04

 ――日射しに温もりを帯びて行く、青の空。

 そこへ向け、不意に飛び立った鳥を追うように、二匹の犬がほぼ同時に顔を
上げた。
「クヴェレ、ヴィーゼ、どうした?」
 唐突な動きにレオは怪訝そうな声で犬たちの名前を呼び、二匹の犬は顔を見
合わせた後、不安げな鳴き声を上げてレオを見る。
「……どうしたんだよぉ?」
 その様子が更に不安を掻き立て、レオは思わず情けない声を上げていた。
 二匹の犬はアーベルが拾って来たもので、彼によく懐いていた。そのクヴェ
レとヴィーゼが不安を示す――と言うのは、嫌な予感を感じさせる。
「……なぁ……大丈夫、だろ?」
 答えが返る事はない。わかっていても、思わず問いを投げていた。それに返
るのはいつになく力のない鳴き声だけで――膨らむ不安に、レオはぎゅ、と唇
を噛み締めた。
「アル兄……」
 『仕事』に向かう直前の、どことなく張り詰めた様子がふと蘇る。行かせて
良かったのか。今更ながら、そんな思いが過った。もっとも、レオが止めたと
ころでアーベルが止まるとは思えないのだが。
「……大丈夫……だよ、な?」
 空を見上げつつ、レオは小さく呟く。その呟きに答えるものはなく――ただ、
風が緩く、流れるのみだった。

 何が起きたのか、それに対する理解はすぐには状況に追いつかなかった。
 衝撃と痛み、熱さと冷たさ。それから、存在そのものが引きずられるような
――奇妙な感触。
(……なん……だ?)
 最後に感じたそれ、その感触にだけは逆らわなくては、と。そう感じたのは、
内に宿した獣の本能故か、他に理由があるのか。ともあれ、アーベルは自分を
何処かへ引き込もうとするかのようなその感触に全力で抗った。
「……ほぅ。『魂喰い』に『耐えた』か」
 どれほどの時間が費やされたのかもわからない攻防の後、男がぽつり、とこ
う呟いた。直後にずるり、と。音として例えるならばそんな感じで、身体の中
の異質な冷たさが抜けて行く。それとほぼ同時に、足の力が抜けた。身体を支
えるもの無くしたアーベルはがくり、とその場に膝をつく。
「ぐっ……き、しょ……」
 掠れた声と共に、喉の奥から込み上げてきた真紅を吐き出す。吐き出したそ
れと、貫かれた傷から溢れ出した同じ色彩が砂に落ち、黒ずんだ染みを描いた。
「この……てい、ど、で……」
 突いた右手で身体を支え、左手で滑る傷口を押さえつつ、アーベルは掠れた
声を上げる。言葉自体は、男に、と言うよりは自分自身に向けられていると言
えた。
 ここで倒れる訳には行かない。ここで倒れるのは敗北を意味し、それは即ち
『約束』を破る事に繋がる。
 そう、自分自身に言い聞かせつつ、アーベルは顔を上げて男を睨むように見
た。
「……まだ、それだけの力があるか……よほど生命力が強いのか、それとも、
精神的に鍛えられているのか……」
 そんなアーベルの様子に、男はどことなく感心したような声を上げる。深紫
の瞳には、ごく僅かながら驚愕らしきものも見受けられた。
「いずれにせよ……お前は、良いな。実に興味深く、飽きぬ」
「……かって……ぬかす……じゃ、ね……」
 見下ろす視線と共に向けられる言葉に、アーベルは振り絞るようにこう返す。
現状、できるのはそれしかない、とも言うのだが。
 糸を繰る事も獣化する事もできず、倒れ込まずにいるのが精一杯――誰が見
ても絶体絶命と言うであろうこの状況にあっても、蒼の瞳の覇気は失われては
いない。既に視界は霞み、男の表情も構えもはっきりと捉える事はできてはい
ないが、しかし。
(誰が、大人しく……諦めて、たまるかっ……)
 自分は、帰らなくてはならない。そう、『約束』した。誓いとしての朱花こ
そまだ誰にも託してはいない――否、未だに誰にも朱の紋様を受け継がせては
いないからこそ。何としても戻らなくては、と言う意思は強かった。
「……くっ……」
 呻くような声を上げつつ、アーベルは四肢に力を入れる。痛みと共に傷の滑
りが増し、鉄錆に似た味が喉を過ぎた。霞んだ視界が大きくぶれ、視点が少し
上に上がる。
「ほぅ。まだ、動くか」
 膝を突いた姿勢から立ち上がるアーベルに、男は愉しげな声を上げた。笑う
ような響きを帯びたそれは癪に触り、アーベルはぎり、と歯を食いしばりつつ、
男を睨む。
「……Reine Luft……Anfang……」
 掠れた声で、言葉を紡ぐ。それに応じるように、右手に握ったままの糸がぴ
くり、と震えた。
(まだ……動く……)
 自身の血に触れて紅を帯びた糸の震えに、真っ先に浮かんだのはこんな考え
だった。
 まだ動く、まだ動ける。ならばどうするか。答えは、一つ。
(なら……全力で……ぶち抜く、だけだっ……)
 今出せる『全力』がどれほどのものかはわからないが、それでも、その全力
を持って意思を貫くのがアーベルの流儀だった。
 精神を集中し、糸に力を伝えていく。糸の震えに気づいた男の表情を一瞬だ
け険しさが過り、次の瞬間、それは愉しげな笑みへと取って代わった。
「……どこまでも、楽しませてくれるな……『銀翼の孤狼』」
 呟きと共に、男はゆっくりと剣を構える。
 場の緊張の高まりを示すが如く、対峙する二人の周囲に静寂と緊張が張り詰
めた。

「……う〜ん」
 そんな緊迫した空間を見やりつつ、唸るような声を上げる者が一人いた。い
や、正確には一人と一羽、と言うべきだろうか。対決の場を見下ろせる岩の上
に、肩に金色の羽の鳥をとまらせたまだ若い女が座り、何事かぶつぶつと呟い
ている。
「妙に騒々しいんで見物に来てみたけど……本気、ワケわかんないわね、コレ。
 ……とは、言うものの」
 呟きの後、女は岩の上に立ち上がる。トップで結い上げたクセの強い金髪が、
ふわりと揺れた。
「ほっとくのもどうかと思うし……『銀翼の孤狼』を引っ張りこめるなら、あ
たし的には美味しい……か」
 呟きの後、女はす、と手を上にかざす。肩に止まっていた金色の鳥がばさり、
と音を立て飛び立ち――次の瞬間、形を変えた。金色の鳥は、同じ色の輪へと
姿を変え翳した手に握られる。
 握りの部分以外は外周に沿って鋭い刃を備えた輪。戦輪、と呼ばれる類の武
器に近いようだが、それにしては大きさがやや半端かも知れない。
 何れにしろその武器と、手にした女の出で立ち――飾り気のないキャミソー
ルにショートパンツ、ややオーバーサイズ気味のジャケットを羽織り、足回り
はロングブーツ、と言う格好の間には多少、ズレのようなものがなくもないが。
「ブリッツ、頼むよ!」
 鋭い声と共に、女はそれを躊躇い無く、投げた。狙うは対峙する二人──ア
ーベルと男の、ほぼど真ん中。回転しつつ金色の軌跡を引くそれを見送ると女
は岩から飛び降り、その裏側に止めてあったジープを急発進させた。勢いのい
いエンジン音が静寂を打ち破り、そして。
「……む」
 飛来する金色の輪に、先に気づいたのは男の方だった。視線がアーベルから
逸れ、文字通り大気を引き裂く輪へと深紫の瞳が向く。
 そこに生じる僅かな、本当に僅かな、空白。限界状態になり研ぎ澄まされた
感覚はそれを的確に、捉えた。
「Schneiden……Sie es, und werden Sie……die……scharfe Klinge!」
 途切れがちに紡がれる言葉、それに応じて糸が、舞った。それとほぼ同時に
金色の輪が唸りを上げて飛び込んでくるが、糸を繰る事にのみ集中していたア
ーベルの眼中にはそれは入らず、男の方だけがそれに反応した。
 下げられていた剣が金色の輪を弾き飛ばそうと、上へ向けた弧を描く。が、
金色の輪は剣に触れるよりも早く金色の鳥に形を変えて急上昇した。剣は対象
を捉え損ね、男はほんの僅か、体勢を崩す。その一瞬を、糸の乱舞が突いた。

 紅を帯びた銀がしなり、それとは異なる真紅をほんの僅かながら、散らす。

「……なにっ……」
 腕を掠めた衝撃は相当に予想外だったらしく男は上擦った声を上げ、伝わる
手応えにアーベルは僅かに笑む。
 だが──そこで、限界が訪れた。
 大量の出血による身体負担と、念動力の連続行使による精神負担、そのどち
らも限界を大きく越えていた。力をなくした糸がはらり、と砂の上に落ち、ア
ーベルはその場に崩れ落ちる。
(ちっ……ここまで、かよ……)
 そんな愚痴めいた言葉を最後にアーベルの意識が途切れるのと、砂を文字通
り巻き上げながら走るジープが場に突っ込んできたのはほぼ同時だった。
「……騒々しいな……まったく」
 後ろに飛びずさり、突っ込んできたジープとの距離を開けつつ男は一人ごち
る。運転席から飛び出した女はちらりとそちらに視線を投げるとにこり、と笑
って見せた。
「ごめん遊ばせ、『総帥』閣下。『銀翼の孤狼』の身柄は、この『雷光天女』
が預からせていただきますわ」
 何処となくわざとらしい口調で言うや否や、女は意識を失ったアーベルをか
なり強引かつ、乱雑にジープの中へと引っ張りこむ。直後に上空から金色の鳥
が舞い降り、それを合図とするかのようにジープは再び急発進した。
 男は、特に何か言うでなく、また女の行動を阻止するでなく──アーベルの
放った銀煌乱舞で裂かれた左腕と、黒の隙間から滲む紅をちらり、と見た。
「ふ……あの状態から、私に手傷を負わせる、か……」
 エンジン音が遠ざかり、再び風の音のみが響くようになった荒野に小さな呟
きが零れ落ちる。男はゆっくりと、ジープの走り去った方を見やり、くく、と
小さな笑い声をもらした。
「……まったくもって……興味深い存在だな……『銀翼の孤狼』アーベル=シ
ュトゥルムヴィント」
 零れた呟きは不意の砂塵に紛れ、それが過ぎた後にはいつものその場所と変
わらない──否、クリーチャーの屍が無造作に転がる以外には異変らしきもの
の見られない荒野だけが広がっていた。


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