11

 ──虚空に舞うは、二つの色彩。銀灰色と、真紅。
 無機質な照明の光の下、二つの色彩は鈍いながらも鮮やかに。

「……ちっ!」
 舌打ち一つ。爪を深く喰い込ませていたのが、仇になった。真紅に染まった
爪を引き抜いた所に襲い掛かる刃は容赦なく身を切り裂き、大気のうねりが身
体を後ろに跳ね飛ばす。
「ん、のっ……Reine Luft……Anfang……Verhaften Sie meinen Feind!」
 跳ね飛ばされつつ、それでもどうにか糸を起動させ、放つ。糸は少年の横を
すり抜け、とっさの事に対処しきれていないらしいカルラへと飛んだ。
「え、な……」
「大人しく、してろっ!」
 動転するカルラに怒鳴りつつ、糸を引き寄せる。直後、背に激しい衝撃が伝
わった。前後して、前からも衝撃。状態としては壁とカルラに挟まれた、とい
う所。大気の刃で斬られた所にはやや、大きすぎるダメージと言えるかも知れ
なかった。
「ったた……って、ちょ、孤狼! あんた、なんでっ……!」
「るせぇな……ダメージ減ったんだから、文句、言うんじゃねぇ……よ。それ
に……」
 続けようとした言葉は、痛みに遮られて熱い息に変わる。カルラはどこか案
ずるような視線を投げかけつつ、途切れた先を促してきた。
「それに……なに、よ?」
「反対側に吹っ飛ばれて気絶とかされると、動き難いんだよ……」
「…………」
 返した言葉にカルラの眉がまた、きつく寄せられる。面白くない──明らか
過ぎるくらい明らかに、表情がそう物語っていた。
「……アンタって、どこまで……」
「……なんだよ?」
「……面白みに欠けるのよっ!」
「あのなあ……っと!」
 そんな事言ってる場合か、と。言うよりも先に、手が動いた。銀糸が舞い、
飛来した鈍い色彩の槍を叩き落す。いつもならばなんという事もない防御の動
きだが、立て続けにダメージを受けた身にはそんな動作も重かった。
「面白いとか面白くねぇとか、そんな事、論じてる場合かよ……? こっちゃ
揃ってダメージ過多、あっちはまだまだ元気そう、と来てやがる……真面目に
考えねぇと、きっついぜ?」
 それでも表面上はそんな様子は窺わせる事もなく、アーベルは低い声でこう
告げる。カルラはそうよね、と小さく呟き、ふと目を伏せた。カルラ自身も先
ほどの大気の刃で傷を負っているらしく、ジャケットの下のキャミソールには
紅い色が滲んでいた。
「かくなる上は……非常手段を取るしかないわね。孤狼」
「……なんだよ?」
「ちょっと、動かないでね?」
「はぁ? お前、この状況で何……」
 仕掛けられれば、動かないわけにはいかない。今は少年の攻撃はやや緩慢に
なっているが、いつまでもこのままではいないのは容易に知れる。それ故の言
葉は、柔らかな感触と、血の味に遮られた。
「……っ!?」
 以前の目覚めのそれよりも深い、口付け。余りにも場違いと言えば場違いな
それへの困惑は、以前と同じ現象により、遮られる。
 引いていく痛みと、傷が塞がる感覚。困惑はあるが、さすがに二度目ともな
れば、何がそれをもたらすかの察しはついた。理屈はわからないものの、カル
ラとの接触が治癒効果を発生させているのだと。
 そう理解した事で治癒を求める本能が働いたか、それとも他に理由があるの
か。アーベルは求められるまま、口付けに応えていた。
「……んっ……お子様味覚のわりに、お上手ですこと……」
「それは、関係ねぇだろうが……」
 痛みが鎮まり、唇が離れての第一声にはさすがに不機嫌な声が上がりもした
が。この言葉に、カルラはくす、と楽しげに笑う。
「それにしても、もしかしたらと思ったら……ホントに、共振作用があるなん
てねぇ……驚いたわ」
「共振作用?」
「そ。あたしのヒーリングって、大抵は一方通行なんだけど。アンタとの接触
の時は、自分にも治癒効果が及ぶみたいね。
 ……波長が合う、ってとこかしら?」
「素直に喜んでいいのかどうかはさておき……ま、この状況では、有効……だ
なっ!」
 どことなく投げやりに言いつつ、アーベルは糸を操る。飛来した銀灰色の槍
が糸に弾かれ、落ちた。
「て、ちょっと、何よその言い方。
 こんな美人と、好相性の太鼓判押されて何か御不満?」
「俺にだって一応、相手選ぶ権利はあるぜ? っと、そんな事より……」
 どこまでも軽い口調でさらりと言いつつ、アーベルは槍を弾いた糸を引き戻
す。蒼の瞳が見据える先には、真紅を滴らせて立つ少年の姿があった。氷の瞳
は、今は色彩に似合わぬ熱を帯びてこちらを睨んでいる。アーベルはその瞳を
見返しつつ、カルラを離してゆっくりと立ち上がった。
「さあて、と。
 ……『熾天使』だか何だかしらねぇが……そっちの勝手な理屈で否定された
り、排除されたりする謂れは、こっちにはねぇんでな。
 そっちが、どうしても殺るってんなら……」
 ゆらり、と。力を帯びた糸が、周囲に揺らめく。
「俺は。
 ……俺の道を阻むものは、全てぶち破る。てめぇが天使だろうが神だろうが、
そんな事は知ったこっちゃねぇ」
 静かな宣が空間に響く。この言葉に、少年の口の端が笑むように歪んだ。
「……不良品の分際で。ボクに、敵うとでも」
「やってみなけりゃ、わからねぇ。そして、やらずに諦めるのはガラじゃねぇ。
 ……それだけの事だ」
「ふぅん……それなら、やってみるがいいさ。
 根拠のない自信が、『熾天使』たるボクに、通用するのかどうか……」
 低い言葉と共に、周囲の大気がざわめいた。物理的な大気流──ではない。
恐らくは少年の放つ強い念の力、それが周囲に干渉しているのだろう。
(念動のキャパシティでは、間違いなく負けてる、な……)
 ならば、取りうる手段は一つ。生まれつき身に宿したもう一つの力を使うの
み。
 否、むしろ。
 それを世界の『歪み』と称する少年に、その力を叩き付けたい、という思い
の方が強かった。
「……孤狼」
 跳ね飛ばされて開いた距離をどう埋めるか、そんな思案を巡らせている所に
カルラが呼びかけてきた。アーベルは振り返る事無く、なんだよ、と短く問う。
「一分で、足りる?」
 その問いに、カルラはこんな問いで返してきた。唐突と言えば唐突な言葉に
一瞬戸惑うものの、すぐにその意は知れて。
「……充分」
 言葉と共に、織り成されるのは不敵な笑み。そして、返されたその言葉にカ
ルラはにっこり、と相好を崩す。
「それ、じゃ」
 呟くように言いつつ、カルラはすい、と手を前に差し伸べる。それに呼応す
るように先に跳ね飛ばされた金色の輪が瓦礫の中から飛び出し、金色の鳥へと
形を変えた。
「……」
 少年の視線が、そちらへ流れる──それと、揺らいでいた銀糸が舞うのは、
ほぼ同時だった。

「……Tanzen Sie einen Faden!」
「ブリッツ、マルチアタック・フォーム、シフト!」

 空間に揺らめく二色へ向け、念を込めた言葉が向けられる。銀糸はそれを受
けて舞い、金色の鳥は一つ羽ばたいた後、光の球へと姿を変えた。光球は七つ
に分裂し、その一つ一つが先ほどよりも小型の鳥の姿を形作る。
「……小賢しいっ……!」
 舞うように迫る刃の銀糸へ向け、少年がつい、と手を差し伸べる。手のひら
の上で大気が陽炎のように揺らめき、それと共に糸に何か、不自然な重さがか
かった。
「……ちっ……念の、上書きかよっ!」
 自分のそれとは全く波長の異なる念動、その力が糸に圧し掛かる。アーベル
は素早く糸に向ける念を断ち切り、力を失くしたそれを手元に引き戻した。糸
を右手首に巻きつけ、一つ息を吐いてから、低く身構える。
「ブリッツ、スパイラルシュート!」
 少年の意識がアーベルへと向けられる、その僅かな隙。それをカルラが突い
た。カルラの言葉に従い、七つに分裂した金色の鳥たちが少年へ向けて嘴を突
き出しつつ降下する。
「賢しいと、言っている!」
 降下する金色を念動によると思しき壁で弾き飛ばしつつ、少年は苛立った声
を上げた。金色の鳥たちはそれに構う様子もなく、また跳ね飛ばされるのを厭
う様子もなく、次々と少年へ向けて突っ込んで行った。
「……っ!」
 五羽目が跳ね飛ばされる。それと同時に、アーベルは床を蹴った。
 六羽目が突っ込み、弾かれる。合わせるよに開くのは、銀色の四翼。
「……何を……?」
 乏しい灯りを遮る翼、それに気づいた少年がアーベルに視線を流す──七羽
目の突撃は、それと同時だった。意識が逸れていたためか、他に理由があるの
か、その一撃は念の壁を突き抜け、少年の肩を掠めた。
「……何だとっ!?」
 苛立ちを込めた声。少年の視線はアーベルから逸れ、自身に傷を負わせた金
色を憎々しげに追う。

 そこに生じる、ほんの僅かな隙──それを、四翼の銀狼は、見逃さなかった。

 響く、咆哮。
 蒼髪の青年の姿はそこにはなく、その姿は四翼を開いた銀の孤狼のそれ。
 世界の歪みが生み出したと言われる、『新種』。
 人にして人ならざるモノ、美しくもある異形の真なる姿が、そこにあった。

「な……」
 咆哮に上を見た少年の、氷の瞳が見開かれる。その動きは完全に止まってい
た。アーベルは躊躇いなく、少年へ向けて降下し、そして。

 鋭い牙が肩を捕らえ、ついで、前足の爪が、腹部を抉った。

 銀灰色の、六翼が揺れる。

「……き……きさ、まっ……」

 少年の掠れた声が耳に届き。

「……孤狼っ!」

 カルラの悲鳴染みた声の直後に、身体を何かが貫いた。

「ちょっと、まっ……冗談っ……」
 一連の動きを半ば呆然と見守っていたカルラは、呆然とこんな声を上げてい
た。
 銀翼の孤狼の四翼。それは、噂には聞いていた。滅多に見せる事のないとい
う、完全獣化。それだけでも呆然とするには十分だというのに。唐突に四翼の
銀狼を貫いた鈍い銀灰色の槍は、また、異なる衝撃で驚きを上書きしていた。
「……孤狼!」
 もう一度、叫ぶ。色味の全く異なる二色の銀、そのどちらも動く事はなく。
ただ、その下に滴り落ちる真紅の広がりが、緊張を張り詰めていく。
 その均衡を先に破ったのは、銀の四翼の動きだった。数度の羽ばたきの後、
アーベルは突き放すように少年から離れ、後退する。
「……ってぇ……」
 着地──というか墜落と同時に獣の姿は解け、同時に少年ががくり、と膝を
ついた。アーベルは口元の真紅を拭いつつ蒼の瞳で少年の動きを追う。拭うそ
れが少年のものか自身が体内から吐き出したものかは、定かではなかった。
「……歪みの、生み出せし……『新種』……」
 膝を突いた少年が低く、呟く。
「は……アルトゥルのお気に入り……なるほど、ね。
 確かに、お前は……アイツの、好み、かも、知れない、な……」
 途切れがちの言葉は、何処か楽しげな響きを帯びていた。
「……嬉しく、ねぇよ、その評価……」
 とはいえ、言われた内容はアーベルとしてはありがたくないものだった。吐
き捨てるように返したこの言葉に、少年はまた、笑う。
「……褒め言葉、だ。
 この歪んだ世界において、『神と言うべき位置にあるもの』に目をかけられ
ているのだから、な……光栄と思うがいい、さ……」
「……だから、言ってんだろうが。
 『神』だのなんだの……そんなものは、俺には、関係、ねぇ、ってな……」
 静かに、でも、ほんの僅かな苛立ちを込めて言い放つ。この言葉に少年は楽
しげに笑った。
「ああ……面白いな。
 いいだろう……お前たちは、壊さずにおいてやるよ。
 この、歪んだ世界で。
 歪んだ存在として。
 生き続けて見せるがいい。
 この世界に、全てに。
 己が存在を、認めさせて見せろ。
 ……不良品ではない、と言うならば、な」
 一頻り笑うと、少年は一転、静かな口調でこう言って立ち上がった。
「ふふっ……いい、退屈しのぎができた。
 それではな……『銀翼の孤狼』。
 期待外れでない事を、祈っておこう……『銀なる異形を束ねる者』セラフの
名において、ね」
「……黙って聞いてりゃ、訳のわからん事を……。
 誰かに指図される必要も、謂れもねぇんだよ。
 俺は、俺として生まれた。
 そして、俺として生きると決めた……それだけの事だ。
 お前が……お前らが、一体なんなのかも、興味なんかない。だから、勝手に
期待だの祈るだのするんじゃ、ねぇっ……!」
 苛立ちを込めた、宣。それに少年はまた、薄く笑い──直後、その姿が薄れ
て消える。文字通り掻き消えたその様子に、カルラがえ、と言いつつ瞬いた。
「……消えた……?」
「はっ……好き勝手やった挙句……さっさと帰りやがった……」
 呆然と呟くカルラに吐き捨てるように言った、その直後。
 視界が、揺れた。
「ちっ……さすが……限界、か……」
 カルラとの共振作用で大分ダメージは回復していたが、さすがに全快には至
ってはおらず。そこに重ねられた槍の一撃は、大きく体力を削り落としていた。
立て続けの負傷で、出血多量になりつつあるのも否定できない。
「て、ちょっと! 限界って、アンタっ!」
 呟きに気づいたカルラが素っ頓狂な声を上げる。が、それに答えるだけの体
力もないようだった。
「あ、こら! 一度ならず二度までも気絶してんじゃ──!」

 怒鳴るような声は、最後まで届かず。
 意識は闇の奥へと、落ちた。


← BACK 目次へ NEXT →