参 道を示すは氷の白刃

 これも、夢なのか。
 最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。
 今、起きた事も、今、目の前に立つ男も。
 そのどれもこれもが、セイに取っては非現実的だった。
「おーい、どーしたー?」
 座ったまま動かないセイを訝るように男は首を傾げ、軽い口調でこう問いかけてくる。それにも、セイは答えなかった。
 答えたら、声を出したら、認めなければならない。
 根拠などは全くないが、何故かそんな気がしてならなかった。
 もっとも、心のごく冷静な一部分はそんな事をしても意味はない、と理解している。『目覚めた』からには、逃げられないのだと。
「……おい、こら。聞いてんのか」
 ぐるぐると。ぐるぐると。閉じた輪の中で逃げ道を探していたセイは、先ほどよりも近くで聞こえた声にはっとする。直後に、ガツっ、という鈍い音が響き、衝撃と痛みが頭を駆け抜けた。
「いって……!」
 予想外の事に反射的に声が出る。そんなセイの様子に、男はにやり、と意地の悪い笑みを浮かべた。
「いてぇだろ? お約束なアレだが、夢じゃねぇ、って事だ」
 頭を押さえるセイに向け、男は淡々と言い放つ。手にしていた抜き身の刀はいつの間にか、漆黒の鞘に納まった状態で男の肩に担がれていた。先ほどセイが感じた衝撃と痛みは、これで殴られたものらしい。
「……夢じゃ。ない」
 まだ痛む部分を手で押さえつつ、セイは掠れた声で呟く。声が震えているのは、嫌というほどに良くわかった。
「そう、夢じゃねぇ」
「夢じゃ、ない。ない、なら」
 ない、なら。どうするのか、どうなるのか。
 それが、セイにはわからなかった。わかっているのは、もう逃げられない、という現実。しかし、それを認めるのは嫌だった。
 俯いて唇を噛み締めるセイの様子に男は軽く眉を寄せ、それから、銀糸さながらの髪を軽くかき上げるようにしつつ額に手を当てた。
「ない、なら、どうする。言っとくが、逃げたところで無駄だぜ?」
 淡々と言いながら男はポケットから煙草を出して口にくわえ、ライターで火を点ける。少年を思わせる容姿に似ず、その仕種は自然で手馴れた風だった。
「もっとも……逃げられねぇのは、お前自身が一番良くわかってるだろうが」
「……っ!」
 心の奥を見透かしたかのような男の言葉に、セイはびくり、と大きく身を震わせた。そんなセイの様子に、男はにぃ、と言う感じで口の端をつり上げる。顔を上げ、目に入ったその笑みにセイは更にきつく唇を噛み締め、そして。
「あんた……は。あんたは、さっきのは……一体、何……なんなんだよ!」
 昨日からずっと抱えていた問いを、感情の赴くままに叩きつけていた。
「オレは、シオン。『水牙』の司、津上紫苑だ」
 荒げられた感情に全く動じた様子もなく、男──シオンは静かに自分の名を告げる。その中の聞き慣れない単語に、セイはきょと、と瞬いた。
「……『すいが』の、つかさ?」
「そう。森羅万象より力受け、闇より生じし『魔』を闇に還すモノ」
 繰り返すように呟くと、シオンは一つ頷いてこんな説明をつける。どこか曖昧なそれは何故か、すんなりと理解できた。そういうものなのだという、無意識下での認識。ただ、何がそれをなすに到らせたのか、まではわからない──わかりたくない。
「闇より、生じし『魔』を、闇に、還す。じゃあ、さっきの、は」
 途切れがちになりながらも投げかけた問いかけ。それに、シオンは一つ頷く。
「そう、人の心の闇より生じ、人を喰らう『魔』……『憑魔』。我ら、『司』と相反すモノ」
 静かな口調で淡々と返される言葉。セイはごく自然にそれを受け入れかけ、ふと、ある部分に疑問を抱いてシオンを見た。
(……今……なん、て?)
 聞き間違いでなければ、確かにシオンはこう言った。『我ら、『司』』と。
「ちょっと、待って。ナニ、その……『我ら』って、言い方。その言い方だと、まるで、オレまで……」
 同じみたいじゃないか、と。声は続かなかったが、言わんとする所ははっきりと表情に表れていた。この言葉にシオンははっきりそれとわかるほど嫌そうに顔を顰める。
「何を今更……わかってない、とは、言わせねぇぜ?」
「そんな事、言われても。知ら、ない、し」
 掠れた声での主張に、シオンの表情が険しさを帯びる。吐き出された紫煙が夏の熱気に溶けて、消えた。
「知ら、ない、し、ね。ふん……確かに、具体的な知識として伝えてんのは、ウチや相模の家くらいのモンだ。知らんのも、無理はねぇだろうが……」
 淡々とした口調で言いながら、シオンはやや細めた目でセイを見る。その探るような視線から逃げるように、セイは目を伏せて顔を背けた。シオンは煙草の先の灰を落としつつセイをじ、と見詰めていたが、やがて、大きく息を吐いた。
「知らない、が、理解できない理由なわけか?」
 それから、シオンはこんな問い投げかけてくる。セイは目を逸らしたまま、何も答えない。
「知らないままで逃げるってんなら、好きにすりゃあいい。
 ……だがな。
 『我ら』に刻まれた『役目』は、簡単に逃げられるモンじゃねぇ。逃げりゃ逃げただけ、傷が増えるだけだ」
「……」
「ま、今ここであーだこーだと言っても聞きゃあしねぇだろうし。オレも、あちこち見て回らにゃならんから、今日の所は引き上げるが……」
 ここでシオンは言葉を切る。せせらぎの音がやけに大きく、その場に響いた。
「うだうだしてる時間は、ない。
 『桜』が咲けば、逃げる事はできねぇ。
 ……それまでに、覚悟決めな」
「……『桜』?」
 告げられた言葉の中の季節的に不自然な単語に、セイは一つ瞬いてシオンを見た。疑問を込めた視線にシオンは答えず、くるりと踵を返す。何かの花を模したらしい白く小さな飾りのついた紐で括られた銀の長い髪が、黒のコートの上で跳ねた。
「あ……」
「鎮まったんなら、お家に帰りな。頭が冷えた頃に、また来る」
 素っ気ない口調で言いながら、シオンは煙草を持った手を二、三度振って歩き出す。一方的な物言いにセイが何か言うよりも早く、シオンの姿は夜闇の向こうへと消えた。一人、取り残されたセイは立ち上がる事もできぬまま、銀髪の消えた辺りを呆然と見詰めていた。
「……『司』……『憑魔』……」
 声に出して、小さく呟く。全く『知らない』単語。なのに、それが何を意味するのか、何を示すのかは『わかって』いる。理屈ではなく、感覚が理解している。
「……わかん、ねぇ、よ」
 けれど、口をつくのは拒絶だった。認めてはいけない、受け入れてはならない、と自分の中の何かが叫んでいる。それが何かは、やはり、わからない。そしてそれが何であるか、を知るのも怖かった。
 どこまでも続く拒絶のループ。それが無意味と冷静に認識している部分もまた、自分の中に存在していて。内に生じている矛盾、それを振り払うようにセイは首を左右に強く振った。
「……オレ、は……」
 掠れた声で呟くのと同時に、軽いトーンの電子音が響いた。セイは数回瞬いた後、ポケットに手を入れて携帯を引っ張り出す。開いたディスプレイには、メールありの表示が出ていた。セイは震える手でキーを操作し、メールを開く。
『From:ミサ
 Sub:大丈夫?
 まだ、買い物終わらないの?
 あんまり遅くならないでね』
「……ミサ……」
 短い、けれど、こちらを案じているとはっきり伝わるメールに、セイは小さく幼馴染の名を呟いた。
「……かえら、ないと」
 携帯をポケットに戻しながら呟くと、セイはゆっくりと立ち上がった。身体の震えは、もう鎮まっている。走るのは覚束ないが、歩くのはできそうだった。
「しっかり、しろ、風原誓。お前には、やる事、あるだろ」
 一歩一歩、確かめるように踏み出しながらセイは一言一言区切るようにこう呟いた。
「父さんと、約束したんだから。だから……」
 帰るんだ、と。自分自身に言い聞かせるように繰り返しながら、セイは歩いていく。
 前に進む事に集中していたためか、或いは無意識の拒絶の表れか。自分の後ろに、付き従うように風が舞っている事にセイが気づく事はなかった。

「ほんとに、もう。一体、どこまで行ったのかしら」
 携帯のディスプレイに表示された『送信OK』の文字を確かめると、ミサは携帯を閉じてため息をついた。不安の滲むその声に、トウコがそうねぇ、と相槌を打つ。
「コンビニで誰か友だちと会って話し込んでるとか、その辺りじゃないの? 歩きだったんだし、そんなに遠くには行ってないと思うよ?」
 そんな二人へ向け、ユウがいつもと変わらぬ口調でさらりと言った。心配と不安で落ち着かない、と傍目にもわかるミサとは対照的に、こちらは落ち着き払っている。
「うん……そうかも知れない、けど」
「お姉ちゃんは、セイの事、心配しすぎ」
 でも、と言いかけるミサを遮り、ユウはきっぱりと言い切った。反論の余地のない一言に、ミサは困ったような笑みを浮かべる。
「でも……夏休み入ってから、おかしな事件、多いし。どこかの学校で、集団失踪があったっていうし……町内でも、何人か行方不明になってるじゃない?
 セイ、最近は帰りも遅いし、そういうのに巻き込まれたら、って思うと、やっぱり……」
 心配なの、と。言葉にされる事こそなかったものの、ミサの言いたい事はその表情が何よりも端的に物語っていた。その様子にユウは目を伏せる。ほんの一瞬、その表情に苛立ちめいたものが過ぎって、消えた。
「あ……ごめんね、ユウ。考えすぎなのかな、とは、自分でも思うんだけど」
 過ぎった苛立ちに気づく事はなかったものの、目を伏せる仕種から自分も心配をかけている、と覚ったミサは早口にこう言った。ユウは無言で首を左右に振り、それから。
「お姉ちゃんは悪くない。悪いのは、みんなが心配してるのにわかってない、バカセイ」
 きっぱりと言いきる。この一言にミサは僅かに眉を下げ、トウコは苦笑めいた笑みを浮かべた。
「本当、ユウくんの言う通りね。あの子と来たら、何でも一人で抱え込んじゃうんだから」
「トウコおばさままで……その通り、ですけど」
 やや大げさな言い回しのトウコの言葉にミサは困ったように息を吐くものの、しかし、否定のしようのないその内容にはぽつりと同意の呟きを漏らしていた。
(もっとちゃんと、話してほしいのに……)
 同時に過ぎるのは、以前から抱え続けている思い。この所のセイの異常の事もあり、それはミサの中でより強く、大きくなっていた。
「……お姉ちゃん」
 表情を翳らせるミサの様子に、ユウはきゅ、ときつく眉を寄せて姉へと手を伸ばした。しかし、その手はミサへと届く前に動きを止める。玄関の方から聞こえてきた音──外から鍵を開けてドアを開く音に、ミサが立ち上がって駆け出したからだ。
「……」
 取り残された形のユウは目を伏せて、ゆっくりと手を下ろす。下ろされた手はそのまま、きつく握り締められた。
「……ユウくん?」
 その様子に気づいたトウコがそっと呼びかける。ユウはちら、と言う感じでトウコを見た後、玄関の方へと視線を逸らした。
「セイ、帰って来たみたいだね」
 淡々とした口調でユウが呟いた、その直後に。
「……セイの、バカっ!」
 滅多に声を荒げないミサの大声と、乾いた音がリビングまで響いてきた。

 川沿いまで行った時も正直、どこをどう通って行ったのかはわかってはいなかった。冷静に考えると、誰かに見咎められる事もなくあそこまで行けたのは、凄かったのかも知れない。
 帰り道で度々見かけた警官の姿に、セイはどこか他人事のようにこんな事を考えていた。
 歩みを進めるにつれて心身は安定を取り戻し、住宅街まで戻ってきた頃には完全にではないものの、いつもの調子は取り戻せていた。もっとも、冷静になったらなったで、別の懸念も浮かんでくるのだが。
「……心配、かけてるよなあ」
 飛び出した時の状況を思い返すと、こんな思いが先に立つ。あの時は起きた事に動揺して、とにかく『離れる』事だけを考えていたから文字通り形振り構わずだった。それが周囲にどんな思いを抱かせたか、というのは、正直考えたくはない。
 だからと言って帰らない、という選択肢はなく。セイ自身、今は落ち着ける場所にいたい、という思いが何よりも強かったから真っ直ぐに家へと向かい。
「……」
 到着した玄関先で、それでも悩む事数分。本人だけが深刻な逡巡を経て、玄関を開けた。
「……あ」
 開いたドアの向こう。光に包まれた、見慣れたエントランス。
 当たり前のはずのそれは、言いようもなく強い安堵をセイに与えていた。
 帰って、来れた。
 ふと、こんな言葉が頭に浮かぶ。帰って来れた、だから、大丈夫、と。そんな事を考えながら、セイは光の中へと踏み込む。リビングの方から慌しい足音と共にミサが駆けて来たのはその直後だった。
「あ……ミサ」
 飛び出す前の事と先のメールが過ぎり、セイは一瞬、表情の選択に困る。しかし、その思案は直後に吹き飛んだ。
「……セイの、バカっ!」
 滅多に聞く事のない大声と、頬に伝わる衝撃と痛み。何が起きたのかの理解が遅れ、セイは二、三度瞬いた。
「えっと……」
「どこに行ってたの、こんな時間まで連絡もしないで! 今、夜間外出注意って言われてるの、ちゃんとわかってるの!? ほんとに、もう……」
 ぽかん、とするセイに向けミサは早口にこう捲くし立てる。その言葉といきなりの平手打ちは何よりも端的かつ明確に、ミサが怒っている、という事実をセイに伝えてきた。
「あー……えっと、その……」
 ミサの剣幕に押されたセイは、どう言おうかと言葉を探して口ごもる。けれど、言えそうな言葉は一つしか思いつかなかった。
「……ごめん」
 呟くような小声の謝罪に、ミサは開きかけていた口を一度、閉じた。珍しくつり上がっていた眉が下がる。
「もう……悪いと思うんなら……」
 心配させないで、と。続く言葉はごくごく小さなものだった。ぎりぎりで聞き取れたその言葉に、セイは困ったように眉を下げる。そんなセイの表情の変化にミサは僅かに目を伏せ、それから、はぁ、と一つ息を吐いた。
「本当に、無理はしないでね? ……明日も、バイトなんでしょ?」
 伏せた視線を上げて問いかける、その表情と口調はいつものミサのものだった。その奥に押し隠されたものの全てを把握することなどはできないが、自分を案じてくれているのはセイもわかっている。だから、セイはうん、と一つ頷いた。
「明日も、早いから。シャワー浴びて、もう寝とく。
 ……ほんと、ごめん。心配かけて」
「そう思うんなら、ちゃんと考えて! 言葉であれこれ言われるよりも、実行してくれる方がずっとずっと安心できるんだから」
 呆れたような口調で、しかし、ぴしゃりと言いきるミサに、セイはあはは、と乾いた声で笑う。笑うしかできなかった。ともあれ、開けたままだった玄関を閉めて戸締りをすると、セイは一先ずリビングへと向かう。
「……ただいまー……えっと……その」
 リビングに顔を出すなり向けられた視線──ユウの睨むようなものと、トウコの案ずるようなものに、セイはどう二の句を継ぐか、真剣に悩んでいた。とはいうものの、この状況で言える言葉など、限られているのだが。
「……ごめん。心配、かけて」
 言いながら、深々と頭を下げる。直球のこの謝罪に、トウコはふう、と大きく息を吐いた。
「謝るくらいなら、最初から心配かけないでちょうだい。どんなに言葉を尽くされるよりも、その方がずっとずっと、安心できるのよ?」
 優しく諭すトウコの口調と声は静かで、それ故の重さもある。セイはうん、と頷いて、顔を上げた。
「これから、ちゃんと気をつける、よ」
 途切れがちの言葉にトウコはよろしい、と言って穏やかな笑みを浮かべた。その笑みにほっとした直後、鳩尾近くに伝わった衝撃にセイは思わずぐぇ、と声を上げる。トウコと話している間に立ち上がったユウが、不意打ちで拳を一発、鳩尾に入れてきたのだ。
「ユ……ユウ?」
「言ったろ。お姉ちゃんに、心配かけんな、って」
 戸惑いながらの呼びかけに、返る声と視線は冷たかった。その冷たさにセイは言葉を失い、そんなセイをユウは冷たく睨んでいたが、
「……どうしたの、二人とも?」
 困惑を帯びたミサの声が聞こえると、視線を逸らしてリビングから駆け出して行った。
「セイ? ユウ、どうしたの?」
 階段を駆け上がる足音と、バタン、と乱暴にドアが閉まる音が響く中、ミサが戸惑いがちに問いかけてくる。セイはがじ、と後ろ頭を掻いて、えーと、と声を上げた。
「なんて言うか、その。怒られただけ、だよ。心配かけんな、って」
 大分端折ってはいるが大筋では間違いのない答えを返すと、ミサはそう、と言って一度階段の方を見やり、それから。
「それだけ、無茶してる、って事なんだからね? セイはいっつも自分だけで突っ走っちゃうんだから。もっと、回りよくみてね?」
「そうしてるつもり……なんだけど」
「つもり、じゃ意味ないの!」
「……はい」
 ぴしゃりと言い切られた一言に反論の余地はなく、セイはやや縮こまりながら頷き、その返事にミサは満足気によろしい、と言って笑う。やり取りを見守っていたトウコもくすくすと楽しそうな声で笑い出した。
 二人に笑われ、やや所在無いものを感じつつ、それでも。日常的なその雰囲気に、セイは強い安堵を感じていた。
(大丈夫、変わらない、変わってない)
 やや情けない表情で苦く笑いながら、心の中でこう呟く。
 けれど、それが儚い願いである、と。そんな冷たい認識もまた、心の中には存在していた。
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