09

 ──破壊された空間、床を染め上げるのは様々なあか。そしてその中央には、
微かに煌めく銀灰の六翼。

 『世界軸破砕』を経て、形骸化したものは多々ある。
 中でも筆頭のような言われ方をするのが『信仰』、或いは『宗教』の類だっ
た。
 生れ落ちて以来の異能者ほどその傾向は強いらしく、カルラもまた神など信
じるつもりは毛頭ない。それ以前に、神の存在を説くような者に会った事もな
かったのだが──それはさておき。
「……天使?」
 ラボラトリエリアの中央。ほぼ原型を止めぬ状態にまで破壊しつくされたそ
の場所で、悠然と広がる銀灰色の翼。それを負った少年の姿は、ごく自然にそ
の言葉を口にさせていた。零れ落ちたその一言に、少年はどこか愉しげな笑み
を口元に掠めさせる。はっきりそれとわかる嘲りを帯びたその笑みに、カルラ
は自然、気を引き締めた。
「……あんた、何者?」
 ラボラトリエリアへゆっくりと踏み込みつつ、カルラは低い声で少年に問う。
この問いに、少年は愉しげな笑みを浮かべたまま緩く首を傾げた。一見すると
無邪気な仕種。しかし、そこに彩りを添える笑みは――冷たい。
「そんな事、聞いてどうするのかな?」
「……どうするのか、を決めるために聞きたいんだけど?」
 からかうような口調で投げかけられる問いに、カルラは低い声でこう返す。
 銀灰色の六翼を持つ少年。一度、裏通りの噂に聞いただろうか――などと考
えていたその矢先。
 ヒュ、と。音を立てつつ、風が切れた。
「……っ!?」
 生存本能のなせる業か、カルラはとっさに右へと跳んでいた。同時に飛び立
った金色の鳥が輪へと形を変え、着地と同時にその手に収まる。カルラが輪を
手にするのと前後するように、入り口のすぐ横の壁に歪に捻れた槍を思わせる
細長い金属塊が突き刺さった。
「なっ……」
「ふぅん……出来損ないの『新種』にしては、良く動くねぇ」
 唐突に現れたそれに思わず息を飲むカルラとは対照的に、悠然としたまま少
年は呟く。その背の翼がふぁさ、と軽く動くと、金属塊は銀灰色の光を散らし
た後、一瞬で塵と化して崩れ落ちた。
「……あんた、一体何者なのよっ……」
 半ば無意識の内に左足を後ろへと引きつつ、カルラは再度少年へと問う。そ
の問いに、少年はくすくすと声を立てて笑った。
「別に、何者でもいいだろう? 教えた所で、無意味だ」
「……無意味?」
 さらりと返された言葉にカルラは眉をひそめる。少年はそう、無意味、と頷
きながら、右手をす、と前へ差し伸べた。その手の上に、銀灰色の光が灯る。
「歪みの気まぐれな作用の生み出したモノ……不完全な、出来損ないたち。
 見てて、イライラするんだよね……だから」
 歌うよに紡がれる言葉に応ずるように、銀灰色の光が形を変えて行く。
「だから……何よ?」
「だから、この場で、壊す。
 壊すモノに理を説くなんて、時間の無駄じゃない?」
 さも当然、と言わんばかりの口調で少年はさらりとこう言いきった。口調の
軽さとは裏腹に、瞳に宿る光は冷たい。そこから読み取れるのは、こちらを害
する事に何ら躊躇いない、という意思だ。
「理屈は通ってるけど、壊す、とか決定付けないでほしいわねぇ……こっちだ
って、唯々諾々と壊されるつもりなんてないんだから」
 軽く身体を屈め、いつでも動ける状態を維持しつつカルラは更に言葉をつい
だ。それに対し、少年はつまらなそうに鼻を鳴らしただけで無造作に手を振る。
銀灰色の光は先ほどと同じ槍のような形を取り、真っ直ぐカルラへと飛んだ。
「っと!」
 短い掛け声と共に、カルラは身体を捻って槍をかわす。直後に金髪が緩く波
打ち、その身体が前方への飛び込みからくるりと一回転を決めた。着地点に手
をつき、そこを基点に更に身体の向きを変え、横方向に飛びずさる。その一連
の動きを、銀灰色の捩れた槍が追いかけた。
「……しつっこいっ……!」
 フェイントを絡めた動きにも追いすがる槍に、思わずこんな言葉が口をつく。
「ふぅん、逃げ足は達者なんだ……でも、どこまで行けるかな?」
 華麗な回避を繋げてゆくカルラを目で追いつつ、少年は足元に落ちていた強
化ガラスと思しき透明な破片をつま先で蹴り上げ、ぱし、と音を立てて手に取
った。所々に紅い色彩のこびり付いたそれを、少年は無表情に握り潰す。パキ、
という澄んだ音が響き、それに呼応するようにカルラを追う槍が無数の細い槍
に分散した。
「……ちょっ!」
 大きくバックジャンプして槍との距離を開けた、その矢先の分裂にカルラは
目を見張りつつ上擦った声を上げる。いくらなんでも、これは普通には避けら
れない。そして、防御行動を取るにしても限度がある。
「ヤバっ……」
 思わず上げた声が耳に届いたのか、少年の口元が笑みの形に歪んだ。その笑
みに苛立ちを感じつつ、なんとか距離を開けて──と更に後退しようとしたそ
の矢先、足が何かに取られた。するり、という滑る感触の後、体勢が大きく崩
れる。
「……っ!」
 こんな時に、と声を上げるより早くカルラはその場に尻餅をつき、その隙を
逃すまい、とばかりに槍が迫る。打ち付けた腰の痛みに文句を言う間すらなく、
カルラは右手に通していた金色の輪を前に翳した。できるかどうかはともかく、
槍を打ち落とせれば──と思った、その矢先。

「Tanzen Sie einen Faden!」

 空間に響く、鋭い声。
 ヒュっ、と、甲高い音を立てて大気が引き裂かれ、鮮やかに舞う糸が分裂し
た銀灰色の槍をことごとく弾き返した。
「……え……?」
「……なんだ?」
 カルラと少年と、それぞれが訝るような声を上げる中、全ての槍を弾き落と
した糸はヒュンっ!と音を立てつつ、ラボラトリエリアの入り口の方へと飛ん
でゆく。その動きを追うように二つの視線が向かった先──そこに立つのは、
周囲に銀糸を舞わせる、蒼い影。
「……孤狼!」
「……なぁにやってんだよ、っとに」
 どことなく、安堵したような響きを帯びた声を上げるカルラに蒼い影、即ち
アーベルはどこか呆れたような言葉を返す。この切り返しに、カルラは露骨に
むっとした様子で眉を寄せた。
「それって、こっちのセリフよ! もう少し、早く来てもいいじゃないのよ?」
「るっせぇなあ……後顧の憂いは、きっちり断った方がいいんだから、少しの
手間で文句言うなよ」
「だからって……ああんもう、ホンっと、気が利かないっていうか、面白くな
い男よねぇ、あんたって」
「大きなお世話だっつーの。
 んで、何がどーしてどーなってんだ?」
 ぶちぶちと文句を連ねるカルラをやや強引に遮って、アーベルは低くこう問
いかける。蒼の瞳は、ラボラトリエリアの中央に佇む銀灰色の翼の少年に向け
られていた。
「……糸を操る……孤狼。
 ふぅん……アルトゥルのお気に入り、か」
 蒼の瞳を向けられた少年は、どこか無機質な口調でこう呟く。氷を思わせる
色彩の瞳は、その色彩よりも更に冷たい光を宿してアーベルを見つめていた。
「ふふ……出来損ないの始末をしに来た先で、面白いものに会うものだね……。
 ただでさえ気に入らない『新種』の中でも、特に気に入らないモノに会える
なんて……」
 くすくすと笑いつつ、少年はす、と右手を前に差し伸べる。
「アルトゥルには悪いけれど……始末させてもらうよ、『銀翼の孤狼』とやら。
 このボクの……『銀なる異形を束ねしモノ』の意に沿わぬ銀を身に帯びしモ
ノなど、この世界にはイラナイ」
 冷えた声が淡々と告げる。それにあわせるように、少年の掌に銀灰色の光が
灯った。 


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