02

 ──荒野を吹き抜ける風と共に、咆哮が響き渡る。

「……Tanzen Sie einen Faden!」
 その咆哮に重なるように、鋭い声が響いた。直後に舞う、銀の軌跡。使い手
の念を受け、その意に沿って変質し、舞う糸は紡がれた言葉のままに乱舞を織
り成した。今は刃の形をとる糸の乱舞は振り下ろされた爪の一撃を弾き、紅を
散らす。
 再び上がる、咆哮。それは、先ほどよりも強い憤りの響きを帯びて。その響
きにアーベルは舞い散る紅をバックステップで避けつつ、ふ、と笑んだ。
「……上等」
 この程度で怯まれちゃ面白くない、と。口の中で呟くのと同時にアーベルは
地を蹴り、黎明の空へと跳んだ。
 先ほどの爪の持ち主──蛇さながらのひょろ長い体躯を砂塵の色の鱗で覆い、
竜を思わせる頭部を具えたそのクリーチャーは、低く唸りつつ真紅の瞳でその
動きを追う。一見すると、サンドワームなどと呼ばれる竜型のクリーチャーの
一種のようだが、爪を具えた前脚を持っている所からしてその亜種か突然変異
の新種かのどちらかだろう。
 こういうモノは得てして予想外の能力を持っている事が多いため、それなり
の実績を持つ者に駆除の依頼が回される。それはそれで、妥当な選択なのだろ
うが、しかし。自身もまた『人間の亜種』、或いは『突然変異の新種』と言え
るアーベルにとっては、ほんの一欠片、複雑なものがなくもない。
 もっとも、そんな感傷は生きるため、という一言によって簡単に押し込めら
れてしまうのだが。そうでなければ生きていけない事は、他の誰よりもアーベ
ル自身がよくわかっていた。
 だからこそ、その動きに迷いは欠片も見られない。
 跳躍の頂点から、クリーチャーとの距離を測る。クリーチャーの体躯の大半
は、荒地の砂の下に潜っている。見えている部分から判断するなら、潜ってい
るのは尾の部分。このクリーチャーの全長がどれほどかは一見しただけでは判
断はできないが奇襲を食らう可能性は見ておくべき──などと考えつつ。
「Halten Sie einen Faden an……」
 短く言葉を紡ぎ、糸から意識を離す。力を失い、ふわりと落ちるそれを素早
く返した右の手首にしゅるりと巻きつけつつ、アーベルは意識を自らの内に眠
る銀へと向けた。
 空に響く羽ばたきの音。銀翼が広がり、アーベルは更に上へと高度を上げる。
「よっと!」
 軽い掛け声と共に、靴が明後日の方へと飛んだ。クリーチャーの真紅の瞳が
一瞬、ぎょろりと動いてそれを追う。
 そこに生じる、ほんの僅かな隙──それを逃す必然はなく。
 大気を打つ、銀の翼。急降下のもたらす勢いを生かし、アーベルは一気にク
リーチャーとの距離を詰めた。繰り出す右の手は、人ではなく鋭い爪を具えた
銀の獣のそれ。明け方の冷たい大気を引き裂くそれは、降下する銀翼を映す真
紅へと躊躇いなく突き出される。

 静寂、響く、咆哮。

 再度舞い散る、先ほどよりも大量の紅を、アーベルは上昇でやり過ごそうと
するが、
「……っ!?」
 それよりも一瞬早く横合いから襲ってきた衝撃に弾き飛ばされた。真紅を浴
びるのは避けられたものの、ほぼノーガードのところに叩き込まれた衝撃と吹
き飛ばしのもたらした圧力に一瞬、息が詰まる。意識も一瞬だけ朦朧とするも
のの、辛うじて気絶する直前で踏みとどまった。しかし、まともな受身をとる
には僅かに時間が足りず、そのまま地面に叩きつけられる。
「……ってぇ……」
 下が砂地だったのは、不幸中のなんとやら、と言ったところだろうか。墜落
の衝撃は大半が緩和され、アーベルは砂を撒き散らしつつ身体を起こした。
「中々……やってくれんじゃん……」
 口に入った砂を吐き出し、低く呟く。口元に浮かぶのは、不敵な笑み。対す
るクリーチャーは砂の中から突き出した長い尾を揺らしつつ、低い唸り声を上
げている。今の一撃は、この尾によるものだったらしい。どうやら、考えてい
た可能性が的中したようだ。
「とはいえ、いつまでも遊んじゃいられねぇんでね、こっちも」
 ばさり、と翼を大きく羽ばたかせ、羽にまとわりついた砂を弾き飛ばす。す、
と低く身構えながら距離を測るアーベルの様子に何かを感じたのか、クリーチ
ャーは低く唸りつつ尾を砂の中に潜らせ、上体を砂地に押し当てるように低く
伏せた。
 ヒトと、クリーチャーと。
 それぞれの『突然変異体』の間を風が吹き抜ける。
 夜明け間近の荒野からしばし、それ以外の音が消え失せた。

「……」

 対峙するその様子を崖の上から見下ろす影もまた音一つ立てる事無く、静か
にそこにあった。その視線はアーベルに向けられているものの、集中している
ためかそれとも影の気配消しが巧妙なのか、はたまた気づいた上で放置してい
るのか。理由はどれとも言えないが、とにかく、アーベルはそちらに意識を向
ける事無く、ただ、目の前のクリーチャーに集中していた。
「……Eines!」
 不意の声が、静寂の均衡を打ち破る。銀の翼が大きく羽ばたき、そして、蒼
が駆け出した。
 砂を蹴る足は、機動性の高い獣のそれ。常より俊敏な動きで知られるアーベ
ルだが、この状態の時の瞬発力は特筆に価する。翼の生み出す揚力、それによ
り砂上を駆ける際の不安定さを補いつつ、アーベルは一気にクリーチャーとの
距離を詰め。
「Zwei!」
 砂から伝わる微かな震動を捉えるのと同時に、大きく跳躍した。
 直後に、アーベルのいた場所の砂が大きく爆ぜる。砂を巻き上げつつ現れた
のは、先ほど砂中に没したクリーチャーの尾だ。跳躍したアーベルは翼を繰り、
均衡を保ちつつその尾を蹴って更に高く跳び、そして。
「……Drei!」
 空中でくるり、一回転しつつ、その身を銀の獣へと転ずる。
 空に響く、咆哮。クリーチャーも応えるように咆哮し、伏していた身を起こ
した。
 降下する銀翼の孤狼と、上昇する砂竜。
 一瞬の交差は、砂竜がその牙に孤狼を捕え、終わった──かに、見えたもの
の。
「Reine Luft,Anfang!
 Schneiden Sie es, und werden Sie die scharfe Klinge!」
 鋭い牙は空を切り、鋭い声が響いた。直後に、銀色の軌跡が舞う。
 標的を捉え損ねた事と与えられる衝撃に困惑するクリーチャーの、未だ光を
失わぬ目に映ったのは、糸を繰る銀翼の青年の姿。その困惑にアーベルは僅か
に口の端を吊り上げ、笑むような形を作った。
 何が起きたのか、恐らく、クリーチャーには理解が及ばなかった事だろう。
端的に言ってしまえば、交差する瞬間に翼以外の変化を解き、クリーチャーの
鼻先を蹴って距離を開けたという、ただそれだけなのだが。
「……Ein Faden abgeschnitten es!」
 再び響く、声。それの声と伝わる念、そして腕を上へと振り上げる動作に応
じて、乱舞していた糸が一筋の煌めく弧を描く。
「……おちろっ!」
 鋭い声と共に、振り下ろされる腕。その動きに従い、糸はビュンッ!という
唸りを上げながらクリーチャーの額へと振り下ろされ、念を込めた一撃を叩き
込んだ。
 通常であれば、硬い鱗に覆われたクリーチャーに斬撃を与える事など在り得
ない糸の一閃は鱗を叩き割り、その頭蓋へと達する。
「……Sprengen!」
 その手応えを感じたアーベルは糸に込めた念の力を衝撃波と変え、クリーチ
ャーの内側へと解き放った。
 硬い甲殻や鱗に覆われたターゲットに対するために編み出した、文字通り一
撃粉砕の技。内側へ打ち込んだ糸を解して衝撃波と変えた念の力を直接急所へ
送り込み、文字通り吹き飛ばす。
 相応の疲労は受けるものの、しかし、打ち込んでしまえばほぼ無効化のでき
ないこの技は大型クリーチャーの駆除には必須のものだった。
 黎明の空に響く、咆哮──否、絶叫。
 それを聞きつつ、アーベルは力をなくした糸を引いて後方へと飛びずさり、
砂の上へと着地した。
 くるり、返される手首に糸が鮮やかに巻き付いていく。
 それが刻まれた朱の紋様を包み隠すのと同時に、クリーチャーが砂の上に倒
れ込んだ。
「よっし……いっちょ上がり、と」
 クリーチャーが完全に動きを止めたと確かめると、アーベルはふう、と一つ
息を吐きつつ、翼を閉じた。
 ほんの僅かな時間ではあるものの、糸を繰る念動と翼を繰る獣化を同時に用
いる事もできるようになってきていた。もっとも、これはかなりの負担を心身
にかけるので、滅多に用いる事はないのだが。
「思ったより、手間取っちまったな……さっさとバルツェルのおっさんに連絡
取って……」
 依頼の仲介人に連絡を取り、賞金を受け取って帰る。
 弟分たちもそれなりに技量を上げてきつつはあるが、まだまだ不安があるの
は否めなかったから、なるべく早く戻りたい、という思いは強かった。
「どれくらいの稼ぎになったかなー……コレ、新種っぽいから、それなりの額
になるはず……」
 呑気といえば呑気な事を呟きつつ、通信用の端末を手に取ろうとした矢先。
 ヒュン、と。鋭い音を立てて空気が揺れた。
「……っ!?」
 瞬間、身体を突き動かしたのは、獣の本能か。アーベルは素早い跳躍でその
場から飛び退き、振り返りつつ身構える。振り返るのと、それまでいた場所に
真紅の柄を持つ剣が突き刺さるのとは、ほぼ同時だった。
「なんっ……」
「勘は、悪くないようだな」
 唐突な出来事に絶句していると、からかうような声が荒地に響いた。アーベ
ルは呼吸を整えつつ声の聞こえた方を見やり、そして、風に揺れる金髪と黒の
コートに気づいて眉を寄せる。
「……なんだ、あんた?」
 低い問いかけに、黒衣の男は悠然と左手を前に差し伸べつつ、低く笑った。
「……何なんだ、って、聞いてる」
 その態度に苛立ちを感じつつ、アーベルは再度問いかけた。男は差し伸べた
手を何かを招き寄せるようにくい、と動かしつつ、静かに口を開いた。その手
の動きに従うように、砂地に突き刺さった剣が独りでに引き抜け、男の方へと
飛んでゆく。
「……私を何、と問う。お前は一体、何だ?」
「はあ? ……俺は、俺。アーベル=シュトゥルムヴィントだ。
 んで、あんたは何だ……何者で、俺に何の用なんだよ?」
 歌うような問い返しに苛立ちがかさむのを感じつつ、アーベルは自身の名を
告げ、それから改めて問いかけた。これに男はくく、とまた笑いつつ、飛んで
きた剣を悠然と掴んだ。
「私は、アルトゥル」
「……へ?」
 返された言葉に、アーベルは思わず惚けた声を上げていた。『アルトゥル』。
聞き間違いでなければ、それは、その名は。
「私は、アルトゥル=ウルリヒ。漆黒なる流星を束ねる者」
 アーベルの過ぎらせた困惑、それを楽しむかのように、男──『総帥』アル
トゥル=ウルリヒはどこまでも悠然と、自身の名を告げた。


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