08

 ──広がるのは、ただ、闇。見通せぬその向こうには、蠢く気配。

「……厄介、だな」
 天井に渡された鉄骨の上に膝をついて下を見下ろしつつ、アーベルは小さく
呟いた。
 カルラが最初に通る予定だったという資材エリア。むき出しの鉄骨がはり渡
され、いくつものコンテナが並べられたそこは、確かに潜みつつ進むには好都
合なルートだと思えた。
 しかし、相手が侵入者がいる、という前提で動いている場合、身を隠しやす
いそこは自然、警戒レベルなども高い訳で──。
「蹴散らしていけなくはない数だが……さて」
 眼下を巡回するクリーチャーを見やって呟く。恐らく、強行突破で抜けてい
くのは、容易い。だが、それでは消耗も大きいだろう。『何事もなく帰れる』
という可能性が限りなく低い──否、ないに等しいであろうこの状況において、
それは良策とは思えなかった。
「……ま、正面突破がきついなら」
 搦め手で行くのは、いつもの事。割りきりさえつけてしまえば、後は動くの
みだった。
「Reine Luft……Anfang.
 Erstarren Sie……」
 小さな声で呟き、目覚めさせた糸を硬化させる。その状態で気配を押し殺し、
時を待った。数体がグループになっているクリーチャーたちが巡回してくる。
その一組が潜んでいる鉄骨の下、そこを通り過ぎようとするのと同時に。
「Verhaften Sie meinen Feind……」
 静かに紡がれる言葉、それと共に糸が舞った。糸は音もなく動き、三体横並
びに歩くクリーチャーの真ん中の一体の首に絡み付く。それでもすぐに締め上
げる事はせず、アーベルは上へと視線を走らせた。頭上には、複雑に張り巡ら
されたパイプの群れ。その内の一本、恐らくは水道のそれと思われる物へと糸
の反対側の端を投げ、引っ掛ける。
「巧くいったら……ご喝采、ってな!」
 どことなく楽しげな口調で言いつつアーベルは後ろを確認し、そのままバッ
クジャンプで跳んだ。ぐん、と糸が引きつる感触と重さが手に伝わる。かかる
重さは言うまでもなく、糸を絡めたクリーチャーの重量だ。アーベルが糸を締
め上げつつ下へと降りた事で、必然的にクリーチャーは糸に吊り下げられる形
となる。傍目には突然宙に浮き上がったようにも見えるその様子に、並んで巡
回していたクリーチャーが動揺したような声を上げた。
「っつーか、重てぇよ、このっ……」
 悪態をつきつつ、コンテナの陰に潜んで糸を繰る。吊り下げの基点にしてい
るパイプがギシギシと音を立てて軋むが、その音はクリーチャーたちの声に紛
れていた。糸に掛ける力の強弱を変えつつ、アーベルはタイミングを測る。
 騒動を聞きつけたらしい他のグループが集まってきた。
 一組、二組。
 まだ、早い。
 そう、思いはするが、基点にしているパイプがどれだけ持つかも分からない
のが現状だった。
「後、一つか、二つ……」
 それだけでも、それなりの数は巻き込めるはず、と。そう思い直しつつ、ア
ーベルは糸を繰る両手に力と力を込めた。
 通常であれば両肩が抜けるか、或いは手が千切れかねない重量の制御。それ
を可能としているのは鍛えた体と、そして、意思によって制される念の力。
 更に辿ったなら、『新種』であるが故の何かもあるのかも知れないが──今
は、それは意識には入れず。
「……Ein Faden geworden die Klinge」
 ある程度の数が集まったその瞬間、糸を刃へと変え、思いっきり、引いた。
 ギシェエエエエっ!
 吊り下げられたクリーチャーが絶叫し、紅が薄闇の内に飛び散る。それと共
に響く、金属が断ち切られる音。次いで、激しい水音が空間に響き渡った。
「っしゃ、あったりぃ!」
 狙った通りの展開に、アーベルは声を上げつつ糸を繰る。
 吊り下げる糸を刃へと変え、更にそこにクリーチャーの重量も加味して張り
巡らされているパイプを断ち切り、混乱を煽る。ただそれだと言ってしまえば
それまでの、単純な策。しかし、それはクリーチャーたちに混乱をもたらすに
は十分すぎた。
 水の無差別に降り注ぐ空間を糸が舞う。それまで捉えていたクリーチャーを
解放した糸は、既に意思の力を通さずに引き戻され、それを右手に巻き取りつ
つ、アーベルは床をけり、コンテナを経由して再び鉄骨の上へと飛び乗った。
 クリーチャーの内の何体かはこちらに気づいたようだが、勢い良く噴出す水
と、吊り下げられていたクリーチャーが落下した事で発生した下敷きという形
での同士討ちで混乱しているらしく、こちらに対して何かする余裕はないらし
い。もっとも、地上での近接戦を想定しているらしきクリーチャーに、鉄骨の
上のアーベルを攻撃する術はなさそうではあるが。
「念には念を……ってな。
 Ein Faden geworden die Klinge……」
 口の端を笑むような形に吊り上げつつ、アーベルは糸を再び刃へと転じる。
直後に鉄骨の上を駆け、混乱の場の少し先へと進んだ所で、足を止めた。
「って訳で、こいつはおまけだ……とっときな!」
 天井の高い資材スペースに響く、鋭い声。直後に糸が大きく振られた──そ
れまでいた、鉄骨へ向けて。
「……Schneiden Sie es ab!」
 一際鋭い、声。糸に常より強い念が込められ、振り切られる。それは鋭い唸
りを伴いつつ鉄骨へと食い込み、頑健なはずのそれを切り裂いた。
「もいっちょ!」
 掛け声は、気迫を維持するためか自身の鼓舞か。ともあれその声とともに振
り下ろされた腕を一度後ろに引き、先ほどよりずれた位置へと再び振り下ろす。
煌めく銀色が黒光りする鋼を断ち切り、そして。
 落下音と金属音、それに交差する絶叫を打ち消そうとするような水音。
 そんなある種の混沌になどすぐ興味を失ったかのように、アーベルは糸を手
元へと戻して前へと進む。
 目的地は近い。頭に叩き込んだ見取り図との一致もあるが、それとはまたど
こか、何か違うよな感覚が、それを告げていた。
「……この感じ……」
 どこかで、と呟きつつ、鉄骨から飛び降りる。
 先に進むにつれ、ざわめくような、絡みつくような感覚はどんどん強くなっ
ていった。

 空間包む薄暗闇、それを引き裂き舞うのは金色。
「……はっ!」
 低い、気合。それと共に、冷たい床すれすれの位置を金色の輪が走る。低く
保った態勢から一気に標的と定めたクリーチャーへと接近したカルラは、右手
の輪を斜め上へと振り上げつつ一気に身体を伸ばした。
 紅の軌跡を引く金の輪と、金色の髪が薄闇に映える。
 切り上げの後、くるりと優雅なターンを決めたカルラはすぐさま駆け出し、
返る紅を絶妙に避けつつ次の標的の懐へ飛び込んだ。
「ほらほら、遅い、おそーい」
 軽い言葉と共に、金色の輪が水平に突き出される。薄い外見に似ず鋭い刃は、
クリーチャーの喉元深くに食い込み、また紅を散らした。その飛沫をカルラは
軽いサイドステップで避け、ついた左足を軸にくるり、回る。
 攻撃から攻撃へ、一つ一つの繋がりは舞さながら。もっとも、見入ろうもの
ならば生命を対価に要求される、危険な舞ではあるのだが。
「さぁて、と……そろそろ、真面目に行かないとならないかしらねぇ?」
 前方と後方、それぞれに展開するクリーチャーの数を数えつつ、カルラはど
こか楽しげな呟きを漏らした。す、と、手にした金色の輪が上へかざされる。
その動きに、クリーチャーたちはぐるる、と低い唸り声を上げて身構えた。
 カルラの口元を、笑みらしきものが掠める。輪を手にした右手が外側へ向け
て大きく弧を描くよに動き、胸の高さまで降りた所で急速に左へと切り返され、
そのまま勢い良く振り切られる。同時に、その手から金色の輪が離れた。手首
の捻り、それによって勢いをつけられた輪は唸りを上げて大気を引き裂き、そ
れと共に前方に立つクリーチャーたちを切り裂いて行く。
 金色が導く、鮮やかな紅の乱舞。それを追い、駆け出すカルラを後方のクリ
ーチャーたちが追う。
「……ブリッツ、リターン!」
 前方が開けた所で、カルラは唐突に声を上げた。それに呼応するように金色
の輪は上へと抜け、金色の鳥へと形を変えてカルラの元へと戻ってゆく。上へ
と伸ばされた手に触れると鳥は再び輪へと転じ、それを確りと握りつつ、カル
ラは踏み出した右足を軸にくるりとターンを決め、
「あんまりしつこいと……嫌われるわよっ!」
 軽い言葉と共に後ろへ向けて輪を投げる。大気を引き裂く音が響き、それを
追うように、絶叫と紅の乱舞が空間を埋めた。
「ま、もっとも……」
 それらが鎮まるのと前後して、金色の鳥がふわりと肩へ戻ってくる。どこと
なく無機的なその翼を撫でつつ、カルラはぽつりと呟いた。
「しつこくなくても、好く気はないけどねぇ?」
 くすり、と。零れるのは場には不釣合いとも取れる、悪戯っぽい微笑み。倒
れて呻くクリーチャーたちにばいばい、と手を振ると、カルラは目指す方へと
走り出した。
「……? 大分、静かになってきてるわね……」
 追手も、前方に立ちふさがる者もいない状況に、カルラは走りながら訝るよ
うな声を上げる。
「孤狼の方に、数が回ってるのかしら……?」
 『銀翼の孤狼』。その名の知られ方を鑑みれば、それも十分考えられるが。
どうにも、それだけとは思えない何かをカルラは感じていた。
「ちょっと、厄介かもねぇ」
 はあ、とため息をつきつつ、こんな呟きを漏らす。早すぎる迎撃、戦闘用ク
リーチャーの巡回。余り考えたくはないが、目的地には何か、ロクでもないも
のが待ち受けているのではないだろうか。思わずそんな事を考えた矢先、目に
入ったものにカルラは思わず足を止めていた。
「ちょっ……なによコレっ……!?」
 目に入ったのは、紅。それも、クリーチャーのそれではなく──恐らくは、
人の。
 何故『恐らく』なのかと言えば、それの源となっているものがはっきりとし
た原型を止めていないから、なのだが。ただ、わずかに認識できる部分と、身
に纏っていたと思しき白衣の存在から人、それも恐らくはここの研究スタッフ
であった事は容易に察する事ができた。
「……孤狼……じゃ、ないわね」
 倒れた死体の状態を冷静に分析しつつ、カルラは低く呟いた。『銀翼の孤狼』
は無駄な殺しはしない事で知られているし、何より死体についた傷跡とは結び
つかない。つまり、進む先にこの惨状を成したものが──人を容易く穴だらけ
にできる力の持ち主がいる、という事になる。
「あぁん、もうっ……厄介そうねっ」
 愚痴るように呟きつつ、カルラは慎重に歩みを進めた。立ち込める静寂が重
苦しい、と思うのと、前方に歪に引き裂かれた扉が見えるのとは、どちらが先
か。そこが、目的地としていたラボラトリエリアなのはすぐに理解できた。
「……さて……どうしようかしら?」
 このまま一人で進むか、アーベルと合流するまで待つか。状況的には後者が
妥当なのだが、彼が先行していたならそれは時間のロスになる。ならば……と、
カルラが考えたその矢先。
「おやおや……まぁだ、誰かいるの?」
 どことなく楽しげな声が、ラボラトリエリアの中から投げかけられた。この
場には不釣合いとも取れる少年の声だ。
「隠れてても無駄だよ? 用があるなら、入ってきたら? ま、もっとも……」
 ここで少年の声は一度途切れ、くすくすと楽しげな笑い声が空白を埋める。
「もっとも……キミがこの『場所』に用事があるんだったら、無駄足だったけ
どねぇ?」
「……なんっ……」
 『無駄足』。その短い言葉に、カルラはラボラトリエリアの中を覗き込み。
「……ちょっ……」
 破壊された空間の中に佇む銀色の影に、息を飲んだ。 


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