01

 ――月が、紅い。

 鮮烈な、鮮烈なその光の下で、鈍い銀色が揺れる。
 揺れているのは、銀灰色の翼。三対六枚のその様は、聖典に語られる熾天使
を彷彿とさせる。
 もっとも、それを背に負う少年の口元に浮かぶ笑みは、天使のそれとはいさ
さか趣を異にするようにも見えた。
 温かさの感じられない、どこか作り物めいた笑み。
 それは信仰というものが形骸化したこの『世界』においては、ある意味では
『自然』な『天使の笑み』と言えるのやも知れないが。
「……」
 不意に、ゆらゆらと揺れていた銀灰色の翼がぴくり、と動いた。少年の、閉
ざされていた瞳がゆっくりと開かれる。
「……散歩かい?」
 数度の瞬きの後、問うような言葉が虚空に投げられた。
 しばしの静寂。
 それは、笑いを帯びた低い声によって破られる。
「散歩……とは、言わぬな。退屈しのぎには違いないが」
 問いに答えたのは、男の声だった。少年はゆっくりと首を巡らせ、声の聞こ
えてきた方を見る。
 いつの間にその姿は現れたのか。少年のすぐ側で、夜の闇に飲まれそうな漆
黒のコートと、それとは対照的な金の髪が夜風に揺れていた。外見的には二十
代後半、といった風だが、少年を見下ろす深紫の瞳には青年の容貌には似つか
わしくない老獪さが宿っていた。
「退屈しのぎ……何か、面白いモノでも見つけたの?」
 突然現れた事に驚くでなく、また訝る様子もなく、少年はのんびりとした口
調で黒衣の男に問う。
「見つけた……というよりは、見つけておいた、と言うべきか。
 ……例の、『新種』を見に行こうかと思ってな」
 問いに、男は少年から目を逸らしてこう答える。その返事に、少年はああ、
アレ、とつまらなそうな声を上げた。
「……歪みの気まぐれな作用の生み出したモノ、か。
 キミは、そういうのが本当に好きだな」
「お前は、相変わらず『新種』の類は嫌っているようだな」
 呆れたような少年の言葉に、男はくく、と低く笑みつつさらりと返す。
「嫌いというか……何が面白いのか、わからないだけ。出来損ないも多い……
見ていて、イライラする」
「出来損ない……不確かは汚点……か。
 実にお前らしいな、セラフ……『創られし熾天使』」
 ごく何気ない口調で男が口にした言葉に、少年はきゅ、と眉を寄せた。睨む
ような視線を、男は余裕の態で受け止める。
「……楽しい?」
 しばし男を睨んだ後、少年は低い声で短く問う。それへの答えは、口の端を
吊り上げるような、笑み。答えを読み取った少年は露骨な舌打ちを一つして、
男から目を逸らした。
「不完全はイラナイ。それが、ボクの在り方。
 ……不完全を愛しいというアレや、面白がるキミとは、根本的に違うのさ、
アルトゥル……『動かざる支配者』」
「そう、我らは在り方の根底より異なるモノたち。
 ……故に、互いに干渉せずに同時に在れる」
 少年の言葉に、男はどこまでも楽しげに笑う。その様子に、少年は処置なし、
と言わんばかりに肩を竦めてため息をついた。
「ま、せいぜい楽しんでくるといいさ。
 タイクツをせずに済むのは、稀少な事だからね」
「言われずとも」
「……せいぜい、貴重な『オモチャ』を壊さないようにね」
 言うまでもないんだろうけど、と。続く言葉は声としては発しなかった。そ
れよりも先に男の姿がそこから消え失せていた、というのも理由の一つだが、
それよりも。
「……一つ壊れた所で……『世界』は、飽きもせずに不良品を量産するしね」
 鬱陶しいったらありゃしない、と呟きつつ。
 ばさり、と。
 少年は背に負った六枚の翼を羽ばたかせた。

 ──紅い月の光の下、ピアノの旋律がゆるり、響いて消えてゆく。

 裏通りの寂れた教会。主を無くして久しいその場所は、いつからか蒼髪の青
年の『居場所』となっていた。
 何事かあった時、考えをまとめたい時、一人になりたい時──そして、『仕
事』に出向く直前。ここでピアノを弾くのは、いつからか、アーベルにとって
は当たり前の事となっていた。
「……」
 不意に、旋律が途切れる。蒼の瞳が鍵盤から、譜面台に置かれた封筒へと視
線を移ろわせた。
 唐突に投げ込まれたそれ。体裁はいつもの仲介人からの『仕事』の依頼。
 多数の『身内』を一人で養うアーベルにとって、裏通りの『仕事』は非常に
重要であり、今回投げ込まれたもの──『突然変異クリーチャーの駆除』は、
最も手軽に大金を得られる手段、なのだが。
「……なんっか……妙な感じなんだよな……」
 零れ落ちるのは、小さな呟き。
 依頼のされ方も、中の体裁も内容も、いつもと変わらない。
 しかし、妙に気が騒ぐ。苛立ちのようなものも感じる。
 自分の中の獣──孤狼が、警鐘を鳴らしているような感覚が抜けなかった。
「……っても、蓄え、増やさねぇとならねぇし……」
 しかし、そんな不安よりも優先されるのは生活の方であり、依頼自体を蹴る
つもりはなく。
 それに挑むための覇気を高めるためにピアノを弾きに来たのだが。
「……この感じ……あの時と、似てんだよな」
 ため息混じりの呟きが零れる。あの時──とは、即ち、『遊戯』の参加を強
制された時の事。あの時もまた、投げ込まれた依頼に奇妙な不安を感じつつ、
それでも出向いた結果、一連の騒動が始まった。
「考えすぎ……かね」
 しばし、譜面台の封筒を睨んだ後、小さく呟いて、それを手に取る。
 どちらにしろ、選択肢は一つ。仕事は請けなければならない。そして、何よ
り。
「……奴ら絡みなら、逃げても追っかけてくるだろうしな……」
 『遊戯』から、既に一年。その間、『奴ら』──『Schwarzes・Meteor』か
らの接触はなかったものの、安心はできなかった。
 突然変異により、獣化能力を持って生まれた自分。それに、彼らが興味を持
ち続けている事には、変わりはないだろうから。そしていずれまた、ぶつかる
のであれば──。
「……割り切って、行くか」
 小さく呟いて、右の手首を見やる。
 そこに咲くのは、誓いの朱花。
 死なず、必ず帰り、護る。
 そんな誓いの込められたもの。
 それを、左の手でぎゅ、と握り締め──。

 そして、銀が、翻った。

「……アル兄?」
 通り名である『銀翼の孤狼』、その由来である翼を開くのとほぼ同時に、名
を呼ぶ声が聞こえた。その声にアーベルは動きを止めてそちらを振り返る。
「レオ? どした。起こしちまったか?」
 呼びかけて来た者――『身内』の中でも特に強い信を置いているレオに向け、
アーベルはごく軽く問う。内心の不安や苛立ち、そういったものは微塵も感じ
させない、いつもと変わらぬ様子を装ってはいたが、しかし。
「アル兄……これから、行くのか?」
 『仕事』に、と。問いかけるレオはどこか不安げだった。こちらの不安や苛
立ちを見透かしてでもいるかのようなその様子に、アーベルは心の奥でため息
をつく。
(……まずった……か)
 気取らせまい、と思っていたのだが、そうそう上手くは行かないらしい。も
っとも、こんな半端な時間にピアノを弾いていて気取られずに済まそう、と言
うのが間違いとも言うが。
(イレーネに感付かれなきゃ、なんとかなるかと思ったんだけどなぁ……)
 どうやら、それは甘い考えだったらしい。それが、なんとなくだが嬉しい反
面――この状況では、いささか複雑で。アーベルは一つ息を吐くと、苦笑しつ
つ蒼の髪をかき上げた。
「……なぁに、悲壮な顔してんだ、ばぁか」
 それから、ごく軽い口調で言いつつレオの頭にぽん、と手を置く。
「悲壮なって、俺は……ああ、もう! コドモ扱いすんなよ!」
 頭を撫でられたレオはむっとした様子で反論してくる。その反論にくく、と
笑いつつ、アーベルはぽむぽむ、と軽く叩くようにレオの頭を撫でた。
「そこで、そう返すから、コドモだってんだよ。
 ……ま、心配すんな、大した依頼じゃない……さっさと片付けて帰ってくる
から、留守、頼むぜ?」
 途中まではからかうように、最後の部分は静かな口調で、告げる。レオは不
満げな上目遣いでアーベルを睨んでいたが、頼む、との言葉にはうん、と素直
に頷いた。アーベルは任せた、と笑ってレオの髪をくしゃり、とかき回してか
ら手を離す。動きに伴い揺れる、右手首に巻かれた糸が月光を弾いた。
「んじゃ、行ってくる」
「ん、行ってらっしゃい。
 って、アル兄!」
「ん?」
 不意に上擦ったような声を上げるレオに、アーベルはどした、とごく何気な
く問いかけ、
「イレーネに、仕事の事、話してあんの?」
 続いたレオの言葉に、思わず視線をさまよわせた。それだけで答えにはなっ
たらしく、レオはえー、とやや情けない声を上げる。
「俺が説明すんの!? 苦手なの知ってて……」
「ま、そう言うな。
 ……要するに、そんな大事じゃあないって事だよ」
 さらりと言った言葉はレオに、そして自分自身に向けられていた。大げさな
『仕事』じゃない、気負う必要はない――心の奥でそう繰り返す事で不安を取
り除こうと試みつつ、アーベルは銀翼を羽ばたかせた。ふわり、その身は天井
に空いた穴から二階部分へと舞い上がる。
「……アル兄!」
 下から、レオが名を呼んでくる。レオはしばし、ためらうような素振りを見
せ、それから。
「……ちゃんと、帰ってこいよ!」
 いつかどこかで聞いた――アーベル自身が、誰かに向けたものと良く似た言
葉を投げかけてきた。
「……」
 一瞬の空白、後、青年の口元を笑みが掠める。
「わかってるっての。当たり前だろ、そんなんは!」
 常と変わらぬ、軽い口調で言いきる。直後に、青年の姿が『解けた』。現れ
るのは翼を備えた獣、『銀翼の孤狼』。銀の獣はもう一度階下の少年を見やり、
それから、開け放たれた窓から夜空へと飛び立つ。

 銀の羽根が一枚、取り残されて床に舞い落ちた。 



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