10

 ──かつては有機を求め、今はただ、無機なる空間。
 揺れる銀糸を、照明がぼんやりと浮かび上がらせる。中央の銀灰色と、対比
させようとするかの如く。

「……は。
 黙って聞いてりゃ、わっけわかんねぇ事を……」
 瞬間、場に立ち込めた静寂を経て、アーベルは低くこう吐き捨てた。
「『銀なる異形を束ねしモノ』だか何だか知らねぇが、んな一方的な理由に付
き合ってやる義理は、俺にゃないんでね。
 ……大人しく、消されてやるつもりはねぇよ?」
 低く言いつつ、距離を測る。
 先ほどのカルラへの執拗な追尾などから察するに、この少年も恐らくは強い
念動力の類を持っているのだろう。どこから、何が飛び出してくるかわからな
い相手、という意味では、多少やり難くもあるか──などと考えつつ、アーベ
ルは一歩、足を前へと踏み出した。
 少年の口元を、笑みが掠める。そこに浮かぶのは、嘲りか哀れみか。氷の瞳
にはただ、冷たい殺意──否、破壊の意思のみを宿して、少年は銀灰色の光を
灯した手をす、と上に上げる。
 ピン……と、張り詰める、空気。それを先に破ったのは。
「……Ein Faden geworden die Klinge!」
 鋭い声と、それに応じて刃に転じた糸の唸り。振り上げと振り下ろし、糸は
その二動作に従って銀灰色の翼の少年へと飛ぶ。迫るそれを少年はどこかつま
らなそうに見やり、軽く、翼を動かした。
 翼から放たれる、二筋の銀灰色の影。一筋は糸と真っ向からぶつかってキィ
ィンっ!という鋭い音を立て、もう一筋は糸の横をすり抜け、アーベルへと飛
ぶ。
「……っと!」
 とっさの判断か本能か、ともあれ、アーベルは糸を繰りつつ半歩、横へと動
く。直後に、シュッ、と音を立てつつ痛みと熱さが頬を掠めた。蒼の髪が数本
断ち切られ、大気中に紅と蒼が散る。 アーベルの頬を掠めたもの──羽根の
形をした、金属の刃はカッ!と音を立てて背後の壁に突き刺さった。
「ち……面倒な……」
 壁に刺さった物へと視線を投げつつ、アーベルは頬に浮かんだ真紅を拭う。
 念動誘導の飛び道具ほど、厄介なものはない。普通の軌道であれば余裕で避
けられるものが、思わぬ反転などで避けきれなくなるからだ。何より、どこか
ら来るかの予測がつかない、というのが面倒極まりない。
(……なら、使わせなきゃいい、か)
 勿論、それもそれで容易いことではないのだが。容易くなくともやらなけれ
ば勝機は掴めない、とわかっている以上、選択肢は決まっていた。
 壁に刺さった羽根に向けていた視線をずらす。その先に捉えるのは、金色の
雷光。カルラは金色の輪を手に低く身構えていたが、アーベルの視線に気づく
と小さく頷いた。どうやら、意図する所は同じ――と察すると、アーベルは改
めて少年を見る。
 一見すると武器の類いは持っていないようだが、それを『作る』術を持ち合
わせているのは先ほどからの動きからわかっている。そして、それを手を触れ
る事なく操れる事も。
(……ラインルフトが届くのと、向こうが武器を作り出すのと、どっちが早い
か、か)
 糸の乱舞の欠点の一つが、狙った動きに至るまでの時間的な空白。そのタイ
ムラグは念を込めているいないに関わらずに発生する。そのロスをどう埋める
か。それを思案しつつ、アーベルは室内に視線を巡らせる。
 かつて――と言っても、恐らくはほんの数時間前なのだろうが。とにかく、
この少年が訪れるまでは何かを培養していたらしき空間。あちらこちらに砕け
たガラス片が散らばり、部屋の端の方には半分残ったガラスの円筒らしき物も
見えた。円筒に残った溶液の中には、赤黒い塊のようなものが浮かんでいる。
 一見すると身体を丸めた人間の胎児のようにも見えるが、その身体には本来
人には在り得ぬもの──翼らしきものが見て取れた。
「……ああ。
 ここにいた連中はね、愚かにも『天使』を作ろうとしていたらしいよ」
 アーベルの視線の先に気づいたのか、不意に、少年が嘲りを込めた口調でこ
う言い放った。
「……『天使』?」
 その言葉に、アーベルは蒼の瞳を少年へと向ける。訝るような響きの声に、
少年はそう、と頷きながら口の端を釣り上げた。
「まったくもって、愚かなモノだよね。
 『天使』を創り出すなど……身の程を知れ、という話。
 ……挙句、止めておけ、という忠告を無視して出来損ないをどんどんとけし
かけて来るんだから、始末に終えないよねぇ?」
 処置なし、と言わんばかりに肩をすくめた後、少年は氷の瞳を一瞬だけ円筒
へと向ける。その視線を追うように、アーベルも円筒を見た。
 円筒の中の塊はまだ生きているのか、時折身動ぎをしている。その動きに合
わせ、こぽり、と溶液の中に気泡が浮かんだ。とはいえ施設が破壊され、おそ
らくは管理者も全滅しているこの状況ではその仮初の命も長くは続かないだろ
う。
 人の手により生み出される異能と、世界が生み出す異能。
 二つの存在に違いはあるのか、あるとしたらそれは何なのか。
 この場においては全く意味のない考えがふと過ぎるのを、アーベルは軽く首
を横に振る事で振り払った。今は、そんな事を考えている場合ではないから、
と。そう、気持ちを切り替えたアーベルは少年へと視線を戻す。
 少年は背の翼を時折気だるげに動かすものの、仕掛けてくる様子はない。こ
ちらが動くのを待っているか、あるいはこちらがどう動こうと返せるという余
裕なのか。どちらかと言うと、後者のようではあるが。
「……気にいらねぇ」
 小さな呟きを漏らした後、ゆら、と糸を揺らめかしながらカルラに視線を流
す。言葉を交わすでなく、何か合図を送るでなく、ただ、糸を揺らすだけの動
作の後、再び少年に視線を向け。
 一つ、息を吐き、そして、動いた。
「Tanzen Sie einen Faden!」
 鋭い声が大気を裂き、糸が舞う。低い軌道で舞う糸は足元の瓦礫や強化ガラ
スの破片を弾いて舞い上げ、少年めがけて叩きつける。
「ブリッツ、行って!」
 それとほぼ同時に、カルラが動いた。金色の輪がその手から離れ、こちらも
やはり、周囲の破壊の跡を礫として弾きながら複雑な軌道を描いて飛ぶ。
「……ちっ……」
 飛来する礫に少年が微か、苛立ちを表情に掠めさせた。灰銀の六翼が羽ばた
き、礫に念が向けられる。そこに生じる僅かな隙──狙い通りとも言うべきそ
れを、アーベルもカルラも、見逃しはしなかった。
「雷光、後ろ任すっ!」
「了解、孤狼!」
 飛び交う声。大きく跳躍したカルラは少年の後ろへと回りこみ、アーベルは
礫の乱舞の中、真っ向から、駆ける。
「……なにっ!?」
「Halten Sie einen Faden an!」
「ブリッツ、リターン!」
 再び響く、声。
 銀糸はその躍動を沈め、金色の輪は天女の手へ。
 そして、銀糸の主の手には──煌めく、獣の爪。
「……落ちやがれっ!」
 前からは、爪、後ろからは、金色の輪。
 鋭い切れ味を備えたそれらは六翼の少年を確実に捕らえ──そして。

 空間に、真紅と、そして、銀灰色が舞った。
 立ち込める、静寂──そして。
 
「……やった……か?」
 その静寂を、低い呟きが破る。
 手応えは、ある。文字通り掴んでいる。しかし、何故か違和感が消えない。
アーベルの反対側で円刃を突き立てているカルラも同じように違和感を感じて
いるのか、形の良い眉はややきつく寄せられていた。
(呆気なさ過ぎる……いくら、隙をついたって言っても……)
 こうまで容易く倒せるものなのか。ふと、そんな疑問を浮かべた矢先。
「……も……」
 不意に、掠れた声が耳に届いた。誰の声かは確かめるまでもなく、そして、
そこに込められた響き──問うまでもなくそれと察する事のできる苛立ちは、
違和感を助長する。
「……歪みの生み出した……不良品如きが……ボクに……」
 少年の、伏せられていた目がアーベルを捉える。そこに浮かぶのは、はっき
りそれとわかる憤り。違和感が危機感に変わる──が、やや、遅かった。
「やばっ……離れろ、雷光っ!」
「……『熾天使』たる、ボクに、触れるなど……身の程を知れえっ!」
 カルラに警告を飛ばすのと、少年が絶叫するのとはほぼ同時。直後、少年を
中心として大気が激しく渦を巻いた。
 渦巻く大気は鋭い刃となり、激しい風鳴りの音と共にアーベルとカルラへと
襲いかかる。

 先の一撃で舞った銀灰色の羽根と、新たに散った真紅が、絡み合うよに周囲
に舞い散った。


← BACK 目次へ NEXT →