか。いつだって……ファリアは近くにいてくれた)
 ゆっくりと目を開け、俯いた顔を上げてファリアの方を見る。ファリアは不
安げな面持ちでじっとこちらを見つめていた。不安と共に、その瞳には懇願と
諦めのようなものも見て取れる。共に冒険を始めてから半年、ファリアのこん
な表情は初めて見た。いつも元気なファリアが初めて見せた不安。それを与え
ているのは、他ならぬ自分だった。
(……ダメだよ、やっぱり。そんな事できないよ。ぼくの都合で……ぼくの勝
手なわがままで、ファリアを……そんな事、できない……やっちゃいけないん
だ、そんな事)
 取り戻したとて手が届くかわからない人よりも、側にいてくれる少女を選び
取る――そこまで明確な意識はないものの、その選択肢は自然に受け入れられ
た。心を決めたランディはファリアににこっと微笑いかけ、表情を引き締めて
刻神に向き直る。
「刻神セイレーシュ……」
「答えは、でたか?」
 静かな問いに、ランディは一つ頷いた。
「確かにあなたの言う通り……ぼくはまだ、ジュディア様の事を完全に吹っ切
れてはいません……そして、時間を戻せたらって考えた事も、少なからずあり
ます」
「……ランディ……」
 ランディの言葉に、ファリアの表情が陰りを帯びた。
「でも……それでも、ぼくは、決めたんです。あの時、ジュディア様の幸福を
一番に選んだ事……その選択肢を、そしてそれを選んだ時の気持ちを否定はし
ないって!」
 この宣言を刻神は静かなままで受け止めた。ランディは一つ息をついて、更
に言葉を接ぐ。
「出来事がたくさんの可能性の一つの現れなら、ここで時間を戻したら、ジュ
ディア様は幸福になれない可能性も出てくるんでしょう? ぼくには、そんな
選択はできない……まして……今、とても大切な……大切と思えるものを犠牲
にしてまで、ここまでの自分を否定するような事はできません!」
「……え!?」
 凛とした宣言にファリアが息を飲む。刻神は静かなままランディの言葉を聞
いていたが、不意にこんな問いを投げかけてきた。
「それは即ち、刻を戻す必然はない、という事か……?」
「はい、その必要はありません。それより、ファリアを解放して、ぼくたちを
みんなの所へ戻してください」
 静かな問いにランディははっきりとこう答え、この返事に刻神は満足そうな
笑みをもらした。
「見事だ……ようやく、期待通りの逸材を見いだせた、と言う事か……」
 笑みと共に零れた言葉にランディはきょとん、と瞬いた。
「……どういう事ですか?」
「最初に言ったはずだ。我は、君に力を与えようと思い、ここに呼び寄せたの
だと」
 戸惑うランディに刻神はからかうようにこう言った。それから、つい、と伸
ばした手を優雅に動かす。それに応じてファリアを捕えていた球体がランディ
の方に移動し、ぱちん、と軽い音を立てて弾けた。
「きゃっ……」
「ファリア!」
 目の前に落ちたファリアを、ランディは慌てて受け止める。
「大丈夫?」
「う、うん……なんとか……」
「良かった……」
「ランディール」
 ほっと安堵の息をつくランディに、刻神が静かに呼びかけてきた。刻神は、
先ほどまでの冷たい表情から一転、穏やかな面持ちでこちらを見つめている。
「我は、長い間、君を待っていたのかも知れぬ……我が力を託す事の叶う、強
き心を持つ君を」
「……え?」
「そう遠くない未来……この世界に、早すぎる変革の訪れる兆しがある。人の
手により、誤った変革が招かれる可能性がある。それは人の手により招かれし
事象故に、理の神々は関与できぬやも知れぬ……」
 戸惑うランディに向けて左手を差し伸べるように伸ばしつつ、刻神は静かに
こう告げた。
「我は忘れられし神……しかし、我らの司りしこの世界を思う心は理の神々に
も劣らぬ。故に、我はこの世界の消滅を防ぐ鍵を、君に託す……君の、揺るぎ
無き強き心に我の鍛えし剣を、『時空の剣』を託す……」
「……『時空の剣』?」
 ランディがおうむ返しに呟いた直後に刻神の手の上に光が灯った。その光は
淡い輝きを放ちながら形を変えてゆき、やがて、アメジストをあしらった銀鎖
のペンダントに姿を変える。刻神がついと手を振るとペンダントはその手の上
から姿を消し、ランディの首に現れた。
「ランディール……人は、人であるが故の愚かしさから逃れる事ができぬ。そ
れは時に喜びを、時に悲しみを生む。人の所以が生み出す軋みを、理の神々は
正す事が叶わぬ。
 もし、人の所以が大きな軋みを生み出したなら、『時空の剣』でその軋みを
正してほしい……それが、我の唯一の願いなのだ……」
 静かな言葉と共に刻神の身体を光が包んでいった。その光は徐々に空間を満
たしてゆき、やがてランディとファリアをも包み込んだ。眩しさに二人はそれ
ぞれ目を閉じ、そして――

「ランディ……ランディ! しっかりしなさいってば!」
 不意に耳に届いた女の声が、途絶えた意識を再び繋いだ。はっと目を開ける
と、翠珠の瞳と視線が合う。ニ、三度瞬きして視界をはっきりさせたランディ
は、悪戯っぽい森妖精の笑みをすぐ側に認めた。ラウアだ。
「ラウア……さん?」
「気がついたわね。大丈夫?」
「あ……はい……」
 問いに答えつつ周囲を見回すと、そこは『刻の遺跡』の祭壇の間だった。そ
れを認識してからふと横を見ると、そこにはファリアとリルティが寝かされて
いた。
「大丈夫、眠ってるだけよ」
 振り返って問うより早く、ラウアは答えを出してくれる。ファリアの無事に
ひとまず安堵した所で、ランディは祭壇の異変に気づいてきょとん、と瞬いた。
「……あれ……結界が消えてる……」
「うん、君たちが戻ってくる少し前にね、乗っかってた剣ごと消えちゃったの」
 呆然と呟くランディに、ラウアはこんな説明をしてくれる。ランディはゆっ
くり立ち上がると、祭壇の前に立って腕組みするレオードとヴェインに歩み寄
った。
「お、気がついたか」
 近づく気配に気づいたヴェインが軽く声をかけてくる。それにはい、と頷い
て見やった祭壇の上には、ラウアの言う通り何も残ってはいなかった。
「大丈夫か、ランディ?」
 祭壇を見つめているとレオードが静かにこう問いかけてきた。ランディはは
い、と頷いてからある事に気づき、居住まいを正してレオードに向き直る。
「レオードさん……」
「どうした?」
「……すみませんでした、勝手な行動を取ってしまって……」
 言いつつ、深々と頭を下げる。レオードはヴェインの方を見やり、二人は苦
笑めいた笑みを交わした。
「危険区域での単独行動は、全体の命取りにもなる。今回は何事もなかったか
ら良かったが、もう少し考えて行動しろ」
「はい……」
「まあ、なにはともあれ……」
 こう言うと、レオードはランディの深く下げた頭の上にぽんっと手を乗せた。
「あんまり、冷や冷やさせてくれるなよ。お前にしろファリアにしろ、見てい
て危なっかしすぎる」
「ま、じゅーねんまえの誰かさんたちと一緒って説もあるけどな」
 穏やかなレオードの言葉をヴェインが茶化し、ラウアがくすくすと笑った。
シアーナも微かな笑みを口元に浮かべている。そして、ランディはきょとん、
としながら顔を上げた。
「十年前の……って?」
 ふと感じた疑問をそのまま投げかけると、レオードは苦笑しつつランディの
髪をくしゃ、と掻きまわして手を離した。話の見えないランディがきょとん、
としていると、ヴェインがひょい、とこちらの首を抱え込んでこんな事を囁く。
「ま〜ま、後で教えてやるから、楽しみにしとけって♪」
「……お代はまた、プラリムのワイン……ですかぁ?」
「わかってんじゃん♪」
「……っとにぃ……」
 得たりとばかりに笑うヴェインに呆れたようなため息をつくと、ランディは
改めて祭壇を見やった。結界と剣の消え失せた祭壇の周囲には何故か、安堵し
ているような雰囲気が漂っている。そしてそれは、刻神が最後に見せた穏やか
な表情を容易に思い起こさせた。
(……刻神セイレーシュ……あなたは、ぼくに何をしろと言うんですか? こ
の力を、ぼくにどうしろと……)
「どした、戻るぞ」
 疑問を感じつつ佇んでいると、ヴェインが声をかけてきた。それで我に返っ
たランディは、はい、と答えて祭壇の側から離れる。祭壇は静かに、立ち去る
冒険者たちを見送っていた。

 それと、ほぼ同時刻。
「……過去、堕落、正位置。鍵……魔王、正位置。現在……覇王、正位置。鍵
……封印、逆位置?」
 薄暗い森の中で、黒衣の人物が様々な図案の描かれたカードを並べて訝しげ
な声を上げていた。声から察するに、まだ若い男のようだ。
「……未来は……支配、正位置か。鍵……破滅、正位置。運命の鍵は、と……」
 低く呟きつつ、男は円形に置かれた六枚のカードの中央に伏せられた一枚を
そっとめくる。
「……聖戦、正位置……か。はん、なるほどね……」
 妙に納得したように呟くと男はカードを集め、脇に積んでおいた山札と合わ
せて手早くシャッフルした。それから一つ深呼吸をして、中からカードを一枚
引く。引いたカードを見た彼は、引き被ったマントのフードの端から覗く口元
に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「……未来……か。出来のいい冗談だな」
 笑みと同様に皮肉に満ちた口調で呟くと、男は立ち上がってカードを腰のケ
ースにしまい込んだ。
「さて……それでは、運命の鍵に、会いに行くとするか……」
 空を見上げてこう独りごちると、彼は漆黒のマントを翻して歩き出し、やが
て木立ちの奥へと姿を消した。

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