それからの数日間は、特に何事もなく過ぎて行った。
 連続失踪事件は解決の糸口もないまま被害者の数を増やして行き、それは街に暗い影を落としていた。その影響か営業時間を短縮する店や夜間営業を自粛する向きも出始めており、結果。
「……こういう休み、嬉しくねえ」
 営業時間の短縮に伴って生じたバイトの休みに、セイは人気のない公園のブランコに座って嘆息していた。
「どーすっかなぁ……」
 ぽっかりと空いた時間は予定外過ぎて、やる事が浮かばない。キィ、と音を立ててブランコを軽く揺らしつつ、セイはぼんやりと風に吹かれた。
 季節に合わぬ、涼しい風。それはごく自然にセイの周りを流れていた。もっとも、セイ自身はそれに気づいていない。否、気づこうとしていない──と、言うべきか。それを意識する事、受け入れる事を拒む思いが認識を妨げていた。
「んー……ぼーっとしてても時間、勿体無いし……久しぶりに、道場に顔出すかな」
 しばしあれこれと考えて、たどり着いたのはそこだった。
 時間ができたらまた顔を出す、とタカユキに約束していたし、何となく身体を動かしたい気分でもある。何より、農園の短期バイトが終わってからはタカユキと顔を合わせる機会も減っていたから、少し話をしたい、という気持ちが強かった。
「よっし、そうと決まれば……」
 善は急げ、とばかりにブランコを揺らして立ち上がったセイは、すぐ近くに止めておいた自転車へと向かう。
 季節に全くそぐわない、不自然な冷気を感じたのは、ロックをあけた自転車に跨ろうとしたその直前だった。
「……っ!」
 覚えのある感触に動きが止まる。ここで止まっちゃいけない、と心のどこかが囁くが、しかし、それに従うよりも前方に黒と銀が翻る方が早かった。
「よーう。まだ、無事なようで、何より」
 動きを止めたセイに向け、黒と銀──シオンは軽い口調でこう呼びかけながらひらり、と手を振った。向けられる青の瞳から、セイはつい、と視線を逸らす。
「……何か、用です、か?」
 声をかけられだんまりを決め込む事もできず、セイはやや強張った声でこう問いかけた。
「おやおや、つれねぇなぁ……ま、いーけど」
「用がないなら、オレ、行きますよ」
 そんなセイの様子に、シオンは楽しげにくく、と笑う。その笑いにかき立てられた苛立ちを隠す事無く、セイはこう言って自転車に跨った。
 走り出そうとするそのハンドルの上に、歩み寄って来たシオンの手がぽん、と乗る。はっと顔を上げたセイは、先ほどとは一転、鋭さを帯びて向けられる青の瞳に言葉を失い、そのまま動きを止めた。
「こないだ、言っといたはずだぜ? 頭が冷えた頃にまた来る……ってな」
「そんなの、そっちが、勝手にっ……」
「勝手だろうとなんだろうと、こっちはお前に用事があんだよ。ちょいと、付き合ってもらうぜ、風原誓」
「え……」
 名乗った覚えもないのに名を呼ばれ、セイは困惑して一つまばたく。その困惑を受け止める青は済んだ水の如く静かで、氷さながらに冷たい。何をどうやっても揺らぎそうにないその瞳から、セイはつい、と視線を逸らした。
「……わかったよ。でも、急いでます、から。手短に」
「手短にできるかどうか、お前次第だな」
 途切れがちに告げた了承の意に、シオンはさらりとこう返して歩き出す。セイは一つため息をつくと自転車を降り、メタルブルーの車体を押してそれに続いた。
 セイが途中でいなくなる事を考えているのかいないのか、シオンは一度も振り返る事無く歩いて行く。もっとも、人通りの少ない裏道を選んで歩いて行かれては、こっそりと姿を消すのも難しいし、何より。そんな事をしても無駄だろう、という、予感めいたものも感じていた。
 逃げられるものじゃない、逃げられはしない。
 日常に異変が介入し始めてから、どこかで感じていたもの。
 勿論、叶うなら──という想い、それはずっと抱えているのだけれど。
「さて……ここなら、いいか」
 互いに無言のまま、どれだけ歩いたのか。シオンがこう言って足を止め、セイはやや俯きがちだった顔を上げて周囲を見回した。
「……ここ……」
 目に入ったのは濃い緑と、それに挟まれた古びた石段。滅多に近づく事のない場所だが、そこがどこかはすぐにわかった。街外れにある古い神社だ。
「上、行くぜ」
 顔を上げたセイに短くこう言うと、シオンは石段を登って行く。セイは少し考えた後、自転車のフレームを握り車体を軽く持ち上げてそれに続いた。固定できる場所もないのに置いて行って、持ち去られたり撤去されてはさすがに泣けるからだ。
 中心部から大きく外れ、今では顧みる者もほとんどいない神社の石段は苔生しており、その先の境内も夏草の緑が深い。取り巻く木々の枝は折り重なるように伸び、光がさすのを遮っている。
 そんな中に佇む荒れた様子の社殿は、そこが忘れられた場所、という印象を強く醸し出していた。
「……で、だ。その様子だと、まだうだうだしてるみてぇだな?」
 境内に自転車を置いて一息ついた所に、シオンが淡々と呼びかけてきた。
「うだうだ……って、なに、を」
「自分が『何』であるのか、『何』をなさねばならんのかを、受け入れられずにいる。そうだろ?」
 静かな指摘にセイは俯いて唇を軽く噛む。シオンは青の瞳に鋭い色を宿してじっとセイを見つめていたが、やがて、はーっと大きく息を吐いた。
「言ったはずだぜ? うだうだしてる時間はねぇ、って。
 『憑魔』は動き出し、少しずつだが確実にその数を増やしてる。『桜』の護界が築かれるのも、時間の問題だ。
 『桜』が咲けば、潜在的に因子を抱えた連中も一気に動き出す……そうなった時に、どうするか。覚悟決めとかにゃ、喰われるぜ?」
「……喰わ、れる?」
 どことなく投げやりな口調で言い放たれる言葉に対し、セイはずっと黙り込んでいたものの、その最後の部分に短く声を上げていた。
 最初に異変が介入してきた時に見たもの──喰い荒らされた男の虚ろな目が蘇る。セイは反射的に目を瞑り、走る震えを押さえ込もうと自分の腕をぎゅう、と掴んだ。
「そう、喰われる。認識拒否ってうだうだしてる『司』なんて、ヤツらにとっちゃ最高のエサだからな」
「……だから、オレはそんなの知らない、って……!」
 淡々と言い放たれる言葉にセイは幾度目かの否定を口にする。拒絶ばかりを繰り返すセイに呆れたのか、それとも業を煮やしたのか、シオンは傍目にもそれとわかる苛立ちを込めた仕種でがじがじと頭を掻いた。
「ったく……ここまで煮え切らねぇとは、予想越えてたぜ。ま、そーいう事なら、仕方ねぇ」
 二度目のやや大げさなため息の後、シオンは虚空に向けて左手を伸ばした。何かを掴むような仕種に応じるように、その手に一振りの太刀が握られる。現れたそれを、シオンはためらう事無く抜いた。
「仕方ない、って、え?」
 ならどうするのか、と。問おうとした言葉は抜き放たれた白刃に途切れる。その刃と、向けられる青の冷たさに、セイはじり、と後ずさっていた。
「ちょ、ちょっと? それで、何する、気?」
「お前っていう存在が、今、どーなってるか。それがわかるようにしてやる」
 掠れた声の問いかけに、シオンは淡々とこう返してくる。冷たい声音にセイは本能的な危機感を覚えて身を翻そうとするが、シオンの踏み込みが僅かにそれに先んじた。
 色を変えていく空に、紅い色が、舞う。
「……っ!?」
 何が起きたのか、何をされたのか。すぐには、理解できなかった。
 認識できたのは、二つ。言葉で言い表せない痛みと、そして、左肘から先の、質量の欠落。
「う……く、あっ……」
 あつい、つめたい、いたい。
 どれでもなくて、どれでもある。
 身体ががくがくと震える。立っていられなくなって、セイはその場に膝を突いた。
「あぅ、あ、は……あ……あ……」
 ぼたぼたと音を立てて、真っ直ぐな断面から紅い色が落ちていく。その断面の先にあったものは、無造作に地面に転がっていた。
 突然すぎて、現実味のない状況。
 いたい、いたいと言葉はぐるぐると回るのに、それは声にならない。
 このままじゃ、死ぬかもしれない──と、そんな思考がふと過ぎる。
 過ぎったその思考はすぐさまそれへの否定を、『死にたくない』という思いを導いていた。
 死にたくない、死ねない。
 本能的な生への執着と、それから、もう一つ。
 大切な者たちへの想いが、周囲の風を強く揺らした。
「……ぅぁ……ぁ?」
 ふわり、と周囲を風が巡る。風は血を流し続ける傷口を取り巻き、淡い翠色の光を放った。それと呼応するように、地面に転がった腕が同じ色の光に包まれ、そして。
「……え?」
 熱さが、冷たさが、そして痛みが薄れていく。
 地面に転がった腕が光になって消えて行き、それと同時に肘から先に質量が戻ってくる。
 斬られた所から同じものが生えてくるかのように、斬り落とされた腕が再生していった。
「……な、に、コレ」
 それが自分の身に起きている事でなければ、どんなCG合成なのか、と笑う事もできた。けれど、斬られた時の痛みも質量の喪失も、どちらも現実に感じたもので。
 セイはただ呆然と元に戻っていく左腕の様子を見つめ、指先まで綺麗に元に戻ると、ぐ、と手を握り締めた。そのまま数回、握って開いて、を繰り返す。
「少しは、理解できたか?」
 呆然としたまま握って開いてを繰り返していると、静かな声が呼びかけてきた。はっとして振り返ったセイは、抜き身の刀を提げたシオンの姿にびくり、と身を震わせる。
「りかい、って。なに、を」
「お前自身に変化が起きている事。普通の人間にできない事が、できるようになっている事」
「……」
 静かな言葉に、セイは目を伏せて唇を噛んだ。
「お前自身がそれを受け入れていなくても、お前という存在は既に『司』として、風に受け入れられている。
 そして、『憑魔』どもからは、天敵であり、エサと見なされている。
 お前がどんなに関わりを拒んでも、『憑魔』はお前に寄ってくる……そうなりゃ、お前の周りもただじゃすまねぇだろうな」
 語られる言葉を、セイは黙って聞いていた。何を言えばいいのかわからない、というのが主な理由だったのだが、『周りもただじゃすまねぇ』という言葉にはっと顔を上げてシオンを見た。
「それって……それって、つまり」
 自分の周り。とっさに浮かんだのは、『家族』たち。護ると誓った、大切なものたち。
「ただじゃ、すまない……って、こと、は……」
 どうなるのか、と。問おうとするのを遮るように、澄んだ音が響いた。

 リィン……リィィィ────ン……

「……え? なに、コレ……鈴の、音?」
 何の前触れもなく響いたそれは、鈴の音のようだった。突然の音に戸惑うセイとは対照的に、シオンは鋭い眼差しを空へと向ける。
「護界の鈴……オウカ、出てきやがったのか!?」
「え、え? オウカ?」
 低く吐き捨てるシオンの言葉、その意が掴めないセイはただ、困惑していた。
「こりゃ、本格的に説明してるヒマ、ねぇな……おい、風原! ここらで一番古くてでかい桜の木ってな、どこにある!?」
 そんなセイに、シオンは鋭さを残したままこんな問いを投げてきた。
「え? 桜……多分、中央公園の、桜の木……」
 戸惑いながらも問いに答えると、シオンはそうか、と言って刀を鞘に納めて一振りする。それだけの動作で、漆黒の鞘に納まった刀は文字通り、霧になって消え失せた。それから、シオンはぐい、とセイの胸倉を掴み、強引に視線を合わせてくる。
「もうすぐ、桜が咲く。護界が築かれるまでが、リミットだ。
 それまでに、決めろ。
 逃げて全部失うか、受け入れて護るか。
 選べるのは、その二つの一方だけ、だ!」
 一方的にこう言うと、シオンはセイを突き放して石段を駆け下りていく。セイは呆然とその背を見送り、それから。
「逃げて全部失うか。
 受け入れて護るか」
 ぽつり、と呟き、目を伏せる。

 風が、案ずるように、その周囲をくるりと取り巻いた。
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