03

 ──少しずつ、夜明けへと近づく空の下。立ち込めるのは、重苦しい静寂。

「……アルトゥル=ウルリヒ……『Schwarzes・Meteor』の、『総帥』……?」
 告げられた名を、アーベルは小声で繰り返した。
 アルトゥル=ウルリヒ。その名を知らぬ者は、恐らくいないであろう人物。
年端も行かぬ子供でも、『総帥』という言葉とそれが何を意味しているかは知
っている──否、教えられる。
 『世界軸破砕』の影響によって変異した世界を統括しようと試み、漆黒なる
流星──『Schwarzes・Meteor』を設立した者。そして、現在世界の頂点に立
っている、と言っても過言ではない。
 そんな人物が目の前にいる──と言われても実感らしきものはなく、自然、
アーベルの声は訝るような響きを帯びていた。
「そう……ふむ、疑っているようだな」
 その響きと、探るような蒼の瞳に、アルトゥルを名乗った男は楽しげな口調
でこう返して来た。この言葉に、アーベルはそりゃ当然、と即答する。
「『Schwarzes・Meteor』の『総帥』なんて大物が、こんなとこに一人でいる、
なんて、普通に考えたら信じられねぇっての。
 まして、アンタが『総帥』だとしたら、一体どんだけ若作りしてんだ?」
 彼の組織の設立は、二十年近く前。その設立者となれば、それ相応の年齢に
達しているはずだ。しかし、目の前に立つ金髪の男は自分より三つか四つ上程
度の年齢にしかアーベルには見えず、その部分の差異が男の名乗りを額面通り
に受け取らせるのを妨げていた。
「……目に映るモノだけを真実と見なすか、『新種』」
 アーベルの言葉に、男は口の端を僅かに吊り上げながらさらりと言う。その
中の『新種』という言葉に、アーベルの表情を険が過ぎった。
「別に、見えるものだけが真実とか思っちゃいない……ただ、見えねぇモノ、
知らねぇモノは判断に使えねぇから、省くだけだ。
 それと……俺の名前は、『新種』じゃない……アーベル、って名前がちゃん
とある」
「そうか、それは済まない事をした」
 アーベルの訂正に、男は全く調子を変える事無くさらりと返して来た。謝意
を込める気など毛頭ない事は、その口調と表情から容易に伺える。その態度に
強い苛立ちを感じつつ、アーベルは一つ、息を吐いた。
「……んで?」
「……で、とは?」
「俺に、なんの用なんだよ?」
 いきなり剣を突き立ててきた以上、穏便な用件ではないだろう、と思いつつ
アーベルは低く問いを投げる。
(……こいつが、本物の『総帥』だとしたら……いや、そうじゃなくても……)
 一戦終えて消耗した状態では、明らかにこちらが不利だ。そして、この男が
自らの名乗る通り『Schwarzes・Meteor』の『総帥』だとしたら──今のコン
ディションでは、不利どころの騒ぎではないだろう。
 ならば、どうするか。恐らくはこの場から引くのが得策ではあるのだが、そ
れも難しいような気がしていた。
(ったく……なんでこうも、嫌な予感ってのは当たるんだよ……)
 心の奥底で愚痴を零しつつ、アーベルは足元の状態を確かめる。状況に応じ
て、すぐに動けるように、と。
 対する男は、投げられた問いにふ、と口元に笑みを掠めさせた。何処となく
愉しげな冷笑は、端整と言える容貌に良く似合う。
「大した用件ではない……ただ、お前に興味があってな」
「興味だぁ……?」
「そう……世界の歪みより生じし、新たなる力を持ちし者……そして、我らの
『遊戯』の勝者にして、その突破者。興味を抱くには、十分すぎる理由だと思
うが?」
 僅かに首を傾げるようにしつつ、男は愉しげにこう言った。その言葉に、ア
ーベルは露骨に嫌そうに顔をしかめて見せる。
「はっ……好き勝手言ってくれるぜ。
 だけどな、生憎、俺はそんな興味に付き合ってられるほど、ヒマじゃないん
だよ。暇潰しのタネなら、他当たってくれ」
 言いつつ、ゆっくりと、足を一歩後ろへ引く。半ば砂に埋もれた裸足の足は、
既に獣のそれに転じていた。
「つれぬな……だが生憎、私の方でも興味を抱けそうなモノは、他にないので
な」
 露骨な嫌悪も何処吹く風、といった様子で男は笑う。一見すると全くの無防
備──しかし、その身を取り巻く気は鋭く、隙らしきものは全く伺えない。
「それこそ、俺の知った事じゃ……」
 その隙の無さをどう崩すべきか思案しつつ、アーベルはす、と身体を低く構
え、
「……ねぇってんだよ!」
 言葉と共に思いっきり足元の砂を蹴り上げた。同時に翼を広げて空へと舞い、
砂を蹴り上げた後の不安定な態勢を強引に立て直す。
 対する男は唐突に巻き上げられた砂にも驚いた様子はなく、余裕の態のまま、
手にした剣を横へと振るった。ヒュン、という音と共に大気と、そして砂が断
たれる。
「見事なまでの、平行線だな。
 ならば、私は私の思うようにやるまでの事」
「……はっ……どーせ最初っから、人の話なんざ聞く気、なかったんじゃねー
の?」
 愉しげな言葉に吐き捨てるように答えつつ、アーベルは男との距離を開けて
着地する。その言葉に、男はまた、笑った。
「それは、お前も変わるまい? 『新種』……いや、『銀翼の孤狼』」
「そりゃ、当然……俺は、俺の思うまま。相手がなんだろうと、束縛される言
われはないんでね」
「どこまでも自由に、己が思うままに生きる……か。
 ……若いな」
 呟く刹那、男はどこか眩しげに目を細め──直後に、動いた。黒と金が風に
揺らめく。
「……んなっ……」
(速いっ!?)
 文字通り一瞬で詰められた距離に息を飲みつつ、アーベルはとっさの判断で
上昇する。それに僅かに遅れて振るわれた剣が、足の下の大気を薙いだ。
「あっぶねっ……」
 知らず上がる上擦った声に男はにやり、と笑いつつ、振り切った剣を返し、
上へ向けて弧を描くように振るう。しかし、刃がアーベルを捕らえるには遠い。
一体何を、という疑問の答えは、直後に響いたビュっ!という鋭い音と大気の
振動と、そして。
「……っ!? なんっ……」
 唐突に腹部を打ち据えた衝撃によって出された。予想外のダメージに態勢が
大きく崩れ、アーベルは砂の上へと落ちる。それでも着地の直後に後ろへと跳
躍し、少しでも距離を開けるのは忘れなかった。
「なんだよ、今のっ……」
 けほ、と咳き込みつつ、衝撃を受けた辺りに手を触れる。外傷はないが、内
側には大きなダメージが通っているような気がした。
「……ほう。私の剣気をまともに食らっても、まだ動けるか」
 呼吸を整えるアーベルを面白そうに眺めつつ、男は僅かながらも感心したよ
うな口調でこう言った。
「……剣……気? ちっ……飛び道具かよっ……」
 そしてその言葉から、今受けた攻撃の内容は大体察する事ができた。原理は
わからないが、剣を介した気弾、或いは魔法の類を叩き込まれたのだろう。
(ちっ……厄介だな。今のがどれだけ飛ぶかにもよるけど……)
 到達距離によっては、飛んでこの場を離脱する、というのはかなり難しいだ
ろう。更に言うなら、今まともに食らったのもかなりのダメージとなっている。
恐らく、最も飛行速度を上げられる完全獣化は不可能だろう。ならば、どうす
るか。引く余地がない以上、アーベルが選べる道はごく限られる。そして自身
の信条と照らし合わせるならば、道は、ただ一つ。
(……後ろがないなら、前へ)
 前へと進み、障害を打ち破る。相手の力を考えたならそれは無謀以外の何物
でもないが、しかし、引ききれずに撃ち落とされるよりは格段にマシと思えた。
 何より――一方的にやられたまま逃げるのは、やはり、性に合わない。
 やられたら倍にして返す、と、容易く諦めない、は、自己信条の中でもアー
ベルが特に重きを置くものだった。
 男の様子を伺いつつ、一つ息を吐く。喉を通る呼気は常とは違う感触を帯び、
それが体内の異変を端的に物語っていた。肋以外もやられてるか、と考えるも
ののその思考はすぐさま頭の隅に追いやり、右手首の糸へと意識を凝らす。
「……Reine Luft……Anfang.
 Ein Faden geworden die Klinge」
 低い呟きに応じるように、糸がざわめく。男はそれに気づいているのかいな
いのか、剣を手に悠然とアーベルの様子を眺めていた。そこから感じられるの
は、明らかな余裕。その態度に苛立ちを感じつつ、アーベルは糸へと念を込め
て行く。
「Ich konzentriere das Bewutsein……」
 込められる力、それに呼応するように糸は銀の煌めきを纏い、風にその粒子
を散らした。
「……Reine Luft, ich werde der Sturm und Zore……」
 続き、紡がれる、言葉。それに応えるのは、荒野を素知らぬ顔で吹き抜けて
いた風。風の流れはアーベルを慕うようにその周囲に渦を巻き、その様子に男
はほう、と感心したような声を上げた。
「なるほど……シュトゥルムヴィントの名は、伊達ではない、と。
 これも、『新種』としての力か……」
 風の流れがかき乱す金の髪の下、浮かぶのは愉しげな笑み。男はゆっくりと
剣を握る手に力を込める。
「……Strumwind Schneiden Sie es!」
 それとほぼ同時に、アーベルが動いた。翼を畳みつつ駆け出し、一気に距離
を詰めた所で力を解き放つ言葉を紡ぐ。
 糸に自身の念の力をありったけ注ぎ込み、ターゲットの周囲の大気流に強引
に介入して局地的な暴風域を発生させ、その衝撃と糸による連続斬撃を合わせ
て叩き込む技。消耗の大きさから滅多に使う事のない技だが、今は全力で当た
らなくては、という思いは使用を躊躇わせはしなかった。
 乱舞する、糸と風。それが織り成すのは鋭い刃の嵐。その領域に囚われたな
ら逃れる事は叶わない――通常であれば。
 だが、今回に限っては、相手は『通常』という領域を大きく越えていた。
「……良い攻撃だが……弱いな」
 口元に微か、嘲るような笑みを浮かべつつ、男は手にした剣をすぃ、とかざ
す。直後に刃の暴風がその周囲に達した。風が、長く伸びた金の髪をかき乱す。
男は笑みを浮かべたまま、悠然と剣を握り直し、
「……遅い!」
 短い一言と共にそれを突き出した。突きの一撃は風の、そして糸の間隙を的
確に刺し貫きアーベルへと向かう。
「……なっ……」
 抜かれた、と。意識が認識するのと、身体を衝撃が貫くのとは、ほぼ同時だ
った。


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