序章目次へ



 ランディは夢を見ていた。両親に連れられて初めて王宮に上がった日の夢だ。
母に連れられて入った王女宮の庭で、色とりどりの花に囲まれて微笑っていた
二つ年上の王女に、ランディは春の女神の姿を重ねていた。
 騎士になりたい――そう思うようになったのは、その直後だった。あまり丈
夫でない次男の決意に母と祖母は猛反対したが、豪快無比な元冒険者の祖父が
父を説き伏せてくれたお陰で、ランディは騎士修行を始める事ができたのだ。
「……ジュディア様……」
 浅い眠りが破れ、ランディは目を開けて小さく呟いた。脳裏に蘇るのは、拉
致される直前の王女の姿だ。沈んだ瞳と、言いようもなく寂しげな表情――そ
れは、何を意味していたのか。
(やっぱり……縁談かな……)
 ルシェード王には男児がいない。そのため、長女であるジュディア姫にしか
るべき身分の婿を取り、王位を継承しなければならなかった。王女の表情が暗
くなったのは、ルセリニアのマリウス王子との縁談が持ち上がった直後だった
気がする。そしてその直前まで、王女は毎日とても晴れやかな、それでいて切
なげな表情をしていたのだ。
(もしかして……ジュディア様には、誰か想う人がいたのかな……)
 ふとこんな疑問が過るが、あながち間違いではなさそうだった。とはいえ、
それが自分でないのは間違いないだろう。王女は自分の事を弟のように思って
いる、と明言していたのだから。それはそれで、物悲しくはあるのだが。
(……悩んでても仕方ないや。とにかく、今はジュディア様をお助けしなきゃ)
 とは思うものの、次に戦いになった時、ちゃんと戦えるかどうか自信はない。
人を殺した衝撃は大分治まっているものの、本能的な恐怖と嫌悪感は心の奥に
重く凝り固まっている。
 そうしなければ、ファリアが危なかった。レオードは、何があってもファリ
アを守れと言った――それを実行するにはああするしかなかったのだ。理屈は
わかる。だが、頭は理解しても心が納得しない。どうしようもなく怖い。そし
て、そんな自分がこの上なく情けない。
「……くっ……」
 ランディは膝の上に両腕を組むと、その上に突っ伏した。そんな自分の行動
を離れたところで膝と杖を抱えたファリアが心配そうに見つめている事には、
ついぞ気づかずに。

 一休みして身体の疲れを取りあえず和らげると、冒険者たちは前進を始めた。
慎重に階段を降りて行く。その階段にもやはり罠の類はなく、一行は労せずし
て地下のホールにたどりついた。
「……来たか、侵入者どもめ」
 地下のホールに足を踏み入れた彼らを出迎えたのは、苛立ちと憤りのこもっ
た若い男の声だった。
 ホールは朽ち果てた何かの儀式の間のようだった。部屋の一番奥には厳しい
石の祭壇が築かれ、床には色あせた絨毯が敷き詰められている。そして祭壇の
上にはダークブルーのマントを羽織った魔道師風の男が座っていた。彼は先頭
に立つランディを一瞥すると、露骨に顔をしかめて見せる。
「けっ、王国の騎士サマかよ。だがな、王女を返すつもりはないぜ」
 不敵にこう言い放つと、男は祭壇から飛び下りて一行と対峙した。マントの
下に見える革製のブレストアーマーと腰に下げた長剣から察するに、男は魔道
師ではなく魔法剣士のようだ。最悪、全ての攻撃魔法を打ち消す魔導剣士の可
能性もあるのだが。いずれにしろそれなりに場数を踏んではいるらしく、動揺
した様子はまるで見えなかった。
「お前……お前が、ジュディア様を……ジュディア様はどこだ!?」
 一歩前に進み出ると、ランディは胸につかえる恐怖を押し隠して問を投げか
けた。
「アホかっ! どこと問われて、はいここですよ、なんて教えるヤツは普通、
いねえ!」
 正論である。男は長く伸ばした髪をざっとかき上げて後ろに追いやると、腰
に下げた長剣を抜き放った。研ぎ澄まされた切っ先が、ランディに向けられる。
「知りたきゃ、オレと勝負しな。一騎討ちだ。お前が勝ったら、王女は返して
やってもいいぜ」
 静かに言い放つ男の、黒曜石を思わせる瞳には決意と共に、本物の殺気が浮
かんでいた。それを見て取ったレオードは立ち尽くしているランディに目をや
る。ランディは、ともすれば恐怖で弾け飛びそうな心を必死で抑えていた。
 重苦しい沈黙がその場を支配する。地下のホールに立つ者は皆、ランディの
言葉を待った。当のランディは、空間を照らす鬼火を受けて蒼氷色の光を放つ
剣の切っ先を見つめて立ち尽くしたままだ。決意と恐怖が絡み合い、紡がれる
べき言葉をかけて激しく争っている。
「……ランディ……」
 その場の沈黙を破り、ファリアが不安げな声で少年を呼んだ。その一言が呪
縛を打ち破り、ランディは一度目を閉じた。深く、大きく、深呼吸をしてから
ゆっくりと目を開ける。
「……わかった……」
 零れ落ちたかすれ気味の呟きに、男はにやりと笑う。
「いい返事だな。オレは、ラーシィス。お前は?」
「……ランディ……」
 かすれた名乗りに、男――ラーシィスは微かに眉を寄せた。それから一つ息
を吐き、剣を構えなおす。
「ほんとに来るかよ……ま、仕方ねえけどな。よし……恨みっこナシの一本勝
負と行こうぜ」
 この言葉に頷くと、ランディはバックパックを置いて剣を抜いた。二人はホ
ールの中央で対峙する。武器の有効距離はほぼ同じ。防御面ではランディが有
利だが、ラーシィスは軽装ゆえの回避率でこちらを上回っている。がむしゃら
な戦い方をしていては、すぐにスタミナ負けをするだろう。
(落ち着け……ランディール。焦るな……焦ったら、負ける……)
 蒼氷色の切っ先とその向こうの黒曜石の瞳を見据えつつ、ランディは心の中
で何度となくこう繰り返した。ラーシィスは無造作に剣を構えたまま、ぴくり
とも動かない。こちらの攻撃を待っているのだ。
「くっ……」
 力量の勝る相手の先手を取るのが不利である事は、剣術の師でもあった祖父
から繰り返し何度も教えられている。だからこそ、ランディは打ちかかりたい
衝動を必死で抑えていた――だが。
「う……わあああああっ!」
 精神的な緊張に耐えかねた心が、理性を押し退けて身体を突き動かしてしま
った。ランディは無我夢中で相手の懐に飛び込んでいく。
「……甘いぜ、ボウヤっ!」
 ラーシィスはその突進を難なくかわし、無防備な背面に一撃を入れてきた。
キインっ!という甲高い金属音と共に背骨に衝撃が伝わる。鎧の固さのおかげ
で傷こそ負ってはいないものの、喜んでばかりもいられない。ランディは息を
切らしつつ、態勢を戻して剣を構えなおした。
「お前、シロウトかよ? 立派なのは、鎧だけかい?」
 対するラーシィスは余裕綽々、軽い口調で挑発してくる。
「な、なにをっ!」
 痛い所をまともに突かれたランディは冷静さを欠き、その様子にヴェインが
処置ナシ、と言わんばかりの様子でため息をついた。
「のせられ易いヤツ……」
「あなたが言う事じゃないわね〜」
 ぼそりと呟く言葉にすさかずラウアが突っ込みを入れた。
 ガキィィィィィンっ!
 その一方で、金属音が激しく大気を振るわせる。二振りの刃が直接ぶつかり、
火花を散らしていた。
「お前よ、騎士なんぞやってねーで、宮廷で歌でも歌ってた方がいいんじゃね
えの?」
「……良く言われてたよ、それはっ!」
 ラーシィスの揶揄に、ランディは叫ぶように答える。
「ならなんで、騎士なんぞやってんだ? 言うだろ『適材適所』って」
「……お生憎さま、ぼくは、まだ、正式な騎士じゃない!」
 言葉と共に、ランディはふっと腰を落として身体を沈めた。ラーシィスの剣
を押しやるようにしつつ、自分の剣を横方向へと流す。
「なにっ!?」
 突然の事にラーシィスはまともに虚を突かれていた。重心を前に傾けていた
事もあり、その身体は宙を泳いだ。
「……ってめ!」
「でやあああっ!」
 苛立ちを帯びた怒号と、裂帛の気合が交差する。
 ザシュっ!
 横薙ぎに駆けた銀の光が、ラーシィスのブレストアーマーを切り裂いた。
 からん……
 乾いた音と共に、ラーシィスの剣が床に転がった。
「へっ……やってくれるぜ……」
 傷を抑えつつ、ラーシィスは肩越しにランディを振り返る。ランディははあ、
はあ……と荒く息をしつつそちらを振り返り、問いを投げかけようとするが、
「……待って、ランディール!」
 思いも寄らない声がそれを遮った。その響きを一日たりとも忘れた事のない、
女性の声。ランディは戸惑いながら声の聞こえた方に向き直り、
「……ジュ……ジュディア、さま……?」
 祭壇の向こうに立つ王女ジュディアの姿に呆然と呟いた。背後の壁に小さな
扉が開いているところからして、奥の隠し部屋にでもいたのだろう。王女は祭
壇を迂回してこちらにやってくると、ラーシィスの傍らに膝を突いた。
「お願い、彼を殺さないで! ラーシィスは……悪くないの」
「え……?」
 王女の訴えにランディは呆けた声を上げ、冒険者たちも眉を寄せた。
「……はー、よーするに、誘拐にかこつけた駆け落ちか」
 いち早く事情を察知したヴェインが呆れたように吐き捨てる。その言葉に、
ランディはきょとん、と瞬いた。
「……ジュディア様……」
 呆然と名を呼ぶと王女は目を伏せた。
「……そう、なん、です……か?」
 投げかけた途切れとぎれの問いに、王女は目を伏せたままで頷く。
「……わがままなのは、わかっていたの。でも、わたし……どうしても、想い
を、消せなくて……ごめんなさいランディール……迷惑をかけて……」
「…………」
 言葉が、無かった。故に、ランディは呆然としたままその場に立ち尽くす。
「し……信じられない! そんなのって、ありなわけ!?」
 その代わりと言う訳でもあるまいが、ファリアがヒステリックな声を上げた。
「ランディ、凄く心配してたのに……それ、全部、ムダだったて言うの!? 人
にめいいっぱい心配かけて……自分だけ、いい思いしようとしてたってわけ!?」
「……それは……」
 矢継ぎ早の問いに、ジュディアは言葉を濁す。
「おいおい、そこまで言う事はねえだろ! オレが王女をさらったのは事実だ
……ってて……悪人は、オレ一人なんだよ!」
 一方的な物言いにラーシィスが傷を抑えつつ反論した。
「とにかく……この騒ぎの原因は、オレにあるんだ! 王女を責めるのは、お
門違いってもんだぜ!」
「なぁによ、偉そうに!」
「偉そうなのはそっち……っつ!」
「ラーシィス!」
 大声が響いたのか、ラーシィスは傷を抑えて身体を丸めた。ジュディアがは
っと顔を上げて心配そうに傷の辺りを覗き込むと、ラーシィスは掠れた声で大
丈夫だ、と呟く。もっとも、額にじっとりと滲む脂汗を見ては、その言葉を額
面通りに受け取るのは不可能に近いが。
(そうか……そうだったんだ……)
 今までずっと引っかかっていた事が、その様子で理解できた。出会いの経緯
はわからない。しかし、ある時この二人は出会い――そして、想いを通わせた。
そしてその想いは、一国の王女が全てを捨て去る事すら辞さない、強いものと
なったのだ。連れ出す方も連れ出される方も、見つかればただではすまない逃
避行。それを、王女が選び取ったというのなら、自分にできる事は……一つし
かない。
「……シアーナさん……手当て、してあげてください」
 覚悟を、決めて。ランディはシアーナにこう声をかけた。
「ラ、ランディ!?」
 突然の事に驚いたのか、ファリアがぎょっとしたような声を上げる。
「……いいの?」
 シアーナが問うのに、ランディははい、と頷いた。シアーナは既にランディ
の決意を察してくれているらしく、穏やかな笑みでそう、と呟いた。司祭はゆ
っくりとラーシィスの傍らに膝を突き、癒しの祈りを唱える。その間に、ラン
ディは剣の刃を布で拭って鞘に収めた。
「……どういうつもりだ?」
 傷が癒えると、さすがにラーシィスは怪訝な面持ちでランディを見た。ラン
ディはそれに答えず、王女の前に膝を突く。
「ジュディア様」
「…………」
「幸福に、なれますか……この人と?」
「えっ?」
 信じられない――静かな問いに顔を上げた王女は、そんな表情をしていた。
その困惑を少年は穏やかな笑みで受け止める。
「……ランディール……」
「ランディ!? いきなりなに言い出すのよ!」
「ファリアは、黙って。どうですか、ジュディア様?」
 重ねて問うとジュディアはラーシィスを振り返り、それから、はっきりと頷
いた。
「ええ、なれるわ……彼は、わたし……王女でもなんでもない……ただのジュ
ディアを見てくれているもの」
 答える瞳は真剣で、迷いはまるで感じられない。この答えに、ランディは良
かった、と言って微笑んだ。
「わかりました……行って、ください」
「……ランディール?」
「ラーシィスさんと、二人で……好きな所へ。城には、ぼくの失態として、報
告しますから」
 静かな言葉にジュディアは息を飲む。ラーシィスも、はっきりそれとわかる
驚きを示した。
「お前……いいのか、それでっ!? んな事したら、タダじゃすまねーだろ!」
 ヴェインが露骨に驚いた声を上げる。
「そうでしょうね……最低でも、アルガード家からは、絶縁されるでしょう」
 対するランディは、冷静なものだ。
「そんな……それでいいの、ランディ!?」
 ファリアのやや悲鳴じみた問いにも、静かに頷いて見せる。
「でも……ランディール、そんな事をしたらあなた……やっと、正騎士になれ
るというのに」
「構いません」
 王女の言葉に、ランディはきっぱりと言い切った。
「ランディール……」
「……ジュディア様、ぼくがなりたかったのは、王国の騎士じゃないんです。
あなたの……ジュディア様の騎士に、なりたかった。
 役不足なのは、最初からわかってました。でも……ぼくは、ジュディア様を、
お護りしたくて。それで、騎士になろうって思ったんです。
 ここであなたを連れ戻せば、確かにぼくは近衛騎士に取りたてられるでしょ
う……でも、ジュディア様は、それで幸福ですか? ……違いますよね。
 ぼくは、あなたの沈んだ顔を見ずにすむなら、貴族の肩書きも騎士の名誉も
惜しくはありません」
 真剣な表情でここまで告げると、ランディは表情を緩めた。
「だから、行ってください……そしてどうか……どうか、幸福になってくださ
い……ね、ジュディア様」
「……ランディール……」
 ふっと、王女の瞳が潤む。
「……ごめんなさい……わたしのために……でも……ありがとう……」
 ぽろぽろと涙を零しつつ、それでも、王女は微笑って頷いた。

「……信じらんねえ、お人好しだな、お前」
 洞窟を出て、ひとまずルシェードから離れるという二人を見送ると、ヴェイ
ンが呆れきった口調でこう言った。ちなみに用心棒の生き残りは既に立ち去っ
たらしく、姿は見えない。
「自分でも、そう思います……でも、後悔はしません」
「しかし、お前これからどうするんだ?」
 ヴェインの言葉にははっきり答えたものの、次に投げかけられたレオードの
問いに対する答えは詰まった。
「……どう……しましょうね。もう、王都には戻れないし……」
 言いつつ、上目遣いにレオードを見るが、剣匠はひょい、と肩をすくめて目
をそらした。ヴェインはそっぽを向いて口笛を吹き、ラウアはにこにこと微笑
うだけ。シアーナも似たような状態だ。ランディはぐるぐると視線をさまよわ
せ、こちらをじっと見つめていたらしいファリアを見やった。視線が合うと、
ファリアはぱっと目をそらしてしまう。
「い……一緒に来たいなら、そう言えばいいでしょ! どうせ、行くとこない
んだから!」
 目をそらしたまま、ファリアはつっけんどんに言い放つ。その一言に、ラン
ディは救われた思いだった。
「……構いませんか、皆さん?」
 そっと問いかけると、ラウアはくすくすと笑いながら頷いた。
「やーれやれ、これからしばらくガキのお守りかよ!」
 おどけた口調で言うのはヴェインだ。
「……明日から、毎日剣の稽古をつけてやる。覚悟しておけよ」
 レオードは既に、徹底的にランディを鍛えるつもりらしい。嬉しいような悲
しいような、なんとも不可解な思いに捕われるランディに、シアーナがそっと
耳打ちする。
「……あなたにしか護れない存在に、気がついてね」
「え?」
 戸惑うランディには答えず、シアーナは軽くファリアを見やってからその場
を離れた。ふと気がつくとヴェインとラウアは姿を消している。シアーナと、
彼女を待っていたレオードが行ってしまうと、自然、その場にはランディとフ
ァリアの二人だけが残された。
「ええっと……」
 ファリアがそっぽを向いているため、何となく話しかけ難いランディである。
「……ファリア……これから……これからも、よろしく!」
 それでも何とか、今の素直な気持ちを言葉に変える。ファリアは拍子抜けし
たようなため息をついてからランディに向き直った。
「こちらこそ、よろしくね!」
 にっこり微笑ってファリアが言うのと前後して、木立ちの向こうからラウア
が二人を呼んだ。
「いっけない、置いてかれちゃう! いこ、ランディ!」
 慌てたようにファリアは走り出し、ランディもそれに続こうとして――ふと、
ジュディアたちの立ち去った方を振り返った。
「幸福になってくださいね……ジュディア様」
「ランディ? なにやってんの、早く!」
 思いを込めて小さく呟いていると、ファリアが立ち止まって急かしてきた。
「ん、わかってる!」
 そして――少年は、前へ向けて走り出した。

← BACK 序章目次へ NEXT →