05

 ──忘れようとしても忘れられないもの、それはあの日の空の暗さ。

「……ここにいて、ね。いい子だから」
 連れて来られたその場所で、告げられたのはその言葉だった。
 『いい子だから』。その言葉は、いつからか頻繁に言われるようになったも
の。何故かはわからなかったが、その言葉に素直に従うと、安心してもらえた
から。いつからか、その言葉を伴う懇願には逆らわなくなっていた。
 否、むしろ、逆らえなくなっていた、と言うべきかも知れない。
 頷いて受け入れて従って。
 そうしなければ、自分は、この人たちと共にいられない。
 そんな、漠然とした不安が、いつの間にか芽生えていたから。
 だから、その時も逆らわなかった。こくり、と素直に頷いて。直後に違和感
を感じたのは、向けられる視線が寂しげだったからか、それとも、『いい子だ
から』という言葉が使われるようになってからはされなかった抱擁をされたか
らか。
 幼い頃の記憶は定かではなく、ただ。

「……生きて」

 温もりが離れる瞬間、短くこう言われた事だけは、やけにはっきりと覚えて
いた。

 そして、一人、取り残された。
 置き去りにされた――という意識はなく。今にも雪の降りだしそうな空の下、
廃墟の一画に座り込んでいた。
 どんどん冷えて行く空気と、暗くなる周囲と。
 それに不安を感じながら、それでも。
 来るはずもない迎えを、ただ、待っていた。
 そして――。
「……この子供か?」
「ああ……『情報』の通りなら間違いない」
「なんでもいいさ、さっさと連れて行こうぜ」
 聞き覚えのない声がすぐ側から聞こえたのは、待ちくたびれの疲れからうつ
らうつらし始めた矢先だった。ぼんやりと開いた目に映ったのは、物々しい出
で立ちの男たち。彼らの交わす言葉の意味はさっぱりわからないものの、ただ
この男たちが自分を何処かに連れて行こうとしている事だけは、やけにはっき
りとわかった。
 そして――それは、嫌だ、と。
 この場所を動いたら、『迎え』に来てもらえない、と。
 真っ先に考えたのは、それだった。
 だから、逃げた。
 結果的にその場を動く事になるとか、そんな事を考える余裕はなく。
 ただ、連れて行かれないように、と。
 それだけを考えて。
 走っている間に自分の姿が変わっている事にも、その時は気づいてはいなか
った。その頃の獣化は無意識に起きる現象だったから。
 だから、わかってはいなかった。
 向けられる言葉の震え、『いい子だから』という懇願の意味。
 当然、見知らぬ廃墟に置き去りにされる理由も、こうして追われる理由も。
 幼い自分は、何も知らず、また、理解もせずに。
 ただ、言葉にできないものに怯えていた。
 怯えて、恐れて、ただ逃げて、そして。ふと気がつけば、行き止まりに追い
込まれていた。
「ちっ、手こずらせやがって……」
「だから、眠らせちまえばよかったんだよ!」
「仕方ねぇだろ、薬の類は使うなってのが依頼側の意向なんだからよ」
「メンドくせぇな……とにかく、さっさと捕まえちまおうぜ」
 言葉と共に近づく足音。逃れる道は、ない。それでも、捕らわれるのは嫌だ
った。捕まったら、『迎え』に来てもらえない──意識にあるのは、そんな一
念。当然というか、追っ手たちはそんな思いに気づく事は無く、手を伸ばして
くる。もっとも、気づいたとて彼らがそれを気に止める事はないのだろうが。
「ほら、大人しくしろ、わんころ。じっとしてりゃ、痛い思いは……」
 しなくてすむ、と。続けようとしたのは、そんな類の言葉だったのだろうか。
いずれにしろ、続く言葉はひゅんっ!という鋭い音により、途切れた。それと
共に駆ける銀色の軌跡が声をかけてきた男の手を打ち据える。僅かに遅れて、
鮮やかな紅が空中に舞い散った。
「な、何だっ!?」
「なんだ、じゃあねぇっての。
 ……あんたら、人ん家の庭先で何してやがる」
 上擦った声に答えるのは、鋭い声。声の主は路地の入り口付近に立ち、鋭い
視線を男たちに向けていた。
 その周囲に煌めく銀の螺旋。
 それは、物凄く、綺麗なものに思えた。
 だから、だろうか。その銀色が舞い、紅を散らすのを見ても、恐ろしい、と
いう気にはならず。
 追ってきた男たちが口々に何か毒づきながら姿を消し、銀を操っていたまだ
若い男がこちらに近づいてきても、逃げようという気にはならなかった。
「大丈夫か? しかし、なんだってこんな……ん?」
 膝をついた男の言葉は、途中で途切れる。その視線が、背に向いている事に
は気づかなかった。
「……なるほど……こいつ、ウワサの……」
 小さな呟きの後、男は一つ息を吐き。
 それから、そっと手を差し伸べてきた。
「……一緒に来るか、チビ助。このままだと、寒さで凍えちまうぜ?」
 それと共に投げかけられた言葉。それに、最初は首を横に振った。ここから
離れてはいけない──意識は未だ、来ない『迎え』との約束に縛られていたか
ら。
「このままここに居ても、何にもならんぜ? またさっきの連中に追い回され
るかも知れん」
 それでも、首を縦には振れなかった。
 それは目の前の男への無意識の恐れか、それとも、『迎え』を信じたい気持
ちがそうさせたのかは、今となっては全くわからないけれど。ともかく二度の
拒絶に、男は大きくため息をついた。
「……チビ助、生きたくないのか?」
 それから、それまでとは打って変わって静かな口調でこう問いかけてくる。
「このままここにいたきゃ、いてもいい。だが、恐らくさっきの連中みたいな
のに追い回されて……その内、捕まる。そうなったらお前、お前のままじゃ生
きていけんかも知れないぜ?」
 静かな言葉、それの意味する所はほとんど理解はできていなかった。
 ただ──また、追われる。そして、捕まるというのは、嫌で。
 どうすればいいのかわからず、戸惑いながらおずおずと上げた視線を受け止
めた瞳は──静かで、そして、どこか温かく思えた。
「……一緒に、来るか?」
 投げかけられた、問い。
 それに対する、答えは──。

「……ん……」
 過去への彷徨、それが途切れるのと前後して、虚空に落ち込んでいた意識が
少しずつ現実へと戻ってくる。
 意識と共に、戻るのは感覚。それは、すぐ近くの温かさと柔らかさを感じと
らせた。
「ん……誰だ、こら……ちゃんと、ひとりで……」
 無意識の内に上がるのは、惚けた声。夜中に夢見が悪かったり寝ぼけた弟分
や妹分が寝床に潜り込んで来る、というのは日常良くある事だったから、つい
それを諌める言葉が口をついたのだが。
(……って……あれ?)
 直後に感じたのは、違和感。子供たちが潜り込んでいるにしては触れる感触
はふわりと柔らかいし、何より、自分は『家』を後にして『仕事』に来ていた
のではなかったかと。そして、依頼されたターゲットであるクリーチャーを倒
し、それから……。
「……っ!」
 かなり遅れてそこに思い至るのと同時に、アーベルは文字通り跳ね起きてい
た。直後にずきり、と身体が痛む。
「っつ……」
 その痛みに、思わず呻くような声を上げた時。
「……ん〜……って、あれ……?」
 どことなく惚けた声が、すぐ隣から上がった。アーベルは痛みを堪えつつそ
ちらへ視線を向け、
(……誰……だ?)
 声には出さずにふとこんな事を考えていた。正確には声を出す余裕も無いの
だが、それはさておき。
「あふ……ああ、気がついたの……って、まだ治りきってないみたいねぇ」
 痛みを堪えるアーベルとは対照的に呑気な声を上げつつ、温かさと柔らかさ
の正体──隣に寝ていたまだ若い女はゆっくりと身を起こした。長く伸ばした
金色の髪が、動きに合わせてゆるりと流れる。乱れ気味のそれを手櫛で軽く整
えると、女は小首を傾げるようにしつつアーベルを見つめ、そして。
「ちょっと、動かないで」
 短く言った次の瞬間、全く予想外の行動に出た。特に痛む部分、つまり貫か
れた辺りを抑える手を半ば強引に離させ、自身の腕をアーベルの首に投げかけ
る。傍目には、恋人に甘えて身を寄せる仕種に見えなくもない。
「……って……」
 いきなりなんだよ、と問う事はできなかった。まだ声を出すのが苦しい、と
いうのもあったが、それ以前に。
 唇が塞がれてしまっては──声を出すのは、さすがに、無理だった。
 言葉で説明し難い事態、というものには良く直面しているアーベルだが、さ
すがに見知らぬ女に添い寝されたり起き抜けに唇を奪われたり、というのは過
去にはなく。意識を失う直前の状況と照らし合わせても、本気で訳がわからな
い、というのが正直な所だった。取り乱さずにすんだのは恐らく、もう一つ訳
のわからない事態が発生していたからこそだろう。
(痛みが……治まって、く?)
 唐突な口付けの直後から、身体を苛んでいた傷の痛みがすっと鎮まって行く
のが感じられた。傷の痛みだけではなく、身体に残っていたぼんやりとしただ
るさも抜けていくような心地がする。二重に訳のわからない状況にアーベルは
きょとり、と瞬いていた。
 やがて痛みは完全に鎮まり、女はゆっくりと唇を離してアーベルを見つめる。
その表情がどことなく不満げ──と、思ったその矢先。
「ちょっとお……こんな美女に添い寝されてた上に、目覚めのキスまでもらっ
といて、何にも反応ナシって、どういう事なワケ?」
 上目遣いで睨むように見上げつつ、女は露骨にむっとしたような声でこう言
ってきた。どうやらどことなく不満げ、どころか、多大に不満であったらしい。
「……どういう、って言われてもな……何か特別な反応、期待してたワケじゃ
あねぇんだろ?」
 その様子に思わず突っ込みで返すと、女はそうだけどさあ、と言いつつ首に
投げかけた腕を解いた。
「それにしても、もう少し驚くとか、せめて心拍を上げるとか。反応の仕方っ
てものがあるじゃないのよ。
 ……っとに……『銀翼の孤狼』も、案外つまんない男ねぇ」
 ぶつぶつと言いつつ女はアーベルから離れてベッドから降りる。動きに合わ
せて揺れる金髪が、空間に差し込む光を弾いて煌めいた。
「悪いが、そいつは大きなお世話ってもん……それはそれとして、ここは? 
……俺は、確か……」
 荒野でクリーチャーを倒し、『Schwarzes・Meteor』の『総帥』を名乗る男
と戦って深手を負い──文字通り、一矢ならぬ一糸報いた後の記憶が、ない。
それだけにここがどこか、そして、この女が何者なのかは皆目検討もつかなか
った。
「ここは、あたしが今拠点にしてる場所。
 近場の荒野で騒ぎが起きてるみたいだから、様子に見に行ったら、あんたが
死にかけてたんで、乱入して拾わせてもらったのよ」
 運ぶの、苦労したんだからね、と言いつつ、女はサイドテーブルの上のバン
ダナを手に取り、それで髪を結い上げた。
「乱入……って、なんでまた?」
「そぉねぇ……言うなれば、気まぐれ? それに……」
 大雑把な説明に更なる疑問を投げかけると、女は楽しげにくすり、と笑って
アーベルを振り返った。
「あんたには……『銀翼の孤狼』には、個人的にも興味があったし。
 ……あたしが今抱えてる仕事にプラスになるかな、とも思ったからね」
「……仕事?」
「そ、仕事……あ、そう言えば自己紹介がまだだったわね。
 あたしは、カルラ。カルラ=ランディール」
 にっこり、と。一見すると無邪気に微笑みながら、女──カルラは、自分の
名を告げた。 


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